6−7 飛び出した黒猫
金太郎伝説名高い坂田金時は、山姥が赤い龍との間に成した子であるという説がある。日本一名の知られる陰陽師の安部清明は、狐を母親にもった半妖である、という説がある。もしこの二人が伝承の通り、人間と人外の間に産まれた存在であるとすれば、これらは半妖と呼ばれる存在であった事になる。
半妖。
読んで字の如く、半分が妖怪の存在。人間と妖怪の混血と言う、極めて希有で、本来有り得べきではない存在。天心も噂だけは聞いていたが実際に目の当たりにした事はなかったので、いざ自分が半妖と化すと申告されても全く実感が湧かなかった。
「……僕が、半妖になる?」
天心の震える声に対して、夜恵は唇を噛み締めながら小さく頷いた。
「でも、半妖って普通、片親が妖怪の場合とか、そう言うでは?」
「例外が存在しないとは言えない。普通の人間でも、何らかの原因で妖怪と血液を共有してしまえば、半妖と化すケースがある」
夜恵の力強い言葉を受けて、天心は納得せざるを得ず、黙って頷くしかなかった。一方の横井は、どことなく楽しそうに目を輝かせて天心を眺めていた。
「天心氏、凄いじゃん! 半妖って事はつまり犬夜叉とかぬら孫とかと肩を並べる主人公的存在って事じゃんか! 見た目は可愛い猫耳娘、その実態は半妖の力を振るう正義の味方、的な!」
一人でテンションの上がっている横井を戒めるように、夜恵が髪を上げて双眸で横井を睨みつけた。今しがた金縛りを喰らった天心と同じように、横井もまたその身を凍り付かせる事になる。仰向けに倒れて痙攣する横井を軽く一瞥した天心は、再び夜恵に向き直る。
「彼は随分と肯定的に事態を受け止めているようだが、実際は一刻を争う深刻な事態」
「え、そ、そうなんですか」
一瞬だけどもる天心。まさか横井と少しだけ同じ事を考えていた、とはとても言える空気では無い。
「もしも完全に妖怪と同化し、半妖となってしまえば、その猫耳と尻尾は二度と取り除けない。死ぬまでそれを生やしたまま生活を送る事になる」
天心は頭に猫の耳を生やしたまま高校に通い、会社の面接を受け、やがて現れるだろう愛する人にプロポーズをし、生まれてきた愛しい我が子に頬ずりし、やがて孫の顔を見てシワシワの顔に笑顔を浮かべ、温かい家族に見取られながら先に逝った妻の後を追う未来を想像し、絶望した。それで平気でいられるのは余程猫耳が好きな人間か、ただのアホである。青ざめる天心に、夜恵は更なる追い討ちをかけた。
「そして半妖と化してしまえば、一握りで岩をも砕く膂力、首を切り落とされても死なず、どんな病気にもかからない生命力……そして、人を呪えば死に至らしめる、妖力を手に入れるだろう。現に貴方は、恐らくその力の一端を手に入れている筈」
横井を吹き飛ばしたタックル。迫ってくる車がスローモーに見える動体視力。ひとっ飛びで五メートルもジャンプする脚力。ガラスのテーブルに軽く手をついただけで破壊する程の腕力。心当たりがあまりにも多かった。
「当然、寿命も人間のそれではない」
「寿命も……」
「人間は、長く生きる者でも精々百から百二十。しかし妖怪は、無限に生きる。この星が存在し続ける限り、永遠に。半妖も例外ではない。貴方は、そんな途方もなく長い生を歩まなければならない。恐らく、人間の社会で生活を送る事は不可能だろう」
天心の肩が恐怖で震えていた。俯く顔色は夜恵からは窺えない。夜恵は尚、話を続ける。
「人間に諦めを付けて妖怪として生きていこうとしても、半妖は妖怪にも蔑まれる。迫害され、馬鹿にされ、惨めな思いを永遠に抱え込む事になる。人間としても、妖怪としても生きていけぬ半端な存在。それが半妖というもの」
「す、とっぷ、す、とっ、ぷ、ぅ……」
倒れていた横井が必死な顔を上げていた。金縛りが解けていないせいか、口調はたどたどしい。しかし、動ける事自体が驚愕だったようで無表情だった夜恵の口元が僅かに開いていた。
「てん、ちゃん、こわ、がってる……」
「…………」
夜恵が両手を叩くと、横井の身体が起き上がった。金縛りが解けた横井は、呼吸を整えた後、夜恵の方を睨みつけた。
「天ちゃんが怖がってるじゃないか……もう、止めてくれよ」
「本当の事を聞きたいと言ったのは貴方達」
「で、でも……」
反論を考えていた横井だったが、結局何も思いつかなかったのか、肩を竦めて項垂れた。代わりに隣の、今にも泣き出しそうになるのを必死で堪えている赤い目の天心の肩に手を乗せて、励ましてやるのが精一杯だった。
「今のは、仮に半妖と化してしまった場合の話。今から処置をすれば、まだ間に合う。しかし、悠長にしてはいられないのもまた、事実」
夜恵は天心の握り拳を手に取り、優しく指を開かせて、掌を見せた。その掌の中央部の肉が小さなお椀をひっくり返したような半球形に盛り上がっている。猫の肉球のようにも見えた。天心は、いつの間にか気づかぬうちに変化していた己の肉体に戦慄した。
「ぼ、僕は、あとどれくらいで半妖になっちゃうんですか?」
「恐らく、一両日中には」
「一両日……」
天心が唾を飲み込んだ、冷や汗垂れるその表情は、まるで凍り付いたように固い。その眉間が、少し歪んだ。そして、彼は小首を傾げる。
「一両日って、何日くらいですか?」
「ちょ、ここにきてまさかの天然ボケキタコレ!」
横井が呆れたように、しかし今までより遥かに陽気な喋りと共に自分の額を平手で軽快に打った。当の夜恵は無表情を貫いているが、一瞬だけ吹き出すのを我慢して頬が膨らんだのを天心は見逃さなかった。
「べ、別に良いじゃないですか! 本当に分からないんだから!」
「一両日とは、一日か二日。それまでに、貴方と妖怪の同化を食い止めなければならない。……一応、手は考えてあるから、安心してほしい」
夜恵は、飽くまでも淡々とした言葉遣いを崩さずに立ち上がり、部屋の隅にある押し入れの襖を開けた。
「先程の触診で判明した。貴方の体内に住み着いている妖怪は、化け猫」
「化け猫……?」
化け猫の仕業、と言うのは利休も雲海も述べていた見解である。あながち的外れでない事がわかり、一応兄への尊敬の念が保たれた事に天心は密かに安堵した。
「そう。多分、その猫が貴方を半妖と化している原因にして、黒幕。体内に住み着き、そのまま力を蓄え続けているものだと考えられる」
「そんな……一体いつから」
未だに押し入れを引っ掻き回す夜恵の背に向けて尋ねる天心。夜恵は時折押し入れの中から数珠やら穴だらけの狩衣やら御徳用の蚊取り線香やらを放り出しながら天心の問いに答える。
「化け猫に直接尋ねるのが、一番早くて正確……あった」
押し入れから這い出てきた夜恵が手に持っていたのは、俗に言うピコピコハンマーであった。柄は青で、槌は赤。ビニール製で、そのハンマーで物を叩くと「ピコッ!」と言う可愛い音を立てる玩具である。それを見て、天心も横井も疑惑を込めて夜恵とオモチャのハンマーを交互に見つめた。
「オモチャに見えるだろうが、これは私の呪力を込めた立派な呪具」
「もう少しマトモな物に呪力を込めて下さい……」
「これで頭を叩かれれば、例えボブサップのように屈強な人間であろうと、白面金毛九尾の狐のように邪悪な妖怪であろうと一撃で気を失い、十時間は目覚めない」
天心のツッコミを無視して解説を終えた夜恵は、おもむろにそのピコピコハンマーを振りかぶって、天心の頭を目がけて振り下ろした。天心は持ち前の反射神経と若干妖怪化が進んだ弊害で手に入れた運動神経をもって、紙一重でその一撃を回避した。
「いきなり何するんですか! そんな危ないもんで僕を叩こうとして!」
「気絶するだけ。単なる麻酔の様なもの。大丈夫だ、問題無い」
「いや問題しか無いでしょなんで僕が気絶しなきゃへぶっ」
遠慮等と言う言葉は夜恵には無かった。無情にも横薙ぎに振るわれたハンマーは天心の頬に会心の一撃を加えた。喰らった天心はきりもみ回転しながら畳の上に仰向けに倒れる。目は瞑られていて、眠っているように穏やかな表情をしていた。
「……準備完了。これより手術に取りかかる」
「手術って。夜恵氏は一体何をする気なん?」
「彼の体内から化け猫を呼び出して、話を付ける」
そう言って夜恵は自らの髪の毛を数本抜き取り、指の間に挟み込む。髪の毛を握っている手を一振りすると、垂れていた髪の毛は真っ直ぐに伸びて硬直し、長細い針と化した。そしてその先端を天心の身体に向けた頃、ようやく横井が口を挟んだ。
「ちょ、ストップ! それでどうする気!?」
「これを差し込んで体内を探る」
「差し込……! だ、大丈夫なの!?」
「五月蝿い、気が散る、一瞬の油断が命取り」
「ブロントさん乙。……って、あ、ちょ、入っ……うわぁ」
夜恵の長い髪の毛数本が天心の胸に、まるで注射針でも差していくように深々とめり込んでいく。横井は手で顔を覆いながらも、指の隙間からその光景を恐る恐る見つめやる。夜恵は更に髪の毛を引き抜いて次々に天心の身体に突き立てていく。
胸の辺りが黒い剣山と化した頃、夜恵が歯を剥いて不気味に微笑みつつ、僅かに弾んだ声を上げた。
「つぅかまぁえ、たっ」
握っていた髪の一端を引っぱり、勢いよく引き抜いた。天心の胸には傷一つ付いておらず、まるで先程まで髪の毛が突き刺さっていたのが嘘のようでさえあった。
しかし、今しがた引き上げた、先程まで天心のみぞおちに突き刺さっていたその髪の毛の先は、血を滴らせる卵くらいの大きさの脈打つ肉塊を貫いていた。そのグロテスクな物体を見て、横井は思わず口元を押さえる。臭いも、鼻が曲がりそうなくらい強烈である。
「化け猫の心臓。天心君の心臓と癒着しかけていたのを無理矢理引き剥がしてきた」
「ま、まだ動いてる……」
「この心臓が天心君のものと完全に合体すれば、身体に妖怪の血を流れ、彼は半妖と化すだろう。逆にこうして心臓を取り除いておけば、これ以上彼の妖怪化が進行する事はない」
現に今の天心の頭には猫耳が生えていない。妖怪化が止まり、元の人間に戻っている証拠である。
「じゃぁ、もう天心氏は人間に戻ったんだし、このままで良いんじゃ?」
「化け猫がもう一度彼の体内に潜り込んでしまっては意味がない。ここで完全に追い出しておくべき」
髪に突き刺さっている猫の心臓を手に落とした夜恵は、脈打つ肉塊を二三度手で揉んだ。指に粘つく血液が付着している。横井は思わず目を背けた。
「……で、夜恵氏、これからどうするん?」
「彼の体内に巣食っていた化け猫が、自分の心臓を取り返しに出てくる筈。……キタキタ」
夜恵が指差す先を見やった横井は更に我が目を疑う光景を目にする。眠っている天心の口が大きく開かれて、内側から猫の前足が突き出された。それを足がかりにして、天心の小さかった口から黒い猫の頭が飛び出してくる。
「みゃぁん」
一声鳴いた猫は、天心の口内からそのしなやかな身体を引っ張りだしてそのまま彼の胸の上に座り込んだ。全身が艶のある黒い体毛に覆われており、時折瞬く二つの目は新緑色に光っている。良く見れば、縄のように長い尻尾は三つ生えていた。
甚だ不気味なその猫は、夜恵の手の中にある猫の心臓に目を合わせて、歯を剥いて威嚇した。
「よくも私の心臓を……」
語気を荒くして猫が喋る。横井は、その猫の澄んだ声を耳にして、大きく身をのけ反らせた。
しかし、このあまりにも信じ難いその光景を見て驚いているのは横井だけである。それに気づいた横井は、隣の夜恵にならい冷静を装って咳払いした。喋った黒猫を見下ろす夜恵は、心臓を握ったその右手を開いたり閉じたりした。
「そういきり立つな、化け猫。私に争いの意志はない」
「勝手に心臓盗んでおいて、よくもぬけぬけとそこまで言えたものだ」
化け猫が全身の毛を逆立てる。三つの尻尾が平行に立ち並び、先が鋭く尖る。三叉槍のような形状になったその長い尻尾を夜恵の喉元に突きつけて、化け猫は低い唸りを上げた。
「もし何か言い訳をするのなら、すぐにその喉を裂いてやる」
「…………」
「何も言わずに心臓を差し出せ。それは私のものだ」
「…………」
化け猫の再三の忠告をことごとく無視した夜恵は、何も言わずにひたすら化け猫と睨み合っている。化け猫の緑色の虹彩が細く引き絞られた。放たれた殺気は横井にも伝わり、横井は夜恵に声をかけようと顔を上げた瞬間だった。
構えられていた尻尾が突き出され、夜恵の喉元を貫通する。
まるで血が噴水のように激しく吹き出し、部屋の畳を見る見る内に赤く染め上げていく。
「あ……あ、あぁ……」
目の前でその現場を見ていた横井は、腰を抜かして畳の上にへたり込んだ。
死んだ。絶対に死んだ。
夥しい量の生暖かい血液が、横井のジーンズに付着する。化け猫が横井の方に目を向ける。その視線は横井の身体を縛り付けるには十分過ぎる威圧感を放っており、横井は自分の死を半ば確信し、目を強く瞑った。
……のだが、それは単なる杞憂でしかなかった。
「……間抜けな猫」
「なっ」
静まり返っていた部屋の中に、女の声と、化け猫の驚愕の声が響き渡る。恐る恐る目を開けた横井は、涼しい顔をしたままの夜恵が、自分の喉を貫通した化け猫の尻尾を掴み、左手で引き抜いている様を見て愕然とする。
「自分から捕まりにくるなんて」
夜恵は今しがた致命傷を負っていた筈なのに、全く動じた様子なく尻尾を掴んだ猫を宙ぶらりんにした。首に開いた大きな穴は瞬く間に塞がっていき、畳に飛び散った血飛沫は、夜恵の身体の上を這って、飛び出てきた喉元にビデオの逆再生のようにゆっくりと遡っていく。十秒も経たぬうちに、傷は完全に塞がり、それを見ていた化け猫が丸い目を更に丸くした。
「お前……人間じゃないな?」
「半分くらいは、人間かもしれない」
夜恵が答えると同時に、化け猫は身体を大きく捻って自分の尻尾に噛み付き、鋭い牙でそのまま食いちぎる。尻尾を切り離して落下した化け猫は、再び天心の胸の上に飛び乗り、前肢を広げて激しく鳴いた。
「何が目的だっ!」
「それは私の台詞。聞かねばならぬ事が山程ある」
「黙れ小娘ぇ!」
咆哮した化け猫の身体が大きく膨張していく。
瞬く間に人間大まで巨大化した化け猫は、最早黒豹である。低い唸りを上げながら、天心と夜恵の間に立ち塞がった。未だに座ったままの夜恵は全く動揺する仕草を示さずに、手に残っていた三本の尻尾を逆に化け猫に突き出してみせる。
「動くな化け猫。動けばこれを」
夜恵の槍先が化け猫から逸れ、天心の顔に突きつけられた。
「後ろの天心君に突き刺す」
「なっ!」
驚愕の声を上げたのは横井だった。夜恵は冗談を言っている様子はない。化け猫が動けば、本当に天心の首に猫尾の槍を突き立てるだろう。化け猫の方は、何も言わずに身体を強張らせている。
全く動かないその理由は、横井には分からなかった。
「この人間が人質になるとでも思っているのか?」
「彼は貴方の大切な依り代。容易に手放すとは思えない。現に貴方は彼の命の危機に反応して、彼に妖怪の力の一端を与えている筈。でなければ彼はここに来なかったし、貴方の存在にも気づけなかった」
「なるほど、良く分かっているじゃないか、小娘」
化け猫は再び身体をもとの大きさに縮めて、草臥れたように一つ大きく欠伸をした。
「良いだろう。質問に答えてやる」
夜恵は今の今までその言葉を待っていた、と言わんばかりに、手にしていた猫の尾を部屋の隅に放り捨てて、早口で尋ねた。
「何が目的で彼に取り憑いた?」
夜恵の言葉は少し荒かった。対する化け猫は自嘲するように一つ笑う。そして天心の胸に飛び乗って天心の頬を短い舌で舐め始めた。良く慣れた飼い猫のような挙動であった。
「妖怪が人間に取り憑く理由、か。どう思っているんだ、小娘」
「力の弱い妖怪は、人に取り憑く事で身を隠し力を蓄える……」
「残念ながら半分は外れだ。私は、彼の命を助ける為にこうして身を粉にして取り憑いてやっているんだから」
夜恵の困惑した顔を見て、化け猫はいやらしく口角を上げながら、後ろ足で耳の裏を掻いた。
「詳しい事情を」
夜恵は静かに尋ねる。化け猫は天心の身体から降り立って、夜恵と横井に背を向けたまま彼の身体を見下ろす。
「……あぁ、良いだろう。かれこれ、八年くらい前の事になるか」