南部連合 その3
薄暗くて、冷たい廊下を走り抜けて、ヨハンネはたどり着いた。
彼女の居る地下牢へ………
彼女に会う前に息を整える。
怖がらせないように、足音をなるべく立てず、ゆっくりと歩いた。
それでも靴音がカツン、カツンと鳴り響く。
そして、彼女の牢屋の前にヨハンネは立った。
彼女は牢屋設置されている粗末なベッドで壁に向いて横になっていた。
顔が見えない。
(…寝ている、のかな…?起こすのも悪し、このまま帰ろうかな……)
ヨハンネは困惑してしまった。
そんなとき、ヨハンネの気配に気がついたのか、ゆっくりと彼女は起き上がった。
こちらを向いた。
彼女の目がギラリと光る。
「………?」
無表情でこちらをじっと見つめている。
「や、やぁ。こんにちわ」と彼は右手を顔の辺りに近づけて、一言、言った。
それに反応を示した彼女はヨハンネに近づく。
まるで、檻に入れられた動物のように裸足でペタぺタと歩み寄ってきた。
でも、一定の距離をとっていた。
手を伸ばしても、届かないぐらいの距離だ。
暗くて彼女の姿がはっきり見えないが、着ている服はボロボロで黒ずんでいるのはわかった。
(こんな…粗末な扱いを受けているのか……)
彼女はヨハンネの目をじっと見つめるので、何かを探られているような感じに思えた。
「あの、ぼ、僕はヨハンネって言うんだ。よろしくね」と無理してニコリと作り笑顔をした。
「ヨハンネ……?」と彼女は小さくつぶやいた。
「うん。じゃあ君の名前は?」
その問い掛けに彼女は首を横に振った。
「…私には名前はありません」
(名前が無い?と言う事はお父さんとか、お母さんとか、いないのかな…?)
「そ、そうなんだ……えーと……」
彼女は黒い瞳がキラキラ光らせ、瞬きをしている。
「あっそうだ!君に言わないといけない事があるんだけど……」
「何でしようか?」と小首を傾けた。
「“僕は君を買ったんだ”」
一瞬だけ、目を大きく開き、驚いたような顔を見せると言った。
「…私をですか?」
「うん。人を買う行為はあまりしたくなかったけど……怒らないでね。この国のシステムだから」
「怒りません。では、これからは、貴方が私のご主人様となるんですか?」
ヨハンネは考えた。
召使いや奴隷として彼女を買うのではなく、解放してあげたい。
その趣旨を伝えるべきではあるが、今、ここで言うわけにはいかない。
もしも、奴隷の烙印を押された者が、この国を出たと知られれば、逃走を助けた関係者、家族などが、一斉に処刑されてしまうだろう。
それだけは、出来ない。
周りに迷惑は掛けられない。
彼女の右の甲には剣闘士である事を示す烙印がくっきりと押されている。
手が震えた。
(…一生消えない傷……)
この国はおかしい。
狂ってる。
人が物として扱われるなんて……
でも、そんな狂った国でも、すぐには脱国させる事は出来ない。
プルクテス国から他国に行く為には必ず、関所を通らなければならないから。
そこでは、右の甲を関所守備隊が確認する。
確実にそこでバレる。
それでも、彼女を解放するべきだ。
彼女は、ここに居るべきじゃない。
それまでは、闘技という地獄から救う為に、買い取ってキンブレイト邸に居させる。
周りから怪しまれないように、グレイゴスの仕事を手伝わせればいいと考えた。
(だから今、ベストの言葉は……)
「この僕が君の主人だよ」と自分の胸に手の平を当てた。
「わかりました。ご主人様」
彼女は礼儀正しく僕に一礼した。
「…今日は顔合わせみたいなものだから、あと一週間はここに居てもらわなければならない」
彼女は静かにゆっくりと僕の言葉に相槌を打つ。
「承知しました。では、それまでに貴方様からのご命令はございませんか?」
(命令?僕は彼女に、命令するのか…?)
ヨハンネは奴隷商人やうるさい貴族とかと同じ人間だと思われているのか。
それともただの忠誠心が高いだけなのか……
(いや、それで良いのかもしれない…)
その方が、奴隷監視委員会に怪しまれる事はない。
奴隷監視委員会とは文字通り、奴隷に与えられた仕事をしているかを監視し、脱国したりしないように街中で目を光らせている国家組織である。
「じゃあ、君に命ずる。一週間、“闘技場を生き抜け!”必ず生きて、僕の所へ来るんだっ」
「…承知しました」と膝を付いて頭を下げた。
そんなとき、噂をすれば何とやらだ。
奴隷監視委員会の証しである赤い腕章を付けた軍剣をぶら下げた者達が現れた。
「キンブレイト様、お一人で剣闘士との接触は危険です!お離れ下さいっ!!!」
あご髭の初老が、焦りながらヨハンネの腕を掴むと、牢から強引に引き離し、外へと連れて行く。
(監視委員会はずっと僕を見ていたんだ…)
良かった。
あの時、本心を言わなくて……




