第百三十一話「決意 ―新皇帝誕生―」
目の前にいるのは帝国皇帝パウルか、亡き妻を自分に投影する父親パウルか。
セフィーナには判断が付かなかった。
パウルがセフィーナに願うのは大陸を三分する大帝国の最高権力者に就く事だ。
一方が民主主義の南部諸州連合、もう一方が女王が存在するが今や大きく力を減衰させたサラセナ王国となれば、帝国皇帝は個人では大陸に右に並ぶ者のない力の持ち主。
「……」
「セフィーナならば国民も納得が出来る、誰もがお前を支えて国を盛り立てていくだろう、今までお前が思っても出来なかった事が可能になるのだ、南部諸州連合との関係も大きく変える事が出来るのではないか?」
押し黙るセフィーナに強く勧めるパウル。
帝国皇帝。
セフィーナは決して無欲な人間ではない、その座が魅力的に映らない訳がない。
パウルの言う通り、自らがやりたくとも実現しなかった施策や戦略は大きく現実味を帯び、己の力を直接的に世界に影響させられる。
それは帝国陸軍大臣や参謀総長という帝国軍の最重要ポストの力を遥かに越えるのは確実だ。
今まで南部諸州連合に戦略的な先手を取られる度にしてきた苦々しい想いは解消されるだろう。
人事や予算も思う通りだ。
『ゴットハルト・リンデマンとの戦いにおいても、私はきっと大きく有利に立てるだろう』
セフィーナは考える。
立場が違うのだ。
リンデマンは如何に努力しようとも、これから南部諸州連合の戦略すら動かす立場になるには最低でも十年以上の月日を必要とするだろう。
月日だけではない。
彼は民主主義の人間だ。
必ず前に立ちはだかる政敵、必ず現れる反対派住民との政争を勝たねばならない。
加えてリンデマンの性格は政争には向いていない。
比べて、今の自分は遥かに簡単に至極の地位に就ける。
パウルの申し出を受けるだけで良いのだ。
『……』
伏し目がちにしていた瞳をセフィーナは父親に向け、ゆっくりと上げた。
***
「おかえり」
部屋の前まで帰ってきたセフィーナを迎えたのはメイヤ。
パウルからの呼び出しに応じたのは知らせていたので、セフィーナを待っていたのだろう。
「ああ……」
「お話し、長くなかったね」
「だろ? 長話をするといつまでもお前が私の部屋の前で待っているだろうと思ってな、この通り帰ってきたから今日はお前も休んでいいぞ?」
部屋に入っていくセフィーナ。
だがメイヤは素直に帰る様子を見せない。
「どうした? 居ない間に何かあったのか?」
「カール様がセフィーナに会いたいと言ってきた、今は応接室にお待ち頂いているよ」
「兄上が!?」
パウルはセフィーナのフェルノール到着をカールの耳には入れなかった、と言っていたが、近くまで来ていた事はフェルノール市民達までもが知っていたのだ。
セフィーナのした派手なパフォーマンスもあり、到着がカールの耳に入っていない訳がなく、よくよく考えれば来訪は当然の事かも知れない。
「部屋はどこだ?」
「来賓応接室だよ」
「わかった、護衛は要らないからな」
皇帝居城の中で直系の皇族はワンフロアが与えられており、その中に様々な部屋がある。
来賓応接室もそのフロアのセフィーナへの来賓専用の部屋だ、セフィーナは自分の部屋に一旦、入る。
「襲われたら叫んで、一年近くセフィーナに会わせてないからカール様は何をしてくるかわかんないよ? 気を付けな」
「……バカ、もうお前は休め!」
メイヤの忠告に口を尖らせたが、セフィーナは舌を出し、そのまま部屋のドアを閉め、鏡の前に立つ。
どこか自分の顔立ちが冴えない風にも感じる。
南部からの長旅で少し疲れが表情に出ているかもしれない。
自分の顔にそんな事を思いつつも、セフィーナは大きく息を吐き出し、
「兄上にも……ちゃんと言わなければいけない」
そう自分を説得するように呟き、部屋を出た。
「失礼します」
応接室には金髪碧眼の美青年、アイオリア帝国第一皇子カール・ゼフィス・アイオリアの姿があった。
コーヒーの置かれた応接テーブルのソファーには座らず、軍服姿の彼は立ち上がっていた。
「……」
久方振りの姿麗しい兄を見たからではなく、セフィーナは言葉が出なかった。
ある意を決して応接室に入ったは良いが、久しぶりに会った挨拶には何を言ってよいか準備してこなかった自分に気づき、彼の言葉を待ってしまったのだ。
「帰っていたのだな」
ほぼ一年に近い再会。
微笑みを浮かべ、カールはセフィーナに歩み寄る。
「兄上……」
それだけ言うと、セフィーナはカールの微笑みに対して、口を真一文字にしてしまう。
「言わなくてもいい、お前の言いたい事は解る、まだ聞いてはいないのだろう? ついてくるといい」
「えっ!?」
早足で歩き出し始め、部屋を出ていくカール。
思わぬ事に驚くセフィーナだが、無視する訳にも行かず、大人しくカールに続く。
廊下に出て、歩いて数分。
そこは行き慣れたフロアであった。
「ここは……!?」
「わかるだろう? ここはアルフレートに与えられていたフロアーだ」
「でも」
記憶とは全く違う様相に戸惑うセフィーナ。
カールは平然と歩みを進める。
直系の皇族の持つフロアーには、普段ならば豪華なホテルを思わせる豪奢な廊下から、客への応接室や護衛兵の控え室、そして奥に行くと本人の私室、書庫などがあるのだが、そのフロアーの廊下は壁紙から、調度品まで取り除かれ、まるで無機質なネズミ色の壁が続く場所になっている。
「こ、これはどういう事ですか? アルフレート兄さんのフロアーを取り壊した、そういう事ですか!?」
「まぁな、アレキサンダーにしても同じだ」
「だからといって、私物なども全て廃棄したのですか!?」
「ほとんどな、アルフレートもカールも帝国に対して謀反という行為を働いた大罪人だ、当然の処置だろう」
圧し殺してきた感情が昂りつつあるのを自覚しながら、セフィーナは声を上げたが、カールの感情はまるで変わらない。
「だからといって……!」
絶句するセフィーナ。
次から次へと抗議の言葉が出てこようとするが、
「この部屋だ……」
それよりも先にカールはある一室の前で立ち止まり、制止の手を上げる。
セフィーナの記憶が確かならば、この部屋はアルフレートの書庫であった部屋だ。
セフィーナが知る頃から、アルフレートは戦の歴史ばかりを追ってきた自分と違いアイオリア帝国の過去からの経済政策、南部諸州連合との外交、サラセナとの折衝などの書物を多く収集し、勉強していた。
「僕は戦よりも、こっちを勉強するのが性にあっているんだ、セフィーナもどうだい?」
そう言って、幾つかの書物を借りた覚えもある。
セフィーナとしては、軽く目を通した程度でそれらは返してしまったのだが、アルフレートは蔵書を増やしながら、まるで全てを熟読しようとしている様だった。
そんな思い出のある場所だ。
「アルフレート兄さんの書庫」
「書庫だった……そう言うのが正しいな」
両開きのドアを開けるカール。
廊下の様子から書庫がそのまま残っているとは思わなかったが……そこは一目で判る室内霊園だった。
ランプで明るく照されたそこには、芝に土、そして小さいながらもアルフレートとアレキサンダーの名前が彫られた墓石二つ。
「ここは……」
「確かにアルフレートもアレキサンダーもアイオリア帝国からすれば大罪人だ、しかし俺達には少なくとも家族であったのだ、その罪ゆえに国葬も、表立った豪華な墓も建てる事は出来ない、父上が秘密裏に土と石を運ばせ、ここに墓を造ったのだ、亡骸もここにはある」
帝国皇帝であるが故、謀反を起こした者は子供達ですら特別扱いは出来ない。
パウルは思い悩み、結果……こういう形になったのだろう。
それが正しいかは判らない。
ただ親として、先立った息子達の安息の地として墓を建てずとはいられなかったのだろう。
「アレキサンダーもアルフレートも謀反人であることには疑いない、だがそれ以上に……家族である事は確かだからな、弔ってやるのは当然だろう、俺とお前の話はとりあえずは後だ、先に応接室で待っている、まず二人を弔ってやるといい」
そう告げると、カールは踵を返していく。
「話は……後か」
残されたセフィーナはポツリと呟き、暫し墓石を見つめた後、床に両膝をついて両手を強く合わせ、瞳を閉じた。
***
「お待たせしました、兄上」
「ああ……」
応接室に戻ると、カールはソファーに座っていた。
セフィーナは応接机を挟んで対面するソファーに座ると、カールを見つめる。
「何か言いたげだな」
「いえ……」
「全てが最良の選択をしたとは思わないが、済んでしまった事を悔やんでも生き残った者は先に進まなければいけないのだ、ならば悔やむよりもやるべき事はないか、そうは思わないか?」
カールからの問いにセフィーナは顔を伏せた。
もちろんアルフレートとアレキサンダーの事だ。
互いが歩み寄れるきっかけは無かったか?
戦争という手段を選ばずとも良かったのではないか?
後からは幾らでも悔やむ事が出来る。
逆に言えば、後悔は字の如く後からしか出来ない。
それをしても仕方がない、カールはそう言っている。
「忘れろとは言わない、だがいつまでもそう顔を伏せたままではいられないだろう?」
「……」
セフィーナはまだ答えに窮する。
もちろん後悔をいつまでも続けるつもりは無いが、カールほどにドライにはなれない。
七つ離れた年齢云々もあるかも知れないが、そういう性にはセフィーナは自覚がある。
「勝手に話を始めても構わないかい?」
ソファーに背中を軽く預けたカールの口調にはセフィーナへの柔らかさがあった。
「勝手にだなんて……セフィーナはちゃんと、兄上のお話を聞きます」
「良かった」
ようやく顔を上げるセフィーナ。
フッ、という笑みを浮かべカールは口を開く。
「父上はセフィーナの到着を俺に報せてこなかった、それには意味があったんだろう?」
「……ええ」
セフィーナは頷く。
「父上は何と言っていた?」
「皇帝の座を私に譲りたい、そう申し出てこられました」
「それは……」
素直に答えた。
問われれば答えると決めていた事だ。
そして……ここからが答えを示す時だと決した。
二人の兄を失った実感から気落ちするセフィーナに対して、余裕を見せていたカールの表情がハッキリと曇る。
「セフィーナ……」
カールの妹に負けず整った瞳が僅かの険しさを帯びた。
どう答えたのだ?
きっとカールはそうセフィーナを問い質したいに決まっているが、それを自制している。
セフィーナは察した。
答えが長年、追い求めてきた至高の座を遥か遠くに遠ざける物であった場合、いかな態度を取れば良いのか。
流石のカールも迷うに違いないからだ。
「兄上……私は父上に答えました」
答えを切り出すセフィーナ。
そこには既に先程までのうつむき加減の少女は居なかった。
切れ長、深紫の瞳の美少女セフィーナが居た。
「カール兄さんは次期皇帝の座に相応しいと、そして家は余程の事情が無ければ長男が引き継いでいくのが古くからの理でありましょうと、そして過去、現在におけるまで歴史の中で理を無視しようとして不幸な出来事を引き起こした家は数多く存在し、アイオリアもその例外では無かった事を忘れるべきではないと」
愛娘からのその言葉はきっとパウルの心中を強くえぐったに違いないとカールは想像する。
後継者問題を棚上げし、最大級の不幸を呼び起こし、更に理を無視して、再びそれを再現しようとするのか?
父への直言極諫だ。
「それは……父上には辛すぎるな」
「はい、きっとセフィーナは親不孝者です、しかし言わなければいけない事だと思いました」
カールにセフィーナは首を縦に振る。
「それで父上は引き下がったのか?」
「いえ……しかし父上はカール兄さんの事は認めておられます、それでも理を外そうとしたには理由がありました、それは兄上と私に関わる問題です」
「待て……」
カールは鋭い口調でセフィーナの話を制した。
しかし、セフィーナは深紫の瞳を更に鋭くさせ、それを振り切る様に話を進める。
「兄上には国家よりも優先するであろう物があるからです、皇帝が国家の為よりも大切な物を持つ事、それは赦されないからなのです」
「それは……」
「私です、カール兄さん」
セフィーナは右手を自らの胸元に当てる。
「兄さんは私の為にアイオリア帝国を棄ててしまう、それは赦されない事なのです」
「赦す、赦されないなど他人に決められてたまるか!」
歯を食い縛りカールは声を上げて立ち上がると、対面するセフィーナに歩み寄る。
「何故、そのような事を父とはいえ他人から指摘されなければいけない!? 何故、セフィーナの口から聞かねばならない!」
カールの両手がセフィーナの肩を強く捉えた。
だがセフィーナの瞳の強さは変わらない。
「俺は皇帝となり、お前を唯一の后とする! アイオリア帝国よりもお前を愛して何が悪いっ!? 俺はセフィーナを俺と共に歩む伴侶とするのだ」
両手に力が入り、セフィーナの両肩を強く引き寄せる。
抵抗を感じたが、感情が昂ったカールはそれを止めなかった。
強引に愛する娘を引き寄せ……
応接室に乾いた音と共に頬に平手の強い衝撃を覚える。
「……」
初めてである。
セフィーナ、いや誰にも頬を叩かれた事などカールには経験が無かった。
「な……」
赤くなった頬を押さえて唖然となるカール。
以前、南部に送り出す前、カールはセフィーナに将来の妻に迎えると表明し、戸惑う彼女と強引に唇を重ねた。
だが、今回はそれが完全な拒否という形で阻まれた。
「誰が赦す、赦されないではありません……このセフィーナがそれを赦さないのです、カール兄さん」
そう言って立ち上がるセフィーナ。
「セフィーナ!!」
「カール兄さん、カール兄さんはこのアイオリア帝国の皇帝となるべき方です、そして……セフィーナはこれからも兄さんの家族として、妹として支えていきます、これからも」
セフィーナは微笑んだ。
だが微笑んだ筈が瞳には涙が溜まる。
拒否という選択を是としながらも、何処かでそれを許していた矛盾に未練がない訳ではなかった。
惹かれていなかった訳でもない。
「待ってくれ、セフィーナ」
「立派な皇帝陛下となってください、兄上」
「セフィーナ!」
自分の名前を呼び続ける兄。
しかし、セフィーナはそれには応えず、応接室を出ていくと、カールの喧騒にも近い叫びに驚き姿を現したメイヤや護衛隊の者達に、
「決して他言は無用だからな」
と、だけ涙を溜めたままの表情で告げて、早足で自室に入っていった。
それから……アイオリア大会議が催され、大方の予想通り、現皇帝パウルからの譲位により、新皇帝カールが誕生したのは当初の予定から大きく遅れた、一週間後の十二月も終わろうとしていた頃であった。
続く




