6−2 休日の外出
憂山の裾野の森林の奥地にある古寺、据膳寺。そして、その裏にひっそりと佇む一階建ての和装の平屋が、空峰一家の住まう住居である。その空峰家の台所で、一人の少年が底の浅い鍋を火にかけていた。窓を開けると朝方の涼しい風が入り込んで来て、額に浮かんだ汗が冷たくて心地よく、少年は一つ深呼吸をした。
台所に顔を覗かせた空峰雲海は、身に纏っている紺色の甚平の紐を指で弄りながら、その少年の背中を少し緊張した面持ちで眺めやった。先日刈ったばかりの坊主頭を撫でながら今一度エプロン姿の少年を見やった後、雲海は恐る恐る台所に立つ弟の背中に声をかけた。
「……今日は何だ?」
「あ、お兄ちゃん。朝のお勤め、今日はちゃんとやったの?」
「父さんと利休に付き合わされてな。久しぶりにやると随分清々しい気分になれたよ。あぁ、でもな。それはどうでも良いんだ。そうじゃなくてな、天心。その、鍋でかき混ぜているそれは一体なんだ?」
「そうめんだよっ」
薄青地に白い水玉模様をあしらったエプロンを身に着けた台所の少年、空峰天心は振り返りながら兄にそう断じた。その少年の、長い睫毛や瑞々しい唇、思春期の中学生には不相応な程シミやニキビのない白い肌が目を引くその顔に浮かぶ柔らかな笑顔は、まるでバックに百合の花でも咲いているのではないかと勘違いしそうになる程たおやかで、弟でありながら実はやっぱり妹なんじゃないかと十四年間生活を共にしている雲海でさえ勘違いしそうな程麗しい。
しかし見慣れた物であるせいか或いは肉親であるせいか、雲海の態度を軟化させるには足りない。
「まぁたそうめんかよ」
雲海は首を項垂れて盛大に溜め息を吐いた。再び顔を上げると、そこには悲しそうに眉を下げる情けない表情が浮かんでいる。兄の悲しげな顔を見て、天心はその大きい二重の瞳を二回瞬きさせ、小首を傾げた。
「……やっぱり飽きた?」
「飽きねぇ方がどうかしてらぁ」
雲海がべらんめぇ口調を使う場合は、調子に乗っている時が三割で、残りの七割は本気で苛立っている時である。弟である天心は、随分昔からその事に気がついていた。雲海は軽く天心にチョップを見舞いつつ、僅かな希望を抱きながら天心がかき混ぜている鍋を覗き込んで現実を突きつけられ、肩を落とす。天心は湯気にあてられて額に浮かんだ汗を腕で拭いながら、持っていた菜箸を雲海の方に向けた。
「でもお兄ちゃん、そうめん好きでしょ?」
「あぁ、好きだよ。大好きだ。ちょっと固めに茹でた後、氷水で一気に締めて、コシを出す。そして流水にくぐらせてもみ洗いし、滑りを取る。ここが一番重要だ。この流水は当然、冷水。ここでそうめんをぬるくしては元も子もない。そして洗いは麺を千切らないように柔らかく、しかしぬめりをとる為に丁寧に。それを終えたら氷を並べた大きな平皿の上に移す。一玉ずつ丸める場合もあるらしいが、僕からすればこれは邪道だ。僕はそうめんそのものの風味を重視するタチなんでね。これ以上手を触れては、手の脂がそうめんに移ってしまう。そして、第二の主役、つゆの登場だ。無論鰹節からダシを取り、醤油、みりんと合わせるのが最高だが……それは正直面倒だ。そうめんは簡単に調理出来て手軽に食べれるからこそ重宝されるのであって、わざわざダシを取るのはそのそうめんの長所を殺す事に繋がりかねない。むしろ素人が作るよりも市販のダシつゆで十分条件は満たされる。つゆで重要なのは風味よりも、温度なんだ。これはその日の気分、或いは気温によって、好みに設定するべきだろう。例えば朝の間、どうも体調が優れない、気合いを入れていこう。そんな気分なら、つゆに氷を三つ入れておく。夕飯時、今日は疲れた、これから夜に向けてブレーキをかけていこう。そんな気分なら、つゆはぬるめにして氷は無しでも良い。……とまぁ、ここまでそうめんを語る事の出来る僕であってもな、天心!」
異様に長く熱いそうめん論を語り終えた雲海は、語気を荒げつつ険しい顔で天心に左手の人差し指を突きつけた。
「毎日のそうめんそうめんそうめんそうめんと……。今や僕の身体は半分がそうめんで出来ていると言っても過言じゃないぜ。第一、利き手が怪我で使えない僕が、この滑りやすい麺を食うのにどれだけの労力をかけているか、お前に分かるか!? 嫌がらせか!? そうめんへの絶望とお前への苛立ちで、今にもそうめんを司る妖怪に変化しちまいそうだ!」
包帯でぐるぐる巻きにされている右手を左手で指差しながら、雲海は叫んだ。彼が一週間前に妖怪によって踏みつけられた右手は未だに治療中であり、完治にはしばらくかかると医者に診断されている。天心は怒り心頭の雲海から再び鍋に視線を移す。
「やれやれ。だからお兄ちゃんにはフォークを出してあげてるんじゃないか」
「スパゲティーじゃないんだぞ、おい……右手の怪我がなけりゃ殴ってる所だ」
「そっか。お兄ちゃんが怪我しててくれて命拾いしたよ。お兄ちゃんの右手を踏んづけた妖怪には感謝しなくちゃね」
草臥れた顔の雲海に向けて、天心は口端から舌先だけ出して、おどけてみせる。怒るよりも嘆く感情の方が大きくなってきたのか、雲海は声を沈ませて囁くように言葉を吐く。
「もうそろそろ米が食いたくなってきたよ、僕は。なんせ一昨日の夕飯からだから……通算五連続になるんだぞ」
「残念、昨日の夕ご飯のはひやむぎでしたぁ」
「違いなんか分からないし、味だって一緒じゃないか」
先程の冗長なそうめん論を真っ向から否定するような言葉を吐きながら、雲海は天心に背を向けた。どうやら諦めたらしい。
「まぁ、やっててもらって文句言う訳にもいかないか……」
「別に気にしないで良いのに」
鍋の中から菜箸で一本そうめんを掬い上げ、啜り、咀嚼する。適度な弾力を持って口の中で千切れていくそうめんを飲み込み、天心は満足げに小さく頷いた。この夏何度となく茹でたそうめん。その茹で加減に関して言えば、天心はどこぞの麺屋にも勝るとも劣らぬ技量を身につけていた。
「この家で料理が出来るのは天心だけだからなぁ……」
去り際に寂しげにそう呟きつつ、雲海の青い背中は居間の方に引っ込んだ。それを見届けて、天心は人知れず暗い顔をする。
母がこの家に居たのは今から八年も前の事で、当然その後八年間は男三人で家事をこなさねばならなかった。洗濯や掃除はまだしも、まともに食材を扱えたのは、不幸にも当時まだ小学校に上がる直前の天心だけであった。父が肌を緩衝材のように酷く粟立てながら見守る中で、幼い手に包丁を握りながら、天心は何とか日々の生活を豊かにする為に一生懸命に家事を学んで来た。おかげで今では調理実習の度に嫌みな女家庭科教師をのけ反らせる料理の腕前を披露して、彼女をからかう事が出来るのだが。
「お兄ちゃんだって作れるじゃんか。殺人兵器」
ちなみに兄の料理の腕前は真逆のベクトルを向いているが、天才的である。
なにせ彼の腕にかかれば、五桁を下らない高級食材であろうとも、生産者の顔が見える有機栽培無農薬野菜であろうとも、確実に人の胃腸を破壊し尽くす悪鬼と化すのである。なまじ見た目が綺麗に完成する事が、雲海の料理の一番最悪な点であると天心は考える。その見た目のせいでパッと見では判別は困難。劇薬を混ぜるよりタチが悪い。米軍あたりから極秘暗殺部隊として雇われて良いレベルだ、と天心は皮肉混じりに普段からそう揶揄していた。
雲海には前科がある。彼が小学四年生の春の事。雲海が調理実習中に作ったカレーを食した五人の同級生を病院送りにしたと言うニュースを聞いて、当時小学二年の天心は随分と肩身の狭い思いをする羽目になった。当の雲海は十分に反省し、その五人も普段から雲海に悪感情を抱いていた訳でもなく逆に涙ながらに頭を下げる雲海を慰める始末で、事件は単なる食中毒として処理された。それ以来その友人五人が古今東西ありとあらゆるカレーを見る度に、全身から汗が噴き出して歯の根が噛み合ぬ程身体が震えると言う異様なまでの拒否反応を示す以外は、事件は跡形もなく収束したかに見えた。
しかし、壁に耳あり障子に目ありとは良く言ったものだ。どんなに隠蔽しようとも、真実とは明るみになるもので、どう言う経緯か天心は知らないが、真相は三日も立たずに全校生徒に知れ渡る事となった。
雲海の起こした事件は彼らの通っていた小学校史上最悪の事件として伝説となり、天心はその事件の犯人の親類として周囲から畏敬の念を抱かれるようになってしまい、今でも調理実習の折には同小学校出身の友人辺りが話題に上げる程である。
「同じ兄弟なのに、よくまぁここまで差が出るもんだ」
天心は呟きながら、自分の顔を触る。生まれたての赤ん坊の様に絹のような柔らかい肌の感触が指に返ってくるのには、最早呆れるばかりである。自分はあまり兄に似ていない。料理の腕や性格の面もさることながら、外見の面は特に顕著である。幼い頃はそうでもなかった。顔は瓜二つと呼ばれる程に良く似ていた筈である。昔のアルバムを引っ張り出してきて、居候である河童の利休に見せた時、彼は心底驚いていたのだから、客観的に見てもまさしくそっくりであったのだ。
しかし兄が父に似て厳格そうな顔立ちに育っていく一方で、順調に美少女顔に育っていく自分の姿を見て、天心は鏡を見る度に少し憂鬱な気分に苛まれる。
「天心は女の子みたいだなぁ」と同級生に言われ始めたのは、天心が七歳の頃であった。当時はまだ幼い事もあってか、そのうち男らしく育っていくと思っていた天心を、天の仏は悠然と裏切った。初めてラブレターを貰ったのは小学校五年生の頃。くれたのは一つ上の学年の生徒。男子からの手紙であった。「天心ちゃん、君が好きだ」と書かれていた手紙をバラバラに千切ってゴミ箱に放り込んだ天心は、その日一日鏡を見て眉間に皺を寄せていた。
「性別不詳っぽい名前にも誤解を生む原因がある」と父に申し立てを企てた事もあるが、天心の名前の由来(天に住まう者の心を云々)を懇々と説かれて言い負かされてしまい、天心の企みは玉と砕けた。
中学に上がっても天心の顔はますます女性らしい麗らかさと柔和さを兼ね備えていくばかりで「制服、間違えてないか?」と困惑した顔の担任の教師に聞かれた記憶は未だに昨日の事のように鮮明だ。いっそ坊主にでもすれば一目瞭然だろうと思ったら、仲の良い友達全員(男女問わず)に「それだけは絶対に駄目だ」と半ば怒鳴られるように叱られて少し涙目になったのはつい先日の事である。
最近では天心も諦める方向に考えていた。
現に友人達は気にしていない。男友達は普通に、或いは優しく接してくれるし、外見に引きずられてか、難しい年頃でありながらも女子の友人も同級生の中ではダントツに多い。今でもたまに男からラブレターを貰ったりするのだが、全て雲海に見せて、二人でその文面を笑い、時に参考にするのが恒例になっている。
故に、天心の生活は概ね順調である、と言えた。
「……こんなもんか」
ザルで水洗いを終えたそうめんを皿に盛りつけながら、天心は腹の虫が鳴くのを感じ取った。時刻は八時ぴったり。計ったような正確さであった。
*
「今日は出掛けるって言ってたっけ、天心」
「うん。谷潟市まで電車でケンちゃんと映画見に行くんだ」
朝食を終えて、さっさと食器を洗い終えた天心は、エプロンで手を拭きながら雲海の問いに声を弾ませて答えた。楕円形の大きめのちゃぶ台を挟んで反対側に居る岩武は、新聞に目を通したまま息子二人の言葉に耳を傾けている。天心が上げた名前を聞いて、雲海は軽く首を傾げた。
「ケンちゃんってのは昔から良く遊びに来てるあの子か? 横井 健三郎だったっけ」
「そう。あの、縦にも横にも身体のでっかい」
「そういえば、昔に比べて随分太ったよなぁ、あの子。この間遊びに来てた時、床抜けるかと思ったぞ。お前、肉分けてもらえよ」
天心の細っこい体つきを見ながら、雲海は眠そうな顔で容赦ない言葉を吐く。
「正直、本当に分けて欲しいよ……」
自分のモヤシのように細い腕を見つめる天心は、うわごとのように呟いた。彼は切実な回答をしたのだが、雲海は別段興味なさそうに顔を背けた。新聞を持っていた岩武の眉が僅かに揺れたのに気がついた者は、この場には居ない。
「帰り、何時頃になる? 晩飯は食ってくるのか?」
「そんなに遅くならないよ、夜は作る。昼は……ごめんなさい、用意していません」
天心は申し訳なさそうに父に頭を下げるが、父は新聞から目を離して優しい声を発した。
「昼からは山に向かうつもりだ。食事を取る暇もない。台風が近いせいか、山のカマイタチがざわめいておるのでな」
「そっか。もうそんな季節なんだねぇ」
しみじみと返す天心は、同じように呑気な顔の父と兄を見て、思わず吹き出しそうになった。
カマイタチと言うのは、つむじ風とともに現れて人間の身体を切り裂くと言う妖怪の一種である。天心達が住む憂山にも大昔から住んでいる古参の妖怪で、それなりに力のある妖怪であり、慣れているからと言って油断して対峙すれば命を落としかねない。それ程危険な妖怪が暴れていると言うのにここまで平和で居られる理由は、台風の時期にカマイタチがはしゃぎ出し、それを落ち着かせるのは空峰家にとって毎年の恒例行事であるからだ。岩武曰く「奴らも毎年暴れるのは単に誰かと喧嘩をして暇を潰したいかららしく、本気で襲われる事はない」と愚痴混じりに零していたのを、天心は覚えていた。故にカマイタチにとっても空峰家の人間にとっても、カマイタチ騒動は夏の風物詩と考えても差し支えない程度の出来事でしかない。
「雲海、お前も今年は山狩りに出掛けんか?」
「ごめんなさい、父さん。僕はちょっと出掛ける用事があるんです」
雲海は後頭部を掻きながら岩武に頭を下げる。岩武は一瞬渋い顔をしたが、すぐに新聞に顔を埋めた。諦めたサインである。苦笑いに冷や汗を垂らしている雲海に、天心が小声で話しかけた。
「また小森さん? それとも今度こそ香田さんと」
「おい、碌でもない事を言うもんじゃないぜ」
薫の名前を出した途端に慌てて天心の言葉を切りにかかった雲海を見て、天心は口角をいやらしく上げた。雲海はしばらく口を噤んでいたが、天心の問いにはしっかり答えを返す。
「真見ちゃんだよ。メシ食いに行く約束がある」
岩武が軽く咳払いをした。天心の目付きが少し細まる。雲海は頭を掻きながら、天心から目を逸らす。岩武の新聞を持つ指が軽く震えているのを見て、雲海は肩を竦み上がらせた。今の雲海の言動がいかなる誤解を生んでいるかようやく悟った雲海は、慌てたように喉を唸らせ始める。
「……言っておくけど、真見ちゃんの家は中華料理屋で、それを友達何人かで食べに行くってだけだからな」
「へぇ」
「おい、信じてくれよ!」
端的に返した天心は、冷たい視線で雲海を一瞥した後、そそくさと居間から退散していく。天心は雲海を信用していない訳では無い。ただ疑っている振りをして、兄が慌てた様子を見るのを面白がっているだけである。側に居た岩武は、最近の女にだらしがない様子の雲海に対して何か一言ある様子。
今朝のそうめんに文句を言った罰だ、と心の中で舌を出した天心は、出掛ける準備を整えに自室に向かい、早速外出の準備に取りかかる。集合時間は午前十時。場所は妖山駅前。家が遠い天心は、現在時刻を鑑みれば、そろそろ出発しなければならない。
「天心、もう出るのか?」
箪笥から取り出した七分丈のタイトなサマーセーターに袖を通していると、背後から雲海の声が聞こえてきた。岩武の説教は回避出来たのだろうか、と天心が尋ねる間もなく、雲海は溜め息を吐いてみせる。
「言いがかりで説教されてちゃ身が持たないよ。ちゃんと事情を説明したら、納得してくれた」
「つまんないなぁ」
天心のとぼけた言葉に雲海は渋い顔をするが、言及してくる様子は特に見受けられない。天心が冗談で言っている事は、雲海も分かっているのだ。ハーフのカーゴパンツに足を通して、スニーカーソックスを履き、机の上に置いてあった父のお下がりの懐中時計をポケットに忍ばせる。最後に財布のチェーンをパンツのベルトループと繋いで、兄に振り返った。
「どう? 変じゃないよね?」
「あぁ、そうだな……」
ワイルドな服装の割にあどけない容貌のギャップが目を引き、案外合っていると雲海は素直に感心していた。雲海は軽く顎を指で撫でた後、部屋の壁掛けフックからカーキ色のハンチング帽を手に取り、トドメとばかりに天心の頭の上に被せてやった。
「今日は日差しが強いから、それ被ってけ。倒れたりしたら大事だ」
「……でも、これ変じゃない? 僕あんまり帽子に合わないし」
「そう言って去年の夏に熱中症でぶっ倒れたのはどこのどいつだろうなぁ?」
帽子を取ろうとする天心だが、雲海が怪我をしている右手の方で押さえつけるので無理に押し返す訳にもいかず、やがて諦めて帽子を被り直す。それを見て、雲海は満足そうに鼻から息を抜いたが、やがてすぐに顔を曇らせた。
「お前は何着ても似合うって。僕が同じ格好してもそうはいかない」
「甚平姿が似合うってのも羨ましいけどね。今日、その格好で出るの?」
「下駄でも履いてきゃそれなりに見れたもんだと思うんだけど……」
欠伸混じりに雲海はそう答え、背を向ける。もう一眠りするつもりだろうか。去り際に、もう一度だけ雲海は振り返った。
「出来るだけ日陰を歩いて、水分補給はこまめにな。ちょっとでも気分が悪くなったら、すぐに家に連絡しろ。それから」
「わかったわかった、時間ないからちょっとどいてよ。バスがもうすぐ来ちゃうから」
ちょっと過保護気味な兄の言動を軽く受け流して、天心は兄を押しのけて部屋を出る。そのまま廊下を慌ただしく駆け抜け、玄関にしゃがみ込んでスニーカーを履いたかと思うとすぐさま扉を開けた。
「じゃ、いってきまーす」
「おぅ、気ぃつけてな」
兄の定例句を背に受けて、天心が寺の林を抜けて最寄りのバス停にたどり着くと、既にバスは到着していて本当にギリギリの所であった。この辺りは一本逃すと次は二時間後だったりするので、無事乗客が自分しか居ないバスに乗れた事に、天心は息を切らせながら胸を撫で下ろした。
そのままバスが走る事約三十分。
妖山駅前のバスターミナルに到着する頃には乗客も十数人に増えており、天心は一番最後に一番高い料金を支払って下車した。冷房が良く効いたバスから一歩足を踏み出すと、途端に地面から沸き上がっているような熱気が肺に溜まり、天心は一瞬息を詰まらせた。
「……やっぱこの辺りは暑いな」
普段割合涼しい山奥で生活している天心には、この規模の小さいコンクリートジャングルの熱気は堪えるものがある。色あせたアスファルトにくっきりと色濃く伸びる影を見ていると、やはり今日は帽子を被って来て正解だったなと心の片隅で兄に感謝した。雲一つない晴天の空が、早くもじりじりと天心の袖から覗く腕を焼き始めている。この妖山市にも背の高い建物はそれなりに建造されてはいるのだが、町に日陰をもたらしてくれる程の巨塔は辺りには無く、天心はもろに夏の日差しを浴びていた。
一先ず日陰に隠れようと、ターミナルのベンチに向けて歩き出した天心の視界に、遠くの方から大きく手を振って駆けてくる身体の大きな男が飛び込んで来た。
「おうぃ、天心氏ぃ!」
男の方を見て、天心は苦笑いをせざるを得なかった。
その視線の先には、象の足音でも聞こえてきそうな巨大な肉の塊を、大根三本分はあろうかと思う程太い二本の足で必死に運んでいる姿。走る度にその肥沃な腹の肉と頬の肉は上下左右に踊り狂い、飛び散る汗が陽光を反射して、彼の走り抜けた後には光の残滓が残っていた。アメリカンサイズのジーパンをベルトでキツく締め、裾入れされた橙色のチェックのTシャツは汗で色が変わっている。その背に背負うサイズが大きめのリュックサックは、彼の巨体と対比すれば随分と小さく見えた。恐らく唯一のオシャレであろう顔に乗っかった色付きの縁なし眼鏡は、二つの意味で見事にスベっていて、風船のように膨れた顔から大きくずれていた。
すれ違う通行人が嫌な顔をしながらそそくさと彼に道を譲っているのを見て、何だか天心は一瞬申し訳ない気分を覚えた。
「ケンちゃん、そんなに急がなくっても良いのに。電車まで後十分くらいあるよ?」
「はぁっ……はぁっ、は、ふは、えほっ、はぁっ……」
天心の目の前で、ケンちゃんと呼ばれたその男は手に膝をつき、乱れに乱れて時折咳さえ交じる荒れ果てた呼吸を整え始める。顔から垂れる汗が、地面に斑点を作っている。見かねた天心がポケットからハンドタオルを取り出して差し出すと、その男は串団子のように膨らんだ指でそれを受け取り、面積の大きい顔を丁寧に拭き始めた。
「いやぁ、今日は暑いですなぁ」
「そうだね。あ、ハンカチそのまま使っていいから今度洗って返してね」
「無論、心得ているでござる」
顔を上げたケンちゃんこと横井健三郎は、眼鏡を掛け直して天心と共にベンチに腰掛ける。木製のベンチが軋む音が聞こえた。尻の肉がだらしなくベンチに広がっているのを見て、天心は溜め息が自然と漏れた。
「ケンちゃん、夏休み入る前より更に太ってない?」
「気のせい気のせい。そう言う天心氏は相変わらずスマートですなぁ」
ジーパンのポケットから財布を取り出して小銭を数える横井は、立ち上がってすぐ側の自販機に硬貨を押し込み、ペットボトルのコーラを二本購入。うち一本を天心に差し出す。
横井は金の羽振りが良い。何故なのかは詳しい事を知らなかったが、天心は彼の父親が医者であると言う事だけは覚えていた。天心はいつも断るのだが、どうせ断っても横井が一度差し出した物を引っ込める事はない。ここで押し問答をするのも面倒なので、渋々ながら受け取る事にした。
二人はコーラを手に立ち上がり、駅舎の中で同じ切符を購入して、三番線のホームにて谷潟行きの電車の到着を再びベンチに座って待つ。程なくして現れた五両編成の車内は乗客も少なく、ボックス席に向かい合って座って二人は冷房の効いた車内でようやく一心地ついた。
「今日も暑いねぇ」
「うむ。オレッチのようなピザ男には辛い季節なのだ」
未だに汗を拭いている横井は、勢いよくコーラのペットボトルを開けて、一気に半分程飲み干して、大きく息を吐いた。天心もそれに習い、中身を一口飲んで再び締めて帽子を脱ぎ去り、背もたれに身を預ける。
電車が大きく揺れ、発車した。目的地である谷潟駅までは電車でおよそ三十分もかかる。
わざわざ谷潟市まで行かなくても映画館はあるのだが、横井はどうしても谷潟市でなければ駄目なのだと言っていた。なんでもマイナーな映画であるせいか、大手の映画館で細々と上映されているだけであるそうだ。
「そう言えば今日見に行く映画って何?」
「ご存知、ないのですか?」
「うん。ご存じない」
天心の言葉を受けて、横井は背負っていたリュックサックから携帯電話を取り出し、その待ち受け画面を表示させる。何かのアニメ映画らしい。画面に映し出されている中世風の重そうな甲冑姿の美少女が、こちらにウィンクしていて、その下に映画のロゴが描かれいているだけの、シンプルな壁紙であった。
「映画って、これ?」
「そうだお。ラノベ原作のファンタジーアニメ、『ブレイヴァス』。半年前に二期終わって、その後映画化発表されて、以来ずっとワクテカっててさぁ。ぶっちゃけ二期の最終回が「続きは劇場版で」的な引き方してて不満もあったけど、やっぱ原作組としては後半の山場の展開をどう表現すんのか見ておかないとさ。……あれ、天心氏、不満?」
天心は、眉を下げて愛想笑いを返してやった。
興味が全く無いとは言わないが、横井が好きな深夜アニメの類いは部屋にテレビがない天心には目にする機会がない。当然その『ブレイヴァス』と言うアニメも見ていない為、果たして映画を見ても展開が分かるかどうかが不安である。
天心は、曖昧な表情で再びコーラの封を開ける。横井も天心の様子を気にしてはいないらしく、再びリュックサックに手を伸ばしそこからPSPを取り出して電源を入れた。
「映画館限定配布のグッズもあってさぁ。ファンとしてはやっぱ持っておかないと」
「そう言うのって後々でネットに出回ったりするんじゃないの?」
「中古手に入れて満足するのはニワカの証拠さ。オレッチは原作一から全部新品で買った古参だし」
鼻息荒く胸を張る横井は、妙に血色が良い顔をテカらせている。その作品に対して愛着をもっているらしい事は天心にも窺えた。ならば、付き合ってやるのもいいか、と考え直した天心の顔に笑顔が戻る。
「拘ってるんだねぇ。ちなみにそのグッズって? Tシャツとか、タオルとか?」
「んー……ちょっと待ってて。確か画像がこの中に……」
そう言って手にしていたPSPのボタンを何度か押してフォトアルバムを起動後、画面を天心の側に向けた。腰まで届く長い銀髪をツインテールにしている幼いネグリジェ姿の美少女が、手を丸めて手首を曲げ、招き猫のようなポーズをとっている。そしてその頭には銀毛の猫の耳が取り付けられていた。
「これが主人公の義理の妹で、猫耳少女のフリージアたんね。んで、グッズってのは、その猫耳」
「…………」
天心は閉口する。
そんな猫耳貰った所で一体何が嬉しいんだ、と言いかけた言葉を必死で飲み込んだ。ケンちゃんはこういうのが好きなんだ、人の趣味を悪く言うなんて最低じゃないか、と自分に言い聞かせる。猫耳を頭に付けていやらしく微笑む横井の姿を想像しても、必死でその気色の悪い想像を叩き壊す。横井に、まるで汚らわしい物を見るような視線をぶつけた天心に、横井は言った。
「う……そんな冷たい目で天心氏に見つめられるとオレッチ、興奮するでござる」
横井は天心から目を逸らしながらも、頬を染めながら身を捩らせている。天心はいよいよ横井の言葉に凍り付いた。ボックス席から立ち上がって、通路を挟んだ反対側に腰掛け、肩を震わせながら横井を怯えた表情で見つめはじめる始末である。
「ケ、ケンちゃん、何言ってんの……気持ちが悪いよ」
「まさかのマジ引き!? 今のはそう言うのじゃなくて」
「ケンちゃんってば、そう言ういやらしい目でずっと僕の事を……? うぅ、ショックだ。確かにケンちゃんは女の子にモテない早熟のオタクだけど、二次元に飽き足らず幼馴染み、それも男にまで手を出すなんて」
「ちょ、毒舌のダメージがデカい。勘弁して。謝る、本気で言ったんじゃないってば」
どうやら本気で慌てている横井。それを見て、天心の怯えはあっという間に吹き飛んで、代わりに別の感情が彼に宿る。
顔に浮かぶニヤけ顔を必死で隠しながら、天心は目から大粒の涙をこぼし始める。悪戯心に火がついてしまった。天心はわざと大袈裟に怯えたように歯の根を鳴らし、両手を突き出して声を少し大きくした。
「や、止めてよ。こっち来ないでよ。僕、そう言う趣味はないからっ」
「オレッチだってない訳だが。だからさっきのは何て言うか、ただのおふざけってか」
「い、嫌! 助けて! 怖いよぉ!」
天心の暴走は止まらない。元々高い声を更に高くして、女性の金切り声のそれと同じトーンで叫ぶのだ。いよいよ汗だくになって所在なく手を振り回す横井。天心は段々と楽しくなってきていて、更に悪のりを続ける。
怯えながら胸の前で手を交差し叫びつつ涙ぐむ女のような容貌の天心と、それに手を振りかざして迫る巨漢の横井。
同車両に乗っていた数少ない乗客が、その様子を見て青い顔で通報し、車掌がその場に血相を変えて現れるまで、残り約二十秒。