5−5 土玉家の悲劇
薫が自宅に辿り着いたのは、午後七時を回った頃だった。
薫は帰宅早々、疲れた顔で家に上がり、疲れた顔で母親に挨拶し、疲れた顔でリビングの畳の上に寝転がってふて腐れた。髪が畳に散らばる。しかし、気にする程の体力さえも残っていない。普段の彼女はもっと元気があるのだが、ここまで憔悴し切っているのには理由がある。
理由その一。雲海に紹介された陰陽師、土玉ユリアンがあまりに破天荒であった事。
理由その二。ユリアンのせいで散々な目に遭った事。
理由その三。
「いやぁ、やっぱTATAMIは落ち着きますな、ゲンマーイ」
「そうじゃのぅ、ゆりあん。ウチのあばら屋は板敷きじゃったからの」
全ての原因である土玉ユリアンが、師父である玄米を伴って薫の家にお邪魔して来た事。なぜこんな事になってしまったかと言えば、ひとえにユリアンが陣を描くのを失敗し、偶然に召喚してしまった怪物(元エクソシストのユリアン曰くバフォメットと言う、かなり有力な悪魔だったらしい。何故ユリアンのドロップキック一撃で気絶したのかは不明)が土玉家の住んでいたあばら屋を瓦礫と化してしまったせいである。最も、これはユリアンの言い分であり、実際にはユリアンが怪物を蹴り飛ばした事によって、吹き飛んだ怪物の体があばら屋を破壊してしまったのであるが。
要するに全部ユリアンのせいだ。
そんな自業自得を地でいく彼なのだが、一向に悪びれた様子はない。ちょっと不幸なハプニングくらいにしか捉えていないらしく、相変わらず朗らかに笑っている。挙げ句の果てに、家を崩した直後、薫に家に泊めるように頼み込んでくる始末。彼の殊勝な態度と、あまりにも哀れな玄米のために仕方なく「両親が了承したら許可する」と返答した薫であった。
そして、理由その四。
「ほぉれ、ユリアンちゃん。もろこしでも食うけ?」
「Yeah! Corn大好きでーす!」
両親が彼らの宿泊をあっさりと了承してしまった事。
こればっかりは薫にはどうしようもなかった。恐らく今年の作付けナンバーワンなのであろうトウモロコシを茹でて、ユリアンに振る舞う母親を見て、薫の口からはアンニュイな溜め息しか漏れない。
母に事情を説明するのは困難を極めた。口裂け女の事情はあまり言うべきではないとユリアンに釘を刺されていたせいで、結局薫は「今日出来た友達の家が大変なことになったんで、泊めてやってもいいですか?」と言う胡散臭さ大爆発の説明をするしかなかった。さすがの母も怪しむだろうと高を括っていた薫だったのだが、母親は全く疑う事なく薫を信じ、挙げ句了承したのだ。
彼女曰く。
「こんだけ広い家だから、二人くらい増えても、どって事ねぇこって」
母親の寛大さに、薫は涙が出てくる思いだった。二つの意味で。
見ず知らずの怪しい言葉遣いの外国人を家に招待するなんて、正気の沙汰じゃない。連れてきたのは薫なのだが、そう思わずにはいられなかった。ユリアンはユリアンで、足を伸ばして畳にほおずりし、まるで我が家にいるかのようなくつろぎっぷりを披露している。田舎の人達って呑気なんだなぁ、と自分もさして変わらぬ癖に棚に上げて、薫は目を瞑る。このまま寝てしまってもいい、と考えていたのだが、ユリアンがそれを許さなかった。
薫の肩を揺さぶるユリアンが、眉尻を下げて心配そうな顔つきで薫の様子を眺める。その瞳は純粋で、心底薫を労っているのだろうが、それがかえって薫を苛つかせる。
「カオル、元気無いよ? What's happen?」
「それを問える貴方の神経にこそ何が起きてるのよ……」
「Oh……カオル、Eyeが据わっているのだぞ……」
ユリアンは、薫の瞳が何となく緑色の光を発しているような気がして、慌てて飛び退き、大人しく座布団の上に胡座を掻いて座る。玄米はまるで空気のようにいつの間にか部屋の隅におり、置物のように大人しく正座し、こっくりこっくり舟を漕ぎ始めていた。この父に対してこの馬鹿息子である。玄米は陰陽術より先に、もう少し息子に礼儀と言う概念を説くべきだ。
馬鹿息子の方は、ちゃぶ台の大皿に乗った山のように多い茹でトウモロコシの一本を手にとって美味そうにかぶりついて、幸せそうな笑みを零している。
「Foooo! Yummy! Yummy! Yummy!」
「五月蝿いなぁ……疲れたんだから、寝かせてよ……」
「こんな場所で寝るのですーか?
我もおるのだぞ? お尻触っちゃうぞー? オッパイ揉むぞー?」
「やったら後でチョン切るからね……Do you understand?」
「…………Yes」
絶妙な発音の薫は何をチョン切る、とまでは言わなかったが、本当にやる凄みはあった。
流石に恐れおののいたユリアンはそれきり口を噤み、トウモロコシの攻略に専念する事にした。瑞々しい黄色の粒が振りまく甘みに幸福感を得たユリアンは、あっという間に一本目を食べ終わる。
まだまだ腹が減っていたのだろう、即座に二本目に手を伸ばし、そのトウモロコシも半分程食べてしまった頃、薫は穏やかな寝息を立て始める。ほんの数秒で完全に眠ってしまうほど、彼女は疲弊していたのだ。
*
「Hmmm……なんと無防備な……」
ユリアンは溜め息を吐いて、薫の寝顔を見やる。
平和な顔をしている。今も妖怪につきまとわれているかもしれないと言うのに、まるでそんな事を考えている様子がない。或いは信用しているのだろうか、こんな胡散臭い陰陽師を。と、自嘲するユリアンは、ゆっくりと薫の寝顔に手を伸ばす。顔にかかっている長い髪を少し上げて、指先で恐る恐るその頬を撫でる。薫は少しむず痒そうに顔を顰めるが、目が覚めた様子はない。
その可愛らしい仕草が、ユリアンの脳の奥に大事に仕舞われた、ある記憶を呼び覚ます。ユリアンは、無意識的に呟いてしまった。
「リョウコ……」
「……似ているかい?」
眠るように静かだった玄米がユリアンの背に声をかける。ユリアンは玄米を振り返る事なく、ゆっくりと首を縦に振った。普段とは違う、無表情なユリアンの視線は、まるで惜しむような視線を薫に向けていた。
しばしの沈黙の後、玄米が再び口を開く。
「ゆりあん、何故この子に嘘をついたんだい?」
「…………嘘?」
「ワシが陵子を救う事が出来た……。
それに感銘を受けて、ワシに弟子入りした……。
お前はそんな嘘八百を言っていただろう? 聞こえておったよ」
「………………」
「本当の事を黙っていたのは、何故だ? 底を知られるのが怖かったのか?
それともまだ、お前は陵子の死を……」
「違うよ、ゲンマーイ。全然ちゃうねんで」
薫を撫でていたユリアンの手が止まり、ユリアンは玄米に振り返る。玄米は部屋の隅で、目を瞑って、静かにユリアンの言葉を待つ。まるで、祈りに黙って耳を傾ける地蔵菩薩のように。
「リョウコはいつも、我に言っていたんですわ。
『貴方の笑っている顔は、皆を優しい気持ちにさせる。悲しい顔なんてしちゃ駄目よ』って。
だから、後ろ暗い顔をしてはならぬのでーす」
「………………」
「本当の話なんてしたら我もカオルも暗いFaceになるばかりだべ!
だから我は、そんな話はしませーん!」
「ん……むぅ……」
薫の寝息が乱れ、軟語が漏れる。
眠りが浅くなっているのを懸念して、ユリアンは咳払いして、荒くなってしまった語気を落ち着けた。一呼吸落ち着けたユリアンに向けて、玄米は眉毛を上げて、細く引き絞った瞳で彼を鋭く睨みつける。
「無理をするな、ゆりあん……お前はワシの大事な娘婿じゃ。
娘もワシも、お前が形だけの笑顔をしても、ちっとも嬉しくないわい」
「Shut up……」
「その子は確かに陵子に良く似ておるよ。
お前が熱くなる気持ちは痛い程良く分かる。じゃが、嘘偽りはいかん」
玄米の声色は厳しかった。穏やかな好々爺ではない、陰陽師の師匠としての、玄米のもう一つの顔であった。
「嘘は心に迷いを呼び込み、迷いは心に隙を作り、妖怪はそれにつけ込んでくる。
いざと言う時、今日のような失敗を犯す訳にはいかぬぞ。
もしもまた今日のような事があれば、その子は陵子と同じように」
「Shut up!」
部屋の中に、ユリアンの叫びがこだました。
後に残ったのは、薫の少し苦しそうな寝息とユリアンの荒い息だけだ。ユリアンは、既に平時の彼とは全く違う顔つきをしていた。顔は鬼のように赤く染まり、眉間には無数に皺がより、歯をむき出しにして父である玄米を睨みつける。玄米はそれに黙って視線を返す。ユリアンの目を見つめたまま、微動だにしない。
そのまま十数秒。ユリアンが肩を落として、降参した。
「……ちょっとHeat upし過ぎでーすね。外で風に当たってくるよ……」
立ち上がったユリアンは、食べかけのトウモロコシを手に、そのまま部屋の外に消えていく。
部屋に再び平穏が訪れた。薫の寝息すら聞こえぬ空間の中で、玄米がゆっくりと立ち上がり、横たわる薫を見やる。
「聞こえているんだろう、薫ちゃん」
「………………」
「すまんのう。見苦しい親子喧嘩じゃわい。……忘れてくれ」
返事をしない薫は、強く目を瞑っている。玄米は障子戸に手をかけて、もう一度薫の方を振り返る。
「彼もそろそろ、過去を断ち切らねばならん。
だがそれは自分の手でやるべき事。だからこの老いぼれの口から話して良い事はなにもない。
ああ見えても一応ワシが免許皆伝をした、プロじゃ。仕事はちゃんと遂行してみせようとも。
あんな頼りない陰陽師で申し訳ないが、あの馬鹿息子の事をよろしく頼みます」
戸が開く音と、閉じた音。
それを聞き届けた薫はゆっくりと目を開けた。少し視界がぼやけているのは、瞳が涙に濡れているからだ。ユリアンと玄米の会話の途中から目覚めていた薫は、断片的に聞いたユリアンの過去に同情を禁じ得なかった。
彼は、最愛の人を失ったのだ。一体、何があったのかは分からないが、それは事実であるらしい。
「そんなの……悲し過ぎるよ」
ユリアンは、どんな思いで陰陽師をやっているのだろう。
何故、陰陽師をやっているのだろう。どうして、嘘をついたのだろう。薫は、その背景に彼の愛する人の影がちらついているのが見えるような気がした。彼の左手薬指の銀の指輪を思い出して、薫はもう一度涙を拭い、ポケットから青い折り鶴を取り出して、眺めてみる。不思議と心が落ち着いて、何となく雲海の得意げな顔が思い浮かんだ。
「教えてよ、陰陽師……こんな話聞いて……私にどうしろっての?」
鶴は答えない。代わりに、再びポケットの中に飛び込んだ。まるで、薫から逃げるようにも見えたその行動。薫は口を尖らせながら、ポケットから再び鶴を取り出す。
「あれ?」
鶴を取り出したつもりが、一緒に紙人形も取り出してしまった。
畳の上に舞い落ちたそれを拾い上げようとすると、一緒に飛び出た折り鶴が紙人形の上に着地する。そして赤く光るその紙人形の上で、鶴はクルクルと舞い踊る。その行動が意味する所は、薫には全く分からない。
「一体何をしてるの?」
尋ねてみるが、鶴は相変わらずもの言わず、ただ羽を開けたり閉じたり、首を振ったり尾を振ったりするばかり。ただ踊りを披露しているようにしか見えない。
「……励まそうとしてくれてるのかしら」
薫の問いに、鶴は答えない。ただ先程から同じ行動を繰り返すばかり。一分程その踊りを眺めていたが、理解出来る気がしないので、薫は鶴を紙人形ごとポケットに突っ込んだ。
「かおちゃん! 風呂さ沸いたすけ、お客さんに入ってもろてくれや!」
「…………はーい」
家の何処からか母親の声が聞こえてきた。それに気の無い返事をした薫は、立ち上がって、庭に居るであろうユリアンに声をかけにいく。さっきのユリアンと玄米の話は聞かなかった事にして、顔に笑顔を貼付けて。
*
結局その日、薫の身には何も起こらなかった。至って平和に過ごす事が出来た。
ユリアンは薫の父と酒を飲み(ユリアン曰く「御神酒だからOK!」)、大した話題もないのに箸が転げただけでも笑う程に上機嫌な夜を過ごしていた。玄米は早々に客間に向かい、すぐに眠りについた。
薫もその日は特別する事もなく、翌日は地元に住んでいる友達や、返ってきた友達に連絡を入れて色々と話をする算段を立てていた。
悪意が彼女のすぐ脇を掠めていったとも知らずに。そしてその事を、それに気づけなかった事を、薫は翌日深く後悔する事になる。