第百八十八話「決戦作戦、青の場合 ―あなたのような英雄にはなれませんか?―」
恥辱。
唇を噛み締めるリンデマンはそれに堪えていた。
いつも斜めは後ろですましているヴェロニカもリンデマンの横でどこか迷いの表情で主人を見守る。
事態は急を要する。
十万を越える連合軍第一軍団は強大な戦力だが、補給線が崩壊してしまえば、むしろそれは重すぎる足枷。
一個、二個師団ならば現地調達も可能かも知れないが、この規模では不可能。
戦闘で負けなくとも補給線の崩壊が敗戦に繋がる。
重々に警戒していたのにも関わらず、その欠点を突かれてしまった。
まさか六個師団の連合軍第一軍に気づかれず、己の師団だけが戦うという常識外れの戦術を数ヶ月も実行して主戦場を囮にするとは。
『······やはりセフィーナ・アイオリアは天才、そう言わざる得ない』
震える拳。
だが······対処の手段は残されている。
後方には信頼できるシアが残っており、補給線は攻勢に晒されているがまだ崩壊もしていない。
連合軍第一軍は親衛遊撃軍に、いや、ゴットハルト・リンデマンはセフィーナ・アイオリアに敗けた訳ではないのだ。
『まだだ、まだ私は敗れた訳ではないのだ』
リンデマンは拳を握り締めたままユックリと顔を上げ、傍らのブライアンに視線を向けた。
「ブライアン、頼みがある」
「はい」
普段の様子ではないリンデマンに真摯な瞳で応じるブライアン中将。
リンデマンは彼を見据えた。
「私はまんまと出し抜かれたがまだ勝利を諦めていない、シア中将もまだ南にはいる、そしてセフィーナ・アイオリアが南に戦力を回していたというならば勝ち目はまだある、これからここの戦力をセルウィークに急行させれば、たとえ三個師団の相手が南にいたとしても我々の方が戦力で勝っている、各個撃破が可能という訳だ、その場合怖いのが目の前にいるセフィーナ・アイオリアが自ら率いている一個師団だ、南に救援に向かう我々を追撃してくる可能性が高い」
「はい、では私はここを半個師団で守りセフィーナ・アイオリアを食い止めます、私の第十師団の半数も閣下の麾下に加えて下さい」
半個師団で一個師団のセフィーナと戦う。
リンデマンの表情に明らかな曇りが浮かぶ。
「ブライアン······それでは」
「構いません、私は一個師団が相手でも南下を食い止めるだけですからね、陣を張って守れば相手が倍でも対応可能です、南下する味方は多いに越したことはありません」
「······」
顎に手を当てるリンデマン。
確かにブライアンの提案には一理あった。
報告によるとセルウィークを襲っている親衛遊撃軍はおそらく二個師団か三個師団。
南下するリンデマンが四個師団半ならば、シアの一個師団との協力で勝算はかなり大きくなるからだ。
「御主人様!」
そこに駆けてきたヴェロニカ。
息を切らした様子は普段からは珍しい。
「どうした?」
「セルウィーク方面からの情報によると、セルウィークを攻める帝国軍の中に······」
そこまで言うとヴェロニカはブライアンや周囲の幕僚達を見て言葉を止めた。
それに怪訝な表情をしたリンデマンだが、
「緊急の時だ、構わない、報告しろ」
と、告げる。
コクリと頷いてから、ヴェロニカは緊張した面持ちでリンデマンを見つめた。
「セルウィークを攻める帝国軍の中に······アイオリアの旗とセフィーナ・アイオリアを観たという報告が入ってます!」
バカな。
全員がそう思ったに違いない。
ブライアンや周囲の幕僚達が騒然となった。
「有り得ない、じゃあ目の前の親衛遊撃軍第一師団は誰が率いていたのか? 奴等はリンデマン大将の師団とも互角に戦っていたじゃないか!」
「もしかしたら我々がこのレ・メルヴェーユを攻める前、カルレイアを攻め落とし、一週間の再編成や補給を受けていた間に本人だけが南に向かったのではないか!? 時間的は可能だろう? ここは帝国領だ、我々の占領地であっても抜け道などはしっているだろうしな」
セフィーナ・アイオリアは目の前にはいない?
セルウィークに親衛遊撃軍が現れたというだけでも衝撃的であったのに、更にそれを上回る報告に幕僚達は慌てて早口で意見を言い合う。
「狼狽えるな! 戦場には混乱した情報や敵軍からの偽報は付き物ではないか! それは偽報だ!」
怒鳴ったのはブライアンだ。
「数日前、我々がレ・メルヴェーユに向かう際に潜入させた斥候から受けた報告を忘れたか!? セフィーナ・アイオリアは街の中央広場で市民を集めて、これまでの協力の感謝と防衛の約束をする演説を打ったという確定情報があっただろう!」
その指摘に幕僚達はそうだった、という安堵の顔をした。
少なくともその報告は潜入させた斥候の何人からも上がってきており、偽報や誤認は有り得ない。
それからセフィーナがセルウィークに着くというのは背中に羽でも生やすか、鳥にでも乗れなければ不可能であり、そう考えればセフィーナ・アイオリアがセルウィークに現れた等という報告は突然、親衛遊撃軍に襲われた方面からの誤認か、帝国軍からの偽報となるのが自然だ。
「そうだった、セルウィークの味方が慌てたか、敵軍が我々を混乱させる為の偽情報だな!」
「まったく慌てさせる、セフィーナ・アイオリアがセルウィークに行っているなど悪い冗談だ」
ひとまずはこの報が有り得ないとわかると幕僚達は落ち着きを取り戻し始める。
「御主人様······でも」
彼らとは違う何か言いたげで不安な顔を見せるヴェロニカ。
言われなくてもわかっている。
口にしなくても良い。
リンデマンは手を自分の口元を隠すように覆いながら、静かに頷く。
隣のブライアンに告げる。
「ブライアン······」
「はい」
「とにかく我々本隊は急いで南に向かう、君は半個師団を率いてここを固めてくれ、守るだけで良いからな」
「わりました、必ずや誰も通しません!」
「頼む、君なら出来る筈だ」
下された命令に敬礼するブライアンに返礼すると、リンデマンはクルリと踵を返して幕舎に早足で歩き出す。
直ぐにヴェロニカが続くが、リンデマンはそれを手で制すると一人で幕舎に入った。
脳裏に浮かぶのは、数ヶ月前のエリーゼ帝国大使館でのセフィーナ脱出未遂事件。
結局は有耶無耶になってしまった事件の真相。
それはセフィーナと瓜二つの顔をした少女を追った自分とヴェロニカしか知らないのだ。
数日前のレ・メルヴェーユでの演説?
そんな物に意味は無い!
そうブライアンに告げそうになる自分をリンデマンは抑えた。
セフィーナ脱出未遂の後にしても、そして今にしても証拠間無しに影武者説など言い出しても、それこそ自分の意見の価値を落としてしまう妄言に扱われるだろう。
「まさか······まさか、まさか、そこまで利用して私を騙し尽くしていたのか!?」
更なる辱しめ。
生涯初めて味わう耐え難い恥辱にゴッドハルト・リンデマンは両手に起こる震えが止められなかった。
「だが······」
もしこれ見よがしに数日前にレ・メルヴェーユで演説したセフィーナが実はセフィーナでないならば。
セフィーナがどこかのタインミング見計らい、リンデマンを欺いてセルウィークに向かっていたとしたら。
目の前の一個師団を率いているのはセフィーナ・アイオリア本人ではないという事だ。
***
ベネトレーフ要塞に対する連合軍第二軍の夜間総攻撃。
その攻勢はまさに総攻撃と呼ぶに相応しい大攻勢であったが、既に西側要衝部の陥落により、残された中央要塞、東側要衝部を守る帝国軍の抵抗は激しい。
戦端が開かれて一時間。
連合軍の攻勢の勢いはまだ衰えないが、ベネトレーフ要塞を最後の守りと奮戦する帝国軍の将兵の士気は高く、要衝部への連合軍将兵の取り付きを許さない。
最前線の櫓に立ち、各部隊を指揮する皇帝カールの戦術的指示は恐ろしいまでに的確であり、取り付きを許さないどころか要塞からの反撃で連合軍にかなりの損害すら与えている。
「流石は陛下······」
パティは戦闘中の激しい中でも彼の横顔を見つめてしまう。
パティの策が連合軍総司令アリスに完全に逆手に獲られた事が原因の西側要衝部陥落という危機にもカールは動じず、パティを責める事もせずに事態に対処する。
己の失態は申し訳なく思うが、撤退戦を含めてそれを帳消しにするような活躍を見せるカールに改めて起こる敬愛の念。
『この分ならばアリス大将が何度攻め寄せて来ようとも、陛下は冷静に一分の隙も見せないに違いない······ならば、帝国の敗戦は有り得ない』
パティの視線に気づき、僅かに笑みを返すカール。
完璧に近い対処を見せた皇帝カールと、それを完全な形でフォローするパティや帝国軍幹部達であったが······
彼らは夢にも思わず、気づきもしなかった。
目の前の連合軍第二軍の見事な大攻勢を指揮しているのが、総司令であるアリスではなく、連合軍の宿将パウエル中将であるという事を。
低い呻き声を上げて倒れる門兵。
先程までと違い多少の物音は気にしない。
大規模戦闘が始まった城内はどこもかしこも騒がしい。
連合軍の侵入を許してはいないとはいえ、十万を越える攻勢を受け止めているのである、城内の奥である作戦会議室の前でたつ物音など誰の耳にも入らない。
得物のアックスを振り下ろしたリキュエールはフゥと軽く息を吐いてから、彼らの守っていた門をユックリと開けた。
そこには誰も居なかった。
「外れです」
「チッ、いないか、次の心当たりは?」
部屋を覗き込んでから振り返るリキュエール。
アリスは舌打ちしてから案内役のローコットに訊く。
「これだけの総攻撃ならば、城の櫓で督戦しているのかも知れません」
「督戦······」
アリスは唇を噛む。
そうなれば前線に出ている以上周りを腕利きが護っているに違いないからだ。
奇襲が出来るだろうか?
強襲ならば皇帝直轄軍の護衛兵を突破して、皇帝に迫らなければならない。
「アリス大将······」
数秒の思案に目をつぶると、リキュエールが心配そうな表情を見せてくるが、
「ここまで来てカール皇帝の顔も観ないのは面白くないでしょ? なにせ相手はアイオリア帝国最後の皇帝として歴史に名を残す相手なのよ!?」
アリスはウインクをした。
***
恵まれた即断行動能力。
徹底的に相手を叩く強い意思。
シア・バイエルラインはヨヘン・ハルパーという親友の戦場での怖さを知っている。
短い付き合いであるがシアはセルウィークにて補給線維持を任せた部下のビスマルク少将を信頼していた。
信頼はしていたが······
『もしヨヘンが複数の師団を率いて補給線破壊に出てきているなら、ビスマルク少将であろうとも半個師団ではどうにもならない、数日もかからずに第一軍補給線は崩壊する!』
導き出された結論に迷いはなかった。
ルイ・ラージュでのリンデマンとセフィーナの決戦。
そこでの不測の結果に備え、シアは師団の半数の約八千の戦力を率いてセルウィークを離れて北上をしたのだが、その判断を今は後悔していた。
まさか帝国軍が擬装によって、既に連合軍の優勢勢力圏になっている地域に戦力を隠していたとは。
『とにかく早く、一刻も早くセルウィークに私だけでも帰らなくてはいけない!』
報告では親衛遊撃軍のうち二、三個師団がセルウィークや周辺の占領地を攻めている。
そこに半個師団で駆けつけても各個撃破の目標になるだけではないか、リンデマンからの対処の指示を待つべきでは。
そう意見する参謀もいたがシアは却下した。
「どのような形にせよ、我々は後方の占領地であるセルウィークを攻められるという予想外の奇襲を受けました、そういう時は受け身では相手の自由になるだけです、それにまだセルウィークが落ちたという訳でもありません! 救援に向かいます!」
命令一下。
八千のシア率いる部隊はセントトリオールから全力行軍で南下を開始した。
「セルウィークに着けば食料や装備の予備はあります! とにかく落ちる前に駆けつけなければ!」
それこそ最低限の戦闘装備と行軍過程の食料だけを携えての行軍をシアは決する。
何よりもスピード重視。
もし駆けつける前にビスマルク少将の守るセルウィークが陥落していたら元も子もないのだ。
シアは意識していつもの慎重さを放棄した。
「とにかく速くセルウィークを目指す、落伍者は置いていって構わない!」
堅実な戦略家シア・バイエルラインらしくないわき目も振らない命令の下、八千の部隊は通常行軍五日あまりの距離を駆ける。
とにかく駆けた。
美しき黒髪を振り乱し、汗まみれで馬上で鞭打つ。
一心不乱なつもりでも巡る様々な想い。
間に合え!
落ちるなセルウィーク!
ビスマルク少将、どうにか粘り通して!
ああ、しかし······セフィーナ様、あなたの才能はこの状況からでも勝利を手繰るというのですか?
美しく······若く、慕われ、怖れられ、そして語られる。
そんな英雄姫セフィーナ・アイオリア。
私のような者では貴女の戦歴に傷つけるような存在にはなれませんか?
貴女の栄光に一寸でも障害となる事も許されませんか?
わたしは······わたしは、あなたのような英雄にはなれませんか?
「シア様っ、シア様っ! 着きました! セルウィークです、セルウィークの城が見えますっ!」
約二日の強行軍。
八千のうち、千の落伍者を出しながらもシアの率いる部隊は遂にセルウィークをその視界に入れた。
途中で休止は入れたが、疲労から朦朧としかけるシアの耳にもお付きのルフィナの声が響く。
シアにも見えた。
万を越える軍勢に城は包囲されていた。
「ルフィナ、城の軍旗は?」
「やりました! 連合軍ですっ! 連合軍の旗がセルウィーク城にはありますっ! やりました! ビスマルク少将はまだ守り通していたんですよ!」
やった!
ビスマルク少将は粘りきったのだ。
セフィーナ様の作戦は崩れた!
やったのだ、これならば!
これならば······わたしも、わたしも英雄に!
「さぁ、あと一息です! 城内のビスマルク少将も出てきてくれる筈です! あの包囲軍を撃ち破れ!!」
親衛遊撃軍の旗が見えた。
でも蹴散らすのみ!
これまでの疲れを忘れたかの様にシアは命じた。
連合軍第五師団シア部隊の突撃。
包囲軍は一部を崩されて、城内から呼応したビスマルク少将が出撃すると、二万を越えようかという帝国軍は呆気なく各所を崩されていく。
「最後の力を振り絞って戦ってください、勝利の先には必ずや栄光の未来が待ってます!」
剣を振るい戦の先頭に立つシア。
算を乱す帝国軍相手に連合軍第五師団は疲れも忘れ暴れに暴れまわった。
まさに蜘蛛の子を散らす如く、連合軍の突撃に帝国軍は散々になって逃亡していく。
ビスマルク部隊にもシア部隊にも追撃など出来る余裕は無かったが相手に大損害を与える勝利には間違いない。
連合軍第五師団はセルウィーク城を包囲していた帝国軍を見事に撃退したのだ。
「勝ちました、勝ちましたよ、シア様!」
喜ぶルフィナ。
そんな彼女にシアは微笑む。
やっと勝った······
周囲を見渡す。
倒れているのは帝国軍の鎧を着た兵ばかり。
まさに圧勝だ。
圧勝······
親衛遊撃軍に圧勝。
簡単に。
呆気なく。
強行軍をしてきた私達が?
「············なんで?」
黒髪美麗の彼女の微笑みは背筋に悪寒に凍りついた。
続く




