第百三十九話「フォルディ・タイ奇襲」
五月二十五日。
「サクラウォールに進出した親衛遊撃軍が転進の準備を整えつつあり、目的地は帝国領ラサウォールと下命された模様」
サンアラレルタの連合軍司令部にもたらされた一報。
「上手いタイミングで後ろに下がっていったな、流石はセフィーナ・アイオリアだ、察しが良い」
作戦本部のジョシュ中佐を中心とする若手参謀数人が悔しげな顔を浮かべた。
その理由は五日前の五月二十日。
ジョシュ中佐を中心とする若手参謀グループが主力の集結地であるサンアラレルタから近いサクラウォールに進出した親衛遊撃軍を作戦開始時を待たず、全軍で急襲してしまおうという作戦を彼等の上司の統合作戦本部長、今回の作戦の総司令官でもあるモンティー元帥に提案したのだ。
「今回の我々の作戦規模は史上最大であり、それだけ防諜は困難と考えます、おそらく六月一日という作戦開始を帝国軍は確度の高い情報として得ているでしょう、だからこそ親衛遊撃軍はサクラウォールで少しでも確かな我々の監視、情報収集を行っているのです、そこを逆手にとり、五月中に総司令官の命令一下、サクラウォールを急襲して、小うるさく各地をウロチョロする親衛遊撃軍を撃破してしまうのです、三十万の軍でサクラウォールを包囲できれば帝国の頼みとするセフィーナ・アイオリアを虜にしたも同然で、一気に帝国軍の命脈を断つ事ができます」
若手参謀のリーダー格であるジョシュ中佐はそう胸を張って、モンティー元帥に作戦を推したが、モンティー元帥は首を縦には振らなかった。
しかし、直属の部下の策を直ぐに却下したわけではなく、司令官の命令一下が実行させる事をせず、現場の最高指揮官、リンデマンとアリスの二人に判断を求めたのだ。
「無理に決まっているだろう、全軍を挙げての徒労を作戦とする気にはならない」
「面白い策だと思うけど、あのセフィーナ・アイオリアがそれを警戒していないとは思えない、全軍を動かせば作戦全体に影響が出る、賛成できないわ」
リンデマンとアリスはジョシュ中佐の案を却下した。
考えれば世渡り上手なモンティー元帥が部下の提案をハッキリと却下せず、ジョシュ中佐の感情的な責任の矛先をリンデマンとアリスに向けさせた物であるが、結局は元帥の思惑通り、二人の現場司令官の各々の態度から同意は得られず、ジョシュ中佐の意見は却下されたという経緯である。
「セフィーナ・アイオリアは結局は別段、策も使わずサクラウォールで偵察を強化していただけではないか、我々の作戦開始前に恐れて後方に下がったのが良い証拠だ、慎重が過ぎて帝国の至宝を取り逃がしてしまったな」
セフィーナの後退を受け、ジョシュ中佐はそう言って急襲作戦を却下したリンデマンやアリスを批難したが、それを他の者から聞いたリンデマンは反論する。
「彼は変わっている、彼自身がセフィーナ・アイオリアは我々に対する偵察を強化する為にサクラウォールにリスクを犯してまで来ていると推測するのに、都合良く自分達の全軍を挙げた派手な強襲には全く気づかず包囲捕捉されるなんて僥倖があると信じて全軍を動かそうとするのだからな、全く矛盾している」
作戦指揮官達の多くがリンデマンの意見に概ね賛成であった。
リンデマンやアリスの指摘通り、ジョシュ中佐の案は作戦の全体像すら崩しかねない上、大軍を警戒するセフィーナ相手にそんな衝動的な作戦が通用するとは思えないという意見が支配的であったのだ。
セフィーナの初動は統合作戦本部の若手幕僚とリンデマンやアリスを初めとする前線司令官の摩擦を引き起こしていたが、その真意は大方の、いやリンデマンやアリスの予想の範疇すら越えていた。
五月二十八日深夜。
ヴァイオレット州北部は強い雨が振っていた。
サンアラレルタの街の郊外に置かれた第一軍団司令部の幕舎の中にも雨音が響く。
「……ふぅ」
机の上の作戦図を前にリンデマンは右手で目頭を抑え、テーブルの上のコーヒーを飲む。
「もう遅いです、作戦の検討はそこまでにしてお休みされたらいかがでしょうか?」
「うむ」
就寝するようにヴェロニカに促され、一応は頷くがリンデマンは、作戦用の資料から目を離さない。
ほぼ四十万の戦力の大作戦。
それだけの戦力の作戦に参加する事すら初めてである上、自身が一個軍団を率いるのも未経験だ。
自軍、帝国軍共に把握しなければいけない情報は山ほどある。
「……」
息をついて両目の周囲を軽く指でマッサージした。
「今日はお休みになられた方が……」
「そうだな」
情報の把握はリンデマンという戦略家の行動指針としては最重要であるが、今の状態では効率も悪い。
ようやくヴェロニカの提案を受け入れ、椅子から腰を浮かしたリンデマンであったが、
「リンデマン!」
血相を変えて幕舎に飛び込んできたのはアリス。
表情だけで急いで来たのはわかるが、前ボタンも止めず、シャツに引っ掛けてきただけの軍服も急報を思わせた。
「……動いたか?」
セフィーナ・アイオリアの事に違いない。
しかしリンデマンは努めて平静な態度で訊く。
「バカね」
アリスが呟く。
「……理由も言わずにバカ扱いはあるまい?」
「このバカはあなた一人にじゃないわ、私もそうだし、ここでガン首揃えている連合軍の皆がそうなのよ」
「余程の事だな?」
「ええ……あなた、動いたか? そう訊いたわよね? 違うわ……セフィーナ・ゼライハ・アイオリアはもう動いていたのよ」
口を真一文字に結び、悔しさを隠さないアリス。
一流の戦術家としてのプライドを持ち、それを裏付ける実績と実力もある彼女が予想がつかなかったと悔しがる事をセフィーナはしたのだ。
「このサンアラレルタの後方、支援予備兵力駐屯地のフォルディ・タイが数時間前、奇襲攻撃を受け陣内まで踏み込まれた第二、第六師団が迎撃中らしいわ、報告は高い確度でセフィーナ・アイオリアが自ら戦場に出ていると伝えているそうよ」
「フォルディ・タイ……だと!? 自ら出てか?」
立ち上がるリンデマンであったが、アリスの告げた言葉の衝撃を冷静に呑み込む為、一度彼女に背を向けてから大きく息を吐いた。
***
数時間前。
星明かりも見えない漆黒の空から大粒の雨が降り注ぎ、殺気に満ちた兵士達を濡らす。
油断ならぬ雨だ。
濡れるがままにしていたら気づいた時には大きく体力を奪われてしまうし、決して軽くない装備が雨で濡れれば更に重量が増えてしまう。
しかし、居並ぶ精鋭の兵士達の鋭い瞳はそんな事など気にしていない様に獲物を睨む。
「……セフィーナ」
騎乗する馬を曳く幼馴染みの声に頷くセフィーナ。
雨に濡れた銀髪を振り乱し、直属指揮の配下の兵達に高く剣を抜き放つ。
「自らの数を過信し、我々が怯えて守りに入ると決めつけ驕る連合軍に目に物を見せてやれ! このセフィーナが連合軍の賊将達に戦いの鐘の打ち手を譲るものか! 全軍突撃!」
銀髪の美少女の檄。
精兵はそれに大きな鬨の声で応える。
雷鳴にすら優る大音量。
もうここまで近づけば相手に聞こえた方が良い。
迎撃の準備が間に合う訳がなく、逆に敵軍らしき鬨の声に奇襲攻撃を受けた側は慌てふためく効果もある。
「蹴散らせ、切り殺せ! そうして英雄になる道を選んだ鬼だと自らを思え!」
檄を飛ばし、馬を疾走させるセフィーナを先頭に二万の兵がフォルディ・タイの街の郊外に駐屯する後方支援陣地を襲う。
「帝国軍だ!」
「バカな、我々は後方だぞ!? サンアラレルタの味方は一体何をやっていたんだ!」
「あり得ない、何かの間違いだ」
後方支援陣地を構成していたのはコアレス中将率いる第六師団とトーマス中将率いる第二師団、そして補給部隊を護衛する数千の部隊の計四万五千。
後方支援地にしてこれだけの兵力が駐屯しているというのが、珍しい事などだが、前線のサンアラレルタには三十万を越える部隊がいる為、後方支援もおのずと増した結果だ。
大兵力が苦戦の原因になる事はその逆よりは遥かに少ない事例であるが、この時はそれが当てはまってしまう。
コアレス中将もトーマス中将も決して愚鈍な司令官ではなかったが、三十万を越える前線の味方部隊が明日にも攻撃を開始しようとするのを遥かに少ない兵力で受ける側である敵軍が、まさか攻勢を仕掛けてきて、尚且つ後方支援地を狙ってくるとは夢にも思わなかったのだ。
「サンアラレルタを迂回して、此処を攻撃してきているのだ、ならば敵軍の数は決して多くはない! 冷静に対処せよ! サンアラレルタに緊急連絡して増援を乞え、繰り返す敵軍は決して多くはない!」
「守りに徹せよ、動き回らず同士討ちを避けろ、絶対にサンアラレルタが対応してくれる!」
驚きながらコアレスもトーマスも副官に指示を出す。
両中将のそれは真っ当な対処であった。
しかし、既に陣内にまで踏み込んできた帝国軍の最精鋭部隊を前に指示は行き届かず、それを聞いていたとしても冷静に対処が可能であったのは一部の兵だけであった。
「幕舎に火を付けろ! 多少は消えても構わん!」
阿鼻叫喚の夜戦。
馬上から幕舎から慌てて出てきた連合軍将校を剣で刺し貫くと
セフィーナは命じる。
帝国軍の兵士達は雨の中で起こした松明の火を無数にある幕舎に放つ。
強い雨が妨げにはなるが、支援地の各種軍需物資が満載されている幕舎はそれでも強烈な炎を吹き上げ、それが更に連合軍を混乱に陥れる。
セフィーナ護衛隊の少女クレッサ。
背中に垂らした長い三つ編みを振りかざし、獲物の短ブレードでセフィーナに近寄る敵兵を既に四人斬り捨てていた彼女はまだ火の手が回っていない幕舎に転がり込む。
「敵兵だぁっ!」
入った途端、二人の連合軍兵士が飛びかかってきたが、クレッサは彼等よりも遥かに冷静だった。
素早く二人の男の間に駆け込む。
「……なっ!!」
屈強な兵士二人は間に割り込んだ少女に驚き、気づく。
二人に挟まれる位置に駆け込んだ彼女を攻撃するには間合いが近すぎた、同時に攻撃したら長いサーベルで同士討ちしてしまう。
どっちが斬る?
この一瞬だけで良かった。
二人の間に生じた躊躇の時間の間に、クレッサの短ブレードは横凪ぎに半周し、二人の腹を一度にかっ捌く。
「おご……」
倒れる二人には眼もくれない。
普段から口数が少ない少女が見据えるのは幕舎の奥に居る軍服姿の男だ。
「帝国軍はお前みたいなガキも戦場に出すのか? 腕は見事だがそれなら良い訳でもあるまい?」
軍服の男は傍らに架けられたサーベルを抜く。
「ガキじゃありません、私はクレッサといいます」
「ほぅ、ならば我はトーマス・エルドラン、連合軍第二師団の師団長だ」
「名乗り感謝します、トーマス中将……でも死んでください」
クレッサが動く。
リーチの長いトーマスのサーベルが先に突き出され、クレッサの頬をかすめるが、サーベルを受けた短ブレードがそのまま刀身を滑り、クレッサはトーマスの懐に飛び込んだ。
***
「我々に対して攻勢に出ただけでなく、更に後方のフォルディ・タイを狙うとはな」
リンデマンは顎に手を当てて眉をしかめた。
四十万連合軍の帝国侵攻の本拠地はこのサンアラレルタだが、その後方支援と予備兵力の駐屯地となっているのがフォルディ・タイである。
もちろんサンアラレルタよりも南に位置している南部諸州連合の領地。
親衛遊撃軍は七万。
信頼できる情報によると、帝国首都フェルノールを守る態勢にある皇帝カールの率いる軍とは逆に遊撃的な機動防御を担当している筈だが……
国境を超え、更にサンアラレルタすら通り抜け、後方支援予備兵力駐屯地を襲うとは。
「当然、対処が必要だな、陣内まで踏み込まれた奇襲攻撃を受けた第二、第六師団は全滅はしないだろうが敗退したと考えた方がいいな」
「妥当ね……我等が総司令が指揮を執るかしら? それともこちらに振ってくるかしら」
「やらんだろうね、こちらに振られたならば対策が必要だ、作戦本部の若手幕僚とも協議せよとか面倒な事を言われかねない、緊急を要する作戦をこちらに振ってくるなら好きにさせてもらわないと割が合わん」
アリスと話ながらのリンデマンの視線にヴェロニカは架けられていた軍服を手に取る。
ヴェロニカは既にアリスが飛び込んできた時から、リンデマンが外に出る準備を始めていた。
用意した軍服の上着をリンデマンに着せ、更に止められないままになっていたアリスの上着のボタンも丁寧に止める。
「あ、ゴメンね、じゃあリンデマン、そっちは貴方に任せるわね、上手く話を合わせましょ?」
ヴェロニカにボタンを止めてもらった礼を言うと、アリスはリンデマンに軽くウインクをして見せた。
「リンデマン大将とアリス大将、前線司令官二人で司令部の幕僚達と協力して、共同指揮を執り対処したまえ」
「お断り致します、我々が決めるにしても、元帥閣下に決めていただくにしても共同指揮はお断りしたい、一元指揮統一を強く希望します」
総司令官部の幕舎に早急に集められた直後、総司令官であるモンティー元帥の開口一番の指示にリンデマンは即答する。
「……」
「私も同意見です、戦場において最高級司令の共同指揮権を誰を問うこと無く私は共有したくありません、統一指揮を宜しくお願いします」
苦虫を潰した表情のモンティー元帥の視線に、アリスも平然と頷いてみせた。
明らかな意思が両大将からは感じられた。
「ならば……」
元帥は唸った。
リンデマンとアリスの言は、共同指揮による混乱を防ぎたいという説得力を有していた。
そうなると遠征の最高指揮官はモンティー元帥だ。
しかし、対処を自らの指揮でするという至極有力な選択肢を彼は選ぶつもりは毛頭なかった。
英雄姫セフィーナと直接相対する負担は初めからリンデマンやアリスに任せるつもりだったからだ。
「アリス大将に任せて良いだろうか?」
ここでリンデマンを指名しなかったのは元帥の個人的な感情もやや混じっていたのだが、
「ではリンデマン大将に指揮権を委譲します、私はこの手の対処というのが苦手な物で」
アリスに悪戯っぽく笑みを浮かべられ、初めからアリスとリンデマンがこのつもりであったと気づいたモンティー元帥の顔は更に渋い物となったのだった。
「では……私が指揮を執る、早急な対応が必要なので意見を交わす間は少ないが、早速作戦を説明するので意見質問があれば申し出てもらいたい」
アリスとの予定の通り、統一の指揮権を得たリンデマンは集められた高級指揮官の前にまるで教師の様に立ち、壁に架けられた作戦図に振り返った。
「パウエル中将、ブライアン中将の両師団はこのサンアラレルタ北方を警戒し、敵軍が侵攻してきたら対応していただく」
この指示に幕舎内がざわつく。
意図が伝わらなかったからだ。
「待てリンデマン大将、敵軍はセフィーナ・アイオリアが自ら出撃して、南のフォルディ・タイを攻撃してきているのだ、何故北を警戒しなければいけないのだ?」
当然の疑問を口にしたのはパウエル中将。
連合軍の宿将として、帝国軍にも知らない者がいない名将の一人である。
「それは我々が南に回り込んだ彼女を帝国領に帰さんとばかりに包囲行動を起こせば、北の帝国軍が素早く南下、逆に南と北から我々を挟撃する手段に出ると私が予想しているからです」
リンデマンはその質問は予想していたという表情を隠さず、パウエルに答える。
「つまり敵軍はこの攻勢を単なる後方支援他を狙った奇襲攻撃ではなく、更に戦線を拡大するつもりの本格攻勢だと、大将は考えておられるか?」
「左様、我々がセフィーナを確実に捉えんと南に向かって部隊を展開させたら、おそらくは北からヨヘン・ハルパーが機動力をもって全速力で襲いかかってくる、挟撃作戦です」
「七万の親衛遊撃軍が三十万以上の我々を挟撃すると?」
「そこですな、普通は有り得ない、しかしセフィーナ・アイオリアは既にその七万で、三十万以上の我々相手に奇襲攻撃を成功させている、思い込みというものは恐ろしいと彼女は我々に実地で思い知らせてくれますな」
「彼女ならば実行可能か……了解した」
パウエルは腕を組む。
リンデマンを快くは思ってはいなくとも、その頭脳の明晰さを否定はしていない彼だ。
その点には納得を示すが、パウエルとしては別にも気になる事があった。
「それは良い、ところで?」
「なんです?」
「我々が北に備えるとなると、残りの全軍が南にセフィーナ・アイオリアを追うというのか?」
「まさか、おそらく南に回った敵軍はそうは多くない、多勢で少数を追いかけても捕捉はかえって出来ますまい、引き回されて大軍が混乱したら最悪です、他の部隊は北と南の戦況を睨みつつ控え、セフィーナ・アイオリアには信頼できる一個師団を向かわせ、まずは捕捉を計り、そこに本隊から援軍を向かわせるのが良策と私は考えています」
「なるほどな、しかし下手をすれば彼女を捕捉出来ない、捕捉が出来たとしても、本隊からの援軍が来る前に戦術的に敗退する可能性だって有り得る訳だ」
パウエルの言う懸念はもっともだ。
セフィーナが率いていると予想される兵力の同数の一個師団をもって彼女を捕捉、更に本隊からの援軍が駆けつけるまでセフィーナに戦術的に敗退しないという注文が追跡する者には付く。
「確かにパウエル中将の言われる通り、難しい事ですが人選を誤らなければ可能な事です」
「リンデマン大将か、アリス大将がいかれるか?」
「それも手ですが我々は各々に軍団長、指揮すべき軍団を離れての単独行動はここでは控えたい」
ならば誰が行く?
パウエルは既に北の備えを命じられている。
リンデマンやアリスでもない。
……まさか。
周囲の視線を浴びた黒髪美麗の新任師団長。
「お手並み拝見という所だな、やりにくいとは思うが自らの実力を示すにこれ以上の機会も無いだろうよ」
新任師団長にパウエルはそう言葉をかけた。
続く




