5−3 海を超えた陰陽師
病院での見舞いを終えた薫は、その足で全ての用事を済ませてしまう事にした。薫は、病院のすぐ近くにある駄菓子屋に寄って、雲海に手渡された住所の場所を店主の老婆に尋ねた。
「あぁあ、土玉さん家ね。ここからしばらく真っ直ぐ行って、郵便局の角を曲がって、山道を入っていくんだ。
道に入ってから二軒目の茅葺き屋根の家が土玉さんの家だよ」
「ありがとう、おばあちゃん。あ、麩菓子ちょうだい」
「あいよ、三十円ね」
この辺りに住まう陰陽師は土玉と言うらしい。
食べそびれた昼食代わりに麩菓子を頬張りながら、薫は案内された道を歩きつつ、土玉なる陰陽師の正体に考えを巡らせる。
雲海曰く相当の手練らしいのだが、薫が土玉について知っている事はそれだけだ。老若男女の如何は勿論、どんな性格の人なのかも知らない。優しいのか突慳貪なのかも分からない。そんな人に自分の運命を託さねばならないと考えると気が滅入る。
薫はポケットの中に入っている雲海に持たされた折り鶴を取り出して眺める。青く光る折り鶴は、健気にも薫を励ますように掌の上で羽ばたき、回っている。くるりくるりと可愛らしく舞い踊るその鶴を見ていると、まるでこう言うペットが出来たみたいだ、と薫は頬を緩める。
そんな鶴から目を離して、薫は顔を上げる。
山道を入ってすぐ右手に見えた家を一軒目とカウントし、薫は少し傾斜の急な山道を歩く。道路の舗装はされておらず、黒い腐葉土が杉林と草むらの中に筋を作っているだけの獣道をジグザグに登る。
山田村に住んで十五年だが、薫はその道を初めて通る。なにせ人間が通っている形跡が碌に見当たらないのだ、本当に人が通るべき道なのかも怪しい。
「でもまぁ、有り得るよね」
雲海の家は憂山の据膳寺。空峰家は一体誰がこんな所に来るんだと笑ってしまいたくなるような山奥にあると薫は聞いていた。他の陰陽師も例外ではないかもしれない。ただ、こんな山を登るって分かってれば。
「着替えてくれば良かったなぁ」
この先もどんな酷い道を歩くか分からない。ワンピースで登るべき道ではない事だけはよく分かる。
そう思いながら少しの間山道を眺めていると、薫のすぐ脇を小さな影が横切った。腰を曲げた、小さな体の老爺だった。作務衣に身を包んだその老人はゆっくりと足を進める。彼の、髪が一本も生えていない皺だらけの後頭部に、薫は思わず声をかけた。
「あ、あの」
「………………」
老爺は薫を無視して、ゆっくりとした足取りで山道を登っていく。
「あの、すみません!」
「………………」
「す・み・ま・せ・んっ!」
「………………」
もしかして、完全に耳が聞こえないのだろうか。肩を叩いて振り返らせようとするが、それでも老爺は反応を返さない。
足を止める事すらせず、老人は歩き続ける。薫が乗せた手を肩に貼付けたまま。
「えっ!」
老人の物凄い力に引っ張られて、薫は転倒する。顔面から地面に向けて。ファーストキスは土の味である。相手は地球。ワーオ、私ってばなんて規模の大きい女なのかしら。
「ってんげな馬鹿な話ねぇこって! ちょっと、おじいさん!」
顔に泥をつけたまま、薫は顔を上げる。先程の老人は既に山道の遥か上方まで登っている。
歩く速度から考えれば到達出来ない程遠くまで。薫は久しぶりに堪忍袋に累積していく憤りを感じ取っていた。
「なぁるほど……ジイさん、わーたをなめとんね」
老人は労りなさいと良く言われる。老人は先達を生きた人々。人生の先輩。そして、体が弱い社会的弱者。敬われて、保護されて然るべき存在だろう。普通だったら。
しかし、限度というものがあるだろう。
薫にとってみれば、老人には服を汚され、顔を汚され、挙げ句無視され馬鹿にされ。聖人君子でもなんでもない単なる超能力者は激昂する。
「待ちなさい!」
薫は立ち上がり、老人の後を追って山道を駆け上っていく。最早服の汚れなんて構う事もなく。
*
日の光も碌に届かない暗い森の中を、薫は老爺の背中だけを道しるべに歩く。十分も歩いた頃、薫の頭には既に老人への憎しみはなく、ただ疑問符が溢れかえるばかりであった。
「はぁ、はぁ……あのおじいさん、足速い……」
薫がどれだけ足を速めても、老爺との距離は一向に縮まらない。
急げば急ぐ程老爺は足早に、飄々と山を登っていく。かといって歩みを止めても、老爺の背中が消える事はない。緩急激しい山の坂道で、老爺は背中に目でも着いているかのように、薫と常に同じ距離を保つ。
この老人は、もしかして、もしかしなくても。
「妖怪……?」
薫は慌ててポケットの中身をひっくり返す。
紙人形は反応していない。つまり、口裂け女の変装ではない。青い折り鶴は、相も変わらず薫の掌で踊り続ける。これが意味する所は分からない。
手がかりが少な過ぎる。老爺の正体を見極めることは出来なさそうだ。
このまま着いていくのは危険かもしれない。知らない人に着いて行っちゃいけません、なんて小学生の頃に教わる事だ。
「……ええい、何を怖じ気づいてるんだ私は」
一先ずこの老爺とコミュニケーションを取りたい。相手が妖怪だろうが何だろうが、謝らせたい事に違いはない。
薫はその場でしゃがみ込み、クラウチングスタートの姿勢を取る。足に力を込め、腕は少し折り曲げて、ひたすらに前へ飛び出す為の準備を整える。
「前方に目立った障害物、無し。対衝撃防御姿勢準備、必要なし。
ターゲット、目の前のお爺ちゃんから三歩右くらい。……よし」
彼女の瞳が緑色に淡く光る。視界が光に満たされ、張りつめた静謐な空間に力が満ちあふれる。自分の踵の辺りに意識を集中。念動力で無理矢理空気を押し込み、圧縮する。
「行っけえぇ!」
念動力を解き放つ。
圧縮されていた空気が爆ぜ、轟音と共に爆風が周りのものを吹き飛ばす。意図的にその爆風に巻き込まれた薫は、追い風と言うには強過ぎるその風圧で、一気に前進し、老人に肉迫する。
筈だった。
「あ、行き過ぎ……」
薫の視界の端に老人の影が掠めた。
空気の爆発は薫の予想以上の風圧を蒔き散らし、薫は猛スピードで老爺の脇を駆け抜けて、そのまま雑木林の中に突入する。
「ぎゃひいいいぃぃぃ!」
生い茂る木枝をへし折りながら吹き飛び、倒木に足を引っかけて地面を転げ回り、ブナの木に背中から突っ込んで、薫の体はようやく止まった。詰まる呼吸を咳き込む事で取り戻し、薫は自分の悲惨過ぎる状況を見下ろす。
土にまみれてあちらこちらが破けてしまったワンピースは、最早修復不可能だ。大きな怪我は無い物の、肘や膝のあちこちは擦り剥けて少し血が滲んでいる。
何だか泣きたくなる。慣れない事はやるものじゃない、と改めて実感した薫が立ち上がると。
「……おやおや」
酷くのんびりとした嗄れ声がした。薫が声の主を捜して辺りを見回すが、彼女の視界には誰も居ない。
「上ですぞ、お嬢ちゃん」
「上……えぇ!?」
薫が首を上に向けた先で、薫が追っていた老人がブナの木の枝の上に座り、何かを噛むような動作で口を動かしていた。薫がその動作を、笑っているのだと気がつくのは老人がもう一度口を開いた時だった。
「ほっほっほぅ、達者だのう、嬢ちゃん。
そんなへんちくりんな事が出来るとは、ワシゃたまげて入れ歯がぶっ飛ぶかと思ったわい」
「………………」
「そう睨む事もなかろうて。何、用があるのなら承ろう。
お嬢ちゃん、名は何と申すのじゃ?」
「香田です。香田薫」
「…………ほほほほ……なるほどの」
老爺は何に納得を示したのか、顎を撫でながら朗らかに笑い声を上げる。
「ワシの家はすぐそこじゃ。冷たい麦茶でも飲みながら、のんびり話そうじゃないか」
そう言って木の枝からひとっ飛びで降り立つ老人。優に五メートルは落ちたのに、老人は何事もなかったかのように、薫の方を振り返らずに再び道なりに歩いて行く。
「…………どう言う事なんだか……」
聞きたい事は山程あるが、薫はそれら全てを一度飲み込んで、改めて老人の背中を追う事にした。
*
通された老人の家は、質素を通り越して貧相とすら言えそうな茅葺き屋根のあばら屋であった。
一つしかない部屋の中心にある囲炉裏の周りで、藁編みの座布団に座って薫は再び表に向かった老人の来訪を待つ。風が吹き抜けて涼しいと感じる薫が、やる事もなく蝉の声に耳を傾けていると。
「待たせたの、嬢ちゃん」
老人が湯呑みを二つもって、縁側から顔を覗かせる。
改めてその老人の顔を窺った薫は、まるで仙人のようだ、と漠然とした感想を抱いた。
目は白くて量が多い眉毛にすっかり隠れてしまい、口元にも白い髭が覆っている。しかしそれでも老人が穏やかな笑顔を浮かべているのが分かってしまうのは、あまりにも呑気そうなその老人の声色のせいか。囲炉裏を挟んで薫の反対に正座した老人の体は、薫よりも遥かに小さく、まるで行儀のよい子供のようである。
「いやぁすまんのう。まさかお嬢ちゃんが香田とは露知らず。
威勢がいい若者を見るとついついからかいたくなってのう。ちと度が過ぎてしもうた」
「いえ、それは別に……」
「まぁ、茶でも召し上がって……と、おや」
老人が、湯呑みを薫の前に置いて首を伸ばす。その視線は、血の滲んでいる薫の肘や膝に向いていた。
「怪我をしているのぅ……痛くないかい?」
「……ちょっとだけ」
「そうかい……なら、少し待ってておくれ」
「あの、その前に聞きたい事があるんですが」
老人が再び腰を上げかけるが、薫がそれを制止する。
「お爺さんは……一体何者なんですか? 私の事を知ってるような口振りだし……」
「……ほほほ、自己紹介がまだじゃったな。これは申し訳ない事をした。
ワシは土玉 玄米と申す者じゃ。
空峰の長男坊から話は聞いとるよ」
そう言って玄米は再び立ち上がる。
作務衣の懐から取り出したのは、白いチョーク。それをボールペンを回すように指の間で弄びながら、玄米は薫のすぐ側にしゃがみ込んで、床にチョークを走らせ始めた。
「空峰の長男坊って……クーちゃ、じゃなくて、雲海君ですか?」
「あぁ、つい最近電話があっての。てっきり岩武の連絡かと思っとったから、たまげたわい。
あの泣き虫坊主も随分逞しく育ったようで、感心感心」
感慨深そうにそう呟きながらも、玄米の手は止まらない。円を書き、方を書き、字を書き、線を書き、縦横無尽に玄米の手は奮われる。まるで踊っている様に生き生きと動き回る玄米の手は、決して適当に動いている訳では無い。
床の上には既に、座布団程の大きさのパターンがほぼ完成していた。
漫画やアニメで見るような魔法陣と言う物に似ている。薫が最初にそのパターンを見て抱いた感想はそれだった。やがて、玄米は手を止め、顔を上げる。
「さて、お嬢ちゃん。こちらにおいで」
素直に従った薫は、そのパターンの中心に座らされる。
それを確認した玄米は、手にしたチョークでパターンの端の方に一本、線を引く。
最後のその一本を引き終えた後、薫の足元に描かれていたパターンが、床の上で回り始める。やがてチョークで描かれたパターンはゆっくりと上昇し、薫の体をすり抜けて、頭頂部まで上がり、停止。その後そのパターンはすぐに、弾けて消滅した。
その様子を呆然と窺っていた薫は、我に返り自分の体を見下ろす。
「傷が消えてる……」
滲んでいた血も無ければ、肘や膝にあった痛みも、跡形もなく消えていた。
それどころか所々破れていたワンピースも、新品同様の綺麗な状態に戻っていた。それを見て、パターンを書いた玄米本人も驚きに息を漏らす。
「ほぉ……服まで直るとはのぅ」
「……あれ、玄米さんがやったんじゃないんですか?」
「いや、そうじゃがのぅ。おやまぁ、珍しい事もあるもんじゃ」
そう言ってそのまま薫のワンピースの裾に手を伸ばしかけたので、薫はやんわりとその手を掴んで制止する。玄米は自分の行動に気がついて、苦笑いをしながら立ち上がり、再び薫の正面に戻る。
「さて、なんじゃったか」
「えっと、私の事を知っている理由を……」
「ほほほ、そうじゃったぁそうじゃったぁ。
先にも言ったが、雲海から連絡があっての。
『友達が口裂け女に狙われているから、護衛を頼む』とな」
「と言う事は、もしかして玄米さんが……」
「そう」
玄米は目を覆い隠している両眉毛を指で押し上げて、目を覗かせる。その眼光の意外な鋭さと、引き締まった老人らしからぬ精悍な声色に、思わず薫は少し身を引いてしまった。
「ワシは土玉家十一代目の当主。
古の時より化生を戒め続けた山気光明の血と力を受け継ぐ、陰陽師なり。
このたびは香田薫嬢を化生の悪しき魔手より守るために尽力する次第である」
「……は、はい! よろしくお願いし」
「と、格好良く決めてみたは良いものの……」
「ます……って、え?」
眉毛を下ろすと玄米が放っていた威圧感は一瞬にして消え抜け、先程までの穏やかそうな老人へと逆戻りしてしまった。目を白黒させている薫の期待を裏切るように、玄米は話を続ける。
「ワシはこの通り、明日とも知れぬ耄碌じゃ。
故に、もう何年も前に化生との戦いは引退しとる」
「そんな……」
「そう心配なさるな。君を守ってくれる陰陽師はちゃんとおるよ。
現当主であるワシの息子じゃ。実力はワシが保証しよう」
「あ、そ、そうですか……良かったぁ」
「もう間もなく帰ってくると思うがのう……お?」
蝉の鳴き声に交じって、何かが唸るような音が聞こえた。エンジン音である。車かバイクか、薫には分からなかったが、一つだけ分かった事は。
「五月蝿い……!」
段々と近付いて来ているその爆発のようなエンジン音に、近隣の蝉の声は完全に掻き消されてしまった。元々古いあばら屋が音に振動し、少し揺れている気さえする。
倒壊するんじゃないか、と薫が懸念を抱いた頃、急ブレーキ音のすぐ後にエンジン音は止まり、縁側から背の高い何者かが姿を現す。深紅のライダースーツに身を包み、フルフェイスのヘルメットを被ったその人間は、陽気に片手を上げながら、靴を放り捨ててあばら屋に飛び込んで来た。
「I'm home、ゲンマーイ!」
「へぇい、ゆりあん」
玄米が挨拶を返し、その人間はライダースーツの前を開けてフルフェイスのヘルメットを脱ぐ。
そして、メットの向こう側からは、なんと肌が白くてブロンドの短髪を生やした碧眼の男の顔が現れたのだ。
「Woo! Veryあっつあっつですーね」
「何処まで行ったんだい?」
「Market。とらやの羊羹がめっちゃ美味だったから、町の方まで行って買うてきたんや。
一本ゲンマーイにpresentだぜよ」
「ほほほ、ワシもこの菓子は好きじゃわい、せんきゅぅ、ゆりあん」
「………………」
薫は驚愕のあまり、口を情けなく開け広げたまま、呆然と玄米と男のやり取りを見つめていた。突然現れたこのライダー男はどうやら玄米の知り合いらしい。どう見ても白人の外国人であった。まかり間違ってもこのような日本のド田舎の山奥に現れるべき人間ではなかった。
薫の嫌な予感は終わらない。
薫の存在に気がついたその男は、薫を指差して玄米に訪ねる。
「Hey、ゲンマーイ。このgirlは? げんまーいの嫁サン?」
「んにゃ、違う。今日話していた、香田さんだ」
「Oh! You、ウンカイの嫁サンだったですーか!」
「…………別にそう言うんじゃないんですけど、それより貴方は?」
イントネーションの怪しい日本語を話すその男を、薫は不審者を見る目で見続ける。身振り手振りが大きいその男は、大仰に頭を下げてから、薫にウインクしてみせた。
「我が名は「ツチタマユリアン」言うのだぞ。よろしーくねー、カオル」
「よ、ヨロシク……え? ツチタマ……土玉!?」
「Yes! ユリアンは歩く花の百合、安全第一の安で『百合安』と書きますぜ」
「土玉って事は……まさか!」
薫は目を剥いたまま、玄米に顔を向ける。玄米は飄々とした表情のまま、薫の疑問に正確な答えを示してみせる。
「そうじゃ。彼こそがワシの息子。つまり、現土玉家の当主にして」
玄米は眉毛を上に押し上げて、薫を見つめ返している。相変わらず目付きは鋭い。
「土玉家の筆頭陰陽師じゃよ」
「う、嘘……」
「嘘ちゃうねんぜ! 我は真面目に陰陽師なのですぞ!」
「嘘でしょおおぉぉぉ!?」
薫は、自らが抱いていた陰陽師像(雲海のように坊主頭の真面目な男)を根底から覆され、絶叫した。今度こそあばら屋が崩れるかと思う程の、大きな声で。