第百八十三話「決戦作戦、青の場合 ―内通者―」
話はもちろん聞いていた。
聞いてはいたが司令部として接収したホテルの一室に現れた少女が何もないように前に両手を組むようにしていたので、もしかしたら、という期待を抱いてしまったのは普段の自分からはらしからぬ事だったかもしれない。
「······大丈夫だったのか?」
編成表が置かれた机を前していたリンデマンは立ち上がり、ヴェロニカに歩み寄る。
「はい、問題ありません」
コクリと頷く彼女。
「あの傷でよく······」
思わず白い手袋がされた右手を取ったリンデマン。
だが、すぐに判った冷たく硬い感触に思わず彼女を見つめ直してしまう。
「これは!? 大丈夫では······」
「大丈夫なのです」
微笑むヴェロニカ。
「これきしの傷で私は御主人様を煩わせるつもりは毛頭ありません、これまでと同じく仕えさせて頂きたいのです、これも軍医が取り急ぎ作ってくれた物で不完全ではありますが、また時間の出来た時、不自由のないように作り直したいと思います」
「······」
温もりの無い右手を両手で握り続けるリンデマン。
気づいていた。
今は己の方が現実に狼狽えているが、それを目の前の少女に悟られまいとする自分が居る事を。
「御主人様?」
「ああ、そうだな……エリーゼに帰れば腕の良い義手を造れる医者がいるからな、お前ならばすぐに慣れて元の通りに何でも出来るだろう」
「もちろんです」
素直に頷くヴェロニカ。
その微笑みには曇りがない。
何も責める所が無かった。
だが……それがリンデマンに経験のあまり無い感情を呼び起こさせてしまう。
「ヴェロニカ……」
「はい」
「すまな……」
言葉が最後まで出せなかった。
唇をヴェロニカの左手の人差し指に押さえられたからだ。
その指は温かかった。
「……」
「私は全て貴方の物、そして私の身体は貴方の身体も同然でございます、ならばお謝りになる必要はございません……第一、御主人様らしくありません、そのようなお調子ではセフィーナ姫につけ込まれてしまいます」
微笑みからクスリと声を出し、左手の人差し指を主人の唇から離すヴェロニカ。
そんな彼女を数秒見つめると、リンデマンはフッと笑う。
「……それもそうだな、ならとりあえずはコーヒーを頼む、補給担当兵が淹れるのが口に合わなくてな、頭が冴えないのだ」
そう言って何事も無かったかのように執務机に戻り、再び編成表を睨み始める己の主人に、
「かしこまりました、只今」
と、ヴェロニカは深く頭を下げた。
真夏の夜。
ベネトレーフ西側城塞を占拠する事に成功した南部諸州連合軍第二軍であったが、まだ西側城塞にはリキュエールの第十三師団の半数を進出させるに留めた。
その他の主力はまだ野営の陣にあり、茹だるような熱帯夜にも関わらず明かりを得る為に焚かれた大量の篝火の熱気が草原の夜景をボンヤリと揺らしていた。
「内通を約束した高級士官がいる?」
「そうですわ」
師団長、軍幹部クラスを集めた幕舎。
上座の軍司令官のアリスの横に立つ少女ミラージュは連合軍の宿将パウエルの問いに首を縦に振る。
黒のワンピースに白いエプロンという給仕のような格好の十代前半の少女ミラージュは軍人の集う幕舎の空気にはそぐわないが両手を前に気品よく立っていた。
「それは誰だ?」
「帝国軍参謀本部次長パティ中将の副官を務めているローコット大佐という者ですわ」
他の師団長から声にミラージュが答えると、ホゥという声が数名から上がる。
パティ中将が公私ともに皇帝カールに近いという情報は連合軍内部ではポピュラーな為、ローコットの名前は知らずともパティの副官という立場はそれなりの大物である。
上手く利用すればベネトレーフ城塞完全攻略のきっかけになるかもしれない。
皆がそう考えるが……
「アリス大将、その話は良いとして……そもそも、そのミラージュという娘の素性を明かしてくれないか? その年端では情報部等の部員ではなさそうだが?」
そう手を上げたのは第七師団長のマリュッセル中将だ。
嫌な質問されたな。
そんな表情を隠しつつ、アリスは答える。
「彼女はリンデマン大将の副官を務めるヴェロニカ少尉の下で働く工作員であり、正規の軍人ではありません」
沈黙。
それから起こったざわつきは少なくともこの答えが歓迎されている風ではないとアリスは感じた。
「ならば、この工作はリンデマン大将の策なのか?」
「こちらの戦線にまでちょっかいをかけてくるのか?」
「信用できるのか? 逆に帝国軍の策略に乗せられているのではないか?」
「高度な情報戦をそんな年端もいかない少女を当てにしなければいけない程ではない!」
「勝手な工作員を使っては情報部にも不満が出てしまう」
師団長達や幹部達が口々に語り出す。
リンデマンがまだ軍部内に味方が多い人間なら、この拒否反応は少ないのだろうが、それを彼に望むのはアリスは十年以上前に諦めていた事だ。
数分の喧々囂々の後……
「内通は内通として、相手方の情報を流してもらいながら暫く様子を見てはどうでしょうか? それまでは情報を鵜呑みにしないという所で? その情報を更に情報部に精査させれば良いのではないですか?」
そう発言したのは第十一師団を率いるモレイラ少将。
慎重というよりも処分保留案だが、それならばという空気に周囲がなりかける。
『まずいなぁ、ここは……仕方ないか』
口を開きかけたアリスだったが、彼女より数秒早く発言した者がいた。
「それでは千載一遇のチャンスを逃すかもしれん、いくら西側城塞を占拠したとはいえ、この巨大要塞都市の中心部を落とす決め手を我々は持っていない、相手もこの状況ならば内通者には気をつけているだろうからな、気づいたら既に逮捕されていたという結果が出てからでは遅いぞ?」
場がシンと静まり返った。
パウエル中将だ。
中将ではあるが、その長い経験と実績からくる発言力は誰も無視は出来ない。
それどころか静聴しなければならない雰囲気もある。
「あまり待つようではその危険はありますわ、残念ながら」
ミラージュがパウエルの言葉に同意した。
周囲が黙った。
アリスが口火を切る。
「ならミラージュちゃん、それでローコット大佐は一番直接的な内通手段としてはどんな事が出来そうなの? 例えば中央要塞の主要な門を開かせるとかは可能なの?」
「兵が出入りするような門は警戒が厳重ですわ、今は開閉にも数人の高級士官クラスの許可がいるくらいで、特に大きな門は将官クラスの許可が出なければいけません、そこまでの期待には添えないと思いますわ」
「そう……よね」
当たり前だ。
いくらパティの副官という立場であろうが、佐官が一人内通したくらいでベネトレーフ中央要塞内部に師団単位の兵を送り込めるような警戒の訳が無いのだ。
そんな甘い警戒でないのは解っていたがアリスはやや頭を垂れかける。
「でも夜間ならば、伝令補給路の扉を開け、ある程度の数の人間を中央要塞部に入れる事は出来るだろうと言ってましたわ」
「夜間にある程度? 具体的には?」
ミラージュの付け加えた返事にすぐ顔を上げるアリス。
「本人が言うには五十程くらいだろうと、それも何度もはおそらく出来ないだろうと」
五十。
そのミラージュの答えた数にハァと落胆のため息が各所から聞こえてきた。
五十の戦力を一度だけ。
あまりにも少なすぎるからだ。
「相手は各所を二万の精鋭で警戒してるんだぞ!? 千も入れられるなら解るが、五十では何処かの一部を占拠して味方を引き入れるなど出来ないぞ!?」
「殺されに行くような者だ」
「決死隊どころじゃない!」
再び騒ぎ出す会議参列者達。
だが……
「五十、五十なら行けるわ! 成功の余地があるわ! その手でいきましょう!」
右拳を握り興奮気味に立ち上がったのはアリスだ。
「無理だ、無駄死にだ、二万の最精鋭の中にそんな数で行けなど命令を越えているぞ! 誰が二万の中に五十で潜入しろ、と言って従うか?」
マリュッセル中将が強く抗議するが、アリスは不敵な笑みを彼に向けた。
「行けるって言ったでしょ? 私が行くって意味よ? 指揮官が覚悟見せりゃ、強制なんかしなくても志願してくれる勇気のある兵くらいいるのよ!」
「バ、バカな? そんな少数の潜入作戦に軍司令官の大将が……自ら?」
「帝国皇帝が守る要塞を攻略するんだから、こんな重要な役目は大将の私で丁度良いくらいよ!」
「そ、そんな……」
大将であるアリスが自ら決死の少数潜入作戦に赴く。
予想外の答えに驚くマリュッセル中将。
そんな彼を尻目にアリスは師団長達と並ぶ中のリキュエールに向き直る。
「リキュエール、私が絶対に攻撃できるチャンスを作るから、貴方やパウエル中将は全面攻勢のタイミングを……」
「それは無理です!」
「えっ……」
信頼していた相手にキッパリ断られてしまった。
アリスは表情を曇らせたが、リキュエールは椅子から立ち上り、アリスに向かって歩み寄る。
「無理なのは、私がその決死隊五十人の中に入るからです、師団の指揮は副司令が代行できますが、アリス大将のお守りは私が最適任ですからね」
「リキュエール……」
笑顔を向けてくれるサイドテールの信頼できる部下にアリスも思わず感情が込み上げる。
「アリス大将……本気かね?」
驚く各師団長の中で冷静な態度で腕を組むのはパウエル。
その鋭い眼光にアリスは強く明るい視線を返して、ペコリと頭を下げた。
「必ずや中央要塞部陥落のチャンスを作りますから、その間の軍指揮権をパウエル閣下に委譲して宜しいでしょうか?」
「可能だと思うのかね?」
「必ずや、今、そう言いました」
連合軍の老将と初の女性大将の視線が交差する。
数秒の後……折れたのは老将であった。
了解した、とだけ答えて腕を組んだまま目をつぶり、口を真一文字に結んでそれからは黙ってしまったのである。
続く




