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怪奇!知らない世界の人々  作者: ずび
第五話 ミステリーサークル
58/123

5−6 瀕死の恩師

 翌日、薫は自室の扉が激しくノックされる音で目を覚ました。

 瞼が重い。半開きの目を窓の外に向けると、山陰から顔を見せる眩しい日差しがカーテンの隙間を縫って部屋に差し込んできていた。その光を頼りに部屋にかけてある時計に目をやると、時刻は六時。あまりにも早過ぎる。寝覚めのラジオ体操の代わりにビリーズブートキャンプでもやろうってのか、と薫は苛立ちながら自室の扉を見やる。未だに打楽器を叩くかのようなアップテンポビートを奏でる扉の向こうの誰かに、薫は呂律の怪しい声をかける。


「誰ぇ……こんな朝早くにさぁ……」

「我だぞ! 土玉百合安(ユリアン)でございますのよ!」


 ドア越しに返ってきた溌剌とした男の声は、全くもって薫の予想通りのものだった。なんせ、それ以外に思いつかない。こんな朝早く、乙女の部屋の扉にラッシュをかける無礼な輩は、薫の知り合いには一人しかいなかった。泊めてもらっている客だと言う自覚は、彼にはないのだろうか。ないのだろう。


「……そのドンドンやるの止めて! 五月蝿いから」

「Oh、Sorry。あけまーすよー」

「え、ちょっと待って!」

「Why?」

「そんなの聞かなくても分かるじゃ」

「No,I Don't」


 薫の言葉を遮って、無情にもユリアンは強引にドアノブを捻り、押し開け、部屋を見回す。

しばらく帰っていなかった薫の部屋は生活感がない程に整理整頓されていたのだが、一日過ごしただけで中々汚くなっていた。

 畳の部屋に勉強机と一人用の小さい炬燵机。市松模様の押し入れが開きっぱなしで、部屋の奥には布団が敷いてある。本棚には雑誌の類いの他、中学の頃使っていたのであろう教科書や辞書、その他数冊の少女漫画がランダムに押し込まれている。それらから視線を逸らして、ユリアンはようやく薫の顔を見やった。七分丈の薄手の水色のパジャマに身を包んで、寝癖で長い髪があちらこちらに跳ね回る彼女は、不機嫌そうに目を細めていた。少し惚けたような顔のユリアンは、残念そうに俯く。


「……全部、普通やんか。入室を拒むっちゅー事は期待したのですが……」

「期待ってなにを?」

「カオルの恥辱的Eventですの。

 実は部屋にはデスメタルバンドのポスターを張っているとか、裸じゃないと寝られないとか、そんな性癖はないのでーすか?」

「……ねぇよ、そんなの」


 ユリアンの爽やかな微笑みを見て、薫は朝から盛大に毒づいた。彼の言葉の割には大していやらしさがないのも、怒る気になれない原因の一つであった。「残念でーす」と呟くユリアンに向けて、薫は半ば閉じかける眠気眼を何とかこじ開ける。


「それで、一体どうしたの? こんな早朝から叩き起こして。

 久しぶりの実家なんだから、少しのんびりさせてよ……まだ眠いよ」

「Oh! そうですわ! 和んでる場合じゃねぇんだよ!

 カオル! 今こそこの伝説の名台詞を吐く時でーす!

 ええっと、そう! 四十秒でGet dressed!」


 ユリアンはますます声を張り上げ、眠気眼の薫の胸倉を掴んで、前後に振り始めた。大柄なユリアンは相応に腕力も強く、小柄な薫の体はいとも簡単に振り回された。シェイクされる頭に沸き上がる憤怒。薫は喉の奥から低い声を絞り出す。


「……チョン切っても良いんだね?」

「…………」


 小ぢんまりとした容貌とは裏腹なドスの利いた声に、ユリアンは無言で顔を青くして手を離す。地面に着地した薫は、乱れた襟元を直し、改めてユリアンを見る。安堵の溜め息を吐いたユリアンの顔色は、どうも優れなかった。


「ちょっとコメディノリになってしまった今、話すのは忍びないのですが……」

「コメディノリにしたのは貴方じゃないの。いいから話してよ」


 ユリアンは苦虫を噛み潰すような顔で俯き、眉間に皺を寄せる。どうやら本当にシリアスな話に繋がるらしい。薫は思わず身構える。ユリアンは、ゆっくりと薫を出来るだけ刺激しないように、労る口調でこう言った。


「……Youの恩師。ミウラ カナが……危篤だそうですの」

「え?」

「つい今しがたHospitalから連絡が有り申した」

「き、とく……って……!」


 眠気眼は吹き飛んでいった。耳を疑うが、聞き間違いでない事はユリアンの苦渋に満ちた顔が語っている。


「どう言う事!? 危篤って、先生に一体なにが!」

「Wait、Wait! カオル、苦しいでーす!」


 今度は薫がユリアンの薄手のサマーセーターの襟首を掴んで、振るう。しかし彼は体勢を崩す事なく、両手を差し出して何とか彼女を宥めようとしている。


「とにかくGo to Hospitalでーす。急いで出発の準備を」

「わ、わかった! ちょっと待ってて!」

「OK」


 薫はユリアンを部屋から押し出して、扉を閉める。箪笥の中から適当に引っ張り出した服を身につけ、すぐに部屋を飛び出す。身嗜みなんて気にかける余裕がない彼女が家を出てユリアンと合流するのにかかった時間は、皮肉にも四十秒程であった。




  *




 ユリアンのバイクに跨がってほんの数分走るだけで、薫達は山田村総合病院に辿り着く。昨日歩いて行ったときはあれだけかかったのに、と呆然とした頭で少し場違いな事を考える薫は、半ば無意識のうちに受付を済ませ、三浦が移された個室の病室に案内された。この小さい病院にはICU(集中治療室)等と言う高尚なものは存在しないため、個室の病室が精一杯なのだそうだ。だから特別入室に制限がかかる事もなく、薫はその点だけは普通の病院よりマシだ、と考える事にした。三浦の主治医は、転校前に良く見舞いにきていた薫の事を覚えており、事情を話したらユリアン共々、薫達はすぐに三浦の様子を見る事が出来た。


「…………」


 ピッ……ピッ……ピッ……。無機質な電子音が聞こえる。心電図の音である事を疑う余地はない。緑色のグラフを描くその機械は、三浦の命がどうにか繋ぎ止められている事を示していた。薫は言葉を失う。医者に病状を聞いてきたユリアンが、無言で薫の横に立った。人工呼吸器で顔の大半が隠れてしまっている三浦を見下ろして、薫はただ無表情のまま佇んでいた。しばらくしてユリアンが、ゆっくりと口を開く。


「容態が急変したのは昨日の夜中だそうじゃ。

 何とか、峠は超えて、一命は取り留めたのだそうでーす。But……」


 こんなのおかしい。昨日まで、あんなに元気だったのに。笑い話だって沢山したのに。段々良くなってるって言ったのに。


「Doctorも、全力は尽くしたそうですが……」


 まだ話したい事は山程ある。教えたい事も、教わりたい事も、沢山あるのに。


「Brainに重大な異常は見受けられないが、なぜか目を覚まさないらしく……」


 止めて。


「カオル。大変申し上げにくいのですが……」


 止めてよ。


「意識不明の重体……と言う事に」


 聞きたくないよ。


「嘘……」


 薫は眠るように静かな三浦の両肩を掴んだ。


「嘘でしょ?」


 掴んだ手に力が篭る。手術衣越しに触れる三浦の両肩は、薫には少し冷たく感じた。


「起きてよ先生……ねぇ……お見舞い、来たのに……」

「カオル、Stopですの」

「ねぇ……ねぇ! ねぇってば!」

「カオル!」


 震える叫び声を上げながら、横たわる三浦の肩を揺さぶり始めた薫を、ユリアンは無理矢理引き剥がした。薫はそのまま尻餅をついた。立ち上がる様子のない彼女の腕を引いて、ユリアンが椅子に座らせる。薫は、心ここにあらずといった様子で、無表情のまま涙を流して三浦の顔を眺めるばかりであった。


「まずは、落ち着かねばなりますまい。カオル、病室から出ましょう」

「…………やだ」

「カオル……我が儘はいけません。間もなく、先生の御家族もいらっしゃるそうですの。

 我々が邪魔をしては行かぬ」

「…………やだもん」

「ふぅ、やれやれ」


 薫の隣に座っていたユリアンが立ち上がって、薫を見下ろしていた。それを見上げる薫の目に映ったユリアンは、憮然とした表情。次の瞬間、薫の頬に強烈な痛みが走り、薫の体は椅子から転げ落ちて床に投げ出された。ユリアンが怒りの表情を浮かべて、右の拳を握っているのが見えた。殴られたのだ。拳で。思い切り。迷いなく。薫が些か困惑した表情で、ユリアンの呆れたような顔を見やった。


「……女子供でも、道を誤った者はぶん殴ってでも矯正すべき。

 ゲンマーイにはそう教わってるのでーす」

「…………グーで殴る事ないじゃん」


 少しふらつく頭を手で支える。殴られた左側の頬が、猛烈に痛かった。しかし、お陰で少し目が覚めた。三浦が昏睡しているのが、嘘でもなんでもないと言う事を頭で理解する事が出来た。


「……立てますか?」

「うん。大丈夫……ごめんユリアン。迷惑かけた」

「Non、Non。このくらい、朝飯前でーす。……Oh、本当にBreakfastまだですの。

 HAHA、ちなみに我の朝は卵かけご飯一択ですぞ! 覚えとけ!」

「………………」


 空気を読まずに軽口を叩くユリアンだったが、薫は怒る事は出来なかった。彼が自分を励まそうとしている事が、薫には分かってしまったから。薫は立ち上がり、無言で涙を拭いて三浦に背を向ける。振り返る事は出来そうにない。また泣いてしまう事は、目に見えていた。


「ちょっと……頭、冷やしてくる」

「OK」


 そう言って、薫はその場を去っていった。ユリアンから見た薫の背中はとても弱々しい。突けば折れそうな程である。雲海から聞いていた話のような、口裂け女を吹き飛ばした女傑には到底見えない、とユリアンは薫の小さな背中が曲がり角に消えたのを眺めて嘆息する。こうなってしまったのは、ある意味では三浦のせいであると言える。


「……全くもう、Youも罪な女でーすね……っと、これは少々意味が違いそうですなぁ。日本語難しいのだ」


 ユリアンは三浦に目を向ける。そして、違和感を覚える。陰陽師だからこそ気づくその妙な空気。ユリアンは眉を顰め、眠っている三浦を凝視した。


「What……? これは、一体……」


 ユリアンの視線が、三浦の首筋に向かう。手術衣から覗く白い喉元。そこに違和感を覚える。そしてユリアンは目を細めてそこを注視し、低く唸りを上げる。


「Hmmm……何てこったぃ……」


 医者は言っていた。昏睡の原因は不明だ、と。ならば光明は、まだ差しているかもしれない。ユリアンは、口元に怪しげな笑みを浮かべた。




  *




 誰も居ない病院の待合室の長椅子に、薫は横たわって天井を眺めていた。古びた病院の天井の木目でも眺めていないと、先程の三浦の死人のような寝顔を思い出してしまいそうだった。ただでさえこうしている間にも、涙があふれそうだ。しかし、頬の痛みを思い出して、必死で堪える。ウジウジしててまたユリアンに顔をグーでぶん殴られるのは嫌だ。と言うよりも、嫁入り前の女の顔だと言うのに、パーなら兎も角グーって。グーってなんだ。どう言う了見してるんだ。歯とか折れたら取り返しつかないって。

 そう思うとユリアンに対する怒りも沸々と沸き上がってくる。悲しみを紛らわすには丁度良いその怒りの感情で頭を支配していけば、この涙も止まるだろうか。そう思って実際にやってみても、何故かユリアンの屈託ない顔ばかり思い浮かんでしまって、結局憎み切れない。頓挫。


「どうすりゃいいんだろ……」

「Hey、カオル! ……Oh、カオル。そんな所で寝転がるとは、Mannerの悪い子でーす。

 ちなみにゲンマーイは、女子供であっても礼儀が悪ければぶん殴」

「分かったわよ、起きる、起きるから拳握るのは止めて」


 体を起こした薫は、ボサボサになってしまった長い髪を撫で付けて、一応体裁を取り繕う。いつものように髪を結っていないせいで、薫はどうも居心地が悪そうに身を捩る。その様子を見てユリアンは何故かサムズアップをしてみせる。


「ポニーテールもGoodですが、たまに見せるLong hairも良いのだ!

 カオルは萌えを心得ておるのでーす」

「あっそ……」


 興味ない、とばかりに顔を背けた薫の隣に、ユリアンは足を組んで腰掛けた。何故か少し楽しそうな笑顔をしているのに腹が立つ。不謹慎だと感じた薫が口を開こうとすると、先んじてユリアンがこちらを向いて、厳かな声を出した。彼の顔は、既に真剣な色を浮かべていて、どこにもふざけている様子が見られない。


「カオル。Good newsとBad newsがあるのでーすが、どちらから聞きたいんや?」

「……へ?」


 場の空気ごと雰囲気を一変させたユリアンには正直ついていけない。薫はユリアンに流されっぱなしなのは、恐らく彼のUp downの激しさによるのだろう。しかし、こうしてガンガン引っ張られるのはそこまで嫌じゃないかもしれない。薫は大人しくユリアンの質問に答えを出した。


「良いニュースから聞くわ。私、ご飯食べるときも好きなおかずは真っ先に食べちゃうし」

「……HAHAHA、我も一緒ですの」


 笑い方はどんな時でも変わらないユリアンが、薫の肩に手を乗せて、ウィンクした。


「Ms.ミウラを目覚めさせられるかもしれませーん。他ならぬ我々の手で、ね」


 薫は目を丸くする。ユリアンはへらへらと緊張感の欠けた笑みを浮かべるばかり。薫は一身分、前に出た。


「…………ほ」

「ほ?」

「本当に!? 本当でしょうね!?」


 薫は、最も望む答えを提示したユリアンに肉迫する。目の前まで一気に迫ってきた彼女の双眸を見て、ユリアンは苦笑いをしつつ目を逸らし、はしゃぐ子供に言い聞かせるようにゆっくりと語り始めた。


「良いでーすか? これは100percentの方法ではありませーん。

 あくまでも可能性の話、なのですの!」

「そんなの聞いてないよ! 先生を助けられるんだったら、私、なんでもする!」

「Hmmm……その意気は買いまっせ」

「ど、どうすれば! どうすればいいの! 早く教えてよ!」


 鼻と鼻がくっつきそうなくらいの距離に迫る薫に押されて、傾奇者なユリアンも対応し切れなくなる。背筋を反らして身を引いて、薫の額に指を突きつけて彼女を無理矢理押し戻した。


「Be cool、カオル。ここから先は、悪いニュースに絡んでくるのでーす」

「……そうなの?」

「Yes。聞く用意は良い? 聞いても泣かない? 怒らない?」

「何でも良いから、早く!」

「せっかちだのう。ちょっとPocketの中身、出して下さーい」

「……?」


 ポケットの中身、と言われても薫は急いで着替えて、何も持たずに病院まで来たのだ。何も入っている筈がない、と怪訝に思いつつもハーフジーンズのポケットに手を突っ込んだ薫は、驚いた。かさり、と乾いた音がする。なんだと思って引っ張り上げると……。


「折り鶴と、人形が……」


 青い折り鶴と、赤い紙人形が薫の掌に収まっていた。入れた記憶がないのに何故、と思っている間にも鶴は昨日薫に見せた謎のダンスを未だに踊り続けていた。それを見てユリアンが感心したように頷きながら、鶴の頭を指で優しく撫でる。


「護衛対象からは片時も離れないとは、見上げた根性を持った式神でーすね。

 が……今問題なのは生憎、こっちですの!」


 ユリアンは折り鶴のお立ち台になっていた赤く光る紙人形を引き抜いて、薫に突きつけた。薫はその人形を見つめる。気のせいか、今までみたよりも、少し光が強くなっているように見えた。


「この光が意味する所を……薫はご存知でございますか?」

「口裂け女のセンサーみたいなものだって聞いたけど……」

「Exactly。ならば、光が強くなった意味も?」

「え? ……強く、なってるの? これ……」


 ユリアンは黙って頷く。驚愕と恐怖に少し身を震わせる薫に紙人形を返して、ユリアンは更に続けた。


「この紙人形は、酷くAboutでーす。

 よほど口裂け女と近付かない限り、光量の違いを肉眼で判別するのは困難極まるのでござる。

 それか、この折り鶴の様に妖気に敏感でなければね。

 最も空峰家の力じゃ、これでも精一杯かもしれませんが……」

「………………」


 薫は顔を顰める。彼女の不機嫌を感じ取ったユリアンは、慌てて言葉を訂正する。


「Sorry、別にウンカイを馬鹿にしてる訳じゃないのですぞ。

 ただ、使う術にも向き不向きが有り申して。空峰家が用いている術は、どちらかと言えば攻めの兵法。

 来たる敵を迎え撃つのは少々苦手なのでーす。

 自ら討って出るべき相手を捜す場合は、むしろこうした簡素で携帯が楽な呪具の方が便利なのでしょう」

「……で、口裂け女が現れた……って言うのが、悪いニュース?」

「残念な事に、続きがあるぞい」


 ユリアンはそう言って、ライダージャケットの懐から二、三枚の紙切れを取り出す。薄い和紙に、ポラロイドで撮影されたような写真が写されていた。


「ちょいと病院の風景を撮影してきました。念写もどきでーす」

「念写……か」


 念写は私も出来ないな、と薫はそんな事を頭の片隅で思いながら、渡された写真を見る。三浦が苦しそうな顔で横たわっている写真だった。涙があふれそうになるが、ユリアンの手前必死にこらえる。


「この写真が、どうしたの? また私を泣かせたいの? って言うか泣く。我慢出来ない。無理」

「まぁまぁ、彼女の首の辺りを見てっちょ」


 霞む視界を指で拭って、薫は手術衣から覗く三浦の首筋を眺める。元々不健康な白色だった肌に、うっすらと青白くて細長い痣のようなものが浮かんでいる。更に注視すると、それはまるで、誰かの指の痕の様にすら見えた。


「これ……何の痕? メスの痕じゃ」

「ないのだ」

「……だよね。まるで、誰かが首を締めたような」


 そこまで言って、薫はようやく気がつく。実際に目にした事が無いせいで、思い出すのに時間がかかってしまったのだ。

恐らく生涯忘れ得る事の出来ぬ、六月二十九日の事件である。薫に、耳まで大きく口が裂けた女が襲いかかってきたのだ。その口裂け女は、薫の首に向けて手を向けてきていた。そして、口裂け女の噂を語る同級生の言葉を思い出す。


「その被害者の人、口裂け女につきまとわれてるって脅えてるんだってさ。

 毎日御免なさい、御免なさいってずっとブツブツ呟いてるんだって。

 夜になると首に、まるで女の手の痕みたいな痣が浮かび上がってさぁ」


 改めて写真を見る。最早、首を締めた痕にしか見えなかった。薫は顔を上げる。ユリアンはようやく察したらしい薫に、残酷な宣告を告げる。


「Ms.ミウラが昏睡しているのは、どうやら口裂け女に襲われてしまった事が原因のようですな」

「そ……ん、な……」


 底の見えない崖から蹴り落とされた気分になった。呼吸がつまり、言葉を振り絞る事さえ難しい。

 本来彼女は口裂け女の犠牲になる人間ではない。口裂け女が追ってきたのはあくまでも香田薫であり、狙われるのは薫だけの筈……雲海も薫も、そう勘違いをしていた。しかし実際には、妖怪とは全く関わりのない三浦が犠牲となった。妖怪に襲われるべき薫を差し置いて、三浦が身代わりとなった。薫が実家に帰ってこなければ、口裂け女が先生を三浦を襲う事はなかった筈なのだ。

 まただ。薫は思う。またしても、私は三浦先生を傷つけてしまった。優しい彼女の体をボロボロに傷つけそれでも飽き足らずに、精神さえ犯してしまうと言うのか。疫病神だ。近付く人の人生を粉々に打ち砕く、とびっきりの。私こそ退治されるべきなんじゃないのか、と薫は半ば本気で考えてしまう程に落ち込み、長椅子に座り込む。膝を抱え、椅子の上に体育座りして、膝に顔を埋めて、小声で呟く。


「どうして……私じゃないの?」

「…………理由は、ありますぜ。

 貴方を追いつめるのが目的でしょうよ。元々口裂け女は嫉妬深い妖怪。

 如何に陰湿な手段を用いても貴方を追いつめようとするでしょう。

 そして貴方をジワジワといたぶるつもりなのかもしれません」

「……あんまりだよ。先生は悪くない」

「貴方が一番傷つけられたくない人を傷つける。

 残念ながら、口裂け女は最も合理的な手段を用いたと言えるでしょう」

「五月蝿い!」


 ユリアンの言葉は正しかった。正し過ぎた。機械のような冷静さで言葉を吐くユリアンに、薫は当たり散らす。


「もう嫌……放っておいてよ……」

「そうはいかないのだぞ。我はYouを口裂け女から守らねばならん。

 これは仕事なのよねぇ」

「だから、放っておいてよ。貴方が側に居るせいで、口裂け女が警戒して私の所に来ないのよ。

 この折り鶴も要らない。私なんて守らなくて良い」


 クビを宣告された折り鶴は、少しショックを受けた様子で羽を力無く折り畳み、それでも薫のポケットの中に帰っていく。健気な式神に感心しつつ、ユリアンは少し困ったように眉を下げた。


「カオル、折角のウンカイの好意を無碍にするのは良くないねぃ」

「……元々、クーちゃんがちゃんとしてれば良かったのよ。

 あの時ちゃんと口裂け女を退治しておけば、こんな事にならなかったのよ」

「……それは言ってはいけません。

 ウンカイ、その事を凄く後悔していると言っておりましたの。

 これ以上、彼を責めては、彼が可哀想です」

「そんなの分かってるっ!」


 薫は顔を上げて、叫んだ。無人の待合室に、彼女の声が虚しくこだまする。

 薫は考える。今、もし先生に意識があったら、彼女は何を思うだろう、と。答えは簡単だ。彼女は、誰も責めない。全てを受け入れ、許す。自分がどれだけ辛くても、笑顔で全てを迎え入れる。笑顔を真似する事は出来ないが、全てを受け入れる覚悟は、瞬く間に決まった。


「みんな、私の事なんて見放せばいいのよ。こんな屑みたいな私の事なんか……」

「You一人で口裂け女に対処できると? 妖怪は甘くないでっせ」

「対処なんてしないでもいい。私の事なんて好きにすればいいんだよ……」


 薫本人は三浦と同じように、全てを受け入れる覚悟を整えたと思っていたが、端から見れば単なる自暴自棄だった。ユリアンは啜り泣く薫の隣で額を抑えて、溜め息をつく。何故彼女がそこまで三浦に拘っているのか、ユリアンは知らない。薫が自分の身さえ投げ出してしまう理由は分からない。

 だが。


「甘い甘い……」


 ユリアンは呟いた。彼女は、甘い。とんだ甘ったれだ。彼にしてみれば、彼女は所詮単なる子供でしかなかった。


「まだ、取り返しがつく。Happy Endの希望が見える。

 目の前の可能性を放り捨てて殻に閉じこもる事は、Foolのする事だぞ」


 ユリアンの言葉に、薫は反応を示そうとはしない。


「また殴られたいのですーか?」


 ユリアンは凄んでみせる。拳を振り上げて、しかめっ面で薫を威嚇する。だが薫はそもそも、ユリアンの方を見ようともしない。


「殴ってよ……思いっきり、殴って。それで許されるわけじゃないけど……」

「…………カオル、いい加減にしなさい。まだ先生は助かる見込みがあるのですぜ」

「ユリアンが一人でやって。私はもう……先生に関わっちゃ駄目なんだよ、きっと」

「この……!」


 苛立ちを隠す事も段々と難しくなってきた。話すべきではなかったのかもしれない、とユリアンは深く溜め息を吐く。彼女を立ち直らせる手段はどこにあるのか、とユリアンは思考を巡らせて、またしても溜め息。


「これを話してしまうと、単なる不幸自慢になってしまいそうですが……」


 しかし、今ここで自分の偽りの言葉を吐いても、彼女には届かない。だから、自分の愚かしい仮面を外そう。自分の醜い素顔で、彼女を慰めてやろう。ユリアンは決意した。


「……昔々、イギリスに一人の若きエクソシストがおりました」

「……?」

「そのエクソシストは若くしてソロモン72柱、聖書の悪魔、魔女や吸血鬼なんて輩も叩き伏せた、天才でした。

 その若者は『自分は全ての人間を救う事が出来る、スーパーマンだ』……なんて事を本気で考えるような、愉快な男でした」


 薫が泣き腫らした顔を上げ、隣のユリアンの顔を窺う。どことなく達観したような、この世の全てを見終えて悟りを開いた賢者のような穏やかな顔で、ユリアンは言葉を続ける。


「ある時。そのエクソシストは、日本に派遣されました。

 五十もの悪魔が取り憑いた女性がいて、現地のエクソシストではどうしようもなかったらしいのです。

 エクソシストは余裕綽々とした気分で日本に向かい、圧倒されました。

 悪魔ではなく、悪魔に憑かれたその女性に、です。

 ……その女性は、とても美しい人でした」

「…………」


 薫は黙ってユリアンの昔話に耳を傾ける。口を挟んではいけない、と分かっていた。淡々と、寝物語を語っているかの様に静かに、ユリアンは話を続ける。


「エクソシストはその女性に一目惚れしました。

 自分がこれほどの才を天から賜ったのは、間違いなく彼女と出会う為であったと思った程に恋焦がれました。

 そしてその日から、エクソシストの仕事が始まりました。

 悪霊のせいで彼女の意識がハッキリしている時間は短かったですが……それでもエクソシストは身を粉にして彼女と過ごす時間を確保しました。

 悪霊が彼女の体を支配しているときは、聖書片手に神の御言葉を説き、彼女が目覚めているときは、彼女の手をとって愛を説き。

 やがて、彼女もそんなエクソシストを受け入れて……二人は晴れて両想い。恋人同士になりました」


 ユリアンは在りし青春の日々を幸せそうな顔で語る。いつもの彼の、へらへらした笑顔ではない、心の底からの微笑み。


「ある日、エクソシストは彼女に言いました。

 『全ての悪魔を祓い、貴方が元の生活を取り戻した時、どうか僕と結婚して下さい』と。

 彼女は顔を赤くして、少し恥じらいながらも笑顔で首を縦に振りました。

 ……エクソシストはその日から、寝る間も惜しんで今まで以上に仕事に励みました。

 そして、それからたったの二週間で、彼女に憑いた悪魔を全て消え去ってしまったのです。

 エクソシストも、彼女も泣いて喜び、彼女の父を含めた三人でささやかなパーティを開きました。

 …………喜びのあまり、彼らはすっかり気を抜いてしまいました」


 ユリアンは顔を俯ける。待合室の暗さと、霞む視界のせいで、薫からは彼の顔色がうかがえない。


「翌日、忘れもしない。五年前の九月六日……エクソシストは、ペアリングを手に彼女の元を訪ねました。

 頭の中でプロポーズの言葉を練り、声が裏返らないように発声練習をしながら、卸したてのスーツに身を包んで、一歩一歩浮ついた足取りで。

 そして……家の中で倒れ伏す彼女を見つけました」


 ユリアンの声が少し震える。薫は、また涙が出てきそうだったが、今度は堪える為に拳を握って我慢した。


「長い髪を床に散らかしたまま動かない彼女を必死で揺するエクソシストの前に、一匹の化け猫が現れました。

 化け猫は狡猾にも、エクソシストが全ての悪魔を祓うのを待っていたのです。

 彼女の魂を独り占めにして、喰らう為に……。

 抵抗しましたが、エクソシストの悪魔祓いの技術は、日本の妖怪には通用しませんでした。

 女性の父親は妖怪退治の専門家だったのですが、既に年老いており、老練の妖怪である化け猫には歯が立ちませんでした。

 化け猫はまるで嘲笑うように二人の目の前で彼女の魂をバラバラに貪り喰らい……その場から逃げました。

 後には……冷たくなった物言わぬ彼女の抜け殻だけが残りました」


 ユリアンの左の握り拳が震えている。右手で、指輪を撫でながら、ユリアンは声を絞り出す。


「悲しかった。悔しかった。怒りに身を任せ、荒れに荒れた……。

 やがてエクソシストは、失意のうちに本国へ帰ります。

 己の無力を痛感し、自分はスーパーマンでも何でもない、最愛の人すら守れない矮小な人間だと言う事を知りました。

 ……ですが、話はそこで終わりません。

 本国に帰ってもエクソシストはどうしても彼女の事を忘れる事が出来ませんでした。

 もっと自分に出来る事はなかったのか。本当に彼女を救う術はなかったのか。

 気がつけばエクソシストは、再び日本の、彼女の家を訪ねていました。

 そして葬式の準備に忙しい彼女の父に頭を下げて、陰陽師としての弟子入りを申し出たのです。

 いつの日か、彼女を……リョウコを喰らった憎き化け猫を、この手で葬る為に……。そして」


 ユリアンが顔を上げた。真剣な眼差しに射抜かれて、薫は少し目が覚める思いだった。


「二度と同じような悲劇を、繰り返させないためにね」


 ユリアンは全てを語り終えた。薫は、何も言えなかった。ユリアンが言いたい事が、何となく感覚的にだが、分かってしまった。彼は似ている。今の薫と。大切の人が傷つけられて、悲しみと怒りに身を委ねていた。

 しかし、一つだけ大きな違いが有る。

 三浦はまだ、生きている。助かる見込みが有る。だから、まだ諦めてはいけない。助ける事が出来るなら、薫には彼女を助ける義務がある。ユリアンが、そう言っている気がした。


「そのエクソシストは……まだ、諦めていないの?」


 薫は曖昧な問いを出す。ユリアンはしかし、再び人の良い陽気な微笑みを浮かべて、薫の方を向いていた。


「諦めていないようですぞ。

 化け猫への復讐も、それから……スーパーマンに返り咲く夢も」

「……そっかぁ」


 ユリアンの言葉は重かった。薫の今の自暴自棄が情けないと思えてくる程に。ユリアンは、自分と三浦を救おうと手を差し伸べてくれている。その手を撥ね除けているのは、他ならぬ自分だ。なんと馬鹿な奴だ、と薫は自戒した。後悔は消えていない。三浦を傷つけてしまったのは、自分に責任がある事に間違いはないのだから。しかし、後ろを向いてばかりもいられない。口裂け女をのさばらせる訳にはいかない。償いはしなければならない。そのためにも、償うべき相手を失う訳にはいかない。薫は、目を擦る。瞼が少し腫れてしまったのが恥ずかしいが、ユリアンにしっかり向き合った。


「ユリアン、教えて。……先生を、絶対に助けたい。私は、どうすればいい?」


 ユリアンはすぐに安堵したように微笑み、サムズアップとウィンクのダブルパンチをくれた。今まで深刻な話をしていたとは到底考えられない程に切り替えの早い男である。


「事態は実に単純明快! 口裂け女を撃退すりゃ、先生も還ってくるのさ!

 んな訳で、旦那ぁ! 我に着いてきなぁ!」

「私は女だってば」


 ツッコミを返す程度には元気を取り戻した薫は、立ち上がったユリアンの背中を追って、病院を後にした。

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