7−8 醜い賢者達
雹裡が運転する軽自動車に乗る事、ほんの五分。
一件の民家の前で車は急停止した。赤い屋根のその家は、百メートル程は隣家から離れている。立っている民家の更に奥に目を向けると、広い牧草地が広がっていて、その牧草地の真ん中に、大きな平屋が立っているのが見える。目を凝らしてその平屋の入り口を見ると、落ち着きのない老夫婦がこちらを見つけて大きく手を振っていた。
叫び声が聞こえてくる牛舎と言うのは、そこらしい。
「さて、お待ちかねのようですし、急いで馳せ参じましょうか」
雹裡がエンジンを切るのよりも早く、助手席に座っていた白水は無言でドアを開けて飛び出した。風邪を引いている割には、とても足が速い。ほんの数秒程で老夫婦の元に辿り着いてしまった。薫も車から降り、後から降りた雹裡と肩を並べて、先に白水の待つ老夫婦に会釈をした。
「陰陽師様、お待ちしとったがんね」
薫に負けるとも劣らない訛った口調で旦那の方が眉をハの字に下げて、雹裡にそう言った。
血色が良く、身長こそ白水と同じくらいだが、全身かなり厚い筋肉に覆われている。その妻の方も、髪の毛は白くて夫に輪をかけて小柄なのだが、腕の筋肉一つとって見ても、雹裡よりも太く、まるで丸太のようだ。
似た者夫婦であり、筋肉夫婦だった。畜産の仕事と言うものは、肉体的にはかなりハードな模様である。
「おめさんも、雪町様のトコの人けぇ?」
「……適当に頷いておいて下さい。老人は話が長い。いちいち真面目に答えてたら日が暮れちまう」
雹裡が小声でそう囁いてきたので、薫は特に何も考えずに首肯を返してやった。すると、
「おやまぁアンタァ、ええ娘捕まえてきたんやねぇ。めでてぇの、めでてぇの」
この非常事態だと言うのに、楽しそうに手を叩いて喜ぶ老人達はあまり事態を深刻に捉えている節はない。
薫と雹裡の顔を交互に見て、めでてぇめでてぇと連呼している。流石田舎である。年の近い男女を見るとすぐにこれだ。薫は自分の実家周辺でも同じ事が起こるため、もう慣れていたが、雹裡はそうでもないらしい。見上げると、雹裡の顔が引き攣っていた。露骨に嫌な顔をされるとそれはそれで腹が立つものである。
「……貴方とそのような仲を誤解されるのは酷く業腹ですが、ここは我慢しておきましょうか。話を前に進めたい」
また小声でそう言った。業腹、とは随分な言われようである。こっちだって願い下げだ。薫は返答代わりに、雹裡の沓の先を踵で軽く踏みつけてやった。雹裡はノーリアクションを貫き、老夫婦にはあくまでも笑顔で応対をする。
「既に警察の方々からは窺っておりますかね。奇妙な声の原因は我々が捜査致します。よってこの小屋は、しばらく立ち入り禁止にします。また、この事件に関する一切の情報を外部に漏らす事も禁じます。誰かが尋ねてきても、何も言ってはいけません。ただ黙って、追い返して下さい。また我々には守秘義務がありますので、捜査内容についてお話しする事は殆ど出来ません。その点は、どうかご了承を」
「は、はぁ……」
雹裡の矢継ぎ早の言葉を理解しているのいないのか、少し曖昧な返答だったが、雹裡は満足げに頷いた。その笑顔はとても胡散臭く、薫はテレビドラマに出てくる詐欺師の顔を何となく思い出してしまった。
「では、白水さん」
「……」
白水は言葉を発しない。先程からずっと口を閉ざしている。若干丸まったその背中からは、昨日見た快活さがまるで感じられない。喋る元気もないのに大丈夫なのだろうか。薫はずっと不安を胸に抱えたまま、雹裡と白水に続いて牛舎の中を覗き込む。
牛舎はそれ程広くなく、牛も全部で十もいないようだった。
杭と板で間仕切りされたその空間に藁を敷き詰めてある。想像していた通りの牛舎だ。そして想像していた通りに熱気がこもっていて、それに加えて獣独特の臭いが鼻を突いて、薫は鼻を摘んだ。白水は鼻が詰まっているらしく、特に気にしていないらしい。雹裡は顔色一つ変えず、しかし鼻を摘もうともせずに、悠々と歩んでいく。振り返って、顔を顰めている薫を、雹裡は呆れた表情で睨んだ。
「こらこら、香田さん。くだんに失礼でしょうに」
「そんな事言ったって……凄い臭い。雹裡さん平気なの?」
「安禅必ずしも山水を須いず、心中を滅し得れば自ら涼し」
「何それ」
「心頭滅却すれば火もまた涼し。こちらなら聞いた事はありますでしょうかね」
「まぁ、聞いた事は」
「心を無にしなさい。さすれば滝、霧雨がごとし。稲妻、鍼灸にしかず。クソの臭いもフローラル」
「無茶言わないで下さい」
「御得意の超能力でどうにかならないんですか?」
「臭いを消すなんて無理ですよ。手で触らないで鼻摘むくらいなら出来るけど」
「それはそれは、是非拝んでみたいものですなぁ」
意地悪く笑われてしまった。これ以上からかわれたくないので、薫は我慢して手を鼻から離した。
二人でアホな会話を交わしているうちに、白水は既に牛舎の一角で仕切り板から身を乗り出して、何かを見つめていた。白水が覗き込んでいる仕切りの隅の方で、一頭の雌牛が横たわっている。体力を使い果たして、今は眠っているようだった。
そして、藁が小山のように積まれているその場所に、もぞもぞと蠢く影が存在した。
「これが……くだん」
薫はその姿を自らの双眸で克明に目撃してしまった。
産まれたばかりだからか、羊水で濡れた身体に短い藁屑がへばりついている。黒い体毛と、蹄と尻尾。身体の大きさは大体白水と同じくらいだろうか。そして、その子牛の身体には場違いな程年老いた人間の頭が、首の先についていた。頭は禿げ上がっていて、顔中に皺が刻まれている。くだんのその頭は、時折何かを噛むようにくちゃくちゃと咀嚼した。その顔に対して目は不自然なまでに大きく、まるで黒い真珠のように牛小屋に入り込む朝日を反射して煌めいている。
「……ぶるるるるる」
顔はとても険しい。あたりを警戒している犬のように低く唸るその口端から、涎が汚く飛び散った。あまりにも不気味だった。薫が今まで見てきた、河童や口裂け女も同じ妖怪ではあるが、何かが違う。生理的な嫌悪感だった。口裂け女の時にもあったが、今や口裂け女は薫の友達であるし、何よりも気持ち悪さのレベルが違いすぎる。喉の奥から逆流してくる何かを感じ、薫は思わず口を押さえてしゃがみ込んでしまった。
「貴方には刺激が強過ぎましたか。白水さん、香田さんもこの有様ですし、早々に事を済ませましょう」
「……分かったっす」
白水は相変わらず力の篭っていない声で返答したが、薫はそれを心配する余力はなかった。白水は、巫女服の胸元から一枚のポストカードを取り出した。カードには、神社の本堂の天井に描かれている白澤の絵と同じ物が印刷されている。それを胸元に掻き抱いて、白水は目を瞑って深呼吸をした。
すぐに白水の身体が淡い青白の光に包まれていく。
くだんがそれを見て、立ち上がって前肢で地面を掻いている。突進寸前の闘牛のようだった。
白水の変化は、その後すぐに訪れた。一際強い輝きが牛小屋の中を満たす。まるで花火のように一瞬で光は消え、後に立っていた白水は、ゆっくりと目を開けてくだんを眺めた。
「……達者なようだな」
白水に取り憑いた白澤が、相変わらず荘厳な重みのある声でそう言った。くだんは不思議そうに首を傾げながら白水を眺めている。やがて、ゆっくりと口を開いた。
「誰だ?」
枯れた老人のような濁声で、くだんは鋭く言い放った。
「お前の父のような物だ」
「父?」
「そうだ」
「……確かに、心地よい臭いがする」
鼻を鳴らすくだんは、唇を三日月型に歪めた。微笑んでいるようだ。
「尋ねたい事がある。近いうちに起こりうるであろう、天災はあるか」
白澤が本題に移った。薫が僅かに顔を上げて耳を傾ける。雹裡の目が僅かに引き絞られた。くだんは今は再び藁の上に腰掛けている。
「無い。あったとしても、それは遠い遠い先の話だ」
「では、人災は?」
「何を以て人災とする?」
「人間が引き起こす災いの事だ」
「……起こりうる可能性は大いにある」
曖昧な物言いであった。白澤が苛立たしげに眉毛を吊り上げた。ついでに、ゴホッと一つ咳を零す。
「可能性、とはなんだ」
ゴホッゴホッと、立て続けに咳が白澤の口から漏れ始める。くだんは白澤の咳が止まるのを待っているのか、口を噤んでいる。
ゴホッゴホッゴホッ。
白澤の咳が止まらない。流石に様子がおかしい事に気がついた薫は、口を押さえている白澤の方を見た。
「……あれ?」
白澤の口から、惚けたような声が出た。白水が自分の広げた手を、呆然と見つめている。驚いたように目を丸くしている。薫はそれを見て、絶叫した。
「血! 血が出てる!」
「ケハッ……」
白水がまたしても苦しそうに咳き込む。口を押さえた手の指の間から、赤い水滴が垂れていた。吐血、と言う症状を見るのは、薫は初めての事であった。雹裡も完全に予想していなかった事であったらしく、驚愕に目を剥いていた。
「白水! おい、どうした! しっかりしろ!」
「ゴボッ、ゴホ……」
「白澤様、一時中断だ。白水の体から出て下さい!」
「娘が逃がしてくれぬ……!」
膝をついて、白水は真っ青になった顔で荒い呼吸を繰り返している。眉間に皺を寄せて、何かを堪えるように胸のあたりを掻いている。やがて胸を押さえたまま、白水は倒れた。地面に散らばる藁の屑が小さく舞い散った。白水はなおも苦しそうに嘔吐き、血反吐をばらまき続けている。
「おぉ……父よ! 父よ!」
くだんが唸りを上げた。闘牛場に入る直前の雄牛のように、頭を振って、しきりに足をばたつかせている。落ち着きを失っているのは、一目瞭然だった。
「どうした! 何があった! 父よ!」
見開かれた目の奥は血溜まりのように赤く、くだんの口からは甲高い金を切るような雄叫びが聞こえてきた。牛舎全体がくだんの戦慄きで大きく震えており、周りの雌牛達が不安げに鳴いている。
「ど、どうすれば……と、兎に角、ええっと110番!」
「落ち着きなさい、香田さん!」
冷静さを取り戻した雹裡の声が厳しく薫を窘めた。表情に若干の焦りが見受けられるが、薫程取り乱してはいない。
「救急車は119です。連絡は私がしておきます。香田さんは、白水さんを頼みます」
「た、頼みますって言われても……」
「この場にはくだんが居る。この場に人を入れる訳にはいかない。まずは彼女を外へ運んでください。可能ならば、県道まで出てもらいたい」
「わかった!」
「おおおおおぉぉぉぉぉん……! うおおおおぉぉぉぉぉぉぉん……!」
薫の言葉を掻き消すように、くだんが戦慄き始める。体中の毛が針のように逆立って、悔しそうに地団駄を踏んだ。それだけなのに、まるで地震でも起こっているかのように牛舎全体が揺れ始める。
「親父がぶっ倒れたくれぇで泣いてんじゃねぇよ!」
雹裡が両手を激しく叩いた。そこら中に散らばっている藁が風で巻き上げられる。雹裡が身体の前で円を書くように腕を回すと、巻き上げられた風が次第に彼の手元で渦巻き始め、一つの小さなつむじ風と化した。
「私はくだんを落ち着けるために少し残ります。後ほど、合流しましょう!」
雹裡が手元の小型竜巻をくだんに向けて押し出した。強烈な風圧と藁の雨に晒されたくだんは、驚いて後ろに大きく飛び跳ねた。
「……父を……返せ! 父を返せ!」
くだんの眼が、白水と、それを抱き起こす薫に向いた。薫は白水の肩に手を回す。持ち上げようとするが、白水の身体はすっかり脱力してしまっていて、上手くいかない。もう一度くだんに強風を浴びせかけながら、雹裡が見かねて叫んだ。激怒に近かった。
「いつまでモタモタしてやがる! 何の為の超能力だ! 少しは頭を働かせろ、このクソアマ!」
全くもってその通りだ。
薫が少し念動力を使うだけで、白水の身体は簡単に浮かび上がった。それを背に担いで、薫は駆け出す。牛舎の外へ飛び出し、風のような速度で老夫婦の脇をすり抜けて、雹裡の車まで至った。道路の左右を見渡すが、流石にまだ救急車は来そうにない。応急処置のやり方なんて、薫には分からなかった。
背負っているままよりは、下ろした方が負担が少ないだろう。薫は白水を下ろして、悩んだ。
「と、兎に角寝かせた方が……いや、でも」
吐いた物が喉に詰まり、老人が死亡したニュースがあった気がする。仰向けでは駄目だ。ならうつ伏せ……? 胸を圧迫してしまわないか? 身体を起こしておくべきか。いや、それこそ喉に詰まりそうだ。なら頭を下に……って、そんな無茶な体勢が正しいとは思えない。文字通り、あたふたと手を振り回す薫。
白水は荒く深い息を繰り返している。目は幽かに開いていて、薫の方を見ていた。
「ゴホ、ゴホ、ゲホッ!」
一際大きな咳をして、白水は首を上げた。声は発せなかったが、口が動いた。「大丈夫」と言っているように見えた。
「大丈夫じゃないよ!」
「……んすよ」
今度は、蚊の鳴くような小さな囁き声。白澤は白水の身体から出ていったようだ。
「ちっと、血ぃ吐いたくれぇで大袈裟なんすよ……こんぐれぇ屁の河童でぃ」
言いながら、白水は震える両脚に力を込めて、立ち上がろうとする。尻餅の体勢から、膝立ち、そこから両腕を踏ん張るが、身体が起き上がらない。到底大丈夫ではなかった。
「ぬぉ……なんの、これしき……」
「止めて! 無茶しちゃ駄目だってば!」
薫の瞳が薄緑に輝いたのを、白水はこの時初めて見た。突然、空間そのものが凍り付いたかのように白水は動けなくなる。薫の念動力だった。身体は身じろぎ一つ出来ない程強烈に拘束されているが、息苦しさは一切感じさせない。全身を屈強な腕で、しかし柔らかく包まれているような感触である。瞬きこそ出来るが、視線が動かない。口だけはかろうじて動いた。
「なんで止めるんすか……!」
「喋っちゃ駄目!」
「分かってねぇ。分かってねぇよ、アネキ」
白水は薫を、憐れむような目で見ていた。血がこべりついた口元に浮かぶ嘲笑めいた笑みが、酷く痛々しい。
「これでオマンマ食ってる以上……白水は止められない。白水は、プロなんすよ。だからどうか、アネキ、離して下せぇ。仕事はまだ終わっちゃいねぇんだ」
「どうして……貴方、まだ子供でしょ? 私よりも、雹裡さんよりも、クーちゃんよりも……。駄目だよ。子供の貴方がこんな無茶してるなんて……間違ってるよ」
「っざけんな!」
白水は歯を向いて激昂した。彼女がこうして自分の怒りの感情を見せるのを、薫は初めて見た。丸くて可愛らしかった瞳は良く研がれた剣のように鋭く、口から覗く獰猛な犬歯は、まるで狼のようだった。その顔は、先程見た雹裡の顔と、とても良く似ていた。
「たかだか三、四年早く産まれたからって調子に乗んじゃねぇよ……。アネキに何が分かる……白水は、もう子供で要られないんすよ。ガキを卒業して、一家の稼ぎ頭として雪町家を背負っていかにゃならねぇ、この白水の何が分かる!」
血を吐く事を厭わずに、白水は叫び続ける。喉が掠れて、殆ど声に聞こえなかった。狼の咆哮とほぼ同じだった。
「白水が居なきゃ……もうこの家は……」
声は最早出なかった。だが、口が動いていた。薫は、読唇術の心得がある訳では無い。白水が何を言ったのか、視界が霞んでいる薫には分からなかった。涙が流れそうになった。白水は、なお拘束を解くべく、もがこうとしている。痛々し過ぎて、もう見ているのも辛くなる程だった。
程なくして、救急車の音が彼方から聞こえてくる。
薫は、白水の身体を地面に下ろすと、白水は匍匐前進のような体勢で、なおも先程の牛舎に向かおうとしていた。薫はもう、それを止める事さえしなかった。
「患者は!?」
雹裡の車の脇に一時停止した救急車から、二人の隊員が担架と共に現れた。薫は文字通り這い回る白水の身体を押しとどめ、救急隊員に引き渡す。救急隊員は二人とも、怪訝な顔をしていたが、白水の口元の血痕を見て、慌てて彼女を担架に乗せて、救急車に飛び乗った。
白水が抵抗しなかったのは、諦めたのか、単に抵抗する力が残っていなかっただけなのだろうか。
考えるまでもない。後者だ。
薫は目に浮かぶ涙を拭いてから、後からやってきた雹裡と共に救急車に乗り込んだ。