6−1 母の死
二月下旬の、曇天が寒々しいある日の午後。この日、空峰天心は、幼稚園が終わった後、家に帰る前に迎えにきてくれた母と一緒にランドセルを買いに行くはずだった。向かう先は、国道沿いにある妖山市唯一のデパートメントストア。
この入学準備の忙しい時期、そのデパートは決まって一階に特設のランドセル売り場を設けているのを、天心は覚えていた。自分が今まで憧れていた「いちねんせい」になるのは、あと一月も先の事。今から待ち切れない天心は、繋いでいる母の手を大きく振り、その小さい身体の全身で喜びを表現していた。
「天心、うれしい?」
「うん!」
二人で、僅かに春雪が被った歩道を歩く。
ふらつく老人の自転車や、幅をとる制服姿の学生らとすれ違う度に歩調がゆるまる母親が、天心にはじれったく感じられた。間もなく入学する小学校への期待と不安で胸が膨らませながら、履きなれない長靴で、必死に早足を踏んで母の手を引く。その日はとても寒くて、それでも母と繋いでいるから、手だけはとても温かくて。少年は、心を弾ませながら「転ぶと危ないわよ」と言う母の忠告を無視しながら飛び跳ね回っている。
そして二人は交差点で足を止めた。横断歩道を渡った向こう側にそびえ立つ巨大なデパートを眺めやる少年の目は一際輝いていた。赤い歩行者信号が切り替わるのを急かすように足踏みをする。はしゃぐ天心を見て、母は「あらあら」と楽しそうに笑った。
「そんなに急がなくても、ランドセルは逃げないわよ」
天心は母に言われた通り足踏みを止めて、大人しく信号を待つ。視線だけを落ち着かなく泳がせていると、歩道の奥の方から黒い塊が足元に近付いて来るのが目に入った。黒い塊が首を上げて、緑色の瞳で親子を見上げた。
「あ、ねこちゃんだーっ!」
首輪を付けていない、野良猫であった。天心は興奮気味に声を上げて黒い猫に手を伸ばすが、猫は天心の突然の大声に驚いてその場から素早く立ち去ってしまう。天心は名残惜しそうにその猫の背中を眺めていたのだが、やがて視線を信号機に戻す。赤が止まれで、青が歩け。ついこの間、幼稚園の先生から教えられた交通ルールを思い出しながら、天心は信号が代わるのを心待ちにする。
「天心、横断歩道では手を上げるのよ?」
「わかった!」
大きく首肯する天心。それを見て、母親は嬉しそうに顔を綻ばせる。その慈愛に溢れた笑顔は、天心を喜ばせる。お母さんも楽しそうで良かった、と。
信号機が、青に変わる。
天心は高揚した心を抱えて、我慢出来ずに母とつないだ手を離して、走り出してしまった。早くランドセルが欲しかった。黒くて艶があるあの大きな鞄を背に背負って、おにいちゃんと一緒に小学校に行きたかった。雪解け水の水たまりを弾けさせながら、天心はデパートに向けて猛進する。
「……天心!?」
横断歩道半ばで、背後から母親の慌てふためいた声が聞こえた。母親は、まだ横断歩道に足を踏み出していない。なぜだろう、と不思議に思った天心が顔を上げると、歩行者信号はまだ赤であった。幼心に、異常事態に気がつく。
さっきまで青かった筈の信号機が、どうしてまだ赤いんだろう。
驚愕に固まる天心の右手側から、車が走ってきていた。信号無視ではない。車側の信号は、まだ黄色にさえなっていない。信号無視は天心である。色は白の中型車。運転手は背丈の低い天心の視界からは見えない。
天心は動けない。
混乱で動けない。僕は間違っていないのに、車も間違っていない。混乱が思考を停止させる。
恐怖で動けない。このまま車が来たら、どうなるのだろう。恐怖が身体を地面に縫い付ける。
躊躇で動けない。避けるには前に進んだ方がいいのか、後ろに進むべきなのか。判断がつかないまま、天心は眼前に迫り来る巨大な凶器を眺める事しか出来ずにいた。そして刹那の間を置いて、天心は強く目を瞑った。
「危ないっ!」
裏返った母の声。
固まる少年。飛び込む母親。車の急ブレーキ音は、母子が撥ねられてから響き渡った。
数瞬宙を舞い、二人は地面に叩き付けられる。身体が回転しながら転がっていく。やがて電柱に激突して、ようやく停止する。天心は意識を保っていた。身体の中心に入っている芯が抜けていくのを感じる。
死んじゃうかもしれない。
五歳児でも、それだけは理解出来ている。感覚が薄れゆく身体が、何かにキツく締め付けられている事に気がつき、天心は薄く目を開ける。
「おかあ……さん……」
彼の目の前に、母の顔があった。大好きな母の顔だ。その顔が、頭から滾々と湧き出てくる血で汚れていた。目を強く瞑って、手を強く握って、命よりも大切な息子を守るために強く抱き締めて、母はそこに居た。
「おかあさん……?」
身体に回されていた母の腕の力が緩む。天心は、母親に呼びかける。母は、返事をしない。
「おかあさん!」
叫んだ。いつもだったら、天心がこうして大きな声を出すと、母は慌てて返事をする。どうしたの、なにがあったの、と天心に優しい声をかけてくれる。だが、声を返したのは母親ではなかった。
「にゃぁん」
「……さっきのねこちゃん?」
目がもう碌に見えなくなっていたが、何となくさっきの猫だと気がついた。猫に用はない。ただ、母からの返事が欲しかった。だから天心は、かろうじて繋ぎ止めている命の灯火を賭してまで母親を呼ぶ。
「おかあさんってばっ……」
「にゃあぁ」
「おまえじゃない……! おかあさん……、おかあさん!」
しかし彼の声に、母は二度と答える事はなかった。
*
新聞に大々的に取り上げられた、凄惨で理不尽な交通事故。被害者は、まだ幼い子供と、その母親。母子ともに重傷。息子の方は奇跡的に一命を取り留めたものの、母親の方は病院に運ばれた時には既に亡くなっていた。運転手の男性は事故後すぐに警察に逮捕されたが、罪悪感に堪え切れなかったのか、留置場の独房で自分のシャツを使って首を吊った。まだ幼い被害者の子供とその兄、そして最愛の妻を失った父は、憎しみをぶつける相手さえ失って、ひたすら悲しみに打ちひしがれ、この世の理不尽を呪った。
そんなありふれた悲劇も、もう八年も前の事である。