8−5 恐怖の幕開け
日が西に傾き始めたのを、雲海は自宅の縁側から目を細めて眺めていた。
振り返ってカレンダーを見る。八月二十九日。今度は時計に目をやる。四時半。肝試し大会開催まで、あと三時間。
千切れ雲が空の遥か上空を漂っている。頬を撫でる風は相変わらず夏の熱気を孕んでおり、夏休み最後にして最高となる予定のイベントは、どうやら納涼にはもってこいの天気と重なったようだった。
今日、およそ六十にも及ぶ若者達がここ、憂山麓の据膳寺に足を運ぶ。
肝試しのためだけに集まる人数の度を超えているが、集めてしまったものは捌かねばならない。だが幸いな事に、怪奇現象そのものみたいな存在……木鉤夜恵がいる。
彼女も意欲を見せてくれているので、肝試しの出来の方はかなり期待が持てる。なにせ本物の妖怪がアトラクションをやってくれるのだ。これで怖がらない人間はきっと心臓に毛が生えているか、もしくは妖怪である。雲海はただ、行事が滞り無く進むように肝試しのお客にルールを説明し、後は主催者然として堂々としていればいいだけだ。
だから、懸念は何一つない。
だと、言うのに。胸の奥底が中々すっきりしないのは一体なんなのだろうか。
雲海は口を曲げて嘆息した。夜恵が付き従える意志無き数多の妖怪達と、家に居候している河童の利休や口裂け女を思うと、やはり雲海は納得が出来ない。
しかし雲海は、今から夜恵の従えている妖怪を利用するのだ。頼ってしまった自分の力量の及ばなさが不甲斐なくて仕方ない。雲海は、自分の包帯が巻かれた右手に目をやる。同級生の神部祥子を付け狙っていた妖怪を退治した際に、雲海は手酷い傷を右手に負った。包帯はまだほどけていない。
先日、塞がりかけていた傷が再び開いてしまった。原因は、よく分からない……と言ってしまっていいのだろうか。一人、誰も周囲に居ない憂山奥地の洞窟の中で、試しに術を公使しようとした時。雲海は言霊によって従わせるべき式神に、思わぬ反撃を喰らってしまった。霊符が雲海の傷口を開かせ、そこから吹き出す血液を吸い込んでいったのだ。霊符を千切って術の発動を強制終了させなければ、もしかしたら自分はあのまま己の式神に血を吸い尽くされ、死んでいたかも知れない。
自分はもしかしたら、もう術を使う事は……。
「クーちゃん?」
雲海は、背後からかけられた声に驚いて肩を跳ねさせた。
その心配そうな声色の持ち主は、恐らく薫だろうと見当をつける。そう言えば先程、間もなく夜恵と共に到着すると携帯電話にメールがあったか、と雲海は思い出す。お邪魔しますの声が聞こえなかったのは、考え事をしていたからだろう。
「香田さんか、いらっしゃ……」
弱々しい作り笑いをしながら振り返った雲海は、薫の姿を見て一瞬呆気にとられた。普段の薫は簡素なTシャツとハーフパンツだけと言う質素な格好で寺までやってきていたが、今日はイベント事があるからだろうか。
薄ら赤い金魚柄との浴衣に深紅の帯を締めて、恐らく家から持ってきたのだろう、企業広告の書かれた大判の団扇で顔を扇いでいる。髪はいつものポニーテールよりも少し低い位置で結われており、服装と相まって普段彼女から感じることの無い艶やかさが滲んでいる。見慣れぬ姿である、と言うのもあったが、その浴衣は薫の細身の体型には良く似合っており、雲海は咄嗟に目を逸らす事も口を開く事もできなかった。
要するに、見蕩れてしまっていた。
言葉を中断して呆然としている雲海を、薫は訝しげに見つめる。
「どったの?」
「……そっちこそ、その格好は?」
「私が、貸した」
薫の隣に、彼女の陰影のように佇んでいた、黒い付け下げに身を包んだ木鉤夜恵がVサインを雲海に向ける。長い髪の先にある顔は恐らくしてやったりな表情をしているに違いないと思うと、雲海は何故か少し悔しくなった。
「ど、どうかな? 和服って着たこと殆どないんだけど、大丈夫? 変じゃない?」
「あー、うん……良く似合ってると、思うよ」
「あ、そ、そう? ありがと!」
満面の笑みで嬉しそうに小さく跳ねる薫。たどたどしく陳腐な褒め言葉を口にした雲海は、そのままゆっくりと薫から目を逸らしていく。褒められて照れ臭そうに笑う薫よりも、褒めた側の雲海の方が余程顔が赤い。それを夜恵はニヤつきながら眺めていたが、雲海が俯いてしまったのを見て、溜め息を吐いた。
「……安いラブコメのようだ」
「何を言うかっ!」
雲海はようやく人間の言葉を思い出したのか、素早いツッコミを入れて立ち上がる。
「と言うか、夜恵さん。冠婚葬祭じゃないんだから、そんな暑苦しい付け下げなんて着て来なくても」
「……これは仕事着。すぐに肝試しの準備に向かう」
薫の浴衣姿を見た雲海の反応を見に来ただけだったのだろうか、夜恵はいとも素っ気なく雲海に背を向けた。雲海は意図的に薫を視界には入れないようにして、夜恵の背中に追い縋るように語りかけた。
「もう少しのんびりしていけば良いよ。まだ時間はある。暑かっただろうし、麦茶でもどう?」
「必要ない」
夜恵は言葉を遮りながら、彼女にしては少々強めの声でハッキリ断りを入れた。取りつく島も無いとはまさにこの事であった。夜恵は無慈悲にその場を去ってしまい、後に残されたのは困り果てたような顔の雲海と、不思議そうに首を傾げる薫。何故雲海が必死に夜恵を引き止めていたのか、薫には良く分かっていないようである。
「……あ、クーちゃん、私は麦茶貰っていい?」
「あ、あぁ。すぐ持ってくるから、居間で待っててくれ」
目を見ずにそう言って、雲海は台所の方に逃げるように廊下を走り去って行った。何だか慌てているというか動揺しているというか、雲海は妙にソワソワしている。
「どうしたんだろ、クーちゃん」
きっと、肝試しが成功するかどうかをプレッシャーに感じているのだろう。薫はそう結論を付ける。
チリンと風鈴が一度鳴ったかと思うと、弱々しい風が縁側に吹き込む。熱気を含んだその風からはまだまだ夏の終わりは感じられないのに、カレンダーの日付は非情だ。妖山市は八月最終日に花火大会があるらしいが、自分達で企画を立てられるイベントはこれが最後だろう。
夏の最後に良い思い出を。
今日はいつもの薫とは違う。人にからかわれる立場ではなく、からかってやる立場だ。
特に相川真見。彼女には一泡吹かせてやらねば気が済まない。
「……よし!」
薫は、人知れず静かにやる気を漲らせていた。
*
同日、午後七時。
妖山駅前のバスターミナル発の憂山麓の自然公園前のバス停にまで至る、本数の極めて少ない路線バスの車中は平素では有り得ない程に込み合っていた。席は全て埋まっているし、ざっと数えただけでも四十を超えているようである。顔ぶれはいずれも年若く、十代半ばの男女が入り乱れている他、彼らの弟妹であろうまだ小学校低学年らしき幼い子達も何人か見受けられた。
皆一様に、憂山は据膳寺にて開催される肝試し大会とやらに参加を予定しているのだ。
同バス内で楽しそうに、或いは気怠そうに周囲の友人と談笑している連中を眺めて、ここまでの大所帯を築き上げた発起人である相川真見本人はよくもここまで集まった物だと自分でも感心してしまう程だった。
「……どうしてこうなった」
「なにがー?」
ぼそりと呟いた相川に応答したのは、彼女の隣に腰掛けている、友人の小森美紀である。二つに分けて結った髪の先を指で弄りながら、窓の外を漠然と眺めており、いつもの彼女に備わっている無駄なエネルギッシュさが足りていない。顔もどことなく覇気がないようにみえる。
「憂鬱そうだな、小森美紀。顔色が悪いぞ、何か悪いものでも食べたか?」
そんな彼女の一つ後ろの席に座る、文庫本を手にした神部祥子が僅かに心配しているらしきニュアンスを滲ませて問う。
相川、小森、神部の三人は薫という共通の友人を介して仲良くなった三人である。最近では薫が居なくても良くつるむようになっており、今日も小森と神部を誘ったのは相川だった。
「悪いものって……最近ダイエット中で、あんまりものを食べてないけど」
「食事制限は身体に悪い割に、効果が上がらないぞ、小森美紀」
「そうそう。やっぱ運動しなきゃ、運動。ミキティってスポーツとかやんないの?」
「ってかね、私は別にダイエット中だから憂鬱って訳じゃぁないのですよ?」
小森はムクれた顔で相川と神部を交互ににらみつけた。しかし二人は何のことやらとトボケた表情を見せるので、小森は更に憂鬱そうな溜め息を思う存分吐き出した。
「やっぱ、雲海とカオリンは仲良いなぁって……」
「あぁ」
「そういう」
薫が里帰りをしているおよそ三週間超の期間、小森は事あるごとに雲海を遊びに誘い、実際に何度も出掛けている。堅物な雲海のせいでか、小森の空回り気味な努力が功を奏すことは無く、デート中に甘い雰囲気になったりはしていないものの、しかしそれでもそれなりに関係も密接になってきている筈だと小森は考えていたのだが。
薫が帰ってきた途端、薫は雲海の家に入り浸っているそうではないか。小森など一度も雲海の家に行ったことさえ無いと言うのに。しかも今回の肝試し大会だって、雲海と薫が、二人で共同で企画し、主催したと言う。
この差は一体何なのだと小森が愚痴を零すのも無理はなかったのだ。
「どうしてなんだろ……私、カオリンより雲海の事知ってる自信あるんだけどなぁ……」
「タイプの問題ではないか? 空峰雲海は見た目通りの堅物だろう、軟派な君には合わなそうだ」
「でも好きなんだもん! アンタらにゃぁきっと分からないでしょうね、雲海の格好良さは!」
「ホント、ミキティは潔いよねー。こんなに周りに人が居ても全然普通に大声でそう言う事言っちゃうし」
さりげなく小森の目を周りに向けさせる呆れ顔の相川。小森も流石に注目を集めている事に気がつき、口を噤んだ。周りが見ず知らずの他人だけならまだしも、この場には杵柄高校の生徒も乗り合わせている。夏休み明け、恐らく雲海は散々このことでからかわれるだろう、と相川は雲海を憐れんだ。
「でも、まだちゃんとした告白はしてないんでしょ、ミキティも」
「……うん」
「君なら、何はともあれ告白をして、フラレたらまたデートしてまた告白して、としつこいぐらいに繰り返すのではなかったかと思うのだが」
「前まではそうだったけど……今回は色々違うのよ。……でも……」
小森は雲海に命を救われている。だから、今までのような外見だけで判断して好きになった訳ではない。本気度が違った。そして、小森が恋をした当時から、雲海の心は既に薫の方に向いていたように思える。今までよりも慎重にならなければならない。
小森は、雲海には告白は一度しかしないと心に決めていた。
一度告白してしまえば、恐らく雲海のような堅いタイプは今まで通り接する事が出来なくなる。だからこそ、もっと密接な関係になって、自分の魅力も知ってもらってから告白しようと小森は目論んでいたのだが。
恐らくこのままではジリ貧だろう。
どう言う訳か小森には分からないのだが、雲海と薫の仲の進展の仕方は異様な速度だ。そして今、小森の主観によれば、恐らく二人はお互いを憎からず思っている。早めに決着をつけなければ、小森には告白をするチャンスさえ回って来ない可能性があるのだ。
「…………今日」
「ん?」
「今日、告白する」
思い立ったら即行動するのが、小森美紀と言う女だった。きっと好機など、もう数える程しかない。今日はイベント事、雲海も気分が高揚しているに違いない。ここを逃してしまえば、もう先はないかもしれない。だから、今日。何としても、告白してやる。小森は胸の中で決意を強く固めた。
「そんな思いつきで……」
「失敗した後に後悔する様が見えるようだ」
「そこ! これは思いつきじゃないし、まして失敗前提の玉砕特攻する気もないっつぅの!」
指差して喚く小森の言を、相川も神部も渇いた苦笑いでやり過ごす。どうもあまり真剣に思われていないような気がして、小森は少しやる気が萎れてしまうのを感じてしまうが、必死に心を奮い立たす。
「大丈夫、私はアンタらとは場数が違うのよ、あんな童貞坊主野郎なんざ……」
少々口調が乱れ始めた小森の言葉を、車内アナウンスが遮る。
「次、止まります」
騒がしい車内で、無機質な女性の声が妙に耳に残った。窓の外は未だ市街地を抜け出せておらず、停車ボタンも点灯していない。
誰が降りるのだ、誤作動かと車内がざわめき始めた時、小森はふと次の停留所を表示している車内電光掲示板を眺めて、口を大きく開けて呆然とした。
「は……?」
電光掲示板に表示される次の停留場は、こう書かれていた。
「『地獄門前』……?」
ポツリと呟いた神部の手から、文庫本が滑り落ちた。何かの見間違いかと思って目を擦る相川。水を打ったように静まり返る車内。そして相川が目を瞬かせて掲示板に再び目を向けた時には、既にその『地獄門前』の表示は消えていた。周辺の乗客も同じような表示を見ていたのか、皆小森と同じように惚けた表情をしている。
見間違いでは、ないのだろうか。
「あ、あの、すみません!」
小森が揺れるバスの中、立ち尽くす男女の間を器用にすり抜けて、バスの運転手の所まで駆けつける。その運転手は運転士帽を目深に被っている。果たしてそれで運転なんて出来るのかと問いたくなる。表情こそ窺えないが、体つきと黒く長い髪から連想するに、どうやら女性のようだった。胸のネームプレートには『木鉤』と書かれており、珍しい名字だなと小森は思う。
「今、行き先の表示が変な風だったんですけど……」
「えぇ? そおですか? どうなってましたかね?」
運転手は小森の方を見ないまま、車内の張りつめた空気に驚く程似合わぬ朗らかな甲高い声で聞き返す。小森達高校生とさして年齢的に変わりないような、若々しい女の声だった。
「なんかその、『地獄門前』って」
「なんとまぁ! そんな停留所はありませんよ! 次は妖山病院前ですもの!」
からからと朗らかに笑う運転手が胸を張ってそう言った。
「何かの見間違いじゃぁないんですかね?」
「でも……」
車内を振り返った小森は、乗客全員の期待の篭った視線を浴びていた。事の真相を暴いてくれと言わんばかりだ。これだけの人数が同じ見間違いをする訳が無い。地獄門前は間違いなく表示されたのだ。
「あぁ、でももしかしたら」
運転手が急に声のトーンを落とす。長い前髪の隙間から覗く細く形の良い唇が、三日月のような形に歪んでいた。
「本当に地獄に向かうのかも知れませんねぇ……」
運転手のその一言に、バスの中の気温は何度か低くなったようであった。誰も、何も言えなかった。車内は、耳が痛くなる程に静まり返っている。ディーゼルエンジンの音さえ碌に聞こえない程に。