7−11 吹き出される牛乳
薫、ユリアン、雹裡の三人が再び老夫婦の元を訪ね、牛舎に訪れたのは、午前十一時。日が昇り、蝉の鳴き声が五月蝿い盛りの時間帯であった。
牧草地の中心に佇む木造の牛舎は、とても閑散としていた。Keep Outの黄色いテープが張り巡らされているその様相は、さながら殺害現場だ。剣呑な雰囲気と言う点では間違っていない。あの牛舎は、薫には化け物が住まう魔窟のように思えてならない。時折脳裏にフラッシュバックするくだんの不気味な姿を思い出すと、到底今日の昼飯は喉を通らないだろう。そんな確信だけはあった。
「ユリアン、お前の役目は分かるな」
演技直前のマジシャンのように指をほぐしながら、雹裡は真剣な声で問う。ユリアンは少し疲労が残っているのだろう、大柄な身体の肩が落ちていつもよりは小さく見えたが、顔は精悍さを取り戻していた。指の間には赤、青、黄色の様々な彩りのチョークを挟んでおり、それを時折ボールペンのようにクルクルと回してみせた。調子そのものが悪いわけではなさそうだ。
「我々はくだんを抑える。その隙にカオルが、全身全霊を込めて精神感応でくだんのBrainの中を覗き込む」
「そうだ。荒っぽい事になるが、この際贅沢は言ってられねぇ。香田さん、準備はOKですか?」
「うん。いつでも大丈夫だよ」
ポケットの中に手を突っ込むと、そこにはダッフルコートの釦が入っている。口裂け女が残していった、魂の欠片にして、薫との友情の証。それを強く握りしめると、少しだけ勇気が湧いてきた。
大丈夫。助けられないなんて事はない。未来に口裂け女や薫の身に起こる事をあらかじめ知っておけば、それは口裂け女を助ける為の指標になる。白澤には無理だと言われたけれど、それがどうした。やらなきゃ分からない事は、やってみるまで結果は決まらない。出来る事は全部やる。そう決めたのだ。
「ほぅほぅ、カオルも本気出してきたねぇ」
意気込む薫を茶化すように軽い調子でそう言ったユリアンが、先頭に立って牛舎の扉を押し開けた。錆びた蝶番の軋む音が鳴ったかと思うと、藁と家畜の糞尿の臭いが再び薫の鼻を突いた。しかしそれ以上に、牛舎の中の奇妙な光景に三人は目を奪われる。
牛が、寝ている。一頭や二頭ならまだ分かる。だが、全ての牛が、まるで身体を地面に投げうつかのような無体な姿勢で寝転んでいるのだ。思わず雹裡の方を見る薫。雹裡は首を横に振った。ユリアンも同様である。
となれば。
「くだんが、何か術を使ったようですね」
雹裡の冷静な解説が聞こえた。薫は先程くだんの居た間仕切りスペースの方に目を向ける。
耳を澄ませると、幽かに音が聞こえた。水音、と表現するのが近い。チュバチュバ、と言う擬音が合致する。先頭を歩いていたユリアンが、薫と雹裡を手で制した。
声を小さくして、二人に顔を寄せて囁く。
「奴さん、お食事中でっせ」
「食事って」
「BabyはMilkで育つもんじゃ」
ユリアンがしゃがみ込んで、地面に白いチョークで魔方陣を描き始めた。ものの十秒程で掻き終える手管は流石である。描いたばかりの直径一メートル程の陣に踏み込んだユリアンの姿が、薫と雹裡の視界から消えた。かと思うと、突然虚空からユリアンの太い腕が現れて、薫達を手招きする。
「陣にお入り。この中に入っている限り、姿を消せる」
「……お前って結構何でもありだよな」
雹裡、薫が後に続き、くだんの方に目をむけた。
倒れている雌牛の腹のあたりに、くだんが座り込んでいるのが見えた。顔を牛の腹に近づけ、音を立てている。
乳を吸っている。次第に激しさを増していく吸引の音で、薫はそう確信した。見る見る内に雌牛の膨らんでいた桃色の乳房が萎んでいく。萎びた風船のように小さく、皺くちゃになった雌牛の乳房から口を離して、くだんは満足げにゲップを吐き出した。その顔は、まさにジョギングを終えてスポーツドリンクを一気飲みした中年男性のそれである。
くだんはゆっくりと立ち上がり、間仕切りの塀を乗り越えて隣の雌牛の腹に顔を近づけていく。
「どうやら、母親の乳だけでは足りないようだ。害のない妖怪と思っていたが……」
雹裡が妙に冷静に告げた。速く止めた方が良いだろう。あれだけ牛乳が奪われてしまっては、あの老夫婦も困るはずだ。ユリアンは手元のチョークをぶつけ合って鳴らしている。臨戦態勢をアピールしているようだった。
「今、くだんはオッパイに夢中ですが……いつでもやれまっせ、旦那」
「誰が旦那だ。……ユリアン、お前だけ出て顔を見せにいってくれ。俺と香田さんは、顔が割れている。その上奴にしてみれば、俺達は親父を連れ去っていった張本人だ。出来る限り、顔を見せたくない。まずは、普通にコミュニケーション出来るかどうか、試してみて欲しい」
「OK」
ユリアンは囁くように了承してから、魔方陣の外に足を踏み出した。ライダースーツ姿の男が急に視界に移った事に、くだんは外敵に気がついた草食動物のように俊敏な動作で顔を上げた。ユリアンを警戒しているのか、くだんの皺くちゃの顔面が歪んで、更に皺が増した。
猫や蛇の威嚇のように、甲高い声色で唸りを上げる。
「……Oh、Oh、そんなに怖がらんでもいいぞ」
「臭い……」
「What?」
「忌々しい臭いだ……忌々しい風の臭いがする!」
くだんが大きく跳躍し、間仕切りの柵の上に器用に飛び乗った。軽く息を吸い込んだ後に、口を窄めてユリアンに向けた。次の瞬間、まるで機銃でもぶっ放したかのような炸裂音が牛舎を揺さぶった。
「Oh……Jesus」
ユリアンは小声で呟いた。俄に浮かび上がった額の汗が、彼の顎を伝っていく。足元の地面に、鉛筆のように細く、しかし深い穴が空いていた。
くだんの口端から、今しがた飲んだのであろう牛乳が一筋垂れているのが眼に入り、ユリアンは確信する。
くだんが吐き出したのは、牛乳であった。
音速を遥かに超える速度で吐き出された牛乳が、ユリアンの足元を穿っていたのだ。
「随分と夢の無いパイオツmissileだぜ!」
軽口を叩くユリアンだったが、くだんがまたしても息を吸い込むのを見て、更に飛び退る。くだんの口から無数の白い弾丸が吐き出され、ユリアンの足元の剥き出しになった地面が蜂の巣と化した。
「ヒョーリ! 無理無理! 無理でんがな!」
動体視力と運だけで全てを避けきったユリアンが、殆ど泣きそうな声で叫んだ。くだんの口は未だにユリアンに狙いを定めていて、ユリアンはくだんに背を向けて走り出す。くだんは柵の上を器用に飛び交って、ユリアンを素早く追い立て始めた。
「無理ってのは、コミュニケーションの方か? それとも押さえつける方か?」
「Haven't You Got Eyes In Your Head!? どっちもだヨ! 他人事だと思いおってからに!」
雹裡が落ち着き払っている事が気に食わないらしく、ユリアンは彼にしては珍しい事に声を荒げている。彼は地面に図柄を描く事で初めて術を使用出来る。つまり、それをするだけの間が無ければ、ユリアンは一切手出し出来ない。際限なく、一呼吸合間があるだけで再び吐き出される牛乳の弾丸のせいで、ユリアンは防戦一方だ。
「香田さん、念動力であの牛乳弾を止められませんか?」
「もうやろうと思ったけど、早過ぎて弾が捕まえられないわ」
「案外不便な物ですね……」
「アンタら呑気やのう! こっちの身にもなってくれよ!」
ユリアンは既に壁に追いつめられていた。くだんが迫る。一際大きく息を吸い込んで、狙っているのはユリアンの頭。本気で殺しにかかっていた。
「仕方ない!」
雹裡が陣から足を踏み出して、姿を現す。くだんに向けて、手裏剣を投げるような動作でくだんに向けて腕を突き出すと、掌から耳をつんざくように激しい風を切る音が鳴った。音に振り返ったくだんが、急に飛び上がり、更にその先に居たユリアンが身を翻した。間もなく、ユリアンの背後の石壁が、まるでケーキを切り分けるようにあっさりと横一文字に切れ目が入り、音を立てて崩れさる。
「我まで殺す気か!」
「死んでなければそれで良し!」
飛び上がったくだんに向けて、雹裡は間髪入れずに腕を払って風を起こす。
空間に歪みが生じ、牛舎の壁の木目が一瞬だけズレた。そして、その歪みが元に戻るのと同時に、風を切る音が鳴る。そして飛んでいく、見えない空気の刃が再びくだんに襲いかかっていく。
宙に浮かんでいれば、支えが無ければ体を動かす事は出来ない。そう読んでいた雹裡だったのだが、読みは見事に外れた。くだんが空中で体の向きを変え、口を天井に向けて牛乳を大量に吹き出した。
白いジェット噴水によって推進力を得たくだんの体は、半ば地面に叩き付けられるようにして落下した。雹裡が放った空気の刃は天井を切り裂いて空の彼方に消えていく。
それを思わず見送ってしまった雹裡。そして直後に、大量に降り注ぐ白い雨。
「……牛乳臭さで鼻が曲がりそうだぜ」
唇を噛みながら、雹裡は前肢を傾けて地面を蹄で引っ掻くくだんを睨みつけた。
くだんは最早口を利く様子はなく、ただ目の前の雹裡を敵として排除しようとしている。遠慮は無用、と雹裡はもう一度腕を振るうが、くだんは呆気なく、僅かな横への跳躍だけでその一撃を避けた。
完全に見切られている。
くだんが息を吸い込んだ。また牛乳散弾が飛んでくる。雹裡は身構えた。
牛乳弾は目視出来ない程の速度である。避けるのは無理だ。
くだんの口が窄んだ。もう発射される。せめて弾の威力を軽減する為に、雹裡は全力で腕を振るって風を巻き起こす。しかし、違和感に気がついた。
くだんの目が、雹裡を見ていない。雹裡の背中の向こう側を見ているようだ。何故背中の向こう? 背中の向こうに何がある?
誰がいる?
「伏せろ!」
振り返った先には、牛乳に塗れた薫が立っているのが見えた。
何故、どうして。不可視化する魔法陣の上に立っていたはずではないのか、と、ここで雹裡は気がついた。
薫の姿を隠していた魔方陣は、白いチョークで書かれていた。牛乳の白色で、陣が隠されてしまっている。薫の姿が見えてしまったのは、先程のくだんのジェット噴射牛乳のせいであった。
雹裡の声に薫はかろうじて反応し、くだんが自分の存在に気がついている事を察した。薫が咄嗟に身を捩って避ける。白い弾丸が、薫の脇の下を掠め飛んでいった。当たらなかった。避けた。ギリギリだったが、薫に怪我はなかった。咄嗟の動きに付いていけなかった髪の毛の束が、牛乳弾に撃ち抜かれて千切れ飛ぶ。
「次が来る!」
雹裡のそんな言葉を聞いて、薫は倒れかけた体勢のまま、右手を軽く開いてくだんに突き出す。くだんの口を捕まえようとしたのだが、殺気を感じ取ったくだんは攻撃を中断し、後ろに飛び退いていく。
体勢を立て直す事も忘れたまま夢中でくだんを追いかけるが、くだんの素早い動きは捉えられない。
「ちょこまかと!」
地面に転びながら、薫はそれでも右手の念動力でくだんの動きを捉えようと必死だった。
くだんの動きが止まる。ここが狙い目だと、薫は全身全霊の念動力でくだんを拘束しようとするが、当たらない。
くだんは既に走り出していた。スポーツカーのような速度で、砂埃を巻き上げながら薫に向かって真っ直ぐに突進してきている。倒れているのが仇になった。咄嗟に起き上がれない。
雹裡が腕を振りかぶっているが、間に合わない。薫は突き出していた腕をくの字に折りたたみ、自分に向けた。力を込める。空間が、ひび割れるような音を立てて爆裂する。
薫は、念動力で自分の身体を弾き飛ばしたのだ。
「血迷ったか!?」
雹裡の言動も無理はなかった。薫の体はきりもみ回転をして吹き飛び、頭から牛達が眠る柵の向こう側に落下した。
「ぎゃぁ!」
短く苦痛の呻きを吐き出した薫。くだんの突進をまともに喰らうよりはマシなダメージで済んだが、脳天から地面に落下したせいで、目の前を星が瞬いている。頭を振って視界を取り戻すと、柵の上に立つくだんが目に映った。
目にも留まらない牛乳の弾丸は、薫では捉えられない。身を守ろうにも、頑丈な金属板があたりに転がったりしている訳では無い限り、弾丸を止めることは不可能だ。ユリアンと雹裡が、少し遅れてこちらにかけてくるのが見えるが、くだんの射撃の方が早い。
薫にはもう、手が無かった。まだ何かあったとしても、思いつけない。命の危機に陥って頭が冴える程、薫は修羅場慣れしている訳では無い。
くだんと、一瞬だけ目が合った。
牛の体に人の顔。なんとも不気味な妖怪である。最後に見るのがそんな化け物だと言うのも、酷い人生だ。まだ何も成し遂げていないのに、こんな場所で牛と一緒に撃ち抜かれるのだろうか。
「……」
だが、くだんは動かない。一秒、二秒、三秒経ってもくだんは動かない。
呆然とした顔で見つめ合う薫とくだん。
薫が首を傾げたのは、そこから三秒後。くだんの視線が薫に向いていない事に気がつくのは、さらに六秒経ってからだった。
薫が飛び込んだ場所には、一頭の牛が寝ていた。未だに目を開けない雌牛は、ここで激しい戦いが行なわれているとは露知らぬまま鼾をかいている。
薫はそれに背を預ける形で倒れ込んでいる。
そして、薫は今日の早朝の出来事を思い出した。
くだんが産まれ落ちた場所はどこだった? くだんを産み落とした雌牛は、どの牛だった? 薫が背にしている雌牛は、他の牛に比べて大分消耗しているのが、荒い息遣いから感じ取れた。恐らく、一番最初に乳を吸われ、一番多くの乳を飲まれたのだろう。
「……この牛、貴方のお母さんなのね?」
くだんは答えないが、その人の顔が浮かべているのは苦渋と悔恨の表情だった。
そもそもこのくだんがここまで暴れて、薫や雹裡に襲いかかってきたのは、父親が自分の目の前から連れ去られた……と、思い込んでいるからだ。母親に対しても、同様の感情を抱いていたとして、何の不思議も無い。考えを巡らそうとしていなかったが、くだんが産まれたのは今朝の事であり、まだ半日も経っていない。
妖怪とは言えども、そんな産まれたばかりの子牛が何よりも欲するのは、親なのではないだろうか。
「……私がもし避けたら、貴方がもし外したら、お母さんを傷つけてしまう。だから、撃てない」
くだんは柵の上で、まるで石像のように微動だにさえしない。皺くちゃの老爺の顔に、まるで大切な玩具を取り上げられた子供のような悲哀が浮かび上がっている。
お母さんをいじめないで、と目で訴えている。いじめっ子の心境と言うものを、薫はこの時初めて味わったが、同時にとても申し訳ない気持ちになった。
「ごめんね……貴方のお母さんを利用するつもりはなかったけど……貴方が大人しくなってくれて、都合が良いのは確かなの」
ユリアンと雹裡が、くだんの背後に忍び寄った。二人とも、くだんが固まっている事に気がつき、その歩みは緩慢である。目で、薫に合図を送る。
もういいのか、と。
「貴方は……私の自分勝手な都合で産まれてきてしまった妖怪なの。でも……ううん、だからこそ私は……貴方の気持ちを考えずに、貴方を利用する。貴方が持っている未来の知識を、勝手に持っていけるだけ持っていく。恨んでもいいわ。……ごめんね」
薫は、二人に向けて神妙に首肯を返した。雹裡は両手を洗うように擦り付け合った後、くだんの鼻先に優しく押し付け、手の臭いを嗅がせた。くだんの目がまどろみ、そのまま眠りについて柵から転がり落ちた。そのくだんの体を優しく抱え込み、雹裡はそのまま地面に置く。
「取りあえず、眠らせただけだ。仕上げはユリアン、よろしく頼むぜ」
「All Right」
くだんが眠る場所を中心にして、ユリアンが青色のチョークで魔法陣を描いていく。白い斑点が飛び散った地面に描かれたその時計の文字盤のような青い陣が、薄青色に輝きを放ち始めた。
「拘束完了ナリ。これでいざって時にくだんが目覚めても、暴れる事はないんやな」
「では、香田さん」
薫は柵を乗り越えて、膝をついて横たわるくだんを見下ろした。
閉じた目からは、涙が流れている。
やっぱり、まだ子供なんだ。きっと、悲しい夢を見ているのだろう。
「……大丈夫だよ。お母さんは、いなくなったりしないから」
「何の話をしているんですか?」
首を傾げる雹裡に、薫は目を潤ませながら顔を上げた。始める前に、聞いておきたい事があった。
「全部終わった後、この子はどうなるの?」
「数日で死に絶えるでしょうが……ま、牛舎に置いておく訳にもいきません。我が家に連れ帰って殺処分しますよ」
「そう……なんだ」
「可哀想だ、と思いますか?」
「うん」
薫は素直に頷いた。
産まれ落ちて、ただその知識だけを求められる哀れな妖怪。母親からの愛情も碌に得られぬまま、寂しくこの世を去る悲しい妖怪。
くだんと言うものがそう言う性質の妖怪だと分かっていても、薫は同情を禁じ得ない。その上更に母親から引き剥がされてしまうのだ。赤ん坊と母親を、引き離し、殺す。
畜産業では決して珍しい事でも何でもないのに、薫は心に深い重しを乗せられた気分であった。
何という業の深い所業だろうか。自分はそこまでの悪党になって、良いのだろうか。
「一つ、お願いがあるんだけど、いい?」
「伺いましょう」
「この子を殺さないで……お母さんと一緒に、生涯を真っ当させてほしいの」
「……随分と無茶を仰る。見たでしょう? あんだけ大量に乳を飲まれちまったら、ここの経営者夫婦の食い扶持がなくなるぞ。それに、乳を吸われた牛達もこんなに衰弱してる。くだんは危険な妖怪なんだよ。放っておくわけにはいかねぇ」
くだんは、確かに無垢な赤ん坊であるが、それ故に無邪気に周囲に害を振りまく。それを見過ごすことは出来ない。
薫は悔しそうに唇を噛みながら、顔を俯けて黙り込んでしまった。言い返す言葉が無かった。
雹裡が呆れ果てたように溜め息を吐き出す。
「なぜ、そのようなことを?」
「私の勝手で産まれてきちゃったんだもの。このまま殺すのは……やっぱりダメだよ」
「……随分とまぁ、お優しいことで」
雹裡は嫌みたらしくそう言いながらも、御付きの執事のような慇懃さで恭しく頭を垂れてみせた。
「仕方がない。クライアントのお申し付けに答えましょう」
「……え?」
「くだんは我々が管理します。たかが三日程度でしょうが、ウチの神社で保護しますよ。経営者夫婦に承諾を貰えれば、あの母親牛も一緒に連れてこられるかも知れませんし」
雹裡は今は何故かいつものバカにしたような顔をすることなく、しかし少し眉を下げた、困ったような苦笑いをしていた。きっと、妹のワガママを聞くお兄ちゃんと言うのは、こんな顔をするのだろう。
「だから貴方は、貴方の仕事をこなして下さい」
「良いの?」
「年下のガキの御願いを聞き入れるのには慣れてますからねぇ」
「貴方って本当、嫌みな性格よね。……でも、ありがとうね、雹裡さん」
薫は、目に浮かんでいた涙を指で拭って、くだんの額に優しく手を置いた。
ここからが本番である。
妖怪に対して精神感応を使った事は一度も無い。なにせ人間相手でも数える程しか使った事がない能力なのだ。しかもそんな状況下で、くだんの所持している膨大な未来の知識の中から、口裂け女が今後歩む未来がどのようなものなのかを検索しなければならないのだ。
それはまるで、藁の山の中から針を探すような、途方も無い労力を伴うことだろう。
そんな不安は確かにあったが、戸惑いはなかった。
「……じゃ、やるよ」
一つ意気込みを吐き出した薫は、ゆっくりと目を瞑った。自分の頭の中にある意識を指先に持っていくイメージを思い描き、そのままくだんの頭に滑り込ませる。薫は、くだんの膨大な頭脳の海に飛び込んでいった。