1−5 喰らう学生
昼休み。雲海は自宅から持参した弁当の小さな風呂敷包みを解いた。中身は何時の時代の弁当だと言いたくなるような、海苔の無い裸の梅おにぎりとたくあん二切れが笹の葉に包まれただけの、簡素な内容である。決して家が貧乏な訳ではない。ただ、彼の実家の習わしなのだ。なんでも御先祖様のお坊さんが大昔、旅の野武士や行脚僧侶に握り飯をよく振る舞っていたのがルーツらしい。そんな経緯があって彼の家系に置ける弁当とは握り飯なのである。
「……納得いった?」
「ん、そうだね」
隣の席の薫が雲海の弁当を物珍しそうに眺めていたので、彼はわざわざ握り飯に込められた御先祖様への尊敬の念を語ってやったのに肝心の薫は然程興味なさげに頷いただけだ。同クラスで隣の席とはいえ、つい今しがた会ったばかりだと言うのに少々無礼ではないだろうか。雲海はたくあんを摘んで口に放り込み、次いで握り飯を頬張りながら、薫を見やる。薫は握り飯を見つめながら、雲海に再び質問をぶつける。
「空峰君……だっけ」
「空峰雲海。君は香田さん、でいいんだよね」
「うん。それより、雲海って……何か、凄い格好いい名前だよね」
薫の笑みは固いが、雲海にとってはその表情は慣れたものであった。最初に雲海の名を聞いた者は大抵同じ様な顔をする。雲海本人も、少し奇妙な自分の名をあまり好いていなかった。生まれて来る子供は名を選べない。それが不幸だと彼は常々嘆いていた。
「実家が寺でさ。法名みたいな名前なのはそのせい」
「お寺?」
「そっちの窓から外見てみな」
言われるがまま薫が席を立って、教室の後ろを抜けて、校門が下に見える窓から外の景色を眺める。
先程自分が迷っていた辺りが随分遠くに見えたが、薫はそれを忘れる為にすぐに目を離して山の方を眺めた。青々とした森が繁る山は何となく彼女の故郷を彷彿とさせるのか、薫はしばらく山の緑に釘付けになっていた。握り飯を右手に薫に付いていき、雲海は左手で窓の外から見える、今まさに薫が眺めていた山を指差した。
「あれは憂山って言うんだけどさ。
そこのすんごい山の奥の方に据膳寺って名前の寺があるんだ。そこが僕の家」
「へぇ……随分遠いねぇ」
「もう慣れたけどね。香田さんは、どの辺に越して来たの?」
「何て言ったかな……神有無町」
額を指で突ついていた薫は、ようやく自分の住んでいる町名を思い出した。
「そこの親戚の家に住んでるの。なんか、近所におっきな公園があってさ」
「あの辺りとなると……結構遠くだね。電車で二駅位はあるよ」
「そうそう。私、殆ど乗った事なくて、電車の乗り方が分かんなくってさぁ。
どうにか乗れたんだけど、降りる場所忘れちゃって、随分変なとこで降りちゃた。
そのせいで遅刻を……」
薫はそこで言葉を切る。何かを嫌な事を思い出したかのように渋面を浮かべた。雲海も、彼女と同じ事を思い出していた。
「……香田さん。
沢田に呼ばれてたんじゃないの? 行かなくていいのかい?」
薫は憂鬱そうに首を項垂れた。頭の後ろに結われたポニーテールまで落ち込んで垂れているかのように見える。
「……行きたくないなぁ」
何故か雲海に懇願するような視線をチラチラと投げかける。何を頼まれてもどうしようもない雲海は、薫の視線から顔を逸らしつつ、一つ目の握り飯を食べ終える。
「ねぇ、沢田先生のお説教って怖い?」
「あんまり。怒鳴られたりする事は滅多にないから、安心して行ってきな。
遅刻程度だったら五分くらい小言を言って、それでお終いだ」
「まるで、実際にあったみたいな言い方だね」
実際にあったのだが、雲海はそれを明言すること無く、黙って薫に手を振ってみせた。不満たらたらな様子の薫は渋々ながらも教室の外に向けて歩み出す。雲海が開いていた窓の枠に腰掛けて、廊下に消えた薫の背中を見送った後、近くで弁当を食していた少女が雲海に声をかけた。
「初日から仲良いね、クーちゃんと転校生ちゃん」
「……別にそうでもないよ。向こうが妙に人懐っこいんだ」
「でれでれニヤついてたくせに何言ってんだか」
いつの間にこちらの様子に気づいていたのだろうか。茶髪のボブカットと、挑みかかるような強気な光を宿す目をもつ女子が、雲海に不敵に微笑んでいた。鼻筋は真っ直ぐで、整った細眉と長い睫毛が目を引く。薫とは真逆の、垢抜けた女性らしさを持った、しかし薫に負けぬ程に元気溌剌な少女が雲海の目に映っていた。その少女がYシャツの胸ポケットから薄いメモ帳、シャープペンシルを取り出しているのを見て、雲海は溜め息を吐く。
「真見ちゃんは、あの子を見てどう思う?」
「どうも何も、朝から気になりっぱなしなんですけど」
何故か得意げに鼻から息を抜くその少女は、相川 真見と言う。雲海や薫と同じく、杵柄高校一年五組に所属する学生である。社交的な性分の賜物か、クラスメイトからの人気も男女問わず高く、雲海も彼女とは中学からの同窓と言う事もあってか中々に仲が良かった。ただ人にあだ名をつける妙な癖でもあるのか、雲海は彼女から姓の空の字から取って『クーちゃん』と呼ばれている。馴れ馴れしさと親しみやすさは紙一重の差だが、雲海にとって相川は親しみやすい方に部類される女子だった。
その相川は、シャープペンシルを指で回しながら、薫の去った後の彼女の席を睨みつけていた。
「でも遅刻するし、昼休みは呼び出し喰らってるし。インタビュー受ける気あるのかしら」
歯を剥いて指を鳴らす些か凶暴な彼女を見て、雲海は呆れたように呟いた。
「ないと思うぜ、そんな気」
「えー、なんでよぅ」
への字に口を曲げる相川。
「大体、アポだって取ってないじゃんか」
「転校生よ? 転校生の初日と言えば質問攻めに遭うのが恒例行事っしょ」
どうやら彼女は薫を質問攻めに遭わせたいようなのだが、肝心の薫には躱されっぱなし。それが不満らしく、中々上がってこない原稿を待つ雑誌の編集長のように机を指で叩いている。焦る必要はない筈なのだが、ここで雲海は何かに気がついたように掌で手を打つ。
「そうか、真見ちゃんは新聞部だよな」
「……今更ねぇ。折角の転校生なんだし、良いネタになるかなと思ってさ」
杵柄高校には文化系活動部の一つとして、新聞部というものがあった。学校新聞の枠に捕われず、地方新聞が取り上げるローカルな事件やら、市議会議員の選挙の結果と言う高校生が興味を持つのか怪しい有象無象の学外の情報も積極的に掲載するような本格的な新聞を作っている部である。部員達も活動熱心で、相川真見はその最たる例だ。こうして流れる日常に於いても決して油断せずに記事のネタを探す姿勢には、雲海は前々から驚嘆していた。些細なことで苛立っている彼女を見ると、決して尊敬する事はできなかったが。
そんな彼女が手にした手帳の表紙には『1-5 新聞用』と書かれている。どうやらネタ帳らしいそれを雲海が覗き込もうとするが、勘のいい相川は先んじてそれを閉じる。
「見ちゃダメ、エッチィ」
「手帳の何処にエロい要素があるんだよ」
雲海の厳しい声を聞いても悪戯っぽく微笑んでいる相川は、諦めてポケットにメモ帳をしまい、手に箸を握り直す。
「この際、放課後でもいいや……」
「その方がのんびり話も聞けるだろうしね。僕も新聞、楽しみにしてるよ」
「あれ。クーちゃんはお話聞いていかないの? 帰宅部じゃん、アンタ。一緒に追いつめようよ」
「何を質問するつもりなんだよ……。
悪いけど、今日は父さんに早く帰ってこいって言われてんのさ」
「……へぇ」
丸刈りの頭を掻いて、ばつの悪そうに苦笑する雲海。家の事情にまで首を突っ込んで尋ねる事は流石に憚られたので、相川は早々に話題の転換を図る。ふと時計を見れば、昼休みの終了五分前であった。だが、教室には未だに薫の姿は見えない。
「そろそろ昼休み終わるけど、あの子、来ないね」
「説教が長引いてるんじゃないかな?」
「案外、教室の場所が分からなくなってたりして……」
杵柄高校は私立校であるためか、一般の公立よりもかなり広い。一学年は十二組まで有るのだから、それに付随する特別教室も自然と数が多くなっていくのだ。体育館が三つ、会議室が四つある上、学生教室のある校舎と特別教室の校舎が別棟にある。校舎は南と北、東の三つ。それぞれに多種多様な教室が混在している状態である。入学当初は彼ら二人もよく迷った物だが、何の事はない。至る所に校内の地図があるのだ。地図も碌に読めないような人間でなければ、まず迷わずに目的地にたどり着ける。
「それはないな」
「だよねぇ」
笑い合う二人。まさか本当に、薫が地図が読めずに迷子になっているなんて知る由もなく。