5−9 妖怪の涙
薫は目を瞑って、そのまま自分の体が地面に伏して凝り固まっている事に気がつく。ゆっくりと目を開ける。自分の胸を抑えてみる。心臓が激しい脈を打っていた。まだ、動いている。出血はどこにもない。死んでいない。一体何が起きているんだ、と顔を上げると、口裂け女が動きを止めていた。包丁を振り下ろした格好のまま、動けずにいたのだ。口裂け女の包丁が捉えているのは、宙に浮いた青い光の塊だった。その青い光から、イソギンチャクの様な細い触手が伸びて、口裂け女の包丁に絡み付いていたのだ。
「おい! 香田さん! 大丈夫かよ!?」
ノイズが混じったような、男の声が聞こえた。数日前に聞いたばかりなのに、何故かその男の声が妙に懐かしく感じられた。六月二十九日を思い出した。あの日もあの男は、こうして自分をかばってくれた。まさしく再現。自分を襲っている相手も、自分を助けようとしている男も。
「クー……ちゃん?」
「どんな状況だよコレぇ! ユリアンの馬鹿は何やってんだよぉ!
とにかく、時間がない! 早く口裂け女から離れろ!」
空峰雲海の声が、光の塊から聞こえてくる。光の塊の正体は、雲海に手渡されていた青い折り鶴。雲海に渡されたお守りから、雲海の声が聞こえてきているのだ。原理は薫には分からないが、薫は慌てて起き上がり口裂け女の足元から飛び退く。
「おい! ユリアン! 聞こえてるか!?」
「Oh、ウンカイでーすか? 久しぶりー」
「呑気な声出してんじゃねぇよ馬鹿! ぶっ殺すぞテメェ!」
声の主こそ雲海だが、その迫力は雲海のものではない。加えて言えば、言葉選びも到底穏やかな性格の持ち主である雲海とは思えなかった。
「な、なんかクーちゃん、言葉汚いよ……? もしかして、不機嫌?」
「お前も随分呑気だなおい! 死にかけてたくせに良く言うわ!
挙げ句『不機嫌?』だぁ!?
ぐっすり寝てんのに叩き起こされりゃこうなるわ! 今何時だと思ってんだテメェら!
僕がこの世で一番嫌いな事はなぁ、夜ぐっすり眠っている時に無理矢理叩き起こされる事なんだよ!
しかも我が儘を言う式神に無理矢理意識だけ繋げられて、遠路はるばる霊体を飛ばして来たらこの様かよ!
ピンチ過ぎんだろ! ユリアンテメェちゃんと仕事しやがれ、この似非陰陽師!
大体なぁ! 僕が折角こうして来たってのにお前らいつまで呑気な話し声出して……」
雲海の怒鳴り声が段々と小さくなりはじめた。それと同時に折り鶴から放たれていた青い光も弱まっていく。時間切れのようであった。口裂け女が包丁に張り付いた触手を引き千切って振り切り、再び薫に目を向ける。投げ捨てられた折り鶴は、最早ただの白い紙くずに成り果て、地面に投げ出された。薫は再び動き出した口裂け女にまたしても手を突き出すが、その彼女の腕を、ユリアンがやんわりと抑えた。
「既に、術は完成していますのよ。
御覧あれ。安倍晴明の式神を模倣した我が下僕を……」
そう言って、ユリアンは満足げに嘆息し、首を空に向けた。彼に習って空を見上げる薫の目に、星空の間を駆け巡る幾つもの光の筋が見える。数は十かそこらで、光も弱々しく、昇り途中の花火のような地味さなのだが、これで術が完成していると彼は言った。薫としてはもう少し派手な鬼のヴィジョンが浮かび上がったりするもとの考えていたので盛大な肩透かしを喰らった気分であったのだが、、口裂け女は別のようだ。
「……そして見てみなさいな、あの哀れなおねぇさんを」
ユリアンが指した先にいた口裂け女は、既に足を止めていた。
「……は……ふ、が……」
口元が何かを訴えるように蠢いている。腕は震え、手から血塗れの包丁が零れ落ちた。口裂け女は口を覆っているマスクを投げ捨て、その裂けた口を限界まで大きく開けて、息を吸い込む。まるで、酸素を求めて暴れ回る溺れた人間のような挙動だった。喉元を手で押さえ、足元から力が抜けるように、やがてゆっくりと膝をつき、尻を付き、項垂れる。
「京都の聖域のおかげか……口裂け女には相当な負担がかかっています。
体が自壊してしまわぬように保つのでさえ、精一杯なのでしょう」
口裂け女はそのまま、音もなく空き地の剥き出しの地面に倒れ伏す。四肢を振って、必死に苦痛に耐えているその様は、最早死にかけの蟻である。薫は、なんだか可哀想だ、と少しだけ思ってしまった。こちらを見つめている口裂け女の目は、既に激しい激情が失せた、哀願の色を浮かべている。とても自分を狙っていた妖怪には思えない。薫は、自分に宿る彼女への敵意が急速に静まっていくのを実感していた。
「本来八百万の神でもある妖怪を完全に抹消するのは、あまり褒められた事ではありませんが……。
今後のカオルの身の安全を考慮するに、このまま滅してしまうのが良いのかも知れませぬ」
ユリアンがチョークを取り出して、口裂け女に歩み寄り、倒れたまま動かない口裂け女を中心に陣を描き始める。
「このまま口裂け女を消滅させれば、Ms,ミウラの魂だけがこの場に残る……。
カオル。Lastに、決め台詞の一つでもぶちかましたってやぁ」
「待って、ユリアン」
薫が口を開く。そして、静かに口裂け女に近付いていく。薫は自分でも半ば正気を疑った。このまま、消す事が最良じゃないか。なのに何で私の心は、こんなに穏やかなんだ。妖怪と言う存在を知って、陰陽師と言う存在を知って、薫はずっと振り回されていた。状況が分からなくて、説明を求めて、それで理解出来なくて蚊帳の外。そのお約束と化した状態を崩したい、なんていう突発的な衝動だったのかもしれないな、と薫は自嘲しながらも、己のその感情に身を任せてみる事にする。
思えば、口裂け女がこんな所に居る事は、とても不思議な事なのだ。相川が言うには、口裂け女はもう薫達が生まれる前に現れた妖怪。今ではその都市伝説さえ消滅しかける程、風化した存在だった。それが何故、今になって現れたのか。
「貴方……住む場所がなくなってしまったんでしょ?」
「………………」
口裂け女は答えない。ユリアンは静観している。薫は、口裂け女に視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。間近から見ると、やはり口裂け女は醜い。十秒と直視出来ない酷い顔だ。しかし、薫はその恐るべき顔と相対しても、脅えない。目を逸らさない。
「だから、消滅しない為に無理矢理人間に襲いかかった。
……貴方も必死だったんだよね? 消えたくない、もっとこの世に生き続けたい……って」
「…………ぅ……ぅぁ」
口裂け女が何かを訴えるようにうめき声を上げる。薫は、震える手を一度振って、恐る恐る口裂け女の脂ぎった髪に手をおいた。ユリアンの顔が強張るが、薫はべたつく手には構わずに言葉を続ける。
「人間の都合で貴方達を振り回して、ごめんなさい。
でも……私達も、無抵抗を貫く訳にはいかないの。私だって死にたくない。
だからこうして、生きるのに必死な貴方から身を守って……でも、思うんだ。
このままじゃお互い、いつまで経っても憎しみだけが残るって。
そうやって人間と妖怪がお互いをいがみ合って……そんなの、悲しくなるだけじゃない」
「カオル……もう……」
「ゴメン、ユリアン。でも、もう少し話をさせて」
「術を維持する身にもなってくれっす……」
ユリアンは苦しそうに薫の話に耳を傾ける。術を維持するのも当然だが、何よりも薫の言葉が重苦しかった。妖怪を憎む彼の心の傷に、薫の言葉はまるで水の様に深く容赦なく染みていく。
「私の事が憎いのは分かる。あれだけ酷く傷つけたんだもん」
「……ぐぅ……あぁぁぁ」
「こんな風に罠を仕掛けた私達が言う資格なんてないのかも知れない……。
でも、それでも拒む貴方の手から強引に奪い返すような事をしたくない。
もう憎しみの種をばらまく様な真似は、私はしたくないし、貴方にもしてほしくない。
……だから、お願い。先生を……」
薫の目から、涙が零れ落ちた。哀れみの涙でも悲しみの涙でもない。懇願の涙だった。
「先生を……返して下さいっ……」
涙ながらの薫のその言葉に、口裂け女の呻きが止んだ。そして、口裂け女が、真っ青な腕を震わせながら、薫の眼前に突き出した。
「カオル! そいつから離れろ!」
ユリアンがチョークを構えるが、薫が腕を突き出して、それを制する。ユリアンの深い呼吸と、口裂け女の荒い息だけが聞こえていた。張りつめた空気が場を支配する。口裂け女の腕は、已然として真っ直ぐに薫の眼前に差し出される。口裂け女は掌を上に向けると、その手の上には白く輝く、卵くらいの大きさの光り輝く球体が乗っている。
「……これが……先生?」
「ぅご……め…………」
口裂け女の、大きく裂けた不気味な口が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ん……ご……むぇ……め……ん……」
「ごめん……って言ってるの?」
口裂け女がゆっくりと首を縦に振る。
そして、薫は気づく。口裂け女が、泣いていた。落ち窪んだその生気のない瞳から、透明な……まるで人間のような涙が、流れ落ちていた。ユリアンが目を丸くして、愕然としているのが薫の視界の端に映った。
妖怪と人間の相互理解。陰陽師が、真にとるべき正しき姿勢。それを薫はやってのけている。妖怪と分かり合っているのだ。少し妖怪と触れ合っただけで、ちょっと特別な力を持っただけの、普通の女の子が。
「Unbelievable……こんな事が……」
「……先生を、返してくれるんだね?」
口裂け女はもう一度大きくうなづいた。
薫は優しく笑ってから目の端の涙を拭って、口裂け女の手から三浦の魂を受け取った。脂ぎった髪を撫でながら、薫は口裂け女に微笑みかける。
「仲直り……って事で良いのかな?」
元々友誼を結んでいた訳では無いが、口裂け女はもう一度頷いてみせた。それを見て、薫も満足げに頷いてユリアンを見上げる。
「ってな訳だから、ユリアン。もう術、解いちゃっていいよ」
「……え、でも」
「口裂け女はもう安全だよ。だって口裂け女は……名前長いな……ううん、そうだなぁ。
……貴方、名前無いの?」
口裂け女が首を横に振る。薫は口を尖らせて少し視線を中空に漂わせた後、手を打って笑う。
「クチサケだから、サキちゃん……とかどうよ?」
「人の身体的特徴をあだ名にするのは良くないねー、カオル」
「う、そ、それもそうだ……じゃぁ、紅い服きてるから、アカちゃんで」
「You、まともに考える気あんまりないだろ」
すっかり和んでしまった、見せ場が台無しだ、とユリアンは溜め息をつきながら、地面に描いていたパターンをスニーカーで引っ掻いて踏み消した。途端空を待っていた人魂の様なか細い光源は跡形も無く消え失せ、口裂け女は何事も無かったかのように立ち上がった。そしてよろけながらも薫の隣に佇んで、小さな声で薫に話しかける。
「…………」
「あー、そんな昔から……え? じゃぁ貴方って今何歳?」
ユリアンには聞こえない、蚊の鳴くような小さな声で語る口裂け女。薫はそれに合わせるように小さな声で口裂け女に耳打ちを返す。
「…………」
「お、おぉ。お母さんより上だった……」
和気藹々……とは少し言い辛いが、緊張しながらも薫と口裂け女はコミュニケーションを続けていく。ユリアンからしてみれば、あまりにも奇妙な光景だった。
人間と妖怪が仲良くする……それは、別段そんなに珍しい事では無い。空峰家は河童と住んでいるし、他の陰陽師には、妖怪を飼いならして使役してしまうような者さえ存在するのだ。陰陽師の使い魔である式神と言う存在も、元を辿っていけばいずれ妖怪と同じ起源に出くわすだろう。噂だけだが、妖怪と人間のハーフなんてものまで存在するらしい。
だが、薫と口裂け女はついさっきまで敵対していたのだ。それなのに、口裂け女は……薫の心に触れ、あまつさえ涙すら流していた。妖怪が泣くなんて話は、ユリアンは聞いた事がなかった。ユリアンにとっての妖怪とは、正しく悪鬼羅刹。血も涙もなく人間を喰らう、感情なんて持っていない、悪魔よりも厄介な存在。そんな認識を揺るがされ、ユリアンは思わず過去を……自分が陰陽師になる経緯の上に横たわる一人の女性を思い出す。
もしも……あの時。リョウコが襲われた時、あの猫に襲いかからなければ? もしあの猫が、案外話の分かる妖怪で、必死に懇願すれば受け入れてくれるような妖怪だったら?
「……んなアホな話ないわー」
ユリアンは自分の甘さに反吐が出るような気分だった。
過去は何も変わらない。自分が陰陽師として生きる理由は、変わらない。全ての妖怪が話が分かる輩ではない。今回は、たまたまだ。本当に、たまたま、好例だっただけなのだ。ユリアンは、自分にそう言い聞かせて、薫と口裂け女の会話を見守る。復讐に燃える心の中に落とされた、一滴の雫に気がつかないまま。
*
「さてと……いい加減に夜も更けて参りましたぞよ」
ユリアンはうんざりしたようにそう言って、空き地の真ん中で草むらの上に座って、田舎の澄んだ星空を眺めながら話を続けている薫と口裂け女を眺めやる。既に三浦の魂は、魂の緒を辿って三浦の体に帰っていった。もう口裂け女と薫の間には、何の因縁も因果もない。さっさと解散するべきだ、と考えるユリアンに、薫が信じ難い言葉を吐いたのだ。
「本物の妖怪から話を聞けるなんて滅多にない機会なんだから、もう少し話させてよ」
つくづく規格外の少女だ、と最早呆れ果てるしかない。
既に一時間近くも口裂け女の一挙手一投足に警戒を払い続けているので、いい加減眠くなっていた。そもそも半日かけて術を組み立て、それを使用したのはユリアンだ。疲労の程は半端ではない。加えて現時刻は、午前一時半。今ここに布団があれば、一も二もなく寝るだろう、とユリアンは自負していた。
そんなユリアンの疲労具合を察知したのは、薫ではなく口裂け女の方であった。口裂け女が、薫の耳に近付いて耳打ちをする。その瞬間にもユリアンは憔悴した顔でチョークを構えている。
「……ん? あぁ、そうなんだ……うん、そうだね、寂しいけど」
「………………」
口裂け女が立ち上がる。どうやら別れを告げたらしい。薫も立ち上がって、口裂け女に手を差し出した。別れの握手である。
「また、そのうち会えるよね?」
口裂け女は頷きながら、薫に握手を返す。人間では有り得ない程冷たいその手が離れた後、薫の手には何か黒くて丸いものが残っていた。暗い中、目をこらして見てみると、少し大きめの、ダッフルコートの釦であった。
「コレ、くれるの? ……え? 友情の、証……? そっか、うん。大切にするね!」
口裂け女は大きく頷いて、薫に背を向け、ユリアンの脇をすり抜けて、空き地から歩き去っていく。山に帰るのだろう。ユリアンはようやく肩の荷が下りた、と、薫の方に歩み寄って、彼女の隣に座り込んだ。
「Very……疲れたっす」
「ずっと気張ってたもんね。ゴメンゴメン」
薫は手の中のダッフルコートの釦をマジマジと眺めながら、ユリアンにそう言った。ダッフルコートの釦は、よくよく見ると時折表面に砂嵐のようなノイズが走っている。電波を拾っていないテレビの画面を釦の形にくりぬいてきた様な、奇妙な物体であった。
「それは、妖怪のSoulの一部。大事に仕舞っておくと良いんですの。
そんな大事なものを渡されるって事は、よっぽど信頼されとる証なのだ」
「……へぇ。そっか」
薫は顔を上げて、去っていく口裂け女の後ろ姿に、大きく手を振る。一応近所迷惑を考えて、声を出す事はなかったが、口裂け女は振り向かぬまま手を振り返してくれた。
「大丈夫かな、口裂けさん。また、そのうち山から下りてきたりするのかな?」
「……さぁ? ですが、もう数百年くらいは、人に襲いかかる事はないと思うのだ。
奴の魂は、とても清々しくPurifyされた故。下手な人間よりよっぽどきれいな心になったのでーすな」
例えば我のような人間よりも、と心の中で自嘲を交えつつ、ユリアンは立ち上がる。
「いい加減、眠いのだ。我々も帰ろうぞ」
「……そだね。私も眠くなってきた。じゃ、かえ……?」
薫の表情がふいに凍り付いた。
「……なに?」
「ん? カオル、どうしたんですの?」
何かに反応するように、立ち上がった薫は辺りを見回す。発火能力で生み出した掌大の緑色の炎を利用して、暗い空き地を緑色に明るく照らす。薫の突然の奇行に、ユリアンは眉を顰める。
「Hey、Heyカオル! 突然火遊びなんてしてどうしましーた?
花火でもやりたかったでーすか?」
「違う……ただ、なんか……妙な気分。頭の芯の奥が痺れる様な……」
薫は辺りを警戒している。ユリアンは、首を傾げるばかりだ。やがて、薫は空を見上げ、目を細める。
「……あれは……」
「あれ? ……WHAT!?」
ユリアンが驚愕の表情で、薫と同じく空を仰ぐ。
二人の視線の先には、星と言うにはあまりにも大きくて、不気味な緑色の光を放つ存在があった。月でも星でもないそれは、やがて段々と大きくなっていく。薫達の方に近付いてきているようだった。
「な、なん、なんなんでーすか! アレは!」
「まさか……U.F.O……とか?」
「But……But、そんなSFみたいな話、有り得へん!」
「じゃぁあれは一体何なのよ! それが分からないからU.F.Oなんじゃない!」
U.F.O。Unidentified Flying Object、すなわち未確認物体の略称である。その名の通り確認されてない正体不明の飛行物体であり、一般的には宇宙からの飛来物として浸透している。今まさに薫達が見上げているものは、宇宙からの飛来物と考える以外には説明がつかない物体だった。