7−1 追い出された兄
バケツをひっくり返したような激しい豪雨が降りしきる夜だった。風がなかった事、そしてまだ温い初夏の雨だった事は、少年にとって救いであった。
もしこれが真冬の出来事であったら、少年の命はなかったかもしれない。
「このおおうつけがっ! 分際を弁えるまでそこで反省しとれ!」
辺りには胴間声が響き、烈火の如く怒れる父親の手によって、少年は家から、文字通り投げ出された。
掴まれたシャツの襟首は伸び、蹴られた背中は少し痛い。戸が断たれる音が雨音掻き消されつつも、かろうじて聞こえた。地面に伏していた少年は、起き上がろうともしない。打ち付けられた全身が痛かったが、それが原因ではない。服が泥にまみれようが、身体が雨で冷えようが、あるいはこのまま本当に家に入れなくてひとりぼっちになろうが。
少年にとって、全てが些事のように思えていた。
「白水……」
憤怒の化身と化した父親の腕に抱えられていた、一人の少女を思い出す。
ちょっとした喧嘩だった。兄妹には付き物の、ただのオヤツの取り合いである。それだけの事であり、紛れもない決定的な切っ掛けだった。
妹の片頬が赤く腫れていたのを思い出して、自分の右手を眺める。殴った方も痛いと言うのは本当だった。妹の泣き顔を思い出して、少年は赤くなった手を強く握りしめた。
後悔する訳にはいかなかった。ここで後悔すれば、全てを肯定しなければならなくなる。
特別愛される妹。特別な「力」をもった妹。そして、それに嫉妬する自分。肯定すれば惨めな思いをするのは自分だけだ。まだ幼い少年にも、幼い少年だからこそ、彼には意地があった。人懐っこく甘えてくる妹に対する兄としての、ちっぽけだが確固たる大切なプライドが胸の奥底に根を張っていた。
「……おにいちゃん」
玄関の戸が再び開いた。
細長く明かりが漏れ、少年の背を照らした。聞こえてきた妹の声に反応して、少年はようやくその身を起こしたが、戸には背を向けたままだった。泣いている顔を見られたくなかった。
「ごめんなさい、おにいちゃん」
長く伸びていた妹の影が頭を下げているのを横目で見つめた少年は、何も言わなかった。
傘が開く音。泥水を撥ねる、軽い靴の音が順番に聞こえた。全身を伝っていた雨水が止まる。目の前に回り込んだ少女の小さい手は、父親の重くて大きい黒い傘が倒れないように必死で握りしめていた。
「かぜ、ひいちゃうよ……」
激しい雨が傘を打つ音の中で、少女は泣いていた。彼女とて、ここまで酷い事になるとは思っていなかったのだろう。
ただ、叩かれたから父に泣きついた。それだけで兄は何度も殴られ、挙げ句家の外に放り出された。いくら幼くても、それがどんなに理不尽であるかは理解出来た。しかし彼は、その理不尽そのものを理解していた。
「おにいちゃ……!」
少年が、傘を持つ妹の手を払いのけた。傘が遠くに弾き飛ばされ、二人は雨に晒される。顔は俯けて目を合わせず、少年は小さく、一言だけ呟いた。
「良いんだ。全部分かったから」
少年が何を言っているのか、少女には分からなかった。しかし再び顔を上げた少年の視線に、少女は戦慄する。
怒りや憎しみが浮かんでいるならまだ良かった。
少年は、ただただ死んだ魚のような輝きを失った、くすんだ目をしていた。
妹である筈の彼女を、彼はまるで路傍の石を見るような無感情な視線で貫いていた。
「良いんだ。もう……良いんだよ」
うわごとの様に呟く少年に怯え、少女は立ち上がって傘を拾い上げ、家の中に走り去って行く。少年は彼女の背を見る事も無く、身じろぎ一つせずに、雨に打たれる偶像と化していた。口元には、無理矢理作ったような不自然な微笑みが浮かび上がっていた。