第百六十四話「アイオリア帝国侵攻作戦 ―第一軍出撃―」
気温も高まり、夏の暑さの到来を感じさせる七月を迎えた。
連合軍によるアイオリア帝国遠征作戦の進捗はお世辞にも順調とは言えない。
本来なら六月の初めには帝国領への侵攻は開始され、今ごろは帝国領での決戦すらおこなわれていてもおかしくないスケジュールが第二軍が六月下旬にようやくベネトレーフへの攻勢開始、第一軍のサンアラレルタ出動が七月十日という遅延である。
格前線指揮官はともかく、輜重を担当する者達は作戦期間の延長で単純に増大する物資の調達にすでに頭を抱えているという噂が流れていた。
サンアラレルタの街。
本来ならば守備部隊を残して空っぽになっていなければいけない街も連合軍第一軍の兵士達で賑わう。
繁華街の定食屋にしても、夜の女性の店にしても特需が長引いて喜んでいた。
「親衛遊撃軍はサクラウォールから動かず」
「ベネトレーフ方面では第二軍が周辺砦、堡塁の約五割を破砕し、さらに攻撃中」
「フォルディ・タイの後方支援部隊は再編成を終了」
第一軍司令部の入る街の高級ホテルの一室。
情報担当者からの報告を机の上に置き、リンデマンはサンアラレルタの街の灯りを見つめる。
第一軍の司令部も明日の昼にはホテルではなく、郊外の宿営地に移る予定で、この夜景も見納めだが、見ている当人にそんな感慨は無かった。
「ヴェロニカ……」
「はい」
「街の様子で報告は無いか?」
リンデマンの問いに間を置いたヴェロニカはやや斜め下に視線を落とし、大将であるリンデマンにいちいち知らせるまでもない雑多な報告を幾つか思い出す。
「昨晩に五件、今日はこの時間までに三件、街で兵士達が喧嘩などのトラブルを起こしています、いずれも憲兵が対処してます、内一件は兵士同士の喧嘩で一人が刺殺され容疑のかかった兵士は脱走、いまだに行方が知れていません」
「根拠地に駐屯している状態だと言うのに落ち着きがないな」
サンアラレルタには第二軍が出撃していった後も第一軍十数万の兵士が駐屯している。
それだけにトラブルは起こるのは当然であるが、学生と違い規律も厳しく教え込まれ、罰則も容赦なく適用される兵士達にしては二日で憲兵まで出てくるトラブルが八件はかなり多い。
憲兵にまで通報されていない小さなトラブルはその何倍もあるだろう。
軍規の乱れの原因は何か?
「これからの戦いで死ぬかもしれないという不安感が原因、いや本当の原因はこれからの戦で帝国の美しい姫に殺されるかもしれないという恐怖だな」
「御主人様が二倍以上の戦力もって指揮をするのにですか? それは只の臆病風ではないですか!?」
ヴェロニカにしては珍しい反論であるが、それはリンデマンへの絶対的な忠誠心と信頼感からの物。
ゴットハルト・リンデマンが倍以上の戦力で挑む戦いに仮にも兵士として参戦して何を恐れるというのか。
彼女は至極当然にそう考えただけだ。
「恐怖なんてそんなものだ、一度植え付けられてしまうと目で見える味方が有利という理屈よりも、頭の中で勝手に脹らませた妄想に怯えてしまう物なのだ、古今東西どんな優秀な指揮官であっても戦場の恐怖から兵士を真に救えた者などいない、精々忘れさせるか、麻痺させるかが関の山だ、もちろん私には救う事が出来るという程、自惚れてもいない」
窓際から移動して安楽椅子に座るリンデマン。
「兵士から死の恐怖を忘れさせるのは欲望だ、勝利によってもたらされる物質的な幸福や名誉への期待がそれを忘れさせ、戦場で恐怖を忘れた勇戦を促せる」
「欲望が恐怖を克服させる、そういう意味でしょうか?」
「まぁ、そういう事だ、それが忘れさせるという場合だが……ヴェロニカは戦での死を恐怖を麻痺させる方法が解るか? 忘れるのでなくて麻痺させる方法だ」
「…………」
主人からの問いにヴェロニカは口元に拳を当て思考し、数秒後にポツリと口を開く。
「戦に酔う……ですか?」
「表現の方法は様々だが、正解だろうな」
その答えにリンデマンは頷く。
「戦に酔う、過去の戦場の例を挙げれば、絶対的な信頼を得ていた指揮官の部隊が圧倒的な相手に包囲された、戦いの中途、その指揮官が兵達にお前達も死ぬんだぞ、と言い残し戦死すると、兵達は指揮官の散り際に感涙し、その彼の言葉に従い全滅まで勇戦した、これもその一つと言える」
「普段から信頼を得ていた指揮官が味方を鼓舞させる、そういう事ですか?」
「間違えてはいないがそこまで行くと鼓舞というより感情を麻痺させる信仰だな、私は己のこれまでの実績に応じた信用が兵達にあると自負はしているがそこまでの信仰を集めているとは思わない、だが……」
安楽椅子を僅かに揺らすリンデマン。
「セフィーナ・アイオリアにはそれがある、彼女に対する信仰すら持っている兵士達は多いだろう、自分の故郷の危機に国家の英雄である彼女に率いられた帝国の兵士達は死をも畏れぬ兵となる可能性がある……まだ二十歳にもならない本人がそれを率いてどう考えるかは別としてな」
椅子に身体を預け姿勢は楽な状態であったが、己の軍人としてのキャリアで最強の敵となった弱冠十九歳の少女が死への恐怖すら克服させる信仰を得ているであろう事にリンデマンが複雑な感情を持っている様にヴェロニカには聞こえた。
ひょっとしたら嫉妬であろうか?
ヴェロニカは表情には出さなかったが、リンデマンが滅多に見せない感情に迷い、俯く。
「確かに……」
言葉を選ぶように顔を上げる。
「確かにセフィーナ・アイオリアは強敵でございます、私よりも年下であるにも関わらず輝かしい功績を挙げ、帝国国民にとっては愛おしき女神の如く、兵達にとっては英雄姫の名の通りでございます……でも」
一呼吸置く。
間違いない。
疑いない。
それを再確認し、少女は丁寧に頭を下げながら口を開く。
「でも……御主人様の前では彼女とて、掌で踊る小賢しい小娘に過ぎないと私は思いますが……どうでしょうか?」
頭を下げたので主人がその言葉に対してどのような顔をしたかはわからない。
ただ……
「掌の上の小娘か、まぁ、そこまでは言い過ぎだが、悪い気はせんよ、すまんな」
と、主人の手が下げた頭を優しく撫でてくれたので、彼女としてはそれ以上は何も求める事は無く、頭を下げたまま笑みを浮かべるのであった。
ゴットハルト・リンデマン率いる連合軍第一軍がアイオリア帝国攻略の為、サンアラレルタを出撃したのはそれから一週間後、七月十日の事であった。
続く




