第百七十五話「英雄決戦 ―少女の誓い―」
帝国親衛遊撃軍の、いやセフィーナの見せた展開はリンデマンを以てしても予想外の動きであった。
迂回部隊に対する迎撃をさせると見られた麾下の二個師団をまるで退避させるように北上、隘路を利用しての防衛を成功させていた己の直轄師団も隘路から離れた北のルイ・ラージュ平原にまで退かせる。
四個師団という大規模迂回部隊。
それが脅威なのは当然であるが、全く迎撃態勢すら見せずに退避にも見える動きをするとはリンデマンも予期はしていなかったのである。
あれだけ頑強な抵抗を見せた目の前のセントトリオールの街に続く隘路には帝国軍はもういない。
当然、罠だろうという危惧は抱く。
撤退と見せかけての山側に伏兵を隠し、そこに誘い込む為にルイ・ラージュまでセフィーナ師団が退くという手もあるが、それにしてもルイ・ラージュまでは退き過ぎだ。
例えば伏兵を敷いて、隘路を進むリンデマンの師団への奇襲が成功したとしても、ルイ・ラージュからではそれに呼応して攻撃に参加する事が出来るかは微妙な距離。
リンデマンの対応が余程まずいか、伏兵部隊が奇跡のような奮戦を見せれば別だが、一時奇襲が成功してもセフィーナ師団が着く前に千程度くらいまでの伏兵部隊なら逆に蹴散らし、隘路を突破してセントトリオール郊外に達する事が出来るだろう。
隘路突破には絶好のチャンスである。
だが報告が入って一時間、リンデマンは部隊を動かさず、幕舎の机に座り思考を続けた。
相手に大きな動きがあったのならば直ぐにでも司令部幹部を集め素早い決断を下すのが普通である。
だがリンデマンはそうはせず敢えて己だけで思考を進めたかったのだ。
『確かに迂回路であるサンエルディナル方面の戦力差は麾下の二個師団を迎撃に向かわせても不利だ、しかし……先に陣を張って待ち構えられる防御側である事を考えれば決して絶望的ではないし、逆に考えればセントトリオール方面では戦力は両軍拮抗し、隘路を正面突破される危険性は減っている、この状況でここまで兵を退く必要があるのか?』
サンエルディナル方面を不利と考えるのは当然である。
しかしセントトリオールから退くのはサンエルディナル方面の戦況の様子を観てからでも決して遅くは無い。
『北方への誘致、戦力温存……いや、セフィーナは長期戦に勝機を求めていないのでないだろうか?』
例えばこの作戦の全体図がセフィーナの親衛遊撃軍とリンデマンの連合軍第一軍のみでおこなわれているならば、親衛遊撃軍が北上して時間を稼ぎつつ、帝国奥地に連合軍を誘い込むという戦略は理解できる。
たが、今回の作戦の戦場はここだけではない。
帝国首都フェルノールが近いベネトレーフでも大激戦が繰り広げられているのだ。
セフィーナ率いる親衛遊撃軍がリンデマンの連合軍第一軍相手に時間稼ぎが成功しても、アリス率いる連合軍第二軍がフェルノールを落としてしまえば大勢は決する。
帝国軍全体がフェルノール失陥すら覚悟した帝国領土全てを利用した持久戦を仕掛けてくるなら、前線のベネトレーフの守りに帝国皇帝が自ら皇帝直轄軍、近衛二個師団の決戦態勢で臨むというのは有り得ないし、フェルノール失陥後に備え、フェルノール以北の帝国領土でも砦や陣地の構築が進められていなければならないが、それを示唆する情報は入っていない。
全体の足並みが揃わないならば親衛遊撃軍だけが持久作戦を実施しても意味がないのである。
ならば……
「やはり……これはそういう事だな、オテンバ姫め、簡単にはいかせないという事か」
リンデマンは結論に達するとようやく立ち上がり、ヴェロニカに幹部を召集するように告げた。
「これは私に対する英雄姫セフィーナ姫からの決戦の誘いだ」
集まった幹部達にリンデマンは開口一番の言葉に司令部幕僚達は返す言葉が出なかった。
元々返答も期待していないリンデマンは続ける。
「彼女も私も麾下の師団を大きく離し、自ら率いる一個師団のみ手元に残している、数日間はどちらにも援軍は駆けつけないという状況だ、彼女は私に目の前の隘路を通らせてやるから広いルイ・ラージュ平原での決着をしようと誘っているのだ」
「そんな挑戦には応ずる必要が無いのでは?」
若い参謀の一人が口を開く。
「このまま数日間待てば、迂回部隊が敵軍の抵抗もなくサンエルディナルを突破して来ます、それでもセフィーナ・アイオリアがルイ・ラージュに居座っていたら、我々が隘路を抜けて迂回部隊と共に攻撃すれば良いのです」
「正論だな」
リンデマンは頷く。
サンエルディナルには帝国軍は居ないのだから、突破は確実であるし、その後もルイ・ラージュにセフィーナが居座るならばリンデマンの師団も出撃して南と東から攻撃してしまえば良いと参謀に理解は示したが……
「だが……そう簡単にもいかない」
リンデマンは作戦図に視線を落とした。
「私がこの誘いに乗らず迂回部隊を待つならば、セフィーナは更に北に退避していくに違いない、そうなれば我々の補給連絡線は更に伸びてしまい、親衛遊撃軍の捕捉が困難になる」
「もしかしたら退避せず、その時点で北に退避させているマリア・リン・マリナやクルサードをルイ・ラージュに呼ぶのでは無いでしょうか? そこで決戦をするつもりでは?」
連合軍が迂回部隊を待つならば、その間にセフィーナはルイ・ラージュに味方を呼び寄せ決戦に挑む。
そんな参謀の意見にリンデマンは首を振った。
「それならばわざわざクルサードやマリア・リン・マリナを大きく北に退避させる意味がない、そこからまたルイ・ラージュに南下させるような無駄をする相手ならば我々はこんなには苦労はしていない、初めからルイ・ラージュで三個師団で集合して待つ方が陣地構築などの準備時間もでき、遥かに後が有利に進められる、有り得ない話だがルイ・ラージュに今から超巨大要塞がいきなり出現したとしても我々が進まなければならないのは変わらないのだから帝国軍がそんな動きをする必然性がないのだ」
「確かに……帝国軍は決戦するつもりならば備えを固めて待っていればいい、麾下の兵を疲労させるだけの無駄な長距離移動をする訳がありませんね」
リンデマンからの指摘に反論できず若い参謀が考え込むと、それから幕僚からの意見は出なくなった。
沈黙の十数秒。
まるで誰もやりたくない学級委員の選出のような雰囲気が幕舎内に漂う。
ここでの決断は戦局を決する。
参謀と言えども人間である責任重大の意見具申は余程の自信がなければ口には出しにくく、誰かに決断して欲しいのだ。
その雰囲気にリンデマンは口元に己が味方の少ない一因である薄笑いを浮かべ、
「意見がなければ宜しい、ではこれから我々の師団は北上して、セフィーナ直轄師団と対決、これを打倒した後、迂回部隊と合流して更に北方に進軍する」
と、まるで台本で決まっている事柄の様にこれからの行動を宣言したのであった。
幹部達が居なくなった幕舎。
資料を片付けながらヴェロニカは視線を椅子に座る主人に向けていた。
「ヴェロニカ、どうした? 何かあるのか?」
「いえ……」
リンデマンに視線の意図を問われたヴェロニカは一旦は首を振ったが、思い直し主人に歩み寄る。
「御主人様」
「どうした?」
「これから差し出がましい事を言いますがお許しください」
「ああ……」
深々と下げたヴェロニカに頷くリンデマン。
ヴェロニカは頭を下げてから口を開く。
「何故、ブライアン中将達の迂回部隊の到着を待たないのですか? 御主人様もこれがセフィーナ姫の決戦の誘いというの自ら仰られていました、そのような挑戦をわざわざ同数の師団で受ける必要が御主人様にあるのですか?」
「同数では私は勝てないか?」
問いを問いで返すリンデマン。
ヴェロニカはそういうつもりではありません、と言いたげに首を何度か振った。
「そうではありません、そうではありませんが、私はここまで有利な状況を作り上げてきた御主人様がこの局面でセフィーナ姫と同等の条件で戦う必要があるのか疑問なのです」
「そうだな、しかし私にもこの戦いにはメリットがある、セフィーナ姫をここで討つなり捉えるなりしたら、このままズルズルと北上を強要され、長期戦に突入する可能性すらある戦線を一気に終息させる事が出来るだろう、それは即ちアイオリア帝国の終焉を意味する、すなわち勝てるという事だ」
リンデマンの説明は合っている。
おそらくセフィーナを討つか、捉えるかが出来れば、既にヨヘンが離脱している親衛遊撃軍は実質的な崩壊を起こすだろう。
そうなれば連合軍第一軍は東進、防衛の薄い北側に回り込み、帝国首都フェルノールを攻撃、陥落させられるに違いない。
ベネトレーフの戦線がどうなっていようとも、それで戦争はアイオリア帝国の敗北で終了するだろう。
これだけ聞けば、ルイ・ラージュに単身駐留するセフィーナとの決戦は必然的にも思えるが……
「その理屈は理解できます、しかし、そのような選択は御主人様らしくございません!」
ヴェロニカは更に一歩、リンデマンに踏み出した。
明らかな反論。
今までもリンデマンの気づいていない事などに注意を促した事は何度もあるが、最終的にリンデマンの決定した事に反対した事はなかった。
自分はリンデマンの所有物。
ラーシャンタ州の奴隷商人からリンデマンに売られた時から胸に刻んだ誓い。
所有物が所有者に異を唱えるか?
唱えるわけがない。
それは解っている、理解している。
だが……自分は無機物ではない。
胸にどうしても宿る不安の痛みが響くのだ。
「急いで同数の決戦をせずともセフィーナ姫はベネトレーフの戦線によっては不利な状況でも我々と戦わなくてはいけなくなります、相手に圧力を確実にかけながら、味方が戦力的に有利なベネトレーフ方面の結果を待っても良いのでは無いでしょうか? 確かにここでセフィーナ姫を討ち取れば圧倒的な優勢を手に出来ますが、もし御主人様に同じ事が起これば連合軍も瓦解しかねません、戦略的に有利な状況で互いを賭ける戦をする、それが御主人様らしくない、とヴェロニカは思うのです!」
意を決してヴェロニカは言った。
滅多にしない緊張をしてしまい、早口になったかもしれない。
しかし……言わなければいけなかった。
自分の主人、ゴットハルト・リンデマンは高名で実績のある戦略家でありながら、いや、あればこそ承知でセフィーナとの決戦に挑むつもりなのだ。
「その通りだ」
リンデマンは立ち上がり、ヴェロニカの頭の上に手のひらを軽く置いた。
「ヴェロニカ……お前の言う通りだ、全く反論の余地がない、私が間違っている」
リンデマンがヴェロニカに笑いかける。
少女はそれで解った。
言われなくても解った。
「だかな……私はここまでセフィーナ・アイオリアと戦いながら、戦略上の判断や必要性を理由に彼女と本当には戦っていなかったのだ、その時の状況や他の要素を利用し、上手く立ち回って彼女とは戦わない様に努めていたに過ぎないのだ……私はセフィーナに勝たせなかった事はあったが、セフィーナに勝ったことはなかったのだ」
やはりそうだった。
少女の理解は合っていた。
ヴェロニカは目を見開いていた。
「私はセフィーナ・アイオリアに勝ちたくなったのだ、彼女を退かせた者としてではなく、後世の歴史にセフィーナ・アイオリアに勝った人間として名を残したくなって、その欲求に負けてしまったのだ、赦してくれるか?」
ショートボブカットの黒髪を撫でる手のひらの感触。
リンデマンの言葉にヴェロニカは激しい後悔を抱く。
何て事をしてしまったんだ。
主人であるリンデマンにそんな情けない事を吐露させ、更に謝罪までさせるとは。
己は仕える者として失格だ。
何も言わずに従って、その上でリンデマンを護らねばならなかったのだ。
「御主人様……」
見上げるヴェロニカの頬に涙が伝う。
「せっかく心配してくれているのに赦してくれるか?」
「と、とんでもごさいません……差し出がましい事をしつこく告げてもう訳ありませんでした」
涙声でヴェロニカはその場でスカートの両裾を軽く上げ、手のひらの置かれたままの頭を下げ、
「御主人様はどうかセフィーナ・アイオリアに勝利する事のみをお考え下さい、ヴェロニカは必ずや、御主人様の身を御守りいたしますから」
そう強く誓うのだった。
続く




