6−9 本物の化け物
「へん。半分人間のお前が、私に何をしようというんだっ!」
化け猫が不意を打って、畳に巨大な爪痕を残しながら、頭から夜恵に突進した。轟と風が逆巻き、横井は思わず顔を庇い、腕の隙間から夜恵を見た。
夜恵は僅かに反応は出来たがその一撃を避け切れず、猫の心臓を持っていた右手を思い切り噛み切られた。千切れた手首から迸る血を顔に浴びながら、化け猫は夜恵の右手の骨を噛み砕く。
「返してもらうよ、私の心臓」
フライドチキンの骨を噛み砕く様な咀嚼音とともに、化け猫はそう言った。
そのまま夜恵の右手を飲み込んだ化け猫は、身を翻して右手首を押さえて痛みに顔を歪める夜恵の胴を後ろ足で蹴り飛ばした。夜恵はまるで紙人形のように軽々と宙を舞い、抵抗無く背中から畳に落下し、激しく咳き込んだ。
仰向けに倒れた夜恵の肩を押さえ込んで見下ろしながら、化け猫はその大きな口を更に巨大に開く。顔全体がザクロのように大きく八つに裂け、巨大な花びらの様な形状の口になっていた。先程までの勢いはどこへやら、それを見上げた夜恵は、横井にもハッキリと分かる程怯えた表情をしていた。
「良い顔するねぇ、お前。中途半端ってのは可哀想。楽にしてやろう」
化け猫は夜恵を嘲笑いながら、躊躇い無く彼女の首を口に含んだ。
夜恵は逃れようと身を捩っていたが、何か固いものが砕け散る音と共に身じろぎを止め、暴れていた手の無い両腕が脱力して垂れ下がった。
横井は自分が絶望の淵に立たされている事を理解した。
例え半分妖怪と言えども、半分は人間。首を貫かれても生きていられた彼女だったが、頭を噛み砕かれて生きていられる様子が想像出来ない。
「さぁて……勿体ないから全部食べちゃうかな」
化け猫が呑気な台詞を吐いた。部屋の隅にしゃがみ込んでいる横井には目をくれず、化け猫はそのまま血塗れの夜恵の身体を見下ろす。
あまりにも呆気ない幕引きだった。
化け猫は素早過ぎた。夜恵が反応出来ぬ程に。夜恵が如何なる手段をもってして化け猫を倒そうと思ってたのか横井には分からないが、もはや手遅れだ。どんな案があったにせよ、夜恵は頭を食われてしまった。夜恵も横井も、このまま化け猫の胃袋の中。横井に出来る事はもう無い。
首のない夜恵の身体を前足で押さえ込みながら、化け猫が横井の方に顔とも言えぬ程巨大な口を向けた。
「っとそれより前に、だ。生きてる奴らの処分が先だな。次はお前か……それとも天心か」
「なっ……! 天ちゃんはお前にとって、大事な」
「そうだったけど、事情が変わった。ここに居る三人全員食えば、俺もそれなりに力を付けられる。こんな坊ちゃんの腹の中で燻ってる必要もなくなるのさ」
そう言って化け猫は天心に振り返った。
「お前、脂っこそうだねぇ……後回しにしてやるよ」
化け猫は天心に狙いを定めたようだった。動かなくなった夜恵の身体から前足を降ろし、眠ったように安らかな顔で気絶している天心の方に足を一歩進める。
「や、めろ……」
横井が声を振り絞った。腰が抜けているため、立つ事は叶わなかったが、横井は震えながらも両手で何かを握っている。それは赤いピコピコハンマーであった。それをまるで、剣道の竹刀のように構えて、化け猫を泣きながら睨みつけている。
「……何やってんだ、お前」
化け猫が呆気にとられた。本当に戸惑っているらしく、化け猫は足を止め、横井に顔を向ける。横井は生まれたての子鹿よりも頼りない足で何とか立ち上がって、化け猫に対して正面を向きながら、ゆっくりと摺り足で天心と化け猫の間に割って入る。
「て、天ちゃんは、お、お、オレがま、守る!」
何度も噛みながら、何度も嗚咽を漏らしながら、何度も手からハンマーを落としそうになりながら、横井は今まで見てきたライトノベルの主人公の立ち絵姿を真似しながら、威嚇するように鋭い涙目で化け猫を睨んだ。
死への恐怖で目が眩む。夜恵が頭を砕かれた瞬間が脳裏をよぎり、それだけでも意識が遠のきかける。しかし横井は必死になってそこに立っていた。
「こ、このハンマーはな……このハンマーはなぁ! どんな化け物でもこれで頭を殴られたら、十時間は目覚めないんだぞぉ!」
「ほぅ……」
化け猫は僅かにも動揺した様子はない。横井がハンマーを振っても、当たる訳がないと確信していた。どこをどう見ても隙だらけの横井だったが、化け猫はすぐに襲いかかる事はしなかった。むしろ怯え切った横井を見て、楽しそうに笑う。
「きゃははは! やってみなよ! そのハンマーで私の頭を、叩いてみろよ!」
「う……うううぅぅ!」
歯を食いしばり、ハンマーを思い切り振り上げた横井。化け猫は、突き出た横井の腹に向けて思い切り息を吹きかけた。息は突風となって吹き付け、横井は無様に飛ばされて、壁に叩き付けられた。
「友達想いの親友をもって、天心は本当に幸せな奴だねぇ。間違いなく天国に行けるさ」
「ふ、ふざ、ふざけん、ふざけ……」
横井は立ち上がろうとするが、足がもう立たない。背の痛みが、横井の身体のコントロールを失わせていた。それでも横井は、ハンマーを片手に這うように化け猫に向かう。
「オレッチはいっつも天ちゃんに守られてばっかで……だから、今度はオレッチが……オレッチが助けてやらなきゃいけないんだ!」
「見上げた友情だとは思うけど……流石に鬱陶しいよ、お前」
化け猫が、獅子のような方向と共に横井に殺気を向ける。しかし横井はもう怯えていなかった。怯える余裕さえもなかった。ただ天心のために、化け猫をどうにかしなければと言う一心だった。
化け猫は舌打ちをする。恐怖を感じてくれなければ、生かしておく意味もない。だったらどうするか。答えは一つしかなかった。
「お前からぶっ殺してやる」
化け猫が、夜恵の頭を食った時のように口を大きく開けた。そしてそのまま横井の頭に軽く噛み付く。
「せいぜい痛がれよな! このデブがっ!」
怒気を含んだ化け猫の雄叫びが、横井の耳元で叫ばれた。
横井は悔しかった。数秒後、自分は死ぬ。そして天心も。自分はあまりにも無力だった。天心を救う為に、何もしてやれなかった。もう諦めるしかない、と思い知らされるのが何よりも苦痛だった。
「ごめんね、天ちゃん……」
小声で謝った横井は、来るべき痛みに耐える為に目を瞑った。
……しかし。
一秒待っても二秒待っても、化け猫の顎は動き出さない。
「まだ生きてられるんだ……半妖ってのは案外タフなんだなぁ」
化け猫が忌々しげに呟いて、横井の頭を離し、横井はそのまま倒れ伏す。
何が起きた、と横井が顔を上げた先では、頭と両手を失った夜恵の身体が、痙攣するように僅かに動いているではないか。それ所か、何かを探し求めるように起き上がり、両腕をあたふたと所在なく振り回し、あたりに吹き出す血液をばらまいていた。その光景に、横井は全身が総毛立つ。
夜恵は、間違いなく化け物だった。
「おいおい、気持ち悪いぜ、お前……」
夜恵を見て、化け猫は一瞬だけ怯えた様な声を出しつつ。
今度は体全体を丸飲みにするつもりで更に大きく口を開ける。そしてそのまま夜恵の胴体に噛み付こうとした所で、化け猫はその動きを止めた。
「……今、怯えたね」
耳元で囁かれる様な声が、横井にも化け猫にも聞こえていた。夜恵の声だ、と化け猫が気がついた時には既に遅かった。
「嘘だろ、おい……」
弾けとんだ筈の夜恵の左肘のあたりに、部屋に霧散していた肉片と血液が集まってきていた。
辺りにばらまかれた血は粘つきのある塊と化し、ミミズのように身体の上を這い回って傷口に飛び込んでいき、肉片は粘土のように混ざりながら左腕の先に結合していき、見る見る内に千切れた左腕が生えてくる。
植物の成長を早回しで見ている様な速度で元通りの形状を取り戻した夜恵の左腕は、おもむろに目の前にあった化け猫の頭部に手をかけた。
「返してもらうよ、私の頭と右手」
もう一度、意趣返しのつもりらしい夜恵の言葉が横井と化け猫の耳を打つ。
夜恵の左手の指が銛の様に長く伸びていく。皮膚を突き破って露出する白骨は、最早骨の槍であった。唖然としている化け猫の口の中に、彼女の左腕が勢い良く突き込まれる。化け猫の苦悶の表情を全く意に介さず、化け猫の喉を破壊しながら進んだ左腕は、肩まで化け猫の体内にめり込んだ。突然の衝撃と痛みに、化け猫は身を竦ませて動けない。その隙に夜恵は化け猫の体内から、左手に右手と頭を掴んで引き抜いた。
「げゃあぁあ!」
化け猫の咆哮とは裏腹に、夜恵はゆっくり茶でも飲むような緩慢な動作で、引き抜いた自分の右手を右腕の先に、まるで機械のパーツを換えるようにいとも簡単に取り付けた。次いで畳に落下した半分潰れかけていた頭部を両手で拾い上げ、元通り首に乗せた夜恵は、立ち上がって血反吐を吐きながら咳き込む化け猫を見下ろした。
切断部分は完全に傷が塞がっており、砕けていた筈の頭部も完全に無傷の状態まで回復していた。口元に歯を剥いた狂気染みた笑みが浮かび上がるのを見て、横井は勿論、化け猫までもが震え上がった。
「勿体ないから全部食べる。中々良い心がけ」
「お、お前、まさか……」
夜恵は、両掌を合わせて拝む様なポーズをとった。
両手の肉が泥の様にとろけ、両腕の境界が無くなり一本となった手先。
それが、ヘリウムを注入している風船の速度で膨れ上がり、すぐに自身の身体よりも遥かに巨大な球形の肉塊に変貌する。
「お前……なんだってんだよ……」
肌色の球体に、一本の赤い亀裂が横に走った。大きく裂けた球体の内部から、蛇の様に先の割れた細い舌が覗いている。巨大な口であった。化け猫が開いた口よりも、遥かに巨大で、残酷な口。
「私も、貴方を全部食べてあげる。血の一滴も残さず、綺麗に」
内側に生える鋭い骨突起は、まさしく肉食獣の牙。美味そうな料理を目の前にしたかのように舌舐めずりしている。
夜恵の顔は巨大な口に隠れて化け猫からは窺えない。しかし、横井は見てしまった。口から涎を垂らして、空腹に目をぎらつかせて、興奮に荒ぶる獣がそこにいた。
「いただきます」
「ま、待て! 頼む、待ってく、あ、あぁ」
夜恵が両腕を突き出し、両手を変形させた巨大な口で化け猫に頭から噛み付こうとする。
化け猫はまるで人間が抵抗するように腕を突き出したが、鋭い牙は化け猫の肉体をまるで豆腐を切り取るようにいとも簡単に切り裂いた。化け猫の両前足が口の中に消滅する。バランスを崩して仰向けて倒れた化け猫の後ろ足に、間髪入れずに再び噛み付き、噛みちぎる。
手足をもがれて動けなくなった化け猫の腹に、夜恵は容赦なく牙を突き立てた。
横井はこれ以上見ている事が出来ず、目を瞑ってただ成り行きをやり過ごすのが精一杯だった。聞こえてくる音は、一瞬だけ地獄の釜を掘り起こしてきたのかと思う程凄惨なものばかりだった。
気が狂ったように高笑いする息継ぎ無しの下品な女の笑い声。声帯が崩壊しかねんばかりに枯れた声で叫び続ける化け猫の悲鳴。時折畳や壁から聞こえてくる、水を弾いた様な音。骨を砕き、肉を引き千切る音。
目を開かなくても分かる。夜恵が妖怪を嬲っている様が。化け猫が恐怖に怯えて為すがままにされている様が。
そんな永遠に続くかと思う程の邪悪な世界は、たったの三分余りで終了した。
「……ごちそうさまでした」
夜恵の呟きと共に、横井は恐る恐る目を開く。
そこには、正座している木鉤夜恵と、微笑ましい寝顔を晒している天心がいるだけである。
畳は血で汚れている事もないし、壁に脳漿がこべりつ居ていたりする様子もない。血なまぐさい臭いさえ、全くしないのだ。
「や、夜恵氏」
声は裏返っていたが、横井は尋ねずにはいられなかった。
「ば、化け猫はどこに行ったのでありますか?」
「……」
夜恵は黙って自分の腹を右手で撫でた。
顔は少し俯け気味で、照れたように横井からの視線を逃れようとしているのが、横井には一層不気味に見えた。
「お腹が膨らんで恥ずかしい」
照れる女の子と言うのは横井にとっては至上の萌えの対象だったのだが、彼は顔を引き攣らせるばかりだ。最早夜恵を女性として、人間としてみる事は恐らく横井には出来そうにない。
「マジで食ったん……?」
「結構美味しかった。猫肉は珍味」
あっけらかんと言ってのける夜恵。
横井は一刻も早くこの場から走り去って何処かで頭を強く打ち付けてこの場での記憶を無くしてしまいたかった。中腰で立ち上がっている横井を見て、夜恵は静かに呟く。
「怖がらせてしまって、申し訳ないと思っている」
「え、いえ、そんな事は……」
少し寂しそうな声で頭を下げられた横井は、怯える事も怒る事も出来ない。逃げ出すタイミングを完全に見失った横井は、あちこちに視線を泳がせるばかりだ。
「確かに怖かったけど……ま、まぁオレッチちょっとはグロ耐性あるし」
「そう? あの化け猫には私も怯えていた程なのに、貴方はとても勇敢」
「いやアンタに怯えてるんだよオレッチは……」
間抜けなやり取りですっかり毒気を抜かれてしまった横井は、未だに幸せそうな寝顔で眠っている天心を見下ろした。
何も知らない、と言う事は、実はとても幸せな事。先程夜恵に言われたその言葉を思い出しつつ、横井には天心が酷く羨ましかった。いっそピコピコハンマーで一緒に殴ってもらった方が良かったのかも、と未だにハンマーを硬く握りしめていた横井は、それを軽く素振りした。
「一応、事件解決って事でおk?」
「おk、と言いたい所だが……全部は食べられなかった。千切れた尻尾が行方不明。恐らく、逃げられた」
「……大丈夫なん、それ?」
「尻尾程度では何も出来まい。精々子猫程度の姿を保つのが限界。だから、当面は問題無いはず」
夜恵が頼もし気に首肯してみせたので、横井はそれで納得する事にした。あとは眠りこけたままの天心が目覚めるのを待つだけである。しかし、横井は携帯電話の時計を見て、溜め息をついた。
「今は三時半。このハンマーで頭を殴ったのが三時頃だとすると」
「目覚めるのは十時間後の深夜一時前後」
横井は天心の頬を叩いたり、肩を揺すったり、電気按摩したりと試してみたが、天心は全く起きる気配を見せない。
寝ている人間をおんぶするのは大変である、と言う事を横井は人づてに聞いた事がある。天心は小柄であるが、連れて帰るとなると家の遠さが仇になる。横井は身体こそ大きいものの、力がそれに比例しているとはお世辞にも言い難く、空峰家までの遠路を天心を抱えて帰れるかどうか、とてつもなく不安であった。
そんな横井の渋い顔を見て、夜恵はふと顔を緩める。
「ここに泊まっていっても問題は無い。天心君も、貴方も」
「え……でも、それは」
「色々話したい事もある」
「はは、な、ならオレッチはお先に失礼して……」
そう言って慌てて夜恵に背を向けた横井の肩に、女の手が乗った。
振り返ると、座ったままの夜恵の右腕が三倍程に長く伸びて横井の肩を力強く掴んでいて、横井は驚愕のあまり腰を抜かしてしまった。夜恵はそれには全くお構いなく、そのまま横井の襟首を掴んで引き寄せた。
「貴方とも……とても有意義な話が出来る気がする」
夜恵は若干鼻息を荒くしている。
畳に引き摺られていた横井は、夜恵の言動を思い出して、逡巡する。確かに彼女は化け物である。でも、化け物でも気が合うのであれば、愛するものが同じならば、分かり合えるのかもしれない。彼女が無害である事は、この一連の出来事でハッキリしている。
横井は清水の舞台から飛び降りたような気分で腹をくくり、夜恵の前に正座した。もしかしたらと言う期待を持っているせいか、髪の向こうにちらつく、期待に輝きながら蠢く夜恵の目さえも今は気にならなかった。
「……夜恵氏」
「…………」
「『ブレイヴァス』って見てた?」
「アニメ見てから原作余裕でした。今ではブルーレイ全巻と原作全巻を揃える立派なブレ厨」
「好きなヒロインは?」
「フリージアたん一択」
横井は何も言わなかった。思わぬ返答に言葉を返せなかっただけかもしれないが、心臓が少し脈を早めたのに間違いはなかった。口に笑みが浮かぶ。今日は良き日であった。先程の惨劇も、或いはこの僥倖の前振りだったのではと思える程に。
PCディスプレイ越しでない、リアルの同胞。それは横井にとっては親友の天心と同程度に貴重な存在であった。横井はニヒルに微笑みながら、黙って右手を差し出す。夜恵は、当然のようにそれを手に取り、固い握手を交わす。
「長い夜に」
「なりそうだっ……!」
二人の思考は一文字も違わずにシンクロした。