7−12 雲海の最期
薫が目を開いて一番最初に見た光景は、一面の銀世界だった。周りには背の高い杉とブナの林。鬱蒼と茂っている木々の葉に隠されて、空模様は余り窺えない。
膝の上まで埋まる程の深い雪の中で、ホットパンツ姿の薫は呆然と立ち尽くしていた。不思議と足が冷たくないのは所詮はイメージの世界だからだろうか。
何しろ、ここがくだんの脳内なのだ。
「……何、ここ」
本来の季節は夏であり、くだんが産まれたのも夏。くだんの頭の中に冬の記憶がある筈は無い。普通ならば。となるとここは、やはりくだんが予言すると言う未来の光景だろうか。
未来の……凶事の光景だろうか。
「一先ず、ここがどこなのか」
確かめないと、と続ける薫の言葉を、爆裂音が遮った。薫は後ろを振り返る。
何の音だ、と駆け出そうとするのだが、もう一度、激しい爆音。更に爆発、また爆発。花火大会でも行なわれているのかと思うような爆裂音の連打に、薫は首を振り回して周りを見やる。
音はすぐ近くだった。また爆発音。先程よりも音が大きい。空気の痺れが伝わってくるようだった。皮膚が痒くなる。木々の枝葉に積もっていた雪が、音を立てて落下した。
「近付いてきてる……」
蛇の鳴き声のような風を切る音が、二つ。
脇目も振らずに、木々の隙間を縫いながら、徐々に薫の方に近付いている。
身の危機を感じた薫が走り出そうとした瞬間。
薫の足元が爆ぜる。鼓膜を破壊しかねない轟音と共に激しい青い火柱が巻き起こり、薫の体を包み込んだ。
「うおわぁ! ……って、あれ」
これは現実に起きている出来事ではない。飽くまでもくだんの脳内である。火柱から這い出た薫は、一体何が起こっているのかが全く分からないまま、再び雪原に顔を出す。
遠くの方に、誰かが居た。
膝まで埋まる雪原に、足跡も残さずに、まるで空を飛ぶように駆け抜ける男がいた。その男は坊主頭で、縹色の袈裟に身を包んでいて、額に汗を浮かべながら、しきりに背後を気にしている。
雲海だ。
空峰雲海が、走っていた。何故、雲海が。薫は思わず声をかけようと、駆け出した。
「クーちゃ」
薫の言葉を遮るように、薫の脇を何かが物凄い速度で走り抜けていった。
それは巨大な、何か黒い塊だった。その黒い塊には、蜘蛛のような細い手足が無数に生えて、ゴキブリのように素早くその手足を動かしている。その塊の化け物は、時折甲高い奇声を上げながら、雪を荒々しく押しのけつつ必死に這いずり回っている。
雲海は、それから逃げているようだった。
追いつかれるまで、間もない。
「くそっ……! 爆ぜよ!」
雲海が振り返って、叫びながら護符を黒い塊に向けて投げつける。先程から何度も聞いた爆裂音。青い火柱が黒い塊を包み込むが、その走る速度は少しも減衰していない。
「こんなのアリかよ!」
雲海の泣きそうな悲痛な叫びも虚しく、黒い塊から伸びた腕が雲海の首根っこを捕らえ、地面に叩き付けた。薫は咄嗟に念動力を使おうとするが、力が入らない。
以前にも同じ状況を味わった事がある。ユリアンが土地の記憶を再現した時と同じだ。超能力で触る事が出来ない。これは現実に起きている事じゃないのだから。
薫は、苦痛に歪む雲海の顔をただ見る事しか出来なかった。
首を掴まれた雲海は、眉を顰めながら化け物を睨みつけた。
「お前……」
雲海の言葉が幽かに薫の耳に届く。
「信じてたのに……僕は、お前を!」
「…………」
「利休を喰って、夜恵さんを喰って……次は僕で、その次は薫ちゃんか?」
雲海が何を言っているのか、薫には半分も分からない。黒い塊に裂け目が出来、巨大な蛇のような舌が雲海の体に巻き付く。
「ごめんな、薫ちゃん……。……何とか逃げてくれよ」
雲海の手には、霊符が握られている。薫は、雲海の横顔を盗み見る。空を見上げて、ゆっくりと目を瞑る。冷や汗が、薄く開かれた震える唇に伝っていった。
泣いているような声だった。
「残念だったな、この下衆野郎。ボクはお前には食われてやらん。この鬼ごっこは単なる徒労だったようだな!」
符を握りしめた片腕を高々と天に突き上げた雲海は、無理矢理作ったような不敵な笑みを浮かべていた。
「燃えろっ!」
まさに、文字通り。
化け物に拘束されている雲海の体全体が、吹き上がった青い炎に包まれた。化け物が舌を焼かれ、慌てて雲海の体を雪原に放り投げる。
雲海の体は生々しく原型を留めたまま、薫の足元のすぐ近くに大の字に転がる。火の勢いは止まらない。雲海の体が、灰燼と化していく。もがきすらせず、ただただ山火事に燃え盛る倒木のように、雲海の身体は全く動かない。
「……なん、なのよ、これは……」
気づかないうちに、薫は尻餅をついていた。
炭の人形と化していく雲海を、化け物は見限ったらしく、来た道を再び戻っていく。燃え上がる雲海の体と、目の前で起きた事が全く信じられない薫だけがそこに居た。
我に返った薫は、咄嗟に雪をかけようと、足元の雪原に手を突っ込むが、雪は手をすり抜けるばかり。熱さを感じないのならば、と雲海の体を抱き起こそうとするが、やはり手は何も掴めない。掴めない。何度やっても掴めない。
雲海が燃えていく。
雲海が死んでいく。
クーちゃんが死ぬ。死んでしまう。
薫の瞳の真ん中に、白い雪原に音も立てずに上がる青い穏やかな火の手が揺らめく。美しくさえ見えてしまった。まるで、この世の物とは思えない程。この世に存在すべきではない光景だと思ってしまう程。
「嘘でしょ……」
火の手が小さくなっていく。やがては風に吹かれて、消火される。
薫の足元に、大きな灰の山が転がっていた。
それは、何も言われなければ、焚き火の跡にしか見えなかっただろう。これが、こんな灰の塊が、あのクーちゃんだと言うのだろうか。
転校初日から盛大な事件に巻き込まれ、以来ずっと仲良くしてくれた、あの優しい男の子だったものだと言うのだろうか。私の事をとっても大切に思っていると言ってくれた男の子だったものだと言うのだろうか。
あの人は、未来にこんな最期を迎えなければならないのだろうか。
こんな未来が、本当に訪れるというのだろうか。
「ねぇ……嘘でしょ? こんな……なんなのよ、これは……」
灰を手ですくおうとするが、やはり掴む事は叶わない。一陣、強い風が吹き、雲海の成れの果てを、風に乗せて飛ばしていく。
死んだ。
「いやよ……」
雲海が死んでしまった。
「いや……」
優しい友達。
頼れる相棒。
それなのに、死んでしまった。
手を伸ばしても届かない。灰は、空高くへ。薄暗い冬の曇天に向けて、高く、高く、どこまでも。
薫の手が、届かない所へ。
「いや……いやああああぁぁぁぁ!」