7−3 境内に佇む巫女
まるで屋根の様に陽光を遮る、鬱蒼と茂った杉林。そしてその杉のドームに、ぽっかりと穴が空いたように吹き抜ける青空。その中心に、まるで杉林よりも昔からそこに居るような古ぼけた風格を備えた神社が門を構えている。
その神社は白蝦蟇神社と言い、近隣の住民達からも碌に存在を覚えられていないような、裏寂れた神社であった。
そしてその神社の、一対の狛犬が囲む参道の真ん中に、まだあどけない顔立ちに似つかわしくないような、袖丈の余った巫女装束を身に着けたおかっぱ頭の少女が一人立っていた。
夏の暑さのせいか、あるいはその暑苦しい服装のせいか。彼女の額からは玉の汗が垂れ顎を伝い、参道の石畳に雫が一滴垂れる。顔を顰めた少女は、自身が纏っている巫女装束の白衣の袖で額の汗を拭う。
袖が濡れてしまって気持ちが悪いのか、少女は逡巡した後にその袖を肩までめくり上げた。両袖をめくり上げると、江戸時代の役人が身につけていた肩衣の様に少女の肩は妙に広がって大きくなる。
それでも暑さは抜けないのか、今度は装束の胸元を少し緩めて、手を仰いで風を送る。
「……白水さん」
見かねた様子の年若い男が、少女の三歩先の鳥居に寄りかかっていた。
純白の狩衣に群青色の袴を履いたその男は、白水と呼ばれたその少女よりも長い髪を掻き上げながら、少女の方に歩み寄る。白水は一旦手を休め、男の方を向いた。
そして彼女の手が自分の紅袴の裾をまくり上げようとしているのを見て、男は足を速めて白水の腕を掴んだ。
「なんすか、兄貴」
白水がぶっきらぼうにそう言うと、男はやんわりと首を横に振る。
「はしたない格好はお止め下さい。仮にも白水さんはこの神社の」
「暑ぃんすもん」
男の言葉を遮ってまで我が儘を言う白水はもう一度袴の裾を捲ろうと身を屈めるのだが、男はもう一度その腕を掴んで強引に引き上げた。目を合わせようとしない少女に顔を近づけて、男は大真面目な声を出す。
「我慢して下さい。間もなくお客様がいらっしゃいます」
「えー? 兄貴だって暑いでしょ?」
「心頭滅却すれば火もまた涼し、と申しまして」
「どうせ全身に冷えピタでも貼ってるに決まってるっす」
「……いえいえ、決してそのような事は」
顔を引き攣らせつつ控えめに否定して、男は少女から手を離し、軽く袖を捲り、左手首の腕時計を確認した。時刻は二時を少し過ぎた辺り。日差しの強さには納得がいったが、男は一つ納得がいかないことがあった。
白水から顔を逸らした男は、彼女には聞こえない大きさで舌打ちをした。
「……ユリアンの馬鹿はいつになったらあの馬鹿面下げて来るんだ? 約束は一時半だった筈だ。あの馬鹿は時計の見方も知らねぇと見える」
「あんまり馬鹿馬鹿言ったら可哀想っすよ」
「愚かな者には馬鹿って言ってやって分からせてやる。それが、私の優しさなのです」
何故か得意げで邪悪な顔をしてみせる男に向けて白水は何も答えず、男の言葉を無視して袴を膝上まで一気にめくり上げた。
「……そんなに暑いですか?」
「クソ暑ぃっす」
「ならば、仕方がありませんかね」
その男はそれ以上もう何も言わず、白水に背を向けて鳥居の向こう側に行ってしまった。
去り際の彼の仏頂面を見て、白水はまるで見比べるようにして隣の狛犬を眺めた。来るべき魔を退ける石の番犬の威嚇するような表情は、怒った時の彼に良く似ている。狛犬の鼻先を撫でると、風雨に晒されて表面が荒くなった石の硬い肌触りが返ってくる。
彼……自分の兄の怒りの表情を最後に見たのはいつだったか。
もう記憶の彼方の光景のような気さえしていた。代わりに見るのは、今しがたの様な無表情。まるで全てを諦めたかのような、温かみも冷淡さもない、およそ人間味の感じられない表情だ。
「冷たい兄貴っすね」
「ウン、ソウダネー、ハクスイチャン」
「きゃあぁ!」
狛犬が返事をした。
白水は慌てて飛び退いた拍子に後ろに転げて強か頭を打って目を回す。
その様を見て指を指して大笑いする金髪の男と、青い顔で申し訳なさそうに控えめに佇む女が狛犬の背後から現れた。
「HAHAHAHA! 久しぶりぃハクスイ」
「ユ、ユリアンの兄貴? どっから来たんすか?」
「Surpriseの為にそこの薮を抜けて馳せ参じた次第なのだよ!」
何がそこまで可笑しいのか、膝を叩いて腹を抱えて涙を流す程笑っているその男は、白水の知己であり、同時に本日来るべきお客様であった。何時ぶりか思い出すのは困難極まる程度に幼い頃に顔を見ただけであったが、彼の巨躯と妙な言葉遣いは白水の脳裏にしっかりと刻まれていた。
立ち上がって尻の埃を払った白水は、頬を膨らませてユリアンを指差した。
「酷ぇっす! 散々白水達を待たせた挙げ句にこの仕打ちたぁ勘弁ならねぇ! 表に出ろやぁ、このパツキンマッチョ!」
「Wait、Wait。第一、ここ表やで」
「あ、あの、ごめんね? ユリアンがどうしてもって言うから」
大笑いするユリアンの脇に立っていた髪の長い女性が、両掌を合わせて小さく頭を下げた。白水は初めて見るその女性に歩み寄って、目を丸くして彼女の周りをぐるぐると回って四方から眺めやった。女性は白水から眺められればられるほどに身体を小さく縮めようと肩を竦めていく。
「……こっちの人は?」
「初めまして。香田薫って言います。ええっと……白水ちゃん、で良いのかな?」
「っはー、この人が兄貴が言ってた、噂の超能力者っすかー。白水、初めて見たっす」
マジマジ眺められて恥ずかしいらしい薫は、敢えて前に出て白水を見下ろした。
白水の背は、少々小柄な薫よりも頭一つ分小さい。140cmあるか、ないか。小学生高学年から中学生一年生くらいの外見をしていた。おかっぱ頭と柔らかそうな頬が、彼女の幼さを更に加速させている。
「なんか超能力見せてほしいっす! スプーン曲げとか、人体切断とか、空中浮遊とか!」
「別にマジックショーじゃないんだけど……まぁ良いや」
渋る薫だったが、目を太陽のように輝かせる白水に根負けして、薫は財布から取り出した五円玉を掌に乗せて白水に見せた。
「これをよく見ててね」
それを握り込んで、その手を遠くの賽銭箱に突き出す。やがて賽銭箱から乾いた音が幽かに聞こえ、薫が手を開くと五円玉は消滅していた。
「御覧の通り、五円玉が賽銭箱に瞬間移動しちゃいました。御願いは、白水ちゃんに喜んでもらえますように……なんちゃってね」
成功した初舞台のマジシャンのようなしたり顔の薫を、白水は煌めく瞳で眺めていた。しばらく驚いて惚けた顔をしていた白水だったが、やがて諸手を上げて感情を爆発させた。
「すっげぇー! カッケーっす! ね、ね、ユリアンの兄貴もそう思うでしょ!」
「Yeah、Yeah。ハクスイは可愛いのう」
ユリアンが、大きく手を振って拍手する白水に同調してやる。
白水は辺りを見回した後、二人に背を向けて鳥居の向こう側に駆け出した。
待ってみると、白水は朗らかに笑いながら、しかめ面の男の手を引いて再び薫達の前に現れた。手を無理矢理引かれる男は、明らさまに嫌な顔をしている。
「兄貴、兄貴! 薫のアネキ超凄いんすよ! 五円玉がワープしたっすよ、ワープ!」
「分かりましたから、白水さん、そう引っ張らないで下さい……。……おぅ、ユリアンと……例の超能力者、でしたか」
そう言って男はけろりと顔色を元に戻して、慇懃に頭を下げた。
「私はこの神社に勤めさせて頂いている、雹裡と申します。どうかお見知りおきを」
「は、はい。こちらこそ」
「ね、ね、薫のアネキ。さっきの、もっかいやってくれねぇっすか?」
白水は両手を胸の前で小さく握って鼻息荒くそう嘆願した。せがまれた薫は断る気もさらさらなく、もう一度財布を取り出したが、雹裡が手を差し出してそれを制した。
そのまま身を少し屈め、白水の耳元で小さく囁く。
「白水さん、ここからはお仕事の時間ですので……」
「う……そっすね」
「立ち話もなんですから、本殿でお話を。薫さんも、ついでにユリアンも」
「ついでってのは酷いのね、ヒョーリ?」
丁寧な態度を崩さなかった雹裡だったが、ユリアンの不満の声に整った顔立ちを崩した。
「はぁ? てめぇなんてマジでついでだろうが」
急に口調の崩れた雹裡を見て、薫は違和感を覚えずにはいられなかった。
まるで急に中の人格が入れ替わったのではないかと思う程フランクな言葉を吐いた雹裡なのだが、不思議に思っているのはこの場では薫だけのようである。
「んなこたありまへんで。我も見たんですもの、U.F.Oを」
「ま、その辺も含めてゆっくり話してやりな。こちらの白水さんに」
いやらしく口角を上げた雹裡は、本殿の方に足を向けて行ってしまった。白水は一瞬だけ奇妙に顔を歪めたが、何も言う事無く彼の背中を追いかけるように歩みだす。その二人を見比べた後、薫は隣に並んだユリアンに小声で尋ねた。
「ねぇ……あの雹裡って人って」
「ハクスイの兄貴ですぞ。ユキマチヒョーリ」
「……妹に敬語使ってるの?」
初対面の薫に対しては兎も角、恐らく知り合いなのであろうユリアンに対してはかなり態度を崩していた。
普段から誰に対してでも敬語を使って話している、と言う訳ではないらしい。なのに肉親である筈の妹に対してあの口調なのは、少し妙である。
白水は白水で違和を感じているらしく、先程の奇妙な表情からは、戸惑いと苛立ちが混じったような感情が見え隠れしていた。
薫の懸念はユリアンも感じていたようで、ユリアンは渋い顔をした。
「色々あったのでしょう」
ユリアンはそれきり何も言わずに、二人の後を追っていった。彼が何か知っている事は容易に想像がついたが、薫はそれ以上は何も言及せずに黙って本殿に足を向けた。