7−9 兄と妹
「警察に協力を得て、あの牛舎は一時立ち入り禁止としました。あの様子では、落ち着くまでしばらくかかりそうでしたから、くだんはほったらかしです。が、母親が近くにいるあの牛舎から出ていく事はないでしょう。……くだんの命もあと二日か三日。白水さんがその間に身体を治してくれるのが一番良いのですが」
雹裡が困ったように眉を下げて言った。
重度の風邪と、そして心労による物と考えられる軽度の胃潰瘍。それが白水の診断結果だった。それに加えて担当の医者が言うには、若干栄養失調気味であったと言う。
一体どう言う生活をしているんだ、と家庭の事情を根掘り葉掘り聞かれて随分と居心地の悪い思いをしたと、雹裡は疲れた顔でそう言った。
「白澤の憑衣は著しく体力を消耗するらしい。二日続けて、しかも風邪を引いた状態では、丈夫な白水さんの身体も悲鳴を上げてしまったようです。潰瘍の方は随分前からあったようですね。血を吐いたもんだから余程の重病かと思って焦りましたが、幸い大事には至っていないそうです。一先ず彼女の無事を喜んでおきましょう。しかし、白水さんがあのくだんから話を聞けるようになる頃には、もうくだんも死んでいるでしょう」
今、白水の入院の準備が着々と進んでいる。症状そのものは重くないのだが、白水の体力が病人並みに落ち込んでいたため、しばらく安静にしていた方が良いと、医者には強く進められたのだ。白水は担当の医者の手によってより精密な検査をされている最中であり、雹裡と薫は、待合室のソファで二人並んで時の経過を待っている所であった。
時折、周りの患者達が薫達を見る。雹裡の狩衣は、酷く目立った。雹裡も薫も気にはしていなかったが。
「栄養失調って、どう言う事なの? 白水ちゃん、ちゃんと食べてなかった?」
「いえ、食事を抜いたりしてはいなかった筈です。今朝は時間がなかったので健康補助食品に頼りましたが、普段はバランスの良い食事を心がけていましたし、白水さんには好き嫌いもない」
雹裡は本気で悩んでいるようで、狩衣の袖に手を突っ込んで首を傾げて難しい顔をしている。
「食べた後で、戻してた……とか? 胃潰瘍、って言ってたし……」
「私には、未だに信じられませんよ。あの元気の塊のような白水さんがストレス性胃潰瘍だなんて。今日日の中間管理職でもあるまいし」
雹裡は軽く頭を掻いた。薫は、歯を食いしばっていた。腹が立つよりも前に、とても悲しかったのだ。
「元気なんかじゃなかったのよ……白水ちゃんは」
雹裡が薫の方を向いた。薫は、目の下を指で拭いている。雹裡が袖口からハンカチを取り出して、薫に手渡した。薫はそれを受け取って、涙を拭きながら言葉を続けた。
「白水ちゃんが、どんな気持ちでお仕事してたか、貴方に分かる?」
「どんな気持ち……?」
雹裡は、訳が分からない、と言いたげに肩を竦めた後、両掌を天に向けた。
「さっぱりですね。私は白水さんではない」
「考えようともしなかった……って訳?」
薫の方から苛立つような声が返ってきた。雹裡は慌てて指で額を突つき、思案する。雹裡の脳裏によぎる、白水との記憶を掘り返してみる。白澤を取り憑かせて、政治家達を嘲笑いながらに苦言を呈す白水。そして、仕事を終えた後、父に褒められて満足げに微笑む白水。
雹裡は、ずっとそれを影から眺めていた。日の当たらない所から、何十回も。
雹裡の記憶の中の白水は、いつだって楽しそうに笑っていた。それだけ、妹の笑顔は輝いていたし、眩しかったのだ。直視するのが辛くなる程に。
「楽しんでおられたように思います。何せ、自分だけにしかない特別な力を持っていたのですし」
「……馬鹿」
薫のその言葉は、まるでこの世の悪感情を全て凝縮した後に放たれたような重みを含んでいた。心の底から雹裡の事を罵っている。雹裡は流石にカチンときた。
「間違えてしまいましたかね? ならば、正解を御聞きしたい所ですが」
「もっとちゃんと考えてよ。自分の妹の気持ちだよ? お兄ちゃんなら分かってあげようよ……」
雹裡は頭を掻いた。薫は完全に泣いてしまっている。今日日他人の為にここまで泣けるとは、中々のお人好しか単に涙もろいかのどちらかだ。
周りの視線がますます痛い。今までは気にかけていなかったが、この姿で悪い印象をもたれると、白蝦蟇神社そのものの評判に影響しかねない。雹裡は必死で頭を回転させた。
どれだけ思い出してみても、妹は笑っている。いつも同じように笑顔で、いつも同じように元気で。たまに虫の居所が悪くても、ちょっとした事で機嫌がコロッと治って、また同じように、素直な笑みを浮かべている。まるで機械のように、同じ動作を繰り返していた。とても楽しそうに見えたのだが、薫の言葉から察するに、そうではないらしい。
……と、ここまで考えてから、雹裡は一際大きな溜め息を吐いた。
「香田さん。降参してはいけませんか?」
「……本当に、分からないの?」
「実は苦にしていた。それくらいは、流石の私でも察する事は出来ました。しかし、それが限界です」
雹裡は素直にそう言った。本当に、全く分からないのだ。白水は、仕事に一生懸命だった。父が持ってきた仕事は全部引き受けていたし、一つ一つに妥協はしなかった。
真摯に、確実に、誠実に仕事をこなす、プロフェッショナルだった。
そして仕事を終えた後、白水はとても満足そうに笑う。兄妹で、いつも一緒に居た雹裡なら分かる。あの笑みは、心の底からのものだと。だから楽しそうに仕事をしているようにしか、思えない。
「あの神社は白水ちゃんの力に頼り切っている」
薫の解答が始まった。雹裡は全神経を薫の言葉に傾けた。
「誰も彼も、白澤を憑衣される特別な力を目当てにやってくる。あの神社、聞けば今や氏子も参拝客も殆ど居ないし、結婚式や厄払いも碌にやってないらしいじゃない」
「…………」
雹裡は、首を横には振れなかった。事実であったからだ。
「なんでそんな事まで……」
「精神感応よ。白水ちゃんの心を覗かせてもらった。あの子が言いたかった事を、ちゃんと最後まで聞いてあげたかったから」
薫は顔を顰めながらそう言った。あんまり使いたくなかったと薫は小さく零し、更に続けた。
「白澤の神託は、さぞや実入りがいいんでしょうね。なにせやってくるのはVIPばかり。落としていくお金も、結婚式一回分に近いらしいじゃない。そんなのが三日に一度はやってくれば、他の大変な仕事なんてやらなくても十分儲かるでしょうね」
「……確かに、その通りですよ」
雹裡は白状した。薫の言葉には一つも嘘はない。全て雪町家、及び白蝦蟇神社の実態を現していた。
「今やウチの神社は、白水さん無しじゃ成り立たない所まで来てしまった。霧濁さんは、万札の数え方は上達しましたが、大幣の振り方は忘れているんじゃありませんかね」
「そんな呑気な事を言っている場合じゃないでしょ」
自嘲するように半笑いしている雹裡を、薫は厳しく窘めた。
「白水ちゃんが居なきゃ、もう神社は潰れるしかない。自分がやんなきゃ、自分が頑張らなきゃって、白水ちゃんはずっと追いつめられてたのよ! それこそ、胃に穴が空くぐらい苦しめられていたのに! なのに、貴方は一体何をしているのよ!」
薫は叫んだ。待合室に居る他の患者が、一瞬だけ目をこちらに配るのを雹裡は感じ取っていた。
「貴方、白水ちゃんのお兄ちゃんでしょ!? 貴方がしっかりしないでどうするの!?」
雹裡はまたしても口を開けない。代わりに、目を鋭く釣り上げて、眉間に深い皺を寄せ、白くて綺麗な犬歯を剥いた。救急車で運ばれる直前の白水も、同じ顔をしていた。やはり、二人ともちゃんと兄妹として血が繋がっている様が、ありありと感じられる。
「……馬鹿かお前」
雹裡の絞り出すような声に、薫は僅かに動揺する。
「他に仕事はねぇんだよ、ウチの神社は。村の外れで、人間よりもタヌキの方がよっぽどよく出るような場所だ。毎日参拝に来てた近所のババァが一月前に逝って以来、ウチには白澤の御神託目当て以外の人間なんて来なくなったよ。白水の力がなきゃウチはとっくに借金まみれで夜逃げしてただろうさ」
「でもそんなの……貴方にだって、出来る事はあるでしょ」
「あぁ、あった。虎の子、雪町白水の世話係ってな、大事な仕事がな」
雹裡は拳を硬く握りしめている。貧乏揺すりが止まらない。語るのも忌々しい、と言わんばかりの口調であった。
「毎朝起こして、飯を作って茶ぁ入れて、アイツの布団を畳んで、アイツの服洗濯して、腹が減ったと言やぁ羊羹を買いに行き、髪が伸びたと言やぁ美容院に予約を入れて、また腹が減ったと言やぁ団子を買いに行き……って、俺は召使いか!」
雹裡は大きく足を踏み鳴らした。待合室の周りの人々が、いよいよこちらに注目し始める。受付の看護婦が怪訝な顔をしていた。
「……分かってるよ。それでいいんだ。白水が快適に仕事ができるように、色々手を回すのが凡人である俺の仕事だ。警察にも地方自治体にも、ウチの仕事は黙認してもらっている。俺の根回しも、無駄じゃなかったって事さ。お陰で、今は随分手広く仕事ができるように」
「私が言ってるのはそう言う事じゃないのに……」
薫の声は震えていた。怒るのを通り越して、呆れているようだった。軽く目元を拭った薫は、次の瞬間にはもう立ち上がって、雹裡の事を見下ろしてた。
「貴方って、本当に白水ちゃんのお兄ちゃんなの?」
「役所で戸籍謄本でも貰ってきましょうか?」
「……言われた事は何でもやって、スムーズで快適な仕事が出来る下準備をして、仕える相手には敬語をかかさず、今度は仕事の愚痴? 貴方って、まるで本当の召使いみたいね」
薫の冷たい言葉に、雹裡は思わず顔を上げるが、薫は雹裡に背を向けていた。足は病室の待合室の出口に向かっている。雹裡は立ち上がって口を開きかけたが、薫はまるで背中に目でもついているかのように、先んじて口を開いた。
「今日も泊めてもらうわ。そろそろユリアンも戻ってくる頃だし」
「……白水さんを見ていかないのですか?」
「言ったでしょ。精神感応で白水ちゃんの心の中を読んだって。『お客さんに無様な姿を見られたくない』ってさ……可哀想な子」
そんな言葉を残して、薫は驚く程あっさりとその場を去って行った。雹裡は結局、薫に何も言葉を返す事も出来ぬまま、ただその場に座り込んでいただけだ。
召使い。白水の、妹の、雪町家の召使い。
頭の中に言葉が渦巻いた。
「んだよ、召使いって……」
「雪町さーん」
看護士の声がかかった。白水の入院準備も終わったのだろう。雹裡は立ち上がる。肩にかかっていた長い髪を払って、大仰に溜め息を吐いて、口の中だけで呟いた。
「……その通りだよ馬鹿野郎」
屈辱的だが、否定できない真実だった。
*
「小児科でなく内科にかかるとは、白水さんも随分と成長したものですね」
白水と顔を合わせた雹裡の開口一番は、そんな皮肉めいた言葉であった。白水は腕に刺さっている点滴のチューブを指に巻き付けたりして弄んでいる。浴衣だと言うのにベッドの上に荒々しく胡座をかいて、膝の上に頬杖をつくその姿は、遠目に見れば少年のようにも見えてしまいそうだった。
「聞いた話じゃ、白水のお腹に穴ぁ空いてたらしいっすね。道理で最近ゲロゲロが多いと思ったんすよ」
白水は頬を膨らまして、不機嫌そうにそう呟いた。
「今後、体調の不良がありましたら、すぐに申し上げて下さい。今日のように倒れられては困ります」
雹裡は声を硬くして言った。表情も、普段以上に強張っていたように思われる。
召使い。
未だにその言葉が脳裏に渦を巻いて、消えてくれない。雹裡は白水の目を真っ直ぐに見れないまま、見舞い客用の椅子に腰を下ろした。
「お医者さんの話じゃ、しばらくはまともな飯も食えねぇそうで。煎餅もサイダーも駄目だって」
「完治まではどの位かかりますかね」
「夏休み中に退院は出来ますが、完治まではもっとかかるみたいっす。詳しくは、お医者さんが症状をカルテに纏めてから、後で改めて話してくれるんだとか」
白水は大仰な溜め息を吐いて、ベッドに仰向けに身を投げ出した。
「いずれにしろ、これじゃ身動き出来ねぇ。このままじゃ、くだんが死んじまう」
「……そうですね」
「アネキは?」
「白水さんを心配しておられました。くだんの事は、今は頭から抜け落ちてしまっているようです」
白水は額をペチ、と軽く打った。震える唇を噛み締めている。目に涙が浮かんできていた。
「ホント、情けねぇや……お客に心配されてるようじゃ、まだまだだぃ。さぁてと……どうしやすかね、兄貴」
白水は身体を起こして、雹裡に視線をぶつけた。涙目の奥には、何かを訴えかけるような意志。そして口元には、僅かながら作ったような奇妙な笑み。
「早いとこ、病院から脱出しなきゃならねぇ。手伝って下せぇ」
「…………なんですと?」
「まだ仕事は終わっちゃいねぇっすよ。くだんから聞かなきゃならねぇ事ぁまだ山程残ってる。アネキが聞きたい事だって、まだ一つも聞けちゃいねぇ」
白水はベッドの上に立ち上がって、大きく伸びをして、両頬を張った。目を擦って涙を拭き取って、鼻から息を抜いて、気合い十分と言った己の体調をアピールしているようだった。いつも通りなら雹裡は、それに感心したように白水を褒め讃えるのだが、今は到底そんな気にはなれなかった。
「今回の件はキャンセルにします」
雹裡自身も驚く程自然に、そんな言葉が吐き出された。
白水は意味を把握しかねたのか、鳩が豆鉄砲を喰らったような惚け顔で雹裡を見つめた。
「流石にその体では無理ですよ。白水さんには、しばらく療養して頂きます」
「なっ……」
白水は座り込んで、顔がくっつく位雹裡に迫り、雹裡の心の内を覗き込まんばかりにその眼をじっくりと観察した。雹裡は椅子ごと身体を引いて、距離をおく。間仕切りのカーテンが背中に押され、膨らんだ。
「マジで言ってんすか? キャンセルなんて……駄目っすよ!」
「何故ですか? 別に、依頼の一件や二件で傾くような家計ではありませんよ。それよりも、大切なのは貴方です。貴方の病状が悪化する方が、今後への影響が大きくなる」
「ウチは信用商売なんすよ? それなのに途中で投げ出したなんて……そんな話が広がったら!」
白水は自分の腕に刺さっている点滴チューブを鷲掴みにした。そのまま引っ張ろうとしたのを、雹裡は慌てて止める。
「何考えてるんですか!」
「それはこっちのセリフっす! 噂の力は馬鹿にならないンすよ!」
「っ、この仕事中毒が!」
雹裡は白水の両腕を掴んで、強引にベッドに押し付けた。白水が両脚を振り回して暴れている。パニックに近い。腹が何度か蹴り飛ばされて痛い。雹裡は頭を振りかぶって、白水の額に思い切り自分の額を叩き付けた。
「いってえぇ!」
白水が雄叫びを上げた。そして尚更大きく足をばたつかせる。雹裡はもう一度頭突きをする。まだ暴れるので、もう一度ぶつける。そこから更に二度頭をぶつけ合って、漸く白水は動きを止めた。
「……二回目から先は、痛くて暴れてただけっす」
「言わねば分かりませんよ」
お互い、額に大きなたん瘤が膨らみ上がった。額を何度も擦る白水は、自分と同じように額を擦っている雹裡の顔を見て、痛みも忘れて吹き出した。
「ぷふっ、情けねぇ顔っすね、兄貴」
「……白水さんも、人の事は言えませんけどね」
「兄妹だから似たような顔してるんすよ」
白水は笑いながら、無邪気にそんなことを言う。雹裡一人だけが暗い顔をするので、白水は首を傾げる。
なんだか、兄貴の様子がおかしい。白水がそれに気がついた時、雹裡の様子はますますおかしくなっていく。
「白水さん……」
「どうしたんすか、兄貴」
「お仕事は辛いですか?」
白水は驚愕した。目の前で椅子に座っているこの長髪の狩衣の男は本当に雪町雹裡なのだろうか。そんな言葉をかけられた事は、父にも兄にも一度もなかった。
「……辛くは、ないっす。むしろ、楽しいっすよ」
「本当に?」
「ほ、本当っすよ」
「残念でした。もう香田さんから全て聞きましたよ」
雹裡はへらへらと力無く笑いながら両手、それから顔を天に向けた。目が少し潤んでいた。白水は意味を把握しかねていたが、雹裡の態度を見ると、嘘を見透かされている事は間違いなさそうだった。観念した白水は、雹裡から顔を逸らしながらも本音を述べる。
「…………正直、しんどいっす。力を使った後は本当に身体がだるくなる」
「初めてですね、貴方がそう言ったのは」
「だって、白水が嫌だって言ったら、困るのは親父や兄貴っす」
白蝦蟇神社の収入の全てが、今や白水の能力にかかっているのだ。不満を言う訳にはいかない。白水はその確固たる意志を抱いていたのだが、雹裡は何故か呆れたような顔をしている。
「全く、我が家で最年少の貴方にそこまで言わせてしまうとは、何とも情けない話です」
「でも……ウチにはもう、その仕事しか」
「そうですね。ですから、私達は白水さんに頑張ってもらっている」
雹裡は渋々、と言った様子でそう述べてから、腕組みをしてとてもつまらなそうに嘆息した。
「……何故、こんな事になってしまったんでしょう」
「は?」
突然の話題の転換に、白水は不審感を抱いた。言葉が、あまりにもらしくない。彼が何かを後悔している様など、白水は見た事はなかった。
「我が家は歪です。誰よりも幼い貴方が、誰よりも頑張っている。誰よりも頑張れる私や霧濁さんが、ぬるま湯に浸かって貴方に頼り切っている。結果として貴方は、こうして身体を壊してしまった。言いたい事も言えずに、ただ私達のためにその身を削ってきた代償が、ここで出てきてしまった」
「……それで、良いじゃないっすか」
白水は呟く。不思議な事を言っているつもりは、彼女にはない。しかし雹裡は苦しそうに顔を歪める。
「ウチがおかしくなったのが白水のせいなら、白水が責任とらにゃいけねぇでしょう。これ以上我が家が不幸にならないように、一番頑張らなきゃならねぇのは白水でしょう」
「……それが、貴方の理屈ですか」
雹裡は目頭を押さえた。
白水は、信じ切っている。信じ切らなければならないほどに、苦しんでいる。
こんなになるまで、どうして何もしてやれなかったんだ。雹裡は深く後悔をした。そして、口を開く。言葉は、とても自然に溢れ出てきていた。
「私はね、白水さん。貴方と私が、兄妹じゃなければ良かった……って思うんですよ」
「へ?」
白水のきょとんとした顔を見ながら、雹裡は言葉を続ける。
「白水さんは神社の一人娘で、私がどこか遠い場所から流れてきた放蕩者で……神社に住み込みで働く召使いだったら、どれほど良かったか。それならば、私は清々しくこの役を務められた。自分の無力に泣く事も無かった。貴方を恨む事も無かった。貴方に嫉妬して、必死に目を背ける事も無かった。貴方が倒れても、後悔に苛まれる事も無かったと思う」
いつの間にか、雹裡は項垂れていた。白水は間抜けな顔で首を傾げるばかりだ。
「お前と兄妹でいる事が辛かった。血が繋がっていると、考えたくなかった。跡継ぎの座をあっさりと持っていかれて、親父からの愛情も独り占めされて、自分が妹よりも劣った人間だと、認めてしまうのがどうしても我慢できなかった。だから敬語も使った。文句も言わなかった。喧嘩もしなくなった。白水は赤の他人だと必死に思い込んで、雪町雹裡個人としての自分を守りたかった」
まだ幼き日の事。父親に家から閉めだされて大雨に打たれている最中、雹裡は知ったのだ。
自分は、もうこの家の人間として、生活しない方が良いのだと。白水も霧濁も、ただの他人。そう思うと気が楽だった。
実の父でなければ、霧濁から嫌みを言われ、貶され、叩かれる日々に耐える事も出来た。
実の妹でなければ、白水がどれだけ凄まじい能力を持っていても、我が儘を吐き出しても、耐える事が出来た。
自分を守り続けなければ、雹裡個人の矜持は押しつぶされてしまいかねなかったのだ。
「……馬鹿な話だ。それならさっさと家を出ていけば良い。俺が出ていけば、その分白水の負担も減るって分かってたのに……俺は未練がましくここに居座り続けている。頑張ってるお前の姿を見てるのは……とても、気持ちが良かったんだ。誇らしかった。俺の妹はこんなに凄いんだって、鼻が高い気持ちが、ずっと心の隅に残っていた」
「兄貴……?」
二十歳を過ぎた。バイトで溜めた金で、車も買った。卒業した高校は工業系。安い給料でも雇ってくれる企業は、隼市には五万と溢れている。
それでも、雹裡は神社を捨てる事が出来なかった。
何度も家出を試した。しかし、この神社から自分がいなくなったら。誰が食事を作る。誰が掃除をする。誰が御偉い方に取り入って、金を渡してコネを作る。いや、どうでもいいじゃないか。金はあるんだから、お手伝いでも雇えばいい話だ。
そう思って荷物をまとめだすと、白水の悲しそうな泣き顔が思い浮かび、手が止まってしまう。立ち上がるのも億劫になるほど、家に縛られている気分になる。
「出来るだけお前の側に居て、お前の負担を減らしてやって……。でも誰より優秀なお前に対する劣等感はいつまでも残ってて……。俺はずっと中途半端な気持ちで、ここに居た。お前に何よりも嫉妬していたのに、お前の側に居たかった」
妹が誇らしかった。白水は天才なのだ。朝起きれなくて、勉強は出来なくて、口調も女らしさとはほど遠い、そんなだらしのない女の子なのに。この齢にして、聖獣と名高い白澤を従えているのだ。天才と呼ばずに、何と呼ぶ。
こんな凄い妹がいて、その妹が兄貴、兄貴、と無邪気に呼びかけてくる。白水は、とても無邪気に飯をねだり、風呂をねだり、オヤツをねだり、散髪をねだる。
だから白水には、俺がいてやらなきゃならない。そんな考え方が、心の奥底に頑固に居座り続けている。どれだけ逃げ出そうとしても、白水のねだる声が、耳にこべりついて離れない。
「本当の所、俺は一体何がしたかったんだろうな」
「兄貴……兄貴は……」
白水が震えている。悲しそうに顔を歪め、両手を握り合わせて、祈るような姿で雹裡を見つめている。白水は一体何を言うのだろうか。この情けない兄に呆れ果てて罵倒でもするのだろうか。それならそれで、すっきりする。雹裡は目を瞑って白水の言葉をまつ。白水は、涙を流しながら、ゆっくりと口を開いた。
「兄貴は、家を出てっちゃうんすか?」
「……え? そこ? そこかよ?」
「駄目っすよ! 出てっちゃ嫌っす!」
白水があまりにも必死なので、雹裡はハニワのように目を点にして、しばらく手足を振り回して駄々をこねる白水を眺めていた。
雹裡としてはもう少し別の部分に対するツッコミが入ると思っていたのだが、白水にとって一番大事なのは兄が家を出て行くか行かないからしい。自分が長々と吐露した心情を、白水に全て無視されて、雹裡はすっかり毒気を抜かれてしまった。
「白水さんにとっちゃ、私の心の内なんてどうでもいい……ですかね」
「そ、それは……ぐすっ……白水が我が儘だから、だけど、でも、兄貴、出てっちゃ駄目っすよ」
「ご飯作る人も、お庭の掃除する人も居なくなりますしね」
「それもあるけど、白水は兄貴が居なくなったら……ぐすっ、寂しいっす。お袋も兄貴も居なくなったら、お家は親父と白水だけじゃないっすか。白水は……兄貴が大好きなのに……いなくなったら、白水は悲しいっす」
「あー……」
白水が中々泣きやまないので、雹裡は参って嘆息した。そして立ち上がり、白水の頭に手を乗せて、くしゃくしゃと乱暴に頭を撫でる。こうして彼女と戯れ合うのは、酷く久しぶりな気がした。
そう言えば白水に家を出ていくと言った事はなかった。
なるほど、言うとこんな風になるのか。これでは、言う訳にはいかない。
「……俺は、逃げられないんだな」
自分の事を、兄貴と呼んで慕ってくれている。
憎くて憎くてたまらなくて、同時に愛しくて愛しくてたまらない妹が、自分の存在を必要としてくれている。兄として、雹裡は誇らしかった。
「泣かないでくだ……いや。泣くな白水……もう、良いから」
「……?」
「もう良いんだ。全部分かった」
雹裡は、兄貴と召使いの間を行ったり来たりする存在だった自分との決別を決意した。
白水が兄貴を必要としているんなら、自分は兄貴になってやろう。何も悩む事はない。考える事じゃない。跡継ぎを争ったり、実力差を比べたりするのが、兄と妹の関係じゃない。
何よりも大切な、血を分けたこの世でたった一人の大切な兄妹。二人の関係は、それ以上でも以下でもない。
白水はそれを知っていた。雹裡だって知っていた。だが、自分のプライドばかりを立てようと思うあまり、一番根本的な部分を見ていなかった。
自分は兄貴で、白水はまだまだお子様な妹。
妹の面倒を見てやるのは兄貴として当たり前の事でしかなくて、自分の仕事だ何だと言う理屈は結局の所ただの後付けでしかなく、自分への言い訳でしかなかった。妹の心だけじゃなくて、身体まで傷つけてから、雹裡はようやく自分がしがみついていた、彼にとって最早”下らない物でしかない”プライドを捨てる覚悟を決めた。もっと大事にすべき存在が、すぐ目の前に居るのだから。
「なぁ、白水」
「なんすか?」
「もしこれから先、嫌な事とか辛い事とか苦しい事とかあったら、全部俺に相談しろ。全部、漏れなくだ。仕事が嫌になったら、そう言え。俺が絶対に親父を説き伏せてやる。殴ってでも止めて、お前を休ませてやる。ガキの癖に、いっちょまえに金の心配なんかするんじゃねぇ。その気になりゃ俺も親父も、他の仕事を見つけて来れるんだからな。だが代わりに、今後お前のオヤツは買ってきてやらん。団子でもおはぎでも、買いたきゃテメェが買ってこい」
「……えー」
明らかに後半部分で不満そうな声を漏らした白水の頭を、雹裡は軽くチョップした。
「文句言うんじゃねぇ」
「……分かったっすよ、もう」
「それから……」
雹裡は口籠ってから、少し高い声で続けた。言わなければならない事でも、改まるとなると少し恥ずかしい。
「すまなかったな。仕事、大変だったろ。それに気づかないたぁ、俺も馬鹿な兄貴だ。こんなのが兄貴で、お前も悲しいだろ」
「兄貴は、兄貴っすよ。クールで知的で、格好良い漢で。白水は兄貴が兄貴で良かったって思ってるっす」
「馬鹿だな。ホント、男を見る目がねぇな、お前って奴ぁ。将来、変な男引っ掛けてくんじゃねぇぞ?」
雹裡は、二度三度、もう一度頭を軽く撫でてから、呆れたような声を吐いて微笑みを隠した。
そして髪の毛が乱れた白水の頭を見て、もう一度櫛を取り出しかけた自分の手を見て、顔を強張らせる。
白水が、指を指して腹を抱えて笑っていた。
「兄貴も、ワーカナントカっすね!」
「返す言葉もございません……ってか。ったく、冗談じゃねぇぜ……」
力無くそう言いながらも、一度取り出した櫛を仕舞う事はせずに雹裡は白水の髪を梳かしてやる。幾度となく繰り返したその手つきは、いつもと変わらずに白水の髪の毛を美しく整えていった。