7−13 帰還せし妖怪
「いやああああぁぁぁぁ!」
牛舎の中、少女の甲高い泣き声が木霊する。その場で薫を見守っていたユリアンと雹裡が肩を跳ねさせた。慌ててユリアンがチョークを構え、雹裡が手刀を構え、視線を薫が触っているくだんに注ぐ。くだんは未だに目を瞑った安らかな表情をしている。魔法陣が掻き消された様子も無い。くだんが目を覚まして薫に襲いかかった訳では無いようだ。
ならばと薫の方に視線を注ぐ。
「……Hey、カオル?」
薫は魂を抜かれたような惚けた無表情で、ボロボロと大粒の涙を流していた。その目がやがてユリアンを捕らえると、薫は飛び上がってユリアンの胸倉を掴んだ。
「ユリアン!」
「Oh、Oh、そんなに叫ばんでもええで」
「クーちゃんが! クーチャンがぁ!」
「まぁまぁ、落ち着いて下さい香田さん」
雹裡が薫の首根っこを掴んで、軽々と持ち上げた。薫は手足を振り回して暴れるので、雹裡は薫の頭を中指を尖らせた歪な握り拳で思い切り叩いた。
ゴツン。良い音がした。
「いたっ」
「香田さん、大丈夫です。何を見たのかは知りませんが、それは現実の事ではありませんから」
「でもっ! でもクーちゃんが!」
「とにかく一度落ち着きなさい。息を吸って……そう、そして、吐いて……大丈夫ですか?」
「…………うん」
「よろしい」
雹裡はそう言いながら、薫の体を下ろしてやる。
「それで口裂け女の件で、何か見えましたかね?」
「それなんだけど……」
薫は、くだんと精神感応を繋いで、口裂け女が今後どんな運命を辿るのかを探っていた筈だった。しかし……と、薫は今しがた覗き見ていたくだんの脳内の光景を思い出す。
黒い塊のような化け物。それに追いかけられる雲海。そして雲海は……最期には命を絶った。自分で、その命を終わらせた。
あの光景のどこに口裂け女がいたのだろうか。思い出してみても、雲海と化け物にばかり気を取られていた。もしかしてあの場のどこかに口裂け女がいたのだろうか。もう一度、くだんの意識の中に潜り込むしかない。
「……良く分からなかった」
「そうですか……ならば、もう一度」
「待って」
薫は雹裡の言葉を遮る。もう一度、同じ事を繰り返す。それは即ち、もう一度雲海の非業な死に際を、見なければならないかもしれない、と言う事。
「ごめん……待って」
薫は体を震わせている。あの光景を思い出したくない。もう二度とあんな酷い場面を見たくない。薫の肩に、雹裡の手が乗った。
「……余程、怖い未来を垣間見てしまったようですね」
薫は小さく首肯する。
「くだんの命にも、まだ猶予はある。今日は、帰って休みましょうか」
「……ごめんなさい」
「何も謝らなくても……あぁ、そうだ。くだんの牛乳鉄砲が擦ったでしょう? 髪が切れてしまっていますね。もし宜しければ、私が整えますが。これでも白水の髪を月一で切っているので、腕には自信がありますよ」
努めて明るく発せられた雹裡の言葉は、薫が今まで聞いてきた彼の言葉の中で、一番優しい声色をしていた。
*
翌、八月十二日。午前二時。
薫は未だに眠れずに、布団の中で何度も寝返りを打った。昼食も夕飯が喉を通らなかった。今までそんな事は一度もなかったが、何も食べる気にはなれなかった。今日は朝も早かったし、白水の入院騒ぎやくだんとの命のやり取りなど、密度の濃い一日を過ごしてきた身体の方は、すっかり疲弊している。
なのに眠れない。
目が冴えてしまって、薫は天井の木目をただ眺めていた。頭の中で考えるのは、くだんの脳内に精神感応を利用して意識を送り込んだ時に見てしまった、悪夢のような出来事。雪の山中。雲海が謎の黒い化け物に追いかけられ、最期には自殺してしまった。自分の身体を松明と化して。
あの光景が意味する所が薫には良く分からない。
くだんは、未来の凶事を予言する妖怪だ。それは即ち、未来に起こる出来事をある程度以上に把握していると言う事である。薫が見たその光景は、近い将来形になるかもしれないのだ。雲海が死ぬ。そんな最悪な事が。だが薫は、もっと恐ろしい事が起こる事を確信していた。
あの化け物が死んだ訳では無い。
あのおぞましい黒い塊は、死んだ雲海には一切興味を示す事もなくその場から消え去ってしまった。まだ、何かやるのだ。恐ろしい何かを。きっと、くだんが人類に大きな被害を与える凶事として予言する程度の事を。一体何をするつもりだったのだろうか。精神感応を使い続ければ、その先の未来も見る事が出来ただろうが、到底そんなつもりにはなれなかった。
薫はこの世の行く末を見たかった訳では無い。口裂け女が今後どんな運命を辿るのかを探っていただけなのだ。なのに、どうして雲海の残酷な未来が見えてしまったのか。それも、薫には分からない。
「……誰かを喰った、って言ってたっけ」
利休と夜恵さん。雲海はそう言っていた。利休とは、薫が六月の頭に出会った妖怪であり、学校のプールに息を潜めて住んでいた河童だ。今は空峰家に居候している。夜恵さん、と言う名前はどこかで聞いた気もするのだが、薫には咄嗟に思い出せなかった。
「その二人も、危ない……って事なのかな」
だとしたら、忠告した方が良いのだろう。最優先では無いとしても。まだ何も目的は果たしていない。口裂け女を救う手だてを求めてきたのに、このまま別の土産を持ち帰る、と言う訳にも行かない。
「もう一回。明日、頑張るしかないか……」
薫は心の決意を固めて強く眼を閉じるが、それで眠れたら彼女は苦労しない。
「喉、渇いた……」
標高がそこそこ高い山中と言う事もあり、薫の実家近辺よりは涼しいのだが、それでも夏の夜と言うものは寝苦しいものだ。少し汗ばんでしまったし、その分だけ喉も渇いた。薫は体を起こして、立ち上がろうとし、体を硬直させた。
ぎしぎし。
うぐいす張りの廊下から、木が軋む音が聞こえてきた気がした。
「…………」
薫は恐る恐る、障子戸に目を向ける。月明かりが淡く障子を照らしている。そこには、黒いシルエットを浮かび上がっていた。見上げる程の、真っ黒くて大きな、人影のような何かが。
「誰……?」
シルエットは、まるで蟻塚のように動かずにただただそこに居続ける。
人だろうか。人に違いない。額からにわかに吹き出した汗は、うだるような蒸し暑さとは無関係な冷や汗だ。頬を水滴が伝っていく気配が不快だった。
「…………ユリアン?」
震える声を必死で発した。シルエットの正体がユリアンならば良い。それが一番だ。雹裡の可能性もある。それでも構わない。霧濁は大穴だ。
有り得ないとは思うけれど、夜這いでもかけにきたのなら盛大にぶっ飛ばしてやる気概だ。だったら何故入ってこない。私が起きたからか。それなら何故誤魔化さない。
まさか、泥棒?
薫は立ち上がった。普通の女子高生だったら、寝床に侵入者が現れた場合、叫ぶ等して助けを求めそうな物だが、彼女は普通の女子高生ではない。超能力者は怖じ気づかない。
「いい加減にしなさい!」
薫が腕を突き出すと、障子は自動ドアのように独りでに観音開きをする。
夜の涼しい風が勢いよく吹き込んできた。そして、月下の元に佇んでいたのは、薫にとっては見覚えのある人物にして、あまりにも意外な人物だった。
「え……え?」
薫は目が点になる自分の間抜け面を自覚した。
見覚えのある脂ぎった髪が月光をギラギラと反射させる。見覚えのある落ち窪んだ目は、薫との再会に喜色を浮かばせていた。見覚えのある顔を覆う大きなマスクは、相変わらず彼女の顔の七割近くを隠してしまっている。そして、見覚えのある血のような深紅のダッフルコートは、一番上の釦がむしり取られていた。
「…………」
紛れもなく、つい先日U.F.Oに連れ去られた薫の友人にして妖怪の、口裂け女である。
「口裂け女さん……なの?」
薫の目の前に立つ口裂け女は、緩慢な動作で足を動かして、薫の前に立った。ゆっくりと右手を差し出す。薫は、求められるまま握手を返した。口裂け女のマスクの向こう側が動く。笑っているのだろう。
「……本物? どうして……どうやって?」
薫が尋ねると、口裂け女は何も言わずに、障子の外に振り返った。
首が少し空を見ている。
もしかして、口裂け女を連れ去ったU.F.Oが戻ってきたのだろうか?
だとしたら、聞かなければならない事が山程ある。
薫そっくりの宇宙人の存在。口裂け女を連れ去った理由。連れて来た理由もある。裸足で枯山水の庭に飛び出した薫は、天を仰いだ。必死で視線を走らせてみるが、空には月と夏の星座が広がるばかり。U.F.Oらしき何かはどこにも見当たらない。
首を振り回す薫の方に口裂け女が手を乗せた。
「……気にするなって事?」
口裂け女が軽く首肯する。
「いやでも……大丈夫だったの? 何かされたりとかは?」
首は横に振られた。否定。
「本当に?」
首肯。肯定。本人がこう言っているのだから、良いのだろうか。
「……ちょっと、待っててね。みんなを起こしてくる」
薫は走り出す。雪町家の明かりが再び灯るまで、ほんの数分とかかからなかった。