1−3 道を示す警察官
町に幽かに響く蝉の声をBGMに、物珍しそうにあちらこちらを見回していた女子高生が、ふと口を開いた。
「……都会は広いですねぇ」
「都会? この町が?」
警官も彼女に見習って町を見渡すが、辺りに広がっているのは、閑静な住宅街。精々二ヶ月程前にひったくりが一件起こった程度の、平和で長閑できな臭い都会のイメージとは碌に合致しない場所であった。近隣で一番大きくて都会的な建物は、半端な都市計画の末に建設された、天を貫く三十階建ての高層マンションくらいなものだ。次に大きなものは先程の商店街に突き抜けるように佇むデパートであり、次を探すと彼女の転校先である私立杵柄高校になるだろう。怪訝な声を上げた警官に、少女は反論する。
「十分都会ですよ、こんなに町に人が一杯居るなんて。山田村って知ってます?」
「……一応、同県の地名だからね。谷潟市に吸収合併されるらしいが」
「そうなんですよ。他の隣市もどんどん吸収してるんですよね。
そこまでして政令指定都市になりたいんですかね。……それはそれとして、私そこの出なんですけど」
少女は、聞いても居ないのに身の上話を始める。警官はそれを止めるのも可哀想かと、黙って彼女の言葉に耳を傾けた。
転校後登校初日と言っていた。話し相手も居なくて、寂しかったのだろう。だからといって偶然そこに居合わせただけの通りすがりの警官に話すのは、些か常識が欠けていないだろうか。そんな彼の思考なんて全く考慮しない少女は、己の故郷を語り始める。
「もう、家の周りが一面、全部田んぼですよ。隣家まで300メートルもあるんですよ?
最寄りのスーパーまで3キロもあるし、コンビニなんてないし。
日に2本しか電車が来ないし、未だにLPガスだし、トイレは汲取式だし」
自虐的な故郷語りではあるが、少女はどことなく嬉々としていた。
「何か、良いところもあるんだろう?」
「良いところは、緑が沢山ある事かな」
言葉に詰まる気配すら見せずに、少女は断じた。まるで初めからそう語るつもりだったと言わんばかりである。
「あんまり人が居ないせいですけど、自然に溢れてる村ですよ。
木とか草とか、整備する人も居ないからボーボー伸びっぱなしですし。
遠目に村を見たら、森の緑と空の青と雲の白、三色しか目に入りません。
田舎は空気が美味しいってのはあんまり信じてなかったんですけど、町に出てきて本当だって気づきました。
……山にも熊が住んでるんで、ちょっと危ないんですけどねぇ」
「なるほど」
村を出てから日の浅いらしい彼女は、故郷を思い出すように遠い目で空を見やる。黒くて大きな瞳に映るのは単なる青空だけだが、彼女は故郷の森を見ているのだろう。警官は後ろを付いて歩く小さい少女を振り返った。
「この町は、好きになれそうにないかい?」
「まだ来て三日くらいだから、好きも嫌いも分からないですよ」
「それもそうか……さて、到着だよ」
警官が立ち止まり、顔を上げる。少女も吊られて首を上に向けると、そこには立派な白壁の校舎がそびえ建っていた。一般的な高等学校の校舎とはどの程度のものか。少女はそれを知っている訳ではない。しかし田舎にあった、今では『崩れ去って』脆くも廃校となってしまった戦後以来改築されていなかった木造二階建ての高校より遥かに上等なものだと言う事はわかる。曇りない窓ガラス、汚れていない黄系の白色校舎の頂上に可愛らしく乗っかる時計台。敷地面積約七万平方メートルと言うマンモス高。それが杵柄高校であった。広い赤煉瓦で構成された校門を前に、少女は目を煌めかせる。
「おぉ……そうです、そうです。ここでした! 編入手続きの時に一度来たんですよ」
「それはそうだろうね」
当たり前の事を興奮した様子で語る少女は、警官の脇を軽快に駆け抜けた。そして、つま先で軽く地面を蹴る。警官は目を疑った。少女は、たったそれだけの力でまるで風船のように浮かび上がったのだ。そして狙い澄ましたように校門の上に立って、少女は驚きに固まる警官に振り返る。
「お巡りさん!」
「……ん?」
「ありがとうございましたぁ!」
校門から飛び降りて、元気に手を振って、彼女は校舎の玄関へと駆けていく。砂煙を巻き上げて走っていく少女を、警官は溜め息混じりに見送った。今見た、彼女の脚力は一体なんだったのだろうか。少しだけ理由を考えてみるが、単なる目の錯覚と言うことで自己完結した。
「さてと……」
一つ職務を終え、腕時計を確認する。午前十一時を回り、間もなく巡回の時間も終了だ。あの少女が無事に高校生活を送れますようにと、頭の片隅で願いながら彼は来た道を引き返し始めた。