1−4 まどろむ坊主
「「仕事と言うのは、力×距離だ。力はこの間やったな。
……で、ここでいう仕事、とは金を稼ぐ為の仕事じゃないぞ」
クラスの担任兼物理学教師の沢田の渾身の洒落は見事に滑り、顔を俯けていた学生の一人である空峰 雲海はざまぁみろと内心で失笑した。顔を上げてノートを取る気力は授業開始十分後には既に消え失せている。だからと言って斜め前にいる女子のように隠れて携帯電話を弄ったりしている訳でもないし、三つ前の席の男子のように教科書で衝立てを作って早弁を食っている訳でもない。
ただ、純粋に眠かった。
物理の授業というのは、雲海にとっては最大の難関であった。開始十分でやる気を失せさせ、二十分で眠くなるのが基本。早いときは五分で眠りについてしまう。一体どうしてここまで眠くなるのだろうか、と雲海は至って大真面目に考えて眠気を吹き飛ばそうと考えた。どうでも良い物を思い浮かべると、人間は眠くなると言う話を何処かで聞いたのを思い出す。なるほど、確かにどうでも良い。恐らく自分の将来に物理と言う学問、むしろ物理等と言う単語そのものが関わる事はない。
彼が将来の為に覚えるべきはニュートン先生の有り難い定理やら公式よりも、過去の僧侶が残していった有り難い心経のほうである。門前の小僧は習わぬ経を読むらしいが、門内の小僧たる彼にとっては経は習わねば覚えられぬものだ。第一、聞き流しているだけであんなに長い文を記憶出来るなら誰だって苦労はしない。あの諺は嘘だ。記憶するだけではなく意味も正確に汲み取ってこその経であるからして、まずは歴史を紐解くことから始めなければ……。
「……おい、空峰!」
いつの間にか雲海の机の場所まで来ていた沢田教諭が、彼の五厘刈りの頭を教科書の背表紙で叩く。景気のいい軽い音が教室内に響いた。
「……え、あ! 寝てません!」
「そこまでは聞いてないが、寝てたんだな?」
「いえ、寝てません」
「……じゃぁちゃんとノート書き写せ。
たとえお前が実家の神社を継ぐとして、物理学が必要無いと思っていてもなぁ。
宮司ってのは精神力が大事なんだぞ。先生も今年は厄年だから払いにいったんだがな。
もう正座して祝詞を聞いているだけで疲れてしまったぞ。ましてお前はそれを読み上げるんだ。
学校の一時間程度の授業にも耐えられないようじゃ到底」
「先生。僕の家は神社じゃなくて寺なんですけど」
諾々と述べる教師の間違いを指摘した雲海は、鬼の首を取ったようにほくそ笑み、教師のしかめ面を見上げた。
「……授業を再開するぞ」
雲海の最もな指摘は無視して、沢田は一瞬悔しそうな顔で彼を一瞥した後に脇を通り過ぎていった。その背を見送って雲海は再び顔を俯けて机に伏した。ウチは神仏習合してるからあながち間違っちゃいないけど、と口の中で呟いて、誰にも見られずにあくびして、目に浮かぶ涙を肩口で拭った。
「空峰……お前と言う奴は……!」
再び顔を伏せている雲海に、今度こそ鉄槌を落とそうと声をかけようとした沢田教諭。肩をいからせて壇上を降りようとした、丁度その時であった。
「すみません!」
勢いよく教室の前の方の扉が開き、次いで溌剌とした声が教室内に響き渡った。その向こう側に立っていたのは小柄な少女。身につけた制服は紛れも無く杵柄高校のものだ。自然と教室の視線が集まる。眠りかけていた雲海も顔を上げた。少女は走ってきた勢いをそのままに教室に飛び込み、そして。
「遅れま、うおぁ!」
どういう訳なのか、彼女は転んだ。盛大に、大胆に、大仰に、大袈裟にコケた。徐々に水平に傾く身体、力強く瞑られる瞳、衝撃を和らげよう前に突き出された腕。その状態で彼女の転んだ行き先は、幸いと言うべきか不幸と言うべきか、沢田教諭の懐の中であった。
「……お?」
「なんだあれは……」
「つか、何やってんだ?」
まさしく教室内生徒三十余名総ポカンの様相を呈した。この場の誰もが、彼女の行動を誤解していた。端から見れば教室に飛び込んできて壇上の沢田に抱きついたようにしか見えない。雲海もその他大勢同様に、その光景を困惑した顔で窺っていた。教え子達から向けられた視線に妙な嫌疑を感じ取った沢田教諭は、懐に居る少女の両肩を掴んで慌てて引き剥がした。
「な、なんだ君は!」
「……沢田の愛人だろ」
「誰だ、ろくでもない事言った奴は!」
教室内の生徒の半分は下を向いて笑い声を押し殺していて、もう半分は指差して笑っていた。からかわれていることに気づいた沢田は、咳払いを一つしてから、改めて少女を見る。彼にはその少女に見覚えがあった。見覚えがあるのも当然である。彼は、彼女とは既に彼女がこの高校に編入するための手続きの日に出会っていたのだ。異例の早さで急な編入が決定し、しかし誰も特に意を唱える事無く杵柄高校に滑り込んできた奇妙な生徒であったせいか、沢田は彼女の顔を良く覚えていた。
「君は……香田 薫か」
「は、はい」
おっかなびっくり答える薫に、沢田は憚ることなく眉間に皺を寄せた。初日から遅刻とは前代未聞にも程がある。だから今すぐにでも説教したい。しかし、未だに笑われている彼は、教室内の奇異な物を見る目をどうにかするのが先だろう。沢田は香田を壇上に立たせ、公式で埋まっていた黒板を半分だけ消してから、縦書きに彼女の名を書いた。
「授業の最中だが、朝言っていた通り、今日は転校生が来ることになっていた」
「言ってたっけか、そんなの」
「おい二宮、聞こえてるぞ。先生の話はちゃんと聴くようにな」
小声で話す男子学生を一言叱ってから教壇の中心を薫に譲る。
「さて、香田。簡単に自己紹介してくれ」
「え、そんな。いきなり?」
「授業中に、それこそいきなり登校してきたお前が悪い。さぁ、早くしろ。
授業時間が削られてるんだ。まだ今日やる範囲は終わってないからな」
腕を組んで鼻から息を抜く沢田。時折床を叩くように振れるつま先が彼の苛立ちを物語っている。薫は慌てて前を向き直り、取りあえず口を開いた。
「皆さん、こんにちは!」
「……こんにちは」
教室の片隅から帰ってきた細い挨拶に苦笑いを浮かべる薫。滑ったのだろうか、と心が己の失態による焦燥に駆られる。次に何を言うべきか、必死に頭を回した末に出た言葉は。
「……これから、よろしくお願いします」
そう言って頭を下げ、沢田の表情を盗み見る。もう自己紹介は終わりらしい。挨拶しただけだ。名くらい名乗れ。と言わんばかりに眉間を指で揉む沢田を見て、薫は渋い顔をした。一方の沢田は説教の種が増えたことに複雑な心境を抱きながら、口を開く。
「ちゃんとした自己紹介は皆、放課後にでも聞いてくれ。
それで、君の席だが……雲海!」
「はい! また僕ですか!」
「今返事した坊主頭の隣の席が、君の席だ」
沢田が薫を向きながら指差したのは教室ドア側の一番後ろの席で、雲海の隣である。昨日まで机が無かったその場所に今朝から一式が配置されていたのにはこう言う理由があったのか、と今更それに気づく彼もまた、朝のHRの時間に教師の話を聞かぬ生徒の一人だった。
「……ときに香田」
「はい?」
「昼休みに職員室に来るように」
「……分かりました」
自分の席を目指して歩んでいた薫の背中に、沢田は冷たく言った。薫はそれにおざなりな返事をして、自分の席に座した。
「これから、よろしくね」
隣の席の雲海に微笑みかけて、薫はようやく一心地ついた気分で胸を撫で下ろした。雲海は溜め息をついた彼女を見て、自覚無しに笑みを零してしまった。近くで見ると意外な程可愛らしい。子顔で丸顔で、顔のパーツも体つきも、全体的に鋭角が少ない。背が低く身体の起伏も少々足りないが、純朴な日本人形みたいなこぢんまりとした愛嬌がある少女だった。垢抜けない子供みたいな同級生の仕草が、何となく微笑ましかった。
「あぁ、よろしく」
驚く程の美人とかじゃなくて、かえって良かった。緊張しすぎるでも無く、残念がる程でもなく、性格も穏やかそうで、仲良くなるには丁度良いだろう。雲海はそんな失礼な事を考えながら、再び顔を俯けて授業を聞き流し始める。彼が直後沢田教諭に叩き起こされたのは、言うまでもない。