第百四十二話「黒と銀の輪舞曲 ―リグレット―」
統率力。
軍を指揮する司令官にとっては最重要とも言えるスキルであるが、容易に解釈して理解できる内容ではない。
例えば自らの目の届く人数、数十人から百人位までの部下達を個性から性格まで把握し、部下達の情と団結、そして成功を確立させた指揮をするのは統率力の証しになるだろう。
一方、数万人の軍隊の個々を当然ながら無視し、集団の特性をを持たせ、生じる犠牲は数値で処理しつつ、数万に相応しい戦果効率を上げるのも統率力の証しになるに違いない。
前者と後者は似て非なる全く別の才覚を擁するが、統率力という便利な言葉で統一されてしまう。
中隊長、大隊長までは優秀な指揮官が連隊長としては無能であったという事も軍隊ではよく聞かれる事例であるが、シア・バイエルラインという指揮官はその逆であった。
行き届く己の目が察知してしまう様々な個人的な事情や理由が絡む小隊や中隊の指揮をしていた時は、なまじ全てを優秀に成り立たせようとする優等生的な指揮がかえって仇となり、成果を上げられないばかりか、決断力不足の優柔不断とまで曲解されてしまう事もあったのだが、数千を数える大隊長クラスを指揮を取るようになると、犠牲と成果のバランス調整を冷静な判断力で行う様になり、戦果を上げる様になったのである。
また余談ではあるが、遥か後の世で発売されたガイアヴァーナ大陸の争乱を題材にした戦略ゲームなどでも、シア・バイエルラインの能力について大抵は軍隊指揮統率力に当たる部分は最高値に近い数値を与えられており、物によってはセフィーナよりも高い物もあるという。
「す、凄いな、シア!」
会戦の初期段階でセフィーナはシアをまんまと欺き、炎の森に向いた連合軍第五師団の背後を取るという絶好の態勢を築き上げたのだが、シアの見事な対応に舌打ちする。
凡百な将が相手ならば、状況を打開しようと一斉に軍を百八十度転回させようとしたりして、更に隙を作りセフィーナはそこから敵軍を簡単に引き裂き、細切れにしていき組織的な抵抗を難なく削ぐ事も出来るのだがそうはならなかった。
シアは万を越える連合軍を器用に操り、攻勢に晒されていない後方の一部の部隊を見出だし、素早く転回させ、それらを前線に出して防御に当てながら、生じた帝国軍の攻勢の間隙を縫って次の部隊をまた転回させていくという事を繰り返し、背後打ちを受けた状態から一割の犠牲も出さずに、第五師団の回頭を一斉攻勢させる隙を作らず終えてしまったのだ。
この手腕には流石のセフィーナも舌を巻く。
戦術的な奇策で先手は完全に取ったというのに、神業的な操兵でその先手を返された形だ。
「しかし……シアの手腕もそうだが、私は兵に無理な戦を強いているなぁ、苦戦も致し方なく、私の責任だ、皆が疲れ始めているな」
ふぅ、と息をつくセフィーナ。
自らの部隊は二万近い。
多少なりとも犠牲を出した連合軍第五師団とは数的に有利な事はあるし、まだ相手は炎が拡がるアラルティの森を後背にかかえたままである。
見事な回頭は許したものの、状況はまだセフィーナがアドバンテージを持っている筈だ。
しかし、精強である親衛遊撃軍とはいえ、昨夜は倍の敵がいる敵陣への奇襲攻撃を敢行し、陽が昇る前に素早く北へ転進して森に潜み、更に連合軍第五師団との戦いに突入している。
シアの対応が見事だったのは事実だが、連合軍の損害が思ったより出ていないのは、連戦の疲れから帝国軍の攻勢の勢いが鈍っているからだとセフィーナは感じていた。
「閣下、依然として我が軍が優勢なのは変わりませんが、攻勢の進捗が予想よりも思わしくありません、何か新たな指示を出されますか?」
副官のルーベンス少佐に促されると、
「対処を煽られてもそうそう策があるか、シア相手に下手には動けん、思いつきで動けば藪をつついて蛇を出すような物だ、ここは様子を見る」
セフィーナは不機嫌そうな細目で口を尖らせる。
ルーベンスの言葉には何処も落ち度はなかったが、彼の上司の機嫌は急降下に悪化した。
「あ、煽った訳では……了解しました、も、申し訳ありません」
まさに彼自身が藪蛇をつついてしまったとばかりに、ルーベンスは慌てて頭を下げる。
副官を勤める様になり数年経つが、彼にはどうにもセフィーナにそういう態度をされてしまうきらいがある。
ルーベンスが足りないのではなく、セフィーナの戦場での気難しさが多くの原因だが、それでも副官の任命権を持つセフィーナがルーベンスを替えないのは彼の副官の実務能力を重宝しているとか、単純に副官には興味がないから、はては受動的な態度が能動的な性格のセフィーナにしてみれば、それなりにいじめがいがあるから等とまで帝国軍の女性兵士の噂にもなっていた。
「まったく……」
再び前線に目を移すセフィーナ。
何かと気の毒な役回りの副官ルーベンスに八つ当たりした形になってしまったが、実は彼の状況認識は間違っていない。
依然として態勢は有利。
華麗に背後を取った割に期待以下とはいえ、少なくはない損害を与え、まだ連合軍第五師団は火の森を背にしている。
しかし……シアの用兵には隙がなく粘り強い。
「おそらくシアは我々の疲労を計算に入れている、このまま長引けば、更に疲労が我々の脚を引っ張り、いつの間にか逆転されていましたは充分に有り得る」
セフィーナは危惧する。
この間も両軍の兵は激戦を続けていた。
セフィーナとしても何とか第五師団の守りを切り崩そうと、様々な方向からの攻勢を試みるが、炎が拡がる森を背水の陣とした状態のシアの守りは堅い。
炎の森も背後に回り込まれる心配がなく、正面と左右に兵力を厚く構えられてしまうと、かえってそれが連合軍の味方になっている部分すらあるのだ。
「ううん……先手は取った筈なのだが、消耗戦に近い状況になるとはな、いや、消耗戦にはシアほどの用兵巧者ならもう一手打っている、先に動いてくる筈だ」
セフィーナは唸る。
敵地での作戦の上、セフィーナとしては消耗戦は選択できないし、シアもそれは選択してこないだろういう思慮があった。
だからといってまだ態勢有利な状態で、用兵巧者のシアにこちらから動きを取る気にはならない。
剣戟が響く最前線を睨みながら思案を巡らせていたセフィーナであったが……
「司令官閣下!!」
ルーベンスの悲痛な叫びが響く。
彼は後ろを振り返っていた。
数人の幕僚達も彼の視線を追って、各々が驚きの声を上げた。
「司令官閣下、後方を!」
再びルーベンスがセフィーナに視線を送るが、銀髪の美少女はまだ正面の連合軍第五師団を睨み続け振り返る素振りもない。
正面の連合軍を睨んだままだ。
「閣……」
「二、三千の後詰が出たんだろう? やはりもしもの一手を備えていたな、流石はシア、その手堅さもまた一流の証し、ここでやっとこさ状況を動かしてくれたな」
「……」
セフィーナの呟きにルーベンスは思わず目を見張った。
その通り。
連合軍第五師団と激突していた帝国軍の背後に目測で約三千ほどの連合軍別働部隊が姿を現したのである。
今度は帝国軍が挟撃される番になってしまう。
敵軍は炎の森を背負った本隊を脱出させようとするに違いないだろう。
ルーベンスや幕僚達は動揺は隠せなかったが、振り返りもしないセフィーナの表情は……それを待ってましたと言わんばかりの不敵な笑みだったのだ。
「よし!」
ようやく振り返り、セフィーナは帝国軍の背後に迫る別働隊に向けて視線を向け、
「私も少しは操兵が出来る所をシアに見せるか! 分司令官のクルーズ中将に伝令を出せ!」
と、大きく息を吐いて両手で自分の頬をピシャリと叩いた。
「サイディガー少将の後詰、残しておいた味方です! ようやく来てくれました、これで脱出が出来ます!」
「シア中将の備えが効いた!」
「これで逆転できるな、まずは火の森を背中に背負った状況からの脱出だ!」
連合軍第五師団の司令部は沸く。
帝国軍随一の精鋭部隊である親衛遊撃軍、それもセフィーナが率いる本隊に炎の森を背にして不利な戦いをしていたのである、その不安が一気にひっくり返り、幕僚達は安堵する。
シアが用意したのは三千の後詰部隊。
森に近づく前に本隊から離し、何かがあれば急行して本隊を支援するように命令を出していたのだ。
率いるのはサイディガー少将。
まだ三十代半ばの若手だが、勇猛果敢な攻撃指揮で知られる連合軍期待の猛将だ。
「セフィーナ・アイオリアめ! いつもの小知恵で味方を追い詰めたつもりだろうがそうはいかん、奴等の背後を突いて半包囲下にある味方を助けるんだ! 突撃、突撃!」
サイディガー少将は躊躇ない。
シアの急襲作戦が当たっていれば、出番すら無い後詰を内心面白く思っていなかったのだが、蓋を開けてみれば戦局打開の切り札という大した役が回ってきたのである。
麾下の二千八百の兵と共に鬨の声を上げ、帝国軍に向かって突撃を敢行する。
「少将! 敵軍の一部がこちらに対応してきます!」
「蹴散らせ、こちらはセフィーナ・アイオリアの生意気娘の尻を後ろから叩く機会を獲たんだ! そんな名誉を前に辞退するなど考えられるかっ! とにかく突撃だ!」
帝国軍の一部の兵力が旋回して対応してくるが、勢いに優るサイディガー部隊はそれを突破する。
引き裂かれていく帝国軍。
高速機動による見事な突破だ。
「よし! サイディガー少将の開けた敵軍の隙を突く! こちらからも少将の突破を支援せよ」
用心の策が当たった。
シアも頷き、次の命令を下す。
「すぐにも!」
参謀長のビスマルク少将が応じた。
ようやく炎の森を背にした決死の陣からの脱出だ、他の幕僚達もホッとした表情を浮かべる。
「サイディガー少将の部隊が敵軍を突破しました!」
幕僚の一人が歓喜の声を上げた。
周囲の兵達も沸き上がる。
シアは突破支援を命じたがその必要もなく、サイディガー少将は帝国軍の半包囲を突破してしまったのだ。
「速いな、流石はサイディガー少将」
「別働隊と合流だっ!」
幕僚達や各指揮官も命令を出す。
司令部に拡がる安堵感の中……顎に手を当て、浮かない顔に変わったのは司令官であるシアだけであった。
『セフィーナ様の直属の親衛遊撃軍部隊がこんなに簡単に突破を許す? まさか……』
ハッと思いつく。
「合流は……」
「あ、あれを見ろっ!!」
シアが発しようとした警戒と同時に幕僚の一人が叫ぶ。
帝国軍の陣形が大きく動く。
サイディガー部隊の南北に突撃で裂けた筈の帝国軍の両陣が紡錘陣を取り、一方がサイディガー部隊の後部、もう一方がシアの本隊とサイディガー部隊の合流点を突いていたのだ。
「な、何という……」
「後方から突破された敵軍があんなに素早く陣形変更が出来る物なのかっ!」
「ま、まさか……サイディガー少将の部隊がやって来るのがわかっていたかのか!?」
狼狽えるビスマルク少将を始めとする第五師団の幕僚達。
帝国軍を突破したかの様に見えたサイディガー部隊であったがそれは思い違いだった。
「突破させられた……突破部隊の後方と本隊との合流点を狙われた、セフィーナ様……ことごとく読まれていた」
シアの背筋が凍る。
アラルティの森への急襲も。
もしもの消耗戦を避ける為、自分が打撃力を有する後詰めを用意する事も。
「シア中将、後方を圧されたサイディガー部隊が本隊に食い込んできます、合流点にも攻撃が加えられて収集がつきません!」
「……」
悲鳴を上げる幕僚にシアは返答できなかった。
如何にシアの指揮統率力をもってしても、後方から攻勢を受けた味方部隊が本隊との混乱を起こしてしまっては簡単には修正は効かない。
ましてや……
「別働隊は流石にシアの指揮力も及ばない、後方には燃え盛るアラルティの森があって再編のスペースはあるまい、さぁこれ以上はいいんじゃないか?」
二手に別れた帝国軍の一軍。
連合軍の別働隊と本隊との合流点を攻撃する一軍を率いたセフィーナはひと山越えたとばかりにフゥと息を吐く。
もう一手の別働隊後方を突いた部隊は分司令官のクルーズ中将に任せている。
天秤は完全に帝国軍に動いた。
帝国軍の陣形は二つの攻撃陣形に変り、炎の森を背にした半包囲下から連合軍は解放されたが、背中を突かれた別働隊に本隊は圧迫され、更に合流点も攻勢により混乱している。
「後方を突いた筈が巧く対応され、更に炎の森を背にした連合軍がシア中将の見事な手腕で我々と五分の戦いをした時はこのまま消耗戦になってしまうと思いましたが、敵軍の後詰めを読んでいらしたとは……感服です」
ルーベンス少佐は素直にセフィーナに頭を下げた。
世辞やポーズではなく、本心からである。
「まぁな、我々は勿論だがシアは消耗戦を選択してこないと思っていたからな、急襲作戦が失敗した時の後詰めを用意するのは高い確率であると思った」
「シア中将が消耗戦を選択してこないとは、なぜ判断されたのですか? 連合軍の戦力はいまだに我々よりも遥かに潤沢です、消耗戦は有りだと思いますが?」
「他の司令官は知らんが、シアは消耗戦を選ばないだろう、何よりもシアは実力をリンデマンやアリスに認められたとはいえ他の司令官を動かしてまで師団長になった新参者だ、犠牲を覚悟に兵を磨り減らす戦術は採りづらい、戦術面で優れた手腕を味方の犠牲なく示さねばいけない立場なんだ」
「……なるほど」
セフィーナの答えにルーベンスは頷く。
ルーベンスもシアの性格は知っている。
控え目であるが、実力に相応しいプライドもあり、新参の身から際立った戦果を求めるのは納得がいく。
「それに別働隊ももっと上手くシアと連動して効果的に動けばこうはならなかった、シア自身が優れていても新参者として麾下の指揮官の掌握も完全な物では無かったんだろう、性格的には私やヨヘン程の偏屈さは無いが、シアも全く新たな場所で沢山の友人をすぐに作れるタイプじゃないからな」
やや気の毒そうな口調で言うセフィーナ。
そこには敵軍になったとはいえ、セフィーナのシアへの未練が容易に感じられた。
「敵軍が大きく南に転進します!」
参謀がセフィーナに報告する。
別働隊の混乱から本隊も犠牲を出し始めた状況の収集をシアは南への撤退という形で着ける事にした様子だ。
「まだ大損害という訳ではないでしょう? 撤退にしては早すぎるのでないでしょうか?」
ルーベンスの疑問にセフィーナは首を振った。
「いや賢明だ、この場での混乱収集に拘ったらもっと損害が出るだろう、我々としては敵地の奥のフォルディ・タイに逆戻りになり追いにくい南という方向も間違えない、疲労を考えれば追撃は出来ないな」
混乱をしつつもシアは連合軍第五師団を別働隊を引っ張っていく様に南に脱出させていく。
その後方を攻撃され、当然犠牲は出る。
しかし本隊の直属部隊を殿としてシアはそれを最小限に抑えつつ南に味方を逃がす。
敗走ではあるが潰走ではない。
シアによって保たれた統率があった。
「メイヤ、前に出るから馬を曳いてくれ」
「うん」
セフィーナはメイヤや護衛と共に前線に馬を進める。
今回の戦では戦局を俯瞰する為、セフィーナは最前線には司令部を進めなかった。
下火になりつつある前線。
銀髪と黒髪の馬上の司令官が互いに視認できる距離になる。
「……シア」
声はまだ届かないが呟くセフィーナ。
「……」
黒髪麗しき司令官はセフィーナを見つけると、やや控え目な笑顔を浮かべた後で敬礼して、馬を翻す。
「セフィーナ……追いかけようか? 捕まえてきて上げる」
「いや、いいんだ」
唇を軽く噛むとセフィーナは、親友の申し出を却下し、
「自分から戻ってきてはくれないかなぁ、恥ずかしいかもしれないが、そうしたらヨヘンと一杯優しくしてやるのに……」
と、馬の首筋に顔をつきながら言うのだった。
フォルディ・タイ方面に撤退する連合軍第五師団を親衛遊撃軍は追撃せず、サンアラレルタ南方会戦と呼ばれるシアとセフィーナの戦いは終わった。
結果はシア率いる連合軍第五師団の損害が一万八千の参加兵力の内、四千二百。
セフィーナ率いる親衛遊撃軍が二万の参加兵力の内、千六百と帝国軍の戦術勝利は疑いなかったが、依然、兵力において圧倒的である連合軍の戦略的優勢は揺るがず、更に歴史研究家から痛恨事と呼ばれる事件がセフィーナには待っていたのである。
続く




