1−6 責め立てる記者
その日の放課後。薫は一人、教室の机に顎を乗せて、唸りを上げていた。結局午後の授業にも遅れて、彼女は一日で二回も遅刻するという大失態を演じてしまった。それが原因でついさっきもう一度担任に絞られた上に、今後はしばらく目をつけられるに違いなかった。始まったばかりなのに、もう既に新しい学生生活に暗雲が立ちこめている。一体何がどうしてこうまで不運に見舞われるのか、と薫は自分の物覚えの悪さを棚に上げて鞄に真新しい教科書とノートを詰めて席を立った時、背中から声がかかる。
「香田さん、ちょっと良いかな?」
「えっと……私?」
振り返った先では六人程の同級生の女子たちが目を輝かせていた。今日一日注目されっぱなしだった薫だが、直線的な彼女らの視線を浴びて思わず方を竦めてしまった。
「他に香田は居ないって」
「まぁまぁ、座って座って」
今朝の遅刻と午後の遅刻。何もない所でこけるドジっぷり。まるで芸人のように笑わせてくれる薫に興味を抱いたらしい彼女達は、薫の肩を押して再び席に座らせる。
「香田さんって、どこ出身?」
「部活とかどうするの?」
「転校ってやっぱ、親の都合かなんか?」
「今日、なんで遅刻してきたの?」
「彼氏は!? 彼氏はいるの!?」
無秩序に、四方八方から飛んでくる質問。どれかに答えようとすると、別の質問が耳に飛んで来て、そちらの答えを考えてしまう。
聖徳太子でもなんでもない薫は、徐々に目を回し始めていた。そうこうしているうちに質問はますます項目を増していくばかりで、収束する気配がない。
「みんな、ちょっと待ちな! ここは私に任せてもらおう!」
薫が混乱していると、一際大きな声が薫と女子達の間を切り裂いた。薫の周りに出来た人の垣を割って、新聞部員の相川真見が薫の前に仁王立ちする。周りが静まったのを確認し、相川は胸ポケットからメモ帳を取り出し、聞いても居ないのに自己紹介を始めた。
「初めまして。杵高新聞部所属、一年五組の相川真見です」
「は、初めまして」
「さて、皆気になるのは分かるけど、いっぺんに聞いたら香田さんも困っちゃうわ。
そこで、私が代表として最初に質問する。いいね?」
有無を言わさぬ相川の言動に、周りの女生徒達は口々に不満を漏らした。
「ズルいです、それ。私だって聞きたい事あるのに」
「サカちゃん、それは違うなぁ。質問が被るのって無駄じゃない?
だからこうして質問会形式にする事で、より洗練された情報を皆の耳に」
「長ぇよ、真見。さっさとしてくれ」
「ええぃ、うるさいっつの。言われなくてもやるってば」
相川はクラスの女子群のリーダー的な存在であるようで、周りの女生徒達からも文句は出たが異論や反論はなかった。薫もいつの間にか相川からの質問に答えることになっており、拒否するつもりも無いが、それ以上に到底出来そうにない。
「……で、香田さん。皆聞きたい事があるんだけど、答えてくれるかな?
ちなみに、新聞部としての取材も兼ねちゃうからもしかしたら学校新聞に載るかもだけどそれでも良い?」
「え、は、はい」
矢継ぎ早に畳み掛けてくる相川に押され、薫は一も二もなく頷いた。ここで断る意味もメリットは全く無かった。むしろクラスメイトと仲良くなる絶好の機会であり、それを活かさぬ手はない。薫は素直に相川の次の言葉を待つ。既に帰宅した雲海の席に座る相川は、敬語で早口で質問を繰り出す。
「じゃ、早速ですが……出身は?」
「大憑市の山田村って場所なんだけど……分かるかな?」
「それ、ウチの県?そんなとこあったっけ?」
「……んー、聞いた事はあるよ。県境の山奥の村でしょ?」
「アタシのジイさんの家がそっちの方にあるわ!」
「もうすぐ谷潟市に吸収されるって聞いたけど」
周りの女子は三者三様に声を上げる。相川は黙ってメモ帳にペンを走らせていた。「どうやら生粋の田舎娘らしい。なるほど、確かに中学生みたいな柔らかい空気が滲んでるのが分かる」そうメモに記してから、相川は顔を上げる。
「それで次は……転校してきた理由は? 親の急な転勤とか?」
「実家は農家なんだ。だから理由は別にあって……」
何故か言い淀む薫。しかしどこに顔を背けようと、そこには興味津々の同級生が居る訳で。どうやらどんな質問でも答える必要はあるらしい。
「信じられるかどうか分かんないけど……山田村にも高校はあったの。
でも、ほんの少し前に校舎が壊れちゃった」
「……ん?」
「校舎が壊れたって……?」
「色々あって壊しちゃ……壊れちゃったの。
今は瓦礫の山みたくなった」
何故か途中で言い換えた薫の言葉を気にする人間はこの場には居なかった。それもその筈。なんせ彼女は高校の校舎と言う巨大な建造物が瓦礫と化した等と大それた事をほざくのだ。もし人が中に居る状態だったら、と思うと背筋が凍り付く思いである。仮に高校の校舎が崩れる程の大地震が起こったのであれば当然大ニュースだが、そんな地震速報は流れていないし、そもそも校舎が崩壊した等と言うニュースはお茶の間に提供されてすらいなかった。全員が流石に嘘だろうと思うが、そんな嘘をつく意味が全く見当たらず、どう反応していいか分からない。誰も何も言わない中で、相川だけは淡々と彼女の弁を書き写していた。
「それは大変でしたね……」
その一言で済ませる相川に愕然とした周りの目が当然のように向くが、相川は大して気にした風もなくメモ書きを続ける。今は崩壊の憂き目にあった山田村の高校校舎について質問する意味はない。飽くまでも香田薫の人となりを知る為の取材である。相川は初志貫徹すべく、質問を続ける。
「さてと……今日遅刻したのって、道に迷ったのが原因と言う噂ですが」
「うん。ちょっと油断するとすぐに自分の場所が分からなくなっちゃって」
「……なるほど。要するに、方向音痴だと」
「そう言う自覚はないんだけどなぁ」
「自覚無しの方向音痴と言う厄介な性分」と記す。相川のメモ帳に、肯定的な言葉はあまり書かれない。
「部活は何かやってました?」
「中学校も高校も、生徒は全部で七人しか居なかったんだ。だから、特別何も」
「そう……あ、ちなみに私は新聞部ね。興味あったら是非来てね」
「あ、真見ズルい! ソフトボール部もお願いね!」
「いや、文芸部なんかどうかな?」
「軽音楽部は南校舎の三階でやってるから、一度見学に来てみなよ!」
部員不足の部に所属する彼女らは、切実に部員を欲していた。肉迫する彼女らの剣幕に縮こまる薫は、壊れた玩具の用に何度も頷きを返した。「部活経験なし」と手帳に書き込んだ相川は、殺到する女生徒を制する。
「はいはいみんなー、香田さん困ってるよー。
……さて、今日半日ここで過ごして、どう? 杵柄高校は」
「広いのがちょっと……でも、前のところより綺麗だよ。初めての都会で不安だったけど、みんな良い人だし」
屈託なくそう微笑む薫。褒められて気を良くした全員が頬を緩める。「何となく母性本能をくすぐる少女」。相川の手帳に初めて肯定的意見が書かれた。
「高校でやりたい事は何かありますか?」
「んー……友達を沢山作りたいです。
山田村はあんまり同年代の人も居なかったし」
「そうですか。……うん。仲良くやってこ、香田さん」
「あ、あたしも」
「私もよろしく」
周りの少女も相川に乗っかる。気の良い人達ばっかりで良かった、と薫は嬉しくなって満面の笑みを浮かべる。薫の屈託の無い笑顔に、相川初め女子一同が一様に目を糸のように細めた。
「……ま、私が聞きたいのはこんなトコかな。
他に聞きたい事ある人はぁ?」
「彼氏! 彼氏はいるの!?」
何故か彼氏の有無を問うのに必死な女生徒を中心に、笑いが起こる。良い雰囲気である、と感じた薫は、慣れぬ環境に光明を見出せた事に少しだけ安堵した。
「さてと……今ここで話してるって事は、皆部活もバイトもオフなんだよね?
折角だし、これから親睦会って事でちょっと遊び行かない?」
相川が鶴の一声を発する。
「アタシはOK」
「私も」
「私はちょっと……用事があります。ごめんなさい」
「彼氏持ちは羨ましいねぇ。あ、あたしも行くわ」
各々返事をしていく同級生達。今は四時過ぎであるが、どこに遊びにいくかによってはそこそこ遅い時間になるかもしれない。また道に迷ったら困る薫なのだが、知り合ったばかりの彼らと仲良くなれる好機である。折角誘ってもらってるなら、行った方が良いに決まっている。薫は逡巡した後に「私も行く」と言いかけた時、眼鏡を掛けた一人の女生徒が静かに言う。
「私は止めとく。……最近、この辺も物騒になったし」
「物騒って……口裂け女の話?」
それに一人が反応を返すと、せきを切ったように、周りの女生徒も次々と会話に参加していく。
「あんなのただの噂話じゃん。誰かが死んだ訳でもないし」
「でも、被害者の人って未だに入院してるんでしょ?」
「うんうん、知ってる。精神科だってさ」
「前に先輩が話してたんだけど、その被害者の人、口裂け女につきまとわれてるって脅えてるんだってさ。
毎日御免なさい、御免なさいってずっとブツブツ呟いてるんだって。
夜になると首に、まるで女の手の痕みたいな痣が浮かび上がってさぁ」
「や、止めてよ気色悪い」
薫を置き去りにして、会話を繰り広げていく周り。事情を聞きそびれてしまった。幸い正面の相川はその話を退屈そうに聞いていたので、彼女に窺いを立てる。流石に新聞部だけあってそうした世間の最新情報は耳に入れているらしく、簡単な事情を説明してくれた。
「……つい一週間くらい前なんだけどね。口裂け女……って知ってる?」
「くちさけおんな?」
「そう。もう随分前……私らが生まれる前に世間で話題になった、いわゆる都市伝説?
マスクをした若い女が、道行く人に『わたし、きれい?』って聞いてくるのよ。
それできれいですって答えると、マスクを外すのね。
女は口が耳まで裂けている化け物みたいな顔をしてるわけ。
でもってそれを怖がると包丁で斬り殺される……っていう話」
「……初めて聞いた」
「だろうね。それが先週出たんだってさ、この町で」
胸ポケットに忍ばせていた手帳を捲りながら、相川は事務的で早口にメモを読み上げる。
「被害者は26歳の女性。場所は駅南の国道を横断する地下歩道。時刻は深夜零時過ぎ。
通報者も被害者本人。口裂け女に襲われた、の一点張りだったらしいわ。
しかし発見当時、彼女には外傷は一切無かった。
彼女はプライベートでも失恋したばかりで、会社もクビになり、失意のどん底にいた上に泥酔していた。
目撃者も他におらず、精神錯乱による幻覚を見たのだとして、警察も彼女を全く相手にしなかったのね。
で、前々から彼女は軽い鬱病にかかっていたらしく今回の警察沙汰もあり、知人の勧めで精神科に入院。
現在も療養中……と、そんなとこか」
キョトンとしている薫をよそに、長々と解説を終えた相川は溜め息をついた。
「……凄く詳しいね」
「色々調べたもん。警察の知り合いがいるしね。酒飲ませて吐かせた。
あ、この場合の吐かせたってのはゲロじゃなくって情報ね」
あっけらかんととんでもない事を言ってのける相川。薫は反応に困って、曖昧に愛想笑いを返してやった。
「……お酒って、相川さん、未成年でしょ?」
「ウチが食堂なんだ。『興龍』って言う、中華料理屋。
夜はビールも出してて、最近よく来る客にその警官も居てさ。
ちょいと乗せてやったら調子づいてぺらぺら喋ったよ。
日本の警察が心配になったね、私は……っと、それはどうでも良いや。
結局そこまでやっても、大した成果は無し。
実は私もちょっと期待してたけど、どんだけ調べても裏付けのある情報は一切出なくてね。
掘り進めようもない、単なる噂話の域を出ない与太話よ。
記事に出来りゃ面白かったんだけどねぇ」
その口裂け女の話題で会話で盛り上がっている女子たちを、冷めた目で見やる相川。新聞部としては無理にでも世論にのっからなくていいのだろうか。薫がそう尋ねると、相川は面倒そうに口を開く。
「そんなオカルト染みた新聞書きたくないもん。
第一、新聞に嘘書くなんて、有り得なくない?」
「そう、だね」
彼女なりに新聞にはポリシーがあるのだろう。薫は唇を噛んで苛立つ相川に、それ以上何かを言う事はなかった。
「……あぁもう! みんな、下らない話してないでさ!
遊びに行くなら行く、帰るなら帰る! どうするの!?」
相川の声は良く響いた。教室全体を鋭く震わせる彼女の高い声に、周りのざわめきが止む。彼女らも相川の苛立ちは原因含め知っているらしく、ばつの悪そうに互いの顔を見合わせた。
「……ごめんごめん、行く行く」
「時間もあんまりないし、早く行こうか。香田さんは?」
「あ、わ、私も行く!」
各人自分の鞄を担いで、廊下に出ていく。取り残されそうになった薫は、慌てて鞄を手にその集団の背中を追った。口裂け女と言う、降って湧いた時代錯誤の怪談が若干気がかりではあったが、薫はそれを忘れるように努めた。
「……大丈夫だよね」
何故か拭い切れぬ不安は残ったものの、薫は頭を振って、こべりついた懸念を振り払った。