第百二十八話「セフィーナ脱出作戦 ―決闘―」
殴る、蹴る、頭突き、手近な物を手にして叩く。
灰色熊の取っ組み合い。
二人の少女の素手での闘いを表現するには、相応しいとは思えない表現を二人は周囲に与えていた。
馬車二台、馬を四頭収容しても、ある程度の広さのある車庫は二人の格闘が開始されて数分間で戦場と化した。
馬用の柵、馬車、厩舎用の棚や台車。
それらが床に転がり破壊されている。
二人の格闘に巻き込まれてしまったのだ。
まだ馬や人間はその被害を受けてはいないのが幸いであるが、その恐れが冗談ではなく有りうると、セフィーナの前に三人の護衛隊の少女が付く。
「へぇ、へぇ、けっ……やんじゃねぇかよ、パンチで奥歯が折れたよ」
「はぁ、はぁ、貴女も中々に立派ですよ、こんなに長く私の前に立って、歯が一本しか折れなかったのは貴女だけです」
軍服姿のメイヤが床に血だらけになった奥歯を噴き出すと、メイド服のヴェロニカはアザの出来た頬のままニッコリと笑う。
二人とも整えなければ、次のアクションが苦しいくらいに息を乱している。
会話は互いにその時間を取る為の物。
ここまでの闘いは力と身体の強さはメイヤに分があるが、技や素早さはヴェロニカが優っていた。
「まさか女性で隊長と正面切って闘える奴がいるなんて」
「信じられない」
「むしろ手数では隊長の方が不利よ」
「バカね、手数なんて関係ないわ、結局は立っていれば勝ちなんだから」
メイヤの化け物じみた格闘戦能力を知っていれば、知っているほどに互角に闘える者の存在に、周囲の護衛隊の少女達は驚きを隠さず、各々の感想を交わし合う。
やるとは思ったが、まさかメイヤ相手でもここまで闘えるとは……
セフィーナの偽らざる素直な感想だ。
「まだまだ、いくぜぇ!」
「どうぞ」
構え合う二人。
再び周囲を緊張感が包む。
距離を詰めていくのはメイヤ。
ヴェロニカはそれを待つ。
「そりゃあぁぁぁぁぁ!!」
裂帛の気合いを放ち、走り込むメイヤに、ヴェロニカは足元の馬用の寝藁を蹴り上げた。
「……くっ!」
舞い上がる藁に視界を一瞬、遮られたがメイヤの前進は止まらない。
全力疾走の勢いのまま、拳を前方に繰り出す……が、その破壊力十分の拳も当たらねば意味はない。
ヴェロニカは宙に舞っていた。
「なっ……」
突進のスピードを維持したままのメイヤの左肩を蹴ると、ヴェロニカの身体は後方に向かって飛ぶ。
メイヤにダメージは無い、ヴェロニカは後方に跳ぶ為に肩口を蹴ったのだ。
強力な突進力も手伝い、ヴェロニカが思いっきり跳んだ先には……馬車馬が個々に繋留されている、馬房があった。
馬房の扉が壊れる激しい音。
「アイツ……!」
唇を噛むセフィーナ。
鞍も手綱も着けていない裸馬が、けたたましい鳴き声と共に馬房から飛び出してくるのに数秒もかからなかった。
そして……その背中にはヴェロニカが鋭い瞳で、すがり付いていた。
「逃げるつもりだっ!!」
「逃がすなっ」
護衛隊の少女たちが飛び出す、しかし体重数百㎏の馬が飛び足してきたのだ、いかに精鋭といえども止める事は不可能だ。
「いけっ!」
ヴェロニカに腹を蹴られると、興奮した馬は嘶き、厩舎の木戸を突き破り、庭に飛び出していく。
「あの野郎!」
「メイヤ、追うなっ!」
追いかけようとするメイヤを止めたのはセフィーナだ。
「でもっ!」
「いいんだ、出来れば捉えたかったが、それよりも早くホールに帰って、作戦通りに事を行う」
「セフィーナ……」
「お前が自分の手で、と言うから一騎討ちをする事を聞いたんだぞ!? 今度はお前が私の言う事を聞く番だろう? それよりも急ぐぞ、リンデマンがエメラルダに気づいていたら先手を取られかねないんだぞ!」
明らかに不満げな顔を見せたメイヤを睨み付け、セフィーナは館に繋がるドアを開けて走り出した。
防戦一方。
クレッサのブレードの攻勢をリンデマンは短剣で防ぐ事しか出来ていない。
圧倒しているにも関わらず、クレッサが無理に踏み込んで来ない理由はリンデマンも理解しているつもりだ。
カウンターの逆転の一撃を喰らわない様にしているのもあるが、最大の目的を彼女は果たしているのだ。
『私の技量が完全に測れない間に、無理攻めをして、万が一に敗北でもしたら、後ろの偽皇女が私の手に落ちてしまう、それだけは無いように彼女は闘っているのだ、それと……』
彼女は待っているのだ。
この廊下はいわゆるバックヤード扱い。
ホールで楽しむ客達より、客をもてなす側の使用頻度が高いのは当然であり、もてなす側の人間は彼女の味方なのだ。
刃の交差が火花を散らす。
『緊急事態だったから致し方ないが、偽皇女の身柄を抑えてしまえばという考え方は早急だったか!?』
クレッサの鋭峰に押されつつ、直観的な動きを起こしてしまった事を後悔しかけたリンデマンだが、滅多にしない後悔は長続きも当然しない。
『いや、逃亡計画の内容を知っていたなら兎も角、私達はそれを知らずに来て、それに何とか気づいたばかりなのだ、ヴェロニカしかり、私にしかり、行動は概ね間違ってはいない!』
ただ偽皇女の護衛少女が予想以上に手強いだけだ。
そう思い直し……
「どうやら、賭けに出ないと君には勝てんな」
リンデマンは短剣を構え直す。
攻めの構えだ。
七割方、いや八割は回避されて、痛撃を喰らってしまうかも知れないが、このままクレッサの攻撃を受け続ける訳にもいかないのだ。
「やってみてください」
構えるクレッサ。
そこに表情は無く、感情が伺い知れない。
覚悟を決めたリンデマンが前に出た瞬間だった……
廊下の窓が開け放たれ、リンデマンとクレッサの間に、傷だらけのメイドが転がり降りで来たのだ。
「お待たせしました、御主人様」
あまりにも唐突な登場。
窓の外ではヴェロニカに乗られていた馬が暗い庭に走り去っていく。
「ヴェロニカ!」
「はぁ、はぁ……御主人様が彼女を追いかけているという事は、彼女の正体を突き止められた、そうですね?」
傷だらけで息も整わぬが、主人には微笑む美少女メイド。
「ああ、互いの細かい報告は後にしようか」
「了解です、では御命令を」
ヴェロニカは対峙するクレッサを睨みながら、リンデマンに命令を求める。
「目の前の偽物の皇女を確保、それが出来れば多少の事は構わない、障害は排除だ」
「かしこまりました」
命令に頷き、ヴェロニカは疾走を始めた。
「いかせる訳がない」
ブレードを手にしたクレッサが立ちはだかるが、彼女にとってはそれはリンデマンの言う障害に過ぎない。
鋭く横凪ぎに払われたブレード。
だが、それが切り裂いたのは空だった。
確かに合わせたタイミングはコンマ数秒の擦れを生じさせられていた、ヴェロニカは急に疾走の速度をゼロにして、ブレードの射程距離の寸前で急停止したのだ。
「……!?」
外した攻撃にクレッサの背筋が凍る。
「寝ていなさい」
「……うっ!」
メイド服のスカートがまくり上がり、細くバランスの良い右脚が左側頭部を捉え、クレッサはヨロヨロとふらついた後で崩れ落ち、傍で倒れていたパティに重なるように倒れた。
「…………!!」
息を呑むエメラルダ。
頼りにしていた二人が倒れ、リンデマンとそのメイドはセフィーナの偽者である自分を捕縛しようとしていた。
「大人しくしなさい」
ヴェロニカの鋭い瞳にエメラルダは怯える。
目の前のメイドはあれほどの技量を持つクレッサを素手で一瞬に倒した化け物だ。
敵いようがない。
自分も軍人であるが、戦闘の経験もない北部の駐屯部隊の出身であり、緊張感の緩い部隊だった。
数ヶ月前、フェルノールに出張した大隊長と中隊長に、セフィーナにソックリだ、言われてから噂が広がるまでは時間がかからなかった。
そして噂が沈静化した頃、パティが彼女の前に現れた。
『こ、こんな事なら……引き受けるんじゃなかった、私がセフィーナ様の代わりなんて務まる訳が無かったんだ!!』
断れば良かった。
大人しく戦の無い北方の守備隊に居れば良かった。
そうすれば……
「抵抗や逃亡が無駄なのは解りますね? 御主人様の命令は必ず実行しようと私は最大限の努力をしますが、貴女がその実行を阻むような抵抗を見せた場合、死んでも私は一向に構いません、貴女の死体があって、セフィーナ皇女が姿を現せば、替え玉を用意した証拠にはなるのですから」
ヴェロニカの瞳が光る。
こんな綺麗な女の子なのに。
絶対に、この娘は私を殺せる。
虫ケラの様に。
エメラルダの顔は恐怖に震えて崩れる。
「皇女殿下の顔をして、そんな態度は滑稽ですよ? 安心してください、下手な抵抗をした場合の事を話しただけです、そんな事をしなければ良いだけです、しっかりしてください」
ユックリと歩み寄るヴェロニカ。
死なないで済む?
殺されないで済む?
「さぁ……」
ヴェロニカは目の前だ。
とても人など殺せる様には見えない細い腕が、エメラルダにソッと触れ……
「ダメェェェェぇ!!」
逃げた。
エメラルダは踵を返して逃げた。
誰でも思い付く単純な手段。
ヴェロニカに一撃を与える様な手段は絶対に通用しないだろう、だが任務を放棄する訳にはいかない。
放棄しない為に逃げるのだ。
長い廊下。
しかし、一番奥にあるドアまで行けば!
奥に逃げ込んでしまえば……
エメラルダは可能性に賭けた。
「この……」
「逃がすなっ!」
意外な抵抗にヴェロニカはリンデマンの指示が発される前に走り出す。
軍人としての訓練を受けているエメラルダだ、脚力は並の女子を上回るが、相手はヴェロニカ。
当然、すぐに追いつ……かなかった。
ヴェロニカは己の異常に気づく。
全力疾走出来ない、さっきは出来たのに!?
『チッ……』
いつの間にか脚にダメージを負っていたのである。
数分間の渡るメイヤとの闘い、そして逃亡時に馬房に飛び込んだ際か?
おそらくその蓄積していたダメージが、さっきクレッサに頭部を捉えたハイキックの衝撃で限度を見たのだ。
人間の身体の部分で最も堅い頭蓋骨は蹴った方にもダメージを与えていたのだ。
「…………ぐぅっっっ」
「ヴェロニカ!!」
ヴェロニカの異常を察したリンデマン。
彼女が動けないなら、自分が走ってエメラルダを捕縛する。
これもまた単純明解な原理。
だが、リンデマンは一歩すら踏み出せなかった。
「……こ、このペテン師っ! いかせるかっ!」
「!?」
必死の顔をして、リンデマンの脚にすがり付いていたのはパティ少将であった。
「気絶してなかったのかっ!?」
「い……いつまでも寝てるかっ、クレッサが倒れこんで来てくれたお陰で目が覚めましたよ…………っ!」
うつ伏せのパティはリンデマンの左足を思いっきり引く。
元々、頑強な体格でもないリンデマンはガクリと膝を落として、倒れ込む。
「御主人様!!」
悲鳴に近い声を上げて、戻ってこようとするヴェロニカ。
だが、リンデマンは倒れたまま右手を大きく前に振り、ヴェロニカを怒鳴り付ける。
「今は私ではないっ! あの偽者を捉えよっ、決して速くは走っていないっっっ!」
「は、はいっ!」
必死に逃げているが、エメラルダの格好はパーティードレスであり、速くは走れない。
「必ず…………捕まえるっ!!」
痛めた脚の痛みが脳髄まで走る。
だが、ヴェロニカは疾走した。
リンデマンの命を果たせない自分になど価値は無い。
怪我など関係ない、そう決めたのだ!
「ああああぁぁぁぁ!」
長い廊下を駆ける美少女メイドに、エメラルダは悲鳴を上げながら逃げる。
美しくなど無かった、エメラルダにはひたすら地獄から自分を追いかけてくる番犬にしか見えなかった。
グングンと差がつまり…………
「いやぁァァァァ!!」
もつれる脚に叫ぶエメラルダの目の前の木製のドアが……いきなり大きく開け放たれた。
「エメラルダ、よく頑張ったな!」
そこにはセフィーナ本人と数人の少女達。
己にソックリな筈のセフィーナがエメラルダには、自分とはまるで違う救いの女神に映る。
「皇女殿下っ!!」
「お前は奥に下がっていろ」
セフィーナの胸に飛び込むエメラルダ。
エメラルダを背後の少女達に任せる様に後ろに回し、廊下に向き直るセフィーナ。
だが、追走者ヴェロニカの脚は止まらない。
「セフィーナ様! 危ないですっ、その人は……」
「知っているよ、このヴェロニカはこうなっても、却って私とお前を揃えて捉える事が出来るから好都合なんて化け物、リンデマンの命令ならば悪魔だって殺せる女だ」
叫ぶエメラルダ。
セフィーナはドアを閉める事すらせずに、迫るヴェロニカに向き直る。
「だが……」
「……お覚悟ッッッッっ!!」
ヴェロニカは跳んだ。
まるで獲物に襲いかかる虎の如く。
「私には……メイヤがいる」
大音響。
廊下の窓ガラスが豪快に割れた!
「……なっ!?」
「セフィーナに触れんなぁァァァァ!!」
大量の窓ガラスの破片と共に、空中のヴェロニカに向かって真横から飛びかかったのはメイヤ。
二人は空中で衝突し、壁に一緒に激突する。
「……ブッッ」
ダメージがあったのはもちろんヴェロニカだ。
メイヤに続きヴェロニカも一瞬で立ち上がる。
「邪魔して……この人は」
ダメージにふらつきながら呟くヴェロニカ。
立ち上がったのは念だった。
リンデマンの命令を受けたら、他人の邪魔など全てを排除するという執念の反射神経だ。
だが、攻撃に移行する速度はそれに負けない覚悟でセフィーナを護るメイヤが上回った。
「この……バケモンメイド!!」
メイヤの右足が……メイド服のスカート、ヴェロニカの両足の間を大きく蹴り上げたのである。
「んぶっっっ!!」
眼を見張り、ヴェロニカは息を吹く。
予想外だったのか、それとも蓄積されたダメージは大きかったのか、メイヤの右甲は全くガードされず、見事に胯間を直撃したのだ。
「ヴェロニカ!!」
リンデマンが叫ぶ。
両膝を付き……前のめりに倒れたヴェロニカ。
腿を少量の血が伝っていた。
「これ……男はもっと効くらしいけど、女にだって急所なんだよ、悪いけど少しはネーベルシュタットの借りが返せたと思うことにするよ」
気を失ったであろうヴェロニカを見下ろすメイヤ。
何やらガヤガヤと音が聞こえてくる。
「メイヤがガラスを割った音にホールが気づいたぞ、じゃあ後は例の部屋に……」
「了解です」
セフィーナはエメラルダを確保した少女達にそう告げると、エメラルダをかかえて少女達はドアを閉める。
これでエメラルダはほぼ安全だ。
「さて……」
廊下に残る者達を見渡すセフィーナ。
視線を止めた先には、パティに脚を捕まえられたまま、床に寝そべった状態のリンデマンが居た。
「リンデマン……私の計画を読んだまでは良かったが、こうなってはやって来る者達はどちらを信じてくれるかな? ネーベルシュタットの事を考えれば、どうみても貴公がその続きをしようとしたと思われても仕方がないのではないか!?」
「どうしでしょうなぁ、案外に貴女が脱出計画を実行しようとしたという私の言う事を信じてくれる勘の良い方も居られるでしょう、私は無能は味方にしたくないものでね、好都合ですな」
「ぬかせ……バカ」
「お褒めに預り光栄」
そう言い合い、セフィーナとリンデマンは互いに生産性の無い不敵な笑みを見せ合うのであった。
続く




