8−2 晩夏の集い
八月二十四日。
盆を過ぎて段々と日照時間も減少し始めているお陰で、この夏フェーン現象に悩まされた妖山市の気温も随分と過ごしやすくなっていた。この夏の冷房事情を扇風機一台と風鈴、そして少々の気合いで乗り切った空峰一家にも、ようやく秋という快適な季節の足音が聞こえ始めている。
そんな矢先の事だ。
なんと、空峰家に新たな家族が加わりました。
「……どうしてこうなった」
空峰家長男、空峰雲海は庭先で天心と共に庭の掃き掃除をしている長身の女を見つめながら呟いた。
長く艶のある髪の毛。痩せた体躯を、暑苦し過ぎる深紅のダッフルコートが覆っている。顔の七割程を覆い隠す白いマスクがトレードマークのその女の顔色は、死人のように真っ青である。
口裂け女。
「あたし、きれい?」の言葉と共に女子供襲いかかる悪霊の類いであり、ポマードポマードと叫びながら逃げる、或いはべっこう飴を投げつける等でその襲撃を回避出来ると噂の、あの有名な都市伝説の主人公である。
それが、一体どうした事か。寺の庭を掃除している。竹箒で砂を払っているのだ。隣で同じく箒を握っている空峰家次男、空峰天心は、人懐っこい少女のように柔らかい笑顔を浮かべて口裂け女に何か語りかけている。口裂け女も時折首を縦横に振るので、質問には答えているようだ。
まかり間違っても、人間に襲いかかろうとする妖怪には見えない。現に今の彼女は、極めて人畜無害だ。
「かれこれ、一週間は経つのか……」
指折り数えてみると、口裂け女が空峰家の敷居を跨いだのは丁度一週間前の事である。
一月前に山田村に現れてから、およそ二週間姿を消していたのに、つい一週間前に隼市に現れたのだそうだ。その二週間のミッシングの間に何があったかと言えば、なんとU.F.Oに連れ去られてしまっていたのだとか。そもそも口裂け女という怪談に未知との遭遇が被さって話がとっちらかっているように思えてならないのだが、口裂け女を連れて来た本人がそう言う以上は信じるしかない。
ちなみに何故隼市に現れた口裂け女が、車で三時間程もかかる妖山市に居るかといえば、口裂け女が連れ去られている間に何か妙な宇宙からの土産物を持ち帰っている可能性があるとの事で、監視下に置ける場所に置いておかなければならない、と言う結論が出たからである。雲海達の意見は特に含まれずに。隼市にも陰陽師は居るのだが、この口裂け女はそもそも妖山市に現れた妖怪なのだからこっちで面倒を見ろと、要するに押し付けられたのだ。
「あの子も随分馴染んできたみたいね」
当の、口裂け女を空峰家に押し付けにやってきた少女が、訳知り顔で深々と頷いていた。
縁側に腰掛ける雲海の背後、茶の間でペットボトルのコーラを片手にくつろいでいるその少女は、香田薫。雲海のクラスメイトで、口裂け女が絡んだ事件に共に遭遇して以来、仲良くなった女の子である。
夏休み開始早々実家に帰っていた彼女なのだが、口裂け女を妖山市まで連れてくる時に、ついでにこちらに戻ってきたらしい。以来、こうしてたまに雲海の家にやってきて口裂け女の生活ぶりを眺めにくるのだ。
初めのうちは、雲海の女友達がやってくると言う珍事に空峰家の住人(父、弟、河童)は色めき立ったものだが、訪問も三回を過ぎる頃には彼女もすっかり馴染んでしまっていた。
そう。この一週間で、三回。少しハイペース過ぎやしないだろうか。
「香田さん」
Tシャツに七分丈のジーンズと言う簡素な軽装かつやたら無警戒な格好で畳に寝転がる薫は、眠そうな返事と共に身を起こした。
「こんな事を言いたくはないんだけど……君、暇なのか?」
「Yeah……」
薫は躊躇いもせずに即答した。言葉の端にユリアンから伝染した何かしらが見えた気がしたが、雲海は敢えて無視する。大柴大明神なぞ見えぬ。
今時分を生きる女子高生として、ここまで暇で良いのだろうか。貴重な高校一年の夏休みを、寝転げた思い出しかないなんて寒いものにしてしまって良いのだろうか。
雲海は発破をかけてみた。
「夏休みもあと一週間だな」
「……そうだ、宿題どうしよう?」
「僕が言いたいのはそう言う事じゃなくて……いやでも、僕もそろそろ手をつけるべきか」
振り返った雲海と薫の目が合った。どちらも、目はとても真剣である。自然と両者の頬を冷や汗が伝った。まるで剣客の睨み合いである。巌流島此処に在り。息を呑む。瞬きさえ出来ぬ、気の抜けない一瞬。膠着状態の中、先に切り込んだのは雲海の方だった。
「……どこまでやった?」
「そっちは?」
言葉の刀が切り結ばれる。激しい火花が散り、二人の決闘は鍔競り合いに持ち込まれた。互いの心にあるのは一つ。
……やってたら写させてくれ!
「公平に行こうじゃないか。せーの……」
「…………」
「言えよ」
「やってません、てへ」
「やっぱりな」
「クーちゃんは?」
「……言わなくても分かるだろ?」
「安心したわ」
「その心は?」
「同類の発見」
「神部さん辺りが聞いたらどう思うかね?」
「止めて。マジで止めて」
雲海は力無くその場に寝転んだ。その拍子に茶の間の敷居に後頭部をぶつけて、痛みに転げた。薫はそれを見下ろしながら、力無く口にコーラを運ぶ。勝者なき戦いであった。
「どうする? 今からやるの?」
「うーん……どうしようかなぁ……」
「やる気ないみたいね」
「あと一週間。まだ一週間もあるんだ」
「駄目人間ってこうやって出来ていくんだなぁ。ねぇ、クーちゃん?」
「君にそれを言う資格はない」
「だって私は今宿題持ってないしぃ?」
「僕のを手伝っても良いんだよ?」
「ははは、面白い冗談を言うのね。座布団を一枚あげたい所だわ」
ちっとも面白くなさそうに渇いた笑い声を上げた薫は、ちゃぶ台に顔を伏せ、溜め息をつく。こうしている間にも夏休みは刻一刻と確実に新学期へ向けて足音を刻んでいる。二人ともそれは重々承知だったが、だからと言って現実に立ち向かう程の気力も持ち合わせておらず、結局ずっとそんな風だからいつまで経っても宿題が終わらないのである。
「……なーんか、夏休みってあっという間。始まる前は四十日もあるって思ってたのに、もう残り一週間しかないんだもん」
「この休み中、色々あったしな。ほんと、忙しかった」
雲海は夏休み中に妖怪との戦闘で右腕を怪我したり、弟が化け猫に取り憑かれたりと言った事件。薫は口裂け女に恩師が襲撃されたり、口裂け女がU.F.Oに連れ去られたり、薫そっくりの宇宙人を目撃したり、わざわざ遠方まで白澤に謁見しに行ったりと、忙しい日々を送っていた。
どちらも密度の濃い夏期休暇であった。だが、濃いのは密度だけである。二人とも、楽しかった想い出と言うものが殆ど無い事に気がついたのは、同時に回想を終えた時だった。
「……なんか心躍る一夏の体験とかないのかい?」
「知り合いは増えたかな。口裂け女さん、ユリアン、白水ちゃん、雹裡さん。クーちゃんの方はどうだったのよ。美紀ちゃんとは?」
「別に何もないさ。たまに遊びに行くけど」
七月半ばのとある事件で命を救われたのを切っ掛けに、クラスメイトの小森美紀は雲海に猛烈なアタックを繰り返していた。雲海も小森の気持ちは何となく察してはいるのであるがしかし、応えるつもりは今の所、無いようだ。
「例えばどこに出掛けた?」
「プールとか水族館とか映画とか……」
「えー、もう完全にデートじゃん。付き合ってるみたいなもんだよ」
「いやいや、別に告白したりされたりってのもないし、そもそもいつも二人っきりって訳でもないし。デートじゃなくて、タダのお出かけだよ。勘定だって全部折半だ」
「それは普通。……え、まさか、男が全部出すもんだーとか思ってんの、クーちゃん」
「そうだけど?」
「はー……」
「なんだその変な顔は」
「別になんでも?」
「まぁ、そう言う訳だから、確かに小森さんとは出掛けてるけど、そう言う甘い感じの話じゃないよ」
「でも自然消滅の逆で、自然発生ってのもあるんじゃない?」
「キノコじゃないんだから。自然消滅も自然発生も僕は認めん。ケジメはちゃんとつけにゃならねぇ」
「じゃ、まさか告白待ち? それはちょっと格好悪い」
「待ってない。告白するつもりもない。小森さんが嫌いって訳じゃないけど……」
「なら良いじゃん。美紀ちゃんのためにもさ」
「いやいや、そうやって半端な気持ちで付き合うってのは違うだろ」
「なんかクーちゃん、考え方が全体的に古いなー……」
「古くて結構。座右の銘は温故知新だ」
雲海は少し機嫌を損ねたのか、つまらなそうに嘆息してソッポを向いてしまった。小森の話題はあまり好きでないのだろうか。薫は敢えて、更に突っ込んで聞いてみることにする。
この質問は、薫自身もなんとなく気にかかっていることでもある。
「……もしかして、他に好きな人が居るとか?」
「…………うーん」
低い声で唸る雲海。その表情は喉に引っかかった魚の小骨を無理矢理飲み込もうとしている時のようなしかめ面である。そんな険しい表情で見つめられる薫は、無意味に萎縮してしまった。
「居るっちゃぁ居る、かもしれない。……正直、よく分からない」
「なにそれ」
「恋人として付き合いたいって、あんまり思わないんだよなぁ……」
「……はぁ?」
「仲良くはしたいさ……でもそれが異性として好きって事なのかが、僕には良く分からない……」
雲海は頭を強く掻きながら、それきり何も言わなかった。薫は今の雲海の言葉が何となく記憶のどこかしらに引っかかっているように感じる。そう言えば少し前、薫が実家で事件に巻き込まれたときに雲海と電話で話したとき、大事に思っているとか何とか……。
「ところでっ!」
薫は強引に思考を切り替える為に声を大にした。このまま黙ったままでいるのは、照れ臭過ぎると言うか、恥ずかし過ぎる。少し顔が熱いので、残っていたコーラを一気に飲み下した。
「えっと……うむむ……なんだっけ……」
「なんだよ、突然叫んだかと思ったら急に悩み出して」
「……うっさいなぁ。夏バテ気味なの。あーだるいだるい」
「確かにだるそうだな。無理せず、クーラーのある家に居れば良いのに。クーラーのある家に。あー……クーラー欲しいな」
「お父さんに相談したら?」
「1、扇風機が現役。2、天心が冷房病。3、金がない。4、父さんが機械嫌い。これらの障壁を乗り越え、クーラーを手に入れるための口実として明確な答えを示せ」
「国語の問題?」
「経済と道徳の問題」
「パス」
「でも暇なんだろ?」
「暇潰しに勉強する人間って、どう思う?」
「ブッ飛んでるね。そんな人の気が知れないや」
「Q.E.D.」
「問題だと思うからダメなんだよ香田さん。これは簡単なゲームなんだよ、うん」
「……『冷房が無いと死んでしまいます』と言う」
「少々おざなりじゃないかい?」
「そこはクーちゃんの演技次第かな。それか、かわっかわのミイラみたいな状態で言えば、きっとお父さんも納得するんじゃん?」
「僕に死ねと言ってる?」
「そこはクーちゃんの生命力次第」
「僕の能力を過大評価しないでくれよ。生命力も演技力も人並みだ」
なんだこの会話は。二人が同時に思った事である。
「……香田さん、宿題は?」
「あーあーあーきこえないー」
「……ここで何をしてるって訳でもないだろ?」
「口裂け女さんの様子を見に来てる」
「今、見てないぞ」
「四六時中見られてたら口裂け女さんも疲れちゃうじゃない」
「ここまで来る方が疲れると思うけど」
「クーちゃんは私を家に入れたくないのね、悲しいなぁ、よよよ」
「そこまで言わないけど」
「だったら良いじゃない。暇人同士仲良くやろうぜクーちゃんっ」
「キリッとした表情しても締まらないぜ」
どちらも覇気がないせいだろうか。諾々と淡々と、実りの無い会話を繰り広げる二人。だがやがて、蝉の鳴き声が遠くに聞こえるのに耳を傾ける方がまだマシだとでも思ったのか、それきり何も話す事はなかった。
二人の視線はやがて縁側から表に飛び出し、こちらに向けて歩いてくる二つの人影に向けられる。深緑色の作務衣姿の天心とダッフルコートを着込む口裂け女が並び立つ様は、季節感も何もないシュールな光景であった。
「いやー、まだなんだかんだ言っても暑いねぇ。ちょっと掃除しただけでこんなに汗かいちゃっ……」
掃除を終えて縁側から茶の間に上がり込んだ天心と口裂け女は、死んだように寝転がる兄と酔いつぶれたように机に伏せる兄の女友達を見て閉口する。
「……お邪魔してます」
薫のやる気ない言葉を受けて、天心は律儀にも腰を折って頭を下げた後、栗のように丸い目をパチクリさせた。
「香田さん、もしかして夏バテですか? 顔色も悪いですし」
「そうみたいなの。最近食欲無いし、身体も重いし」
「酸っぱいものが良いって聞きますけど。あ、そうだ。余ってるキュウリの酢漬けでも食べます?」
「酢漬けかぁ……ちょっと、なぁ」
「作り過ぎちゃったんで、片付け手伝ってもらえるとありがたいです」
薫の本心としては遠慮ではなく本当に要らないのだが、天心の人への気遣いと多少の強引さがブレンドされた視線に気圧され、つい首肯してしまった。天心は「良かった」と零しながら天使のように微笑んで、口裂け女を引き連れて台所に引っ込んでいく。その跳ねる後ろ姿を眺めていた薫が、重々しい溜め息をついた。
「働き者の、良い妹さんね」
「弟だ。天心にそれを言わないでくれよ? アイツ、アレで結構気にしてるんだ」
天心が薫と知り合ったのは、薫が空峰家を訪れるようになってからなので、かれこれ一週間前となる。天心のそのとてもしなやかな女性らしいラインと、芸能人顔負けの美少女童顔のせいか、薫は未だに彼を女ではないかと疑っている。
「んんだら、なぁしてあんげいとしげなんやねぇ?」
「小さい頃に化け猫に取り憑かれて、ずっと最近まで体の中に住み着いてたらしいんだ」
「……」
「人の世に混じる妖怪ってのはいつの時代も人を惑わす為に、一際目を引くような美しい容姿をしている。アイツも化け猫のせいで半分妖怪化しててな、その影響であんなに可愛く成長しちまった。今は腕のいい陰陽師のお陰で憑衣していた妖怪も追い払ったんだけど、もう手遅れ。でも取り憑かれる前……五歳頃の写真を見る限りじゃ、まだ僕と似てるぜ。ま、元々アイツは母親似で、女の子っぽく見えるってのもあるけど」
「……なんか、ゴメン」
「ま、あんまり触れないでやってくれ」
雲海はゆっくりと身を起こして、机の上に頬杖をついた。同じタイミングで、天心が更にキュウリの酢漬けを山盛りにしてもってやってくる。ぶつ切りのキュウリの酢漬けには、楊枝が全部で五本刺さっていた。後からやってきた口裂け女が携えたお盆にも、麦茶が五つ。
薫、雲海、天心、口裂け女、あと一人は誰だろうか。
「おぉ、良い香りがしていると思ったら、やっぱり!」
縁側の外側から、渋い男の声が聞こえてきた。そちらに首を向けると、全身が蛙のように粘膜が張り付いた緑色の皮膚に包まれた男が立っているのが見えた。男は鴨居に指を引っかけて、全身から緑色の水と粘液を垂らしながら、部屋の様子を窺っていた。
雲海が憚る事無く眉間に皺を寄せて厳しく言い放った。
「利休、お前は何度言えば家に上がる時、身体を拭く事を覚えてくれるんだ?」
「五度」
「拭け、拭け、拭け、拭け、拭け。五度言ったぞ、拭けよ」
「確かに覚えた。だがその上で断る」
「貴様……」
「粘膜拭いたら痛えんだよ。勘弁してくれや、掃除係君?」
利休と呼ばれたその緑色の男は、そう言って笑いながら敷居を跨いで畳を存分に汚しながらちゃぶ台を囲む一団に加わった。
頭には骨が剥き出しになったかのような白い皿が見える。何を隠そう、この男は、妖怪河童である。今年の七月から空峰家に居候をしている河童であり、キュウリの臭いに引かれて呼んでも居ないのにやってきたのだ。今までキュウリに目を奪われていたせいか、利休は座り込んでからようやく自分の左隣側にいる人物に挨拶をした。
「おぉ、薫ちゃん! 久しぶりじゃねぇか!」
そう言って利休が挨拶をした薫は、いつの間にやら口裂け女の背後に隠れている。腕は胸のあたりを隠していて、目は本気で怯えているのか、少し潤んでいる。
「……スゲェ嫌われようだねぇ。俺様、なんか興奮してきたぞ」
「お前、彼女に色々やらかしただろ。プールでお前を見つけた時に。殴られて喜んだり、尻触ったり胸触ったり」
「性癖にとやかく言うのは止めろ。触ったのはむしろ助ける為だ。文句言うなぃ」
「お前の性癖で傷ついている人が居るんだから、文句も言いたくなる」
「そもそも胸なんて触った覚えはねーぞ、俺様は」
雲海の周りの空気の温度が一瞬にして低下した。残念ながら、彼には利休が嘘を言っていない事が分かっていたからだ。なぜなら胸を触ったのは……。
「薫ちゃんの勘違いじゃねーのか?」
「でも、私の、その…………手の痕がハッキリと」
「そ、それよりも!」
薫の言葉を遮りながら激しく咳払いをした雲海は目を泳がせた挙げ句、天心に視線を注いだ。
「そう言えば、天心。お前、夏休み中に何か想い出らしい想い出は出来たか?」
致命的なまでに話の逸らし方がヘタクソだったが、それだけで雲海を責める理由にもならず、全員が黙って天心に視線を向けた。いきなり注目を浴びて驚いた天心は、少し首を窄めて身を縮めた。
「え、そ、そうだなぁ……。今となったら、化け猫事件は良い想い出……かな」
「そういや昨日も夜恵さんの家に遊びに行ってたよな、お前。朝早く出てって、帰りは夕方過ぎ。お陰で最近ずっとコンビニ飯なんだよ、僕達は。……お前、一体何してんだ?」
夜恵、というのは天心に取り憑いていた化け猫を追い払った陰陽師である。
性格には少々エキセントリックな部分があり、雰囲気もかなり人間離れしているのだが、相当の手練で、二十歳そこそこの齢にして既に一人前の陰陽師として占いや加持祈祷、妖怪調伏に至るまで手広くやっている。彼女に助けられて以来、天心は随分と懐いてしまったらしく、ここ最近は暇さえ見つければ片道一時間近くかけて彼女の家まで遊びに行っている。
雲海もそれを咎めるつもりなど勿論ないのだが、まるで恋人との逢瀬を楽しみにするかのような浮かれ気分の天心を見ていて、気にならないわけがない。
「遊ぶってよりは、ご飯作ってあげに行ってる。お姉ちゃん、全然料理しないって言うし」
「…………」
「あ、あれ? どうしたの、みんな」
「お姉ちゃん?」
「はっ……!」
天心は慌てて口を押さえるが、飛び出た言葉はもう戻らない。全員から好奇の目を向けられて、天心はあっという間に顔を真っ赤に染め上げた。雲海が、目を丸くしながら天心に指を突きつけた。指先は面白いように震えている。
「お前、まさか……夜恵さんの事、お姉ちゃんなんて呼んでんのか?」
「あ、あわわ、ち、違うんだよお兄ちゃん」
分かりやすいくらいに目を泳がせて、天心は言い訳をする。
「これはその、お姉ちゃ、じゃなくって夜恵さんとの約束事みたいなもんで、家に遊びに行った時はそう呼ぶようにって言われてて」
「なぁ天心、兄ちゃんの目を見てな、正直に話してくれ。……夜恵さんに変な事されたりしてないだろうな?」
雲海は恐る恐る、尋ねた。夜恵は弟の命の恩人である。だから感謝しているが、それとこれとは話が別だ。天心は息を呑んで、ゆっくりと顔を俯けていき、首まで真っ赤になった。終いには湯気が上がってしまいそうな程だ。
「その……色々、服とか着せられたり」
「……どんな?」
「ナースとか、婦警さんとか、シスター服とか……は、裸、エプロンとか」
「っかー、んな服持ってるなんてどんだけ変態なんだよ」
利休にまで言われている。しかし、夜恵が変態である事に疑いを抱く者は、この場には誰も居なかった。
「なるほど……そうか、そうか」
雲海は腕を組んで深々と二回頷いてから、血走ったその双眸を全開にした。
「あんのゲス野郎おおおぉぉっ!」
空峰家の居間が、雲海の咆哮に震える。
今にも部屋を飛び出しかねない彼の腰に、天心が縋り付く。薫も口裂け女も利休も、全員が呆然と雲海と天心を眺めていた。今まで雲海がここまでいきり立った事はない。普段穏やかな雲海は、余程の事がなければ怒りを露にすることもない。だと言うのにここまでブチ切れると言う事はつまり、余程の事なのだ。
「離せ天心! 兄ちゃんは行かなきゃならねぇとこがあるんでぃ! 人の弟を玩具にする変態はとっちめてやらにゃならねぇ!」
「止めてよ! 僕、構わないから! 最初の方は興味なかったけど、案外やってみると楽しかったりして、僕も最近は自分から」
天心の今にも泣きそうな顔をみて、雲海はますます夜恵への怒りを募らせる。
「うるへー! 弟のコスプレ趣味なんて聞きたかねぇやっ!」
「ク、クーちゃん落ち着いて。ほら、そう言う……エッチな事って、やっぱり当人同士が了承してればそれで良いと思うし……」
「頬染めて何言ってんだこの耳年増ぁ! いくら天心でもそこまではいってないだろ!」
「…………」
「……あれ? そ、そこまでは、いって、ないよな、天心?」
「…………」
「否定しろやああぁぁ!」
天心を腰に引き摺って、雲海は足を止めない。結局、その場に居た全員が雲海の身体に飛びついて、それでようやく彼の歩みは停止したのだった。