8−3 夏休みの思ひ出
閑話休題。
天心が夕食の支度を始め、利休と口裂け女が縁側で将棋を指している午後四時過ぎ。薫と雲海は、すっかり疲弊した身体を茶の間に投げ出していた。
雲海は仕事柄か、案外怪力で四人掛かりでさえも止めるのにはかなり手こずった。と言うよりも妖怪二匹を引き摺る程の怪力っておかしくないか、と薫が冷静に考察をしていると、雲海が草臥れた表情で起き上がった。
目は遠くを見ている。魂が天に上っていきそうな顔である。
「天心……もう、兄ちゃんの手の届かない所までいってしまったんだな……」
「黄昏れるには少し時間が早いね。あ……このキュウリ漬けめっちゃ美味しい」
酢漬けと聞いて辟易していたものの、砂糖を多めに入れているのか、酸味もくどくない程度に抑えられて食べやすい。軽快な音を響かせながら薫が無心にキュウリ漬けを食べている。なんて幸せな娘なのだろう、と雲海は溜め息が出る思いだった。
「アイツは立派に夏休みを満喫してるみたいだな……一方の僕らと来たら」
「さりげなぁく私まで含めちゃったよ」
「……だって何にも無かったんだろ?」
「んじゃ、これから何かする?」
「え」
雲海が驚愕の表情を浮かべている。
「何かと言うのはそれはつまり夜恵さんや天心がやってるような事ですかーッ!」と煩悩全開の雲海等露知らず、薫はと言えば、未だに恍けた表情を崩さずに、気怠そうに雲海の方を眺めているだけだ。雲海は少しだけ期待を込めて、しかし可能な限り冷静を装って薫の言葉の真偽を窺う。
「どう言う意味だい?」
「みんなを集めて、何か夏休みの想い出になるような事をパーッてやりたいなって。花火とかどう? ……って、どうしたの、そんな残念そうな顔して」
「……なんでもない。そんな事だろうとは思っていたし」
雲海は悔しそうにキュウリの酢漬けを噛み締めた。舌に広がる酢の味が酸っぱい。三口喰ってから飲み込んで、雲海は己の雑念と煩悩を振り払ったあとに、改めて薫の言葉を反芻した。花火。いかにも夏らしいイベントではないか。雲海は、まだ今年は一度も花火をしていない。しかし、市内の花火大会は八月最終日にあったと記憶している。
「花火大会は来週あるぜ。空にスターマインだか三尺玉だかが上がる派手なのが」
「じゃ、花火は良いや。海水浴は」
「残念だが、この辺はこの時期じゃ、もうクラゲが出てる。登山はどうだ?」
「夏バテ気味の女の子に山登れって言うの?」
「海は良いのかよ……っと、なると」
「……なると?」
「……肝試しかな」
雲海は口角を上げて得意げにそう言ってみせた。薫は口を曲げて眉をしかめ不満を露にしていた。
「あれ? 不満? 君、オバケ怖い人?」
「……怖いものなんてないわよ。知り合いに妖怪がいるんだもん、だから今更何が出てきても驚かないからつまらないわ」
「なら、君には怖がらせる側に回ってもらうか」
首を傾げる薫。雲海は得意げに指折り数え出す。
「念動力、瞬間移動、そして発火能力。おあつらえ向きなまでに万能な舞台装置じゃないか」
「装置って……」
「言葉の綾だよ。それに家には幸い『本物』が、二人も居るだろ。マジものの怪奇現象が出迎える肝試し……楽しそうじゃないか?」
雲海の偽悪的な微笑みを見つめ、薫はおとがいに手を当て唸る。思えば薫はいつもいつも、人にからかわれる立場にいた。
相川にも神部にも小森と一緒に世話を焼かれ、ユリアンにはセクハラされ、雹裡にも馬鹿にされ。いい加減、日頃の鬱憤を晴らす出来事の一つも欲しくなるのは、紛れもなく事実。
薫の演出によって怯え逃げ惑う涙目の相川を想像すると、自然と笑みが漏れた。
「……やってみよっか」
「そうそう、そう来なくちゃね」
二人は微笑み合った。その笑みの邪悪さといったら、縁側で将棋を差していた利休も思わず引いてしまう程であったという。
*
時を同じくして。
相川真見は自室でカレンダーを見つめて一人、憂鬱な気分に浸っていた。
夏休みは、残す所あと一週間しかないのだ。だと言うのに、相川にはこの夏どこかに出掛けた記憶もないし、友達と遊んだ記憶もない。彼女の夏休みは、ほぼ新聞部の活動と家業の中華料理屋の手伝いのみに費やされていた。店は相川の母と相川の二人だけで切り盛りしているため、書き入れ時はそれこそ猫の手の一つでも借りたくなる程多忙である。
バイトの一人でも雇えば良いのに、と相川は何度も母に忠言しているのだが、母は中々決心がつかないようだった。父が死んだ当時は客も少なかったので相川にも時間があったのだが、母の料理の腕前が上達し、客が寄り付くようになってから彼女の自由な時間は削られっぱなしである。
「もう終わっちゃうのか……」
この夏を回想した相川は、もう何度目になるか分からない溜め息を吐き出した。今はランチのタイムも終わり暇を出されているのだが、夕方にはまた店に出なければならない。
そろそろ準備でも始めるかと腰を上げた時、相川の携帯電話が着信を告げた。誰だと名前を見てみれば、空峰雲海、とある。
「……はろー、どったん」
「君こそどうした、元気ないな」
雲海の弾んだ声を聞いて、相川は更に憂鬱な気持ちを強くした。
「こちとら家の手伝いで忙しいの。毎日食っちゃ寝のアンタとは違うの」
「酷い言い様だな」
軽く笑いながらあしらう雲海。上機嫌にも程がある。相川はそれが妙に思えた。
「で、何の用なの?」
「実は今度、肝試しをやろうと思って誘ったんだけど」
「いつ?」
何よりもまず、相川が尋ねたのは日付であった。自分が出られる日なのか、そうでないのか。店の定休日と被るのを祈る。
「予定では三日後だけど」
「あー残念。その日は店の手伝いをしなきゃ」
実際はそこまで残念に思ってはいない。そもそも肝試しにそれほど突き動かされもしないのだから。そう思って電話を切ろうと考えていた相川の耳に、思わぬ言葉が飛び込んでくる。
「いつなら大丈夫だ? それに合わせよう」
「はぁ?」
「香田さんが、どうしても君に出てもらいたいって言ってるんだよ」
「なんでカオリンが?」
「君が驚く顔がどうしても見たいんだとさ」
脳裏に掠める小柄な幼顔の友人の、舌を出しておどけた顔。なるほど納得である。普段何だかんだで世話を焼いたりからかってやってる分、何かしら仕返したいんだろう。
生意気な小娘だ、と悪の女幹部みたいな事を考えた相川は、しかし少し嬉しかった。友達何人かと肝試し。高校生最初の夏休み最後の思い出としては若干パンチに欠けるが、しかしギリギリ及第点をくれてやっても良いだろう。
「五日後の、八月二十九日が良いな。その日はウチ定休日だから」
「お、それは都合がいいぞ! 準備の時間が延びてくれた」
雲海ははしゃいでいた。電話口でも分かる程に。声も大きいし、高いし。
「じゃ、是非来てくれよな。集合場所はウチの寺。時間は夜の七時から。次いでに、クラスの人とか、部活の知り合いとかに声かけてくれると嬉しいな。人が多い方がこっちもやりがいが在る。あ、そうそう。二宮も連れてこいよ、最近また寄り戻したんだろ?」
雲海がさり気なく言ってのける。
相川真見は、クラスメイトである二宮剛志と付き合っていた。一度別れてはまたくっ付き、を繰り返す微妙な仲である。しかしそれをクラスで宣言した訳ではなく、むしろ二人とも積極的に隠していた筈だ。なのに、どうしてそれを知っているのだ、と雲海に尋ねると。
「みんな知ってるよ?」
とんでもない答えが返ってきた。
「……マジ?」
「火のない所に煙立たず。人の口に戸は立てられず。多分出所は野田か木下さんだろうな。まぁ落ち込むな、真見ちゃん。人の噂も七十五日だ」
「……じゃ、その噂を更新してあげるわ。つい一週間前、また別れました。一応フラれて傷心中なんだけど、私」
「えっ」
雲海が息を呑むのが、電話越しにも伝わってくる。電話の向こうで雲海が口をパクパクしているのが分かるようで、相川は吹き出しそうになるのを我慢した。
「あ、あの……ごめん」
「別にいいよ。やっぱ合わないなーってこっちも思ってたトコだし」
「そ、そっか……あー……ホントにごめんな?」
「謝られると惨めんなるから止めてくれないかな……」
下手に優しくされたり慰められたりすると、別れる直前を思い出してしまいそうになる。雲海がその辺りの機微が分からない事を責めるつもりはないが、だからと言って傷を弄られるのは許せない。期せずして声が低くなった相川を、雲海は必死で宥めようとしていた。
「と、兎に角、景気良く気晴らしにぱーっと肝試ししよう。な?」
「パーッとする肝試しってどんなよ……」
「ま、まぁ、ほら……叫べばスッキリするだろ。だから是非来てくれ」
雲海の言う事も一理ある。最近は本当にストレスを溜め込んでばかりだったのだ。肝試しそのものにも興味はある。一気に発散出来ると言うのなら、参加しない手はなさそうだ。
「よし、分かった。私も出るよ」
「了解! ……で、ときに真見ちゃん……いや、相川様」
声がトーンダウンした。いきなり下手に出た雲海の言葉が、何を吐き出すか相川は少しだけ予想が出来ていた。
「宿題を」
「じゃねー、クーちゃん。五日後にまた会いましょ」
朗らかにそう言って相川は一方的に電話を切った。どうやら雲海は今年も宿題をやっていないらしい。中学の頃から彼はいつも宿題を提出日ギリギリまで溜め込む。夏休みに限らず、全ての宿題を、だ。
どうせそんな事だろうと思ったらその通り。
だが、相川には宿題を見せるつもりは全くない。薫にも見せるつもりはない。それが友人としての愛の鞭だから……と相川はつい気を許しそうになった自分を律した。
時計を見ると、間もなく営業再開時間の午後五時に差し掛かる。頭に三角巾をキツく巻いた相川は、大きく伸びをした後に気合いを入れた。