表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
怪奇!知らない世界の人々  作者: ずび
第六話 半妖
67/123

6−3 二人の迷子

 酷い目に遭ったもんだ、と横井と天心は谷潟駅の事務室から肩を並べて出た時同じ考えを抱いていた。騒ぎを聞きつけて現れた駅員の蔑むような視線と、単なる戯れ合いに無駄な仕事に時間を取られて苛立った駅員の罵倒を三十分間タップリ浴びせられ、休日の楽しいお出かけに早速ケチがついた。

 天心も横井も背中を丸めて肩を並べ、二人で駅ビルの中にある喫茶店の隅っこのボックス席に腰を落とし、同じタイミングで溜め息を吐く。席に付いてからすぐ、天心は対面に座った横井に向けて小さな声で呟いた。


「ごめん、ケンちゃん。悪ふざけが過ぎた」

「いや、オレッチが悪い。天心氏はネット関係には疎いのを忘れて、ついネットのノリで話してたお」


 横井は、頬杖をついてニヒルに笑いながら自嘲した。互いに草臥れた顔をしているのも具合が悪いと考えた天心は、自分の顔をどうにか明るい色に取り繕い始める。


「映画館限定配布グッズ、だっけ? それってファンなら欲しいもんなの?」

「基本的に欲しい人は初日に行ってるっぽい。良くつるむネット仲間は、大学生とかニートとか、時間に融通の利く人ばっかだからね」

「そんな年上の人と話合うの?」

「別に直接会う訳じゃないんだし、入れそうな話題になったら突っ込むのがネットの正しい使い方だお。でもま、やっぱ年上ばっかで、しかも凄く深くまで考察しているから、ちょっと分かりにくい事も多いけど」


 横井は声を弾ませている。どうやら調子が戻ってきたらしい。天心は楽しそうな横井を見て、胸をなで下ろした。


「ケンちゃんって学校外だと友達多いよね。ビックリしちゃった」

「天心氏はホンマ口の悪いやっちゃでぇ……」

「え? ……あ、ごめん。別にそう言うつもりは」


 中学校内での横井は、決して人気者とは言えない。外見の着飾りに無頓着な上、内向的でしかも少し空気が読めない割にちょっと臆病な性格、アニメやゲームの話題は豊富だが、それ以外がからっきしなのが災いして、幼馴染みの天心以外には友達らしい友達がいない。思春期で多感な時期の中学生の輪の中では、オタク街道を脇目も振らずに最短距離で突っ走る横井はクラス内ではイジメの格好の対象である。その容貌のせいか日頃からクラスでも色々な意味で一目置かれている天心がいつも側に居るためか、暴力等の際立って壮絶なものこそ少ない物の、悪口や無視等日常茶飯事。特に酷いのが物隠しである。天心のクラスには余程横井が嫌いなスリの達人が居るらしく、二年生が始まって以来横井はノート、教科書、筆箱、靴、上履きを天心の三倍ほど購入しているし、キャラクター物の下敷き、隠し読む為に持ち込んだライトノベル等は既に両手で数え切れぬ量が紛失している。カツアゲに遭った事を告白した横井に代わって、天心が金を取り返しに上級生に立ち向かった事もある。

 もっとも、天心は喧嘩慣れしていない上に腕っ節も外見相応に貧弱であるため、結果は散々であったのだが。「天心氏に怪我がなくて良かったのだ」と強がる横井を見て、天心は当時自分の不甲斐なさに腹さえ立ったのだが、そんな風にクラスで孤立している横井にも趣味を共有できる人がいる事を知れて、根本的解決とは全く関係ないとは分かっているのだが、なんだか肩の荷が下りた心地であった。一心地話題も落ち着いて、ポケットから懐中時計を取り出して、時間を確認する。正面では同じく携帯電話で時間を確認していた横井が少し暗い顔をしていた。


「天心氏に悲しいお知らせ」

「何?」

「ま、ここでのんびりしてる時にはもう分かってた事だけど……見るつもりしてた上映時間、もう過ぎちった」


 既に時刻は午前十時四十分。十時に谷潟駅に到着後、そこから歩いて五分の『シネマ谷潟』に向かい、十時半開始の映画を観賞。そしてそこで九十分の映画『ブレイヴァス』を見、昼食をとって後は谷潟市をブラブラ、と考えていたプランは最初から頓挫した。この大幅なタイムロスは電車内での一悶着によって駅員に拘束された事による。天心は自分に責任がある事を自覚しながら、再び首をもたげた。


「困ったねぇ。次の上映は?」

「二時から。ちょっと予定変更して、先に色々見て回る?」

「そだね。……んじゃ、折角だし」


 横井の提案を肯定し、天心は机の端にあるメニュー表を手にとって勢い良く広げた。


「ちょっと早いけど、ここで軽くお昼食べてかない?」

「それが良いと思われ」

「よしっ。どれにしよっかなぁ……」


 既に駅員に叱られた事実は忘却の彼方に押しやられてしまったようで、天心は目を輝かせながらメニュー表を開いていく。実は天心は喫茶店というものに入ったのは、初めてであった。暖色系統の灯りが照らす店内を高めの天井と一席一席広くとられたゆとりのあるスペースが埋めていて、天心の自宅が和装である事も相まって、そのどこか異国情緒漂うその喫茶店は、妙に天心を高揚させていた。

 はしゃぎながらメニューを独り占めする天心を眺めた後横井は、軽く店内を見回してから、やがて何故か顔を俯ける。それに気がついた天心は小首を傾げて横井の顔を窺い、合点が言ったように小さく頷いて机の上にメニュー表を広げた。


「あぁ、ごめん、ケンちゃん。メニュー独り占めにしちゃってたね。一緒に見よ?」

「い、や。オレッチ、あんまりお腹減ってなくって」


 歯切れの悪い返事。顔が赤いのは、店内の照明のせいではない。意味が分からない天心は「そう」と軽い返事を返して店員を呼び出すブザーを鳴らす。ものの十秒で現れたウェイトレスは、営業スマイルが若干引き攣っている。


「サンドイッチセットと……ケンちゃんは?」

「……アイスコーヒー」

「じゃ、アイスコーヒー一つで」


 そう言ってメニューを閉じた天心だが、店員は少し息を整えてから、天心の不意をつくような言葉を吐いた。


「カップル限定メニューのキスキスバトンクレープは如何でしょうか?」


 バイトらしい、たどたどしい口調であった事を、天心は多分一生忘れはしない。

 メニュー表に目を落とすと、隅っこの方の季節限定やらカップル限定やらのメニューにそのような物品が存在する。細長いクレープで、両端がそれぞれ違う味。ポッキーゲームのように両端から二人で食べると言う食べ方を推奨する、中学生が想像するには少々こっ恥ずかし過ぎる代物であった。

 天心は聞き違いかと思って、顔を赤らめて俯いている横井に視線を移し、もう一度ウェイトレスを見上げた。ウェイトレスはいつの間にか一歩後ろに下がっている。慣れてきたのか、表情は先程よりも自然なものになっていた。彼女はテープレコーダーの如く同じ言葉をもう一度繰り返した。


「カップル限定メニューのキスキスバトンクレープは如何でしょうか?」

「……カップ、ル?」

「はぁ……」


 横井が眼鏡を取って、顔を両手で覆った。天心は横井のアクションを見て、ようやくウェイトレスが何を言っているのかに気がつき、天心は人の良さそうな瞳を細く引き絞ってウェイトレスを睨む。


「僕、男ですけど」

「えっ」


 今度はウェイトレスが不意をつかれる番であった。ウェイトレスだけではない。店内に流れていた幾つもの会話、そして動作が、全て停止し、まるで時間が止まったようにさえ感じられた。BGMとして流れているスローテンポだけが、時間が凍結していない唯一の証明となっている。

 信じられない、と言わんばかりに真顔の氷像と化したウェイトレスに、天心は己の激情をどう表現すべきか数秒程考える猶予が与えられた。天心から立ち上る不穏な気配に気がついた横井が、天心の腕を掴む。


「も、もちつけ天心氏。天心氏には良くある事」

「そうだけど……よりにもよってケンちゃんみたいなのとカップル扱いされるなんて」

「ぐはっ。流石天心氏、伊達に『蟲毒たる魔舌(ワード・オブ・デス)』の使い手ではないっ……!」

「何その物騒な二つ名」

「も、申し訳ございませんっ! ええと、サンドイッチセットと、アイスコーヒーですね! しょ、うしょうお待ち下さい!」


 噛みながら注文を繰り返したウェイトレスは、早足で店の奥に引っ込んでいく。それを面白そうに眺めていた周囲の視線を、天心は鋭い眼光で一蹴し、椅子に深々と座り直して、ハンチング帽で顔を隠すように斜めに被って俯いた。


「ねぇ、ケンちゃん。僕ってそんなに女の子に見える? 一応服装には気を遣ったつもりだったんだけど」

「そ、そんな事は」

「正直に言ってくれ。頼む」


 天心は懇願した。たとえ気まずくなろうが答えぬ訳にもいかない。横井は顔を天井に向けて反らした。


「正直、今日見かけた時から、既にボーイッシュな女の子にしか見えなかったお。周りのお客さんもチラチラこっちを見てて……はは、オタクと美少女の異色の組み合わせやでー、とか思ってたのかも」


 横井は天心の方を見る事なく、乾いた声で静かに告げた。予想通りの解答に、天心は落胆を覚えない。むしろどこかしらの安堵さえ感じてしまいそうになった。お前は今日もいつも通りだなぁ、と誰かに囁かれたような気がした。鬱々とした無表情を上げた幽鬼のような有様の天心は、呪詛を吐くような口調で横井に言う。


「いっそ、カップル限定メニュー頼もっか?」

「それはオレッチも、流石になんていうかその、困る」


 いつもなら心をくすぐる横井の苦笑顔は、悪戯心満載の筈の天心の癒しにはなってくれなかった。




  *




 映画を見に行く時間が先送りになったので、横井と天心はそれまで時間を潰さねばならなかった。そこで彼らが選んだのは駅前から南に向けて伸びる大通り沿いで一番大きい量販店の五階にあるゲームセンターで、一組の男女もとい二人の男が大型拳銃型のゲームコントローラーを振り回していた。

 両手を突き出して迫ってくるローポリの血塗れゾンビを青い顔で見つめる天心は、必死でトリガーを引くのだが、弾丸は背景の廃墟に飲み込まれるばかり。ゾンビはまるきり怯む様子もなく天心と横井に襲いかかってくる。

 一方の横井は、現役刑事もかくやと言わんばかりに様になった構えで、的確にゾンビの額を撃ち抜いていく。


「あ、あ、や、やばい、当たんないっ」

「落ち着け、ヘブンズハート。画面上に映し出された、貴様のポインタを良く見ろ。

 一面は練習ステージだ。今からその体たらくではこのカタストロフィは生き残れないぜ?」


 横井は、銃声のチープで乾いた効果音と共に次々画面からフェードアウトしていく敵を見てご満悦らしく、芝居がかった台詞を吐きながら白く輝く歯を天心に見せつけている。無理して作った低い声色といい、ヘブンズハートと言う妙な単語(おそらく天心の事である)といい、どうやらをハードボイルドを気取っているらしい。突っ込んで詳しく聞いて横井を困らせてみたかったが、今の天心はそんな余裕はなかった。銃を振り回すので精一杯だ。

 やがて襲い来る全ての有象無象なゾンビを撃ち尽くした後、無人の廃墟と化した画面上に「Complete!!」の表示が浮かび、横井は決闘直後の西部劇のガンマンの様に銃口に息を吹きかけた。


「……ま、ざっとこんなもんか」


 横井の微妙なにやけ面はそのニヒルな口調とは全く合っていなかったのが、悦に入っているらしいので天心はそれを指摘しないまま、コントローラーを置いて、横井に背を向けた。後ろから見つめてくる横井に「ちょっと疲れたから休む」とだけ告げ、ゲームコーナーの隅にある休憩スペースにあるベンチに腰掛け、横井の後ろ姿を眺める事にした。

 疲れたと言うのは、ゲームが上手くいかないから投げ出す為の方便ではなく本当の事である。日頃家事をこなしているため生活体力にはそこそこの自負があったのだが、今年の夏の最高気温を更新させる程の強烈な日差しの前にその自信は薄氷の如く砕け散った。

 一方の横井は、ゲーセンに来るまでは天心以上に草臥れていたのだが、冷房を浴びて体力を取り戻したのか、二人プレイの弊害で倍に増えた生ける屍を二丁拳銃で軽快に駆逐している。水で元に戻る乾燥椎茸みたいな逞しい男であった。横井はかなりゲーム慣れしているようで、ゾンビの毒牙は横井に届く前に全て撃退されており、ゲームオーバーになる様子も無い。

 この分ではしばらくかかるだろう。

 しっかり休んで英気を養い、映画館では眠らないようにしなければと決意を新たにした天心の隣で、一人の少年がベンチによじ上っていた。まだ幼稚園児くらいだろうか。少年はその小さな手に分不相応に太い350mlのアップルジュースの缶を握っている。


「んしょ、んしょ」


 プルタブにそのか細い指に引っ掛けようとしているのだが、上手くいかないらしく苦戦している。隣から横目でその少年を窺っていた天心は、心の中で密かにエールを送ったのだが、少年が六度失敗して、指の先が少し赤くなっているのを見て、たまらず声をかけてしまった。


「ねぇ、ボク。開けてあげよっか?」

「……?」


 首を傾げる少年に手を差し伸べると、少年はキョトンとした表情で天心にジュース缶を手渡した。天心は手早くプルタブを起こして封を切り、そのまま少年に返してやると、少年は目の前でマジックショーでも見たように驚き、嬉しそうに笑顔を作る。


「ありがとう、おねぇちゃん!」

「おね……ど、どういたしまして」


 顔に浮かびかけた渋面を必死で押し殺して、天心は眉を下げて口元が引き攣った奇妙な微笑みを名も知らぬ少年に向けた。


「おねぇちゃん、変な顔」

「おねぇちゃんじゃなくって、僕はお兄ちゃんだよ」


 やんわりと否定してみせるが、少年はますます分からないようで首を大きく傾げて見せる。もう会う機会もない少年に無理に言い聞かせるのもどうかと思い、天心はそれ以上は諦めた。ジュースを一口飲んだ少年は少し親父臭い溜め息を吐いてから、再び天心を見上げた。


「おねぇちゃんは、お兄ちゃんなの?」

「そ」


 半信半疑な顔の少年は無言で天心の方に寄ってくる。知らない人とこうまで仲良くするのはどうなんだろう。親は知らない人についていっちゃ行けないと教えなかったのか、と天心が人知れず危惧していると、少年がおもむろに天心の胸に手を伸ばした。しかもその手にくっついた五本の指がにぎにぎと蠕動(ぜんどう)するのだから、天心は思わず叫びそうになるのを必死で堪えねばならなかった。


「ほんとだ。オッパイないや」

「………………」


 男だから当然なのだが、何となく馬鹿にするようなニュアンスが含まれている気がしてならない。このマセガキにどうやって反撃を加えるべきか、天心の頭の中はそれで一杯だった。反撃として狙ったのは、少年の手に握られている缶ジュース。天心は素早くそれを引ったくって、一気に半分程飲んでやった。アップルジュースの爽やかな喉越しが乾いた身体に浸透し、天心は満足げに少年に再びそれを返してやった。


「これ、お触り料な」


 皮肉を込めた天心の言葉に、少年はしばし呆然としていたが、その目に涙が浮かんできたのを見て天心は大いに慌てた。流石にジュースを奪ったのは大人げなかった。もしこのジュースが母親に買ってもらったものとかだったら、天心は問答無用で悪鬼羅刹として扱われ、この少年の母親に罵倒され、世間から白い目で見られ、父からは拳骨制裁を下され、兄からは苦笑い混じりに「お前もいつの間にか悪ガキに育ったんだなぁ」としみじみ呟かれること請け合いである。唇を噛んで、必死に泣くまいと堪えている少年を前に、天心は思わず周りに目を配る。

 なんだってこんな小さい子にムキになってんだ、こんな現場親とかに見られたらマズいだろ常考、ってなんでケンちゃんみたいな口調になってんだ僕は。

 頭の中に巡る思考に振り回されながら、天心は立ち上がった。


「ご、ごめん。謝る、新しいの買ってあげるから、泣かないで」

「泣いてないもん!」


 涙声でそう言う少年の言葉に説得力を求める事も出来ず、天心はひたすら少年の頭を撫でながら、ポケットの財布から小銭を取り出す。天心の財政は恵まれているとは言い難いが、ここは金をケチる場合ではない。すぐ側の自販機で同じジュースを買い、プルタブを開けて鼻水を啜る少年に手渡してやる。


「ほら、これ。あげるから」

「グスっ……欲しくないもん。要らないもん」


 どうやら敵から施しを受ける事を善しとしないらしい。或いは単にイヤイヤしているだけなのかもしれない。生憎天心には判断がつかないし、既に買ってしまったジュースを自販機に押し込んでも金が返ってくる訳では無い。


「僕、もう飲めないのに今買っちゃったんだ。だから、代わりに飲んで?」


 言い方を変えただけであるが、少年は「仕方ないなっ」とぶっきらぼうに言い放って天心から缶ジュースを引ったくった。まだ目は涙に濡れているし鼻も啜っているが、随分と落ち着いてくれたらしく、天心も生きた心地を取り戻した。


「ボク、お母さんかお父さんは?」

「分かんない」


 ジュースを飲んだ少年は、天心を警戒するように小さい声を返した。


「迷子?」

「ボクは迷子じゃない! ママが迷子になったのっ」


 少年は頬を膨らませていた。先程から思っていたのだが、この少年は随分と生意気である。五歳児くらいの少年の目一杯の背伸びっぷりに、天心は「はいはい」と笑いながら受け流す。ベンチに腰掛けると足がつかない少年は両脚を忙しなく動かす。やはり親が近くに居なくて、落ち着かないらしい。


「お兄ちゃんは、迷子なの? ママは?」


 この年になって迷子になんてなるか、と言いたくなるが、むしろ天心の感心を惹き付けたのはその言葉の後ろについていた母親の存在への問いだった。


「お母さんは……」


 少年の純粋な問いに対して、天心は回答に窮する。

 空峰天心の、母。彼女が鬼籍に入ってからすでに何年も経過してしまっている。天心にとって母親と言う存在は、何となく形而上の概念や童話の登場人物のような、現実離れしたものへと変わり果ててしまっている気がした。

 記憶の果てに居る、優しく微笑む母。最後の最後まで、自分を庇ってくれた事を、天心は未だに鮮明に記憶している。頭から血を流し、そのまま物言わぬ屍となった母親を揺すった自分の震える手を見つめながら、天心はゆっくりと言葉を吐いた。


「僕の母さんは死んじゃったんだ。僕が君ぐらいの頃に……僕が、殺したようなもんだ」


 少年は深刻な顔をしている天心に共感を得ないらしく、難しい表情で天心の俯いた顔を覗き込んだ。


「僕がもっとちゃんとしてれば、母さんはまだ生きていたかもしれないのに」


 幼くして母を失い、母からの愛に甘える間もなくそのか細い双肩に一家の家事を背負って来た天心は、今日までずっと苦悩も背負っていた。あの時信号を見間違えたりしなければ、母親から手を離さなければ、或いは母親が自分の事を抱きかかえて庇わなければ。

 後悔の念は尽きず、未だに天心は謝り続けている。償いにならない償いをし続けている。兄や父の制止を聞かずに、必死に母の代わりになる為に覚えた家事で荒れた掌を見つめながら、天心はその手を強く握りしめて、涙が出そうになった自分の目元を軽く擦った。


「お母さんの事好きかい?」

「うん。大好き!」

「そっか。ならいいんだ。お母さんの事、大事にしてやれよ」


 明るく言い放った少年にぶっきらぼうに言葉を返して、天心は立ち上がる。早くも全ステージを攻略し終えた上に筐体のハイスコアを更新したらしい横井がガッツポーズを決めている姿と、顔が青ざめた三十代くらいの女性が同時に目に飛び込んで来たからだ。女性の方は何か大切な、命よりも大切な何かを探すように、冷や汗で額を濡らしながら、必死で目を皿の様に大きくして辺りを見回っている。


「あれ、もしかして君のママじゃない?」

「あ!」


 天心が指差す先に居る女性を見るや否や、少年はベンチから飛び降りて、「ママーッ!」と叫びながら彼女の元に猛然とダッシュしていく。強がって気張っていたが、やはり母親を見つけて余程安心したのだろう。生意気なマセガキの面影は見受けられなかった。

 自分の幼い頃も、あんな風だったのだろうか。天心は思い出してみるが、それに関する記憶は殆ど残っていない。母に関する記憶は、一番最後の強烈過ぎる事故の瞬間だけである。それの印象があまりに衝撃的で、それ以外幼少期の記憶があまりない事が、天心には酷く不幸な事のように感じられた。

 安堵に微笑む母親に抱きかかえられる少年の後ろ姿を羨望の視線で見守っていたのだが、テンション高くスキップで迫って来た横井に視界を阻まれて、天心は期せずして顔を顰めてしまった。


「あれ、天心氏。なんか顔怖いお」

「気のせいでしょ」


 もう一度先程の母子を探す為に視線を走らせるが、既にその場を去ってしまったらしく、目の前にはゲームコーナーの喧噪が広がるばかりであった。ベンチに置き去りにされていた半分だけ残っているジュース缶を取り上げた天心は、残っていたアップルジュースを一気飲みして、空き缶を自販機脇のゴミ箱に放り込んだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ