第百七十四話「英雄決戦 ―決戦戦略―」
セントトリオール北方。
メルベイヤ川の上流地点でマリア・リン・マリナ率いる親衛遊撃軍第四師団は待機をしていた。
この地点は南のセントトリオール方面に駆けつけるにも、東の迂回路であるサンエルディナル方面に向かうにもそうは時間がかからず、待機戦力として控えるには丁度良い。
もう少し東の平野にはクルサード率いる親衛遊撃軍第三師団もおり、同じく緊急事態に対応できる形になっている。
セフィーナからの指令書を携えた何人かの護衛に守られた伝令がマリアの幕舎に現れたのは朝早くだった。
「ご苦労様でぇす、朝早くから」
幕舎で伸びをしながら使者を迎え、参謀長のカナヘル大佐にコボンと咳払いの注意を受けたマリアは、
「いやぁ、ホントにこんな朝にご苦労様でぇす」
と、苦笑を浮かべながら指令書を開く。
うだつの上がらない女子伝令、冴えない女学生と容姿に関しては後世にあまり誉め言葉のない彼女。
ソバカス顔のソバージュ眼鏡娘は読み始めこそはボンヤリとし
た視線を指令書に落としていたが、時間の経過と共に眼鏡の奥の瞳に鋭さが宿っていく。
「カナヘル大佐、もう一度、使者の方の身分照会を」
マリアの声には普段はない切れがあった。
伝令兵はもちろんセフィーナのサインの書かれた命令書を携えており、幕舎に通される前にも身分のチェックは受ける。
護衛も普段からセフィーナの周りにいる護衛隊から選ばれた女子達が一緒にやって来ており、その中にはマリアとも顔見知りのクレッサが居たのだが、それでもマリアはカナヘル大佐に身分照会を命じたのだ。
「身分の照会なら済ませましたが……それに伝令にはセフィーナ様の護衛隊の方もいられたでしょう?」
「もう一度」
マリアの繰り返しに、カナヘル大佐も今度は逆らわない。
了解しました、と頭を下げた。
「……閣下、もう一度身分照会を致しましたが、ご使者は親衛遊撃軍第一師団所属のロボスキー大尉に間違いありません、護衛の方々も上級大将の護衛隊の方々で問題ありません」
十数分の後に再びの身分照会を入念に済ませたカナヘルから報告を受けると、
「私にはこの指示の意図がわかりませんねぇ、もしかしたら謀略かな? そう思わずそう疑っちゃったんですよぉ、見てくださいよ、これ」
マリアは命令書をカナヘルに向ける。
「それは……」
向けられた命令書を受け取り、読み始めたカナヘルであったが顔色を変え、どういう事でしょうか? と、思わずマリアに聞いてしまうまでにはそうは時間がかからなかった。
戦略的優位。
これが確立されていれば戦場で多少の戦術的なミスが起こっても、結局は負けない。
簡単に言えば戦略手腕で戦場に100の戦力さえ用意する事が出来れば、50の敵軍を殲滅するのに大苦戦して70の損害を受けようとも30残り、勝利するのだ。
逆に戦略的な手腕が乏しければ、100という倍の圧倒的な戦力に対し、50の戦力で大健闘して70の損害を与えようとも全滅し、敗者の列に名を列ねる事となるのである。
前述のような大健闘は歴史書などでは散見するが、それはただ本に記すような特殊な内容であるから書かれるのであって、本にも記されない多くの戦いでは多数を用意した側に対して少数は殆ど損害も与える事も出来ずに潰滅している。
大小を問わず、戦いと言う物は戦略的優位を確立した者が九分九厘勝利してきたのだ。
ゴットハルト・リンデマンという男は偏屈な変り者であると周囲から見られ、またそういう声が耳に入ろうともそれを全く変えないという意固地な人間であったが、軍人としては極めて常識的な戦略主義者であった。
目の前のカスキア山を東に迂回するルート、サンエルディナル方面に向かわせたのは知己であるブライアン中将やガブリエル中将等が率いる四個師団。
迂回路は一週間近い時間がかかるが、このセントトリオールのような地理的な不利な場所が見当たらない。
親衛遊撃軍が隘路を守る一個師団以外の二個師団をサンエルディナルに向かわせたとしても、数的に遥かに連合軍が優る。
迂回路をブライアン達が突破してしまえば、目の前のセントトリオールの隘路は意味を為さない。
五個師団相手に防御が可能となっていた要害が北に抜けた迂回部隊と南からリンデマンの師団とに挟み撃ちを受けてしまう危険地帯になってしまうからだ。
敵地を侵攻する連合軍にとっては一週間という迂回にかかる時間は痛手であるが、セントトリオールという地形的不利な場所を無理矢理に突破を計るよりも遥かに戦略的に有利に立てるとリンデマンは判断したのだ。
この場合、全軍で迂回路を進むという手段もあるが、リンデマンは己の直轄師団を残し、更に五個師団がまだ陣中に居るように偽装した。
帝国軍がこの偽装に気づかなければ迂回部隊と共に理想的な挟撃が出来る。
そうなればリンデマンとしては僥倖だが、そこまでこの策には過大な期待はしていない。
迂回部隊四個師団と膨大な戦力が敵地を一週間進軍するのだ、帝国軍の偵察部隊がそれを発見したり、目撃した領民が帝国軍に報告するという事が無い方がおかしい。
そこでセフィーナは挟撃には気づくだろう。
たが……良いのだ。
気づかれたとしてもセフィーナは決断を迫られるだけだ。
不利を承知で二個師団を迂回路サンエルディナルに向かわせて、己はセントトリオールに残り、二正面での防衛戦を展開するか……この戦場を諦めて撤退するか。
常識的にはこの二つが大筋だ。
しかし、ここまで幾多の不利な戦況を逆転してきたセフィーナ・アイオリアである。
これを好機と捉えて三個師団をまとめ、可能性としてはかなり低いが遥か北方に撤退させているという情報のある一個師団すら急遽に呼び寄せ、四個師団の戦力を集中して各個撃破からの一発逆転を狙うかもしれない。
それには最大限の注意をリンデマンは払っていた。
偵察部隊を敵地深くにも多数放って、セントトリオールのセフィーナの師団は勿論、後詰めになっているクルサードやマリア・リン・マリナの師団の動きも注視し、それらしい動きが見られれば対処するつもりだ。
少数の側がおこなう各個撃破戦法はその意図が露見してしまえば、それを受ける多数の側が対処するのは難しくない。
単純に言えば、フリーになった者が相手の背後を素早く突けば良いのである、気付けばいいのだ。
「さぁ、どう動いてくれるかな、セフィーナ・アイオリア」
連合軍第一軍幕舎内。
リンデマンは一人、机に両手を付き作戦図を見下げて笑う。
高級軍人を輩出した家系に生まれ、少年の頃から好んで軍記を読み漁り、軍学を学んできた。
臨機応変に繰り出される戦略、戦術。
そして……何よりも少年を夢中にしたのはそれらを産み出す近代、古代の英雄達。
憧れであり、敬愛。
ただ文章に書き連なれた過去の存在に少年は瞳を輝かせ、今でもその感情は失われてはいない。
セフィーナ・ゼライハ・アイオリア。
間違いなく、これから先に歴史書で大量の頁数を使って語られていく存在であろう。
数奇な運命、美しい容姿。
その不世出と言っても良い軍事的な才能。
きっと沢山の歴史学者、小説家が彼女を熱心に研究し、伝記や小説を発表するのだろう。
きっと沢山の少年、少女が英雄姫セフィーナを書いた伝記を読み、彼女に憧れてるのだろう。
「そうなると、私は格好の悪役だな」
フッと漏らす。
それは間違いない。
憧れた英雄をいつも苦しめる敵国の将軍に抱く少年の感情はもちろん自分も知っているからだ。
運命に翻弄され、懸命に戦う美しい英雄姫に常に多数の戦力で立ちはだかり、時には毒を盛る。
これが悪役でなくて何なのか。
だがそれを恨みはしない。
真実だからだ。
そうしなければ己がセフィーナ・アイオリアという英雄に駆逐されてしまうと危惧したからなのだ。
ゴットハルト・リンデマンという存在がこれからどう語られていくかは判らない。
しかし相手が如何な歴史の英雄であろうとも、その存在に呑まれてしまう訳には当然いかない。
英雄と同世代に生きるどんな人間もそう懸命に生きていたに違いないのだ。
「御主人様……」
幕舎の外からのヴェロニカの呼びかけにリンデマンの意識が少年時代から現在に還る。
「どうした? 何か報告が入ったか?」
「はい、偵察部隊から連合軍に大きな動きがあったと……入ってよろしいでしょうか?」
「ああ」
「失礼します」
幕舎内に入ってきたヴェロニカは頭を下げると、机の上の作戦図に歩み寄り、親衛遊撃軍の各師団の位置を現していた三角形の駒をゆっくりと動かす。
親衛遊撃軍第三、第四師団の駒は揃えて作戦図の遥か上に。
親衛遊撃軍第一師団の駒はセントトリオールの隘路から少し離して上に。
リンデマンの瞳が見開く。
「これが……帝国軍の動きか?」
「左様でございます、親衛遊撃軍第三、第四師団は東の迂回路であるサンエルディナルには向かう様子も見せず、大きく北上、親衛遊撃軍第一師団は目の前の隘路から離れて、セントトリオールの北のルイ·ラージュという平原地帯に移動して陣を張っているとの事です」
確かに帝国軍の状況は有利ではない。
だが悲観する程の不利でもないのだ、リンデマンが警戒する通り、まだ反撃の余地は残されている。
北への総撤退は確率が低いと観ていたのだが、セフィーナは己の率いる親衛遊撃軍第一師団は隘路の防衛を放棄して、北のルイ・ラージュという平原に移動させ、麾下の親衛遊撃軍第三、第四師団は更に北に退避させている。
「それにどういう事だ……北への総撤退ならば、率いる第一師団はなぜルイ・ラージュに陣を張る? なぜもっと北に退避して味方の二個師団と合流しようとしない?」
決戦放棄の撤退の中にも見える不自然さ。
これを見逃すリンデマンではない。
傍らのヴェロニカがハッとした顔を浮かべた。
「御主人様、これはもしかしたら……」
自分を見据えてくるヴェロニカの視線。
彼女は主人に向けてゆっくりと首を縦に振った。
普段から軍隊を率いての戦を指揮している自分ではなく、個人的な闘いを任務としているヴェロニカだからこそ気づいたセフィーナの動きの真意。
普段から軍という集団を率いるリンデマンには芽生えない思考だけに辿り着かなかったが、ようやく気づく。
「セフィーナ・ゼライハ・アイオリア……ここに至って、まさか!」
リンデマンは幕舎の中にもかかわらず、思わず北の方向を睨み向けたのであった。
セントトリオールの北、ルイ・ラージュ平原。
薄曇りの空と夏の乾燥した暑い風が足首くらいまでの草と銀色の髪を揺らす。
英雄姫セフィーナは一人、剣を地面に立て、南を睨み挑戦的な表情で口元を緩めた。
「さぁ、リンデマン……これで何も邪魔者も隔たりもないお前と私だけの戦場だ」
続く




