5−1 三枚の紙
七月二十六日。神部祥子がドッペルゲンガー事件に巻き込まれる、少し前の出来事にあたる。
妖山駅発山田村駅直通の各駅停車のローカル線に揺られて、香田薫は何をするでもなく窓から外を眺めていた。三両編成の一番前の車両のど真ん中のボックスシートを一人で占領している薫は、この車両の乗客は自分以外全員前の駅で降りてしまった事を確認して、行儀良く座っていた体勢を少し横に崩す。
足を組むと、若草色のワンピースの裾が捲れた。誰も見ている訳でないので特に気にする事もなく、薫は窓の外に広がる田舎の町並みに目を配る。
目に飛び込んでくるのは、ひたすらに緑色だった。田園が日を反射して発する淡い緑、背の高い木々が織り成す深い緑、種類に差こそあれど、単なる緑に違いない。
薫は、叔父に譲ってもらった古い腕時計に目をやる。時間は既に十時半を回っていた。
「あと一時間か……」
あと一時間で、電車は薫の故郷である山田村に到着する。
各駅停車の車両で行くには少し遠過ぎる場所にある山田村なのだが、鉄道が繋がっているだけでもあり難い事であると薫は思っている。
人口の減少に伴い、山田村はもはや自治体としての体裁を保つ事さえ危ういのだ。現に、間もなく山田村は地図上から完全に消滅する。最も、吸収合併によって名前が変更されるだけだ。谷潟市旧山田村になるだけで、市民の生活がそこまで激変する事はない。精々ゴミ出しのルールが変わる位だと薫も構えていたのだが、彼女の友人であり、超常現象事件捜査の相棒でもある(と薫は考えている)見習い陰陽師空峰雲海はそれに異を唱える。
曰く、住処の名前が変わって力を奪われた者が居る。
曰く、その者達は失った力を取り戻すため、人間に襲いかかる。
曰く、自分達のような陰陽師はその存在を戒める者である。
曰く、人に襲いかかる存在とは、世間一般に妖怪と呼ばれる者達である。
薫はつい一月程前に雲海に言われた言葉を反芻した。そして転校翌日にも関わらず雲海とそんな話をする事になった切っ掛けの事件……口裂け女との邂逅を、思い出す。
「やだなぁ……」
耳まで裂けた、鮮血滴る大きな口。妖しくぎらつく不気味な双眸。脂ぎった汚い髪。そして、老婆のような嗄れ声。思い出して、薫は少し肌寒くなり、着替えを大量に突っ込んだボストンバッグの最上層にあったカーディガンを取り出して、羽織る。
あの時、口裂け女は撃退された。薫が、超能力を全開にして吹き飛ばした。
しかし、妖怪は死んでいない。消えていない。滅んでいない。傷を癒しながら雌伏し、ゆっくりと二人への復讐の機会を窺っている。雲海はそう言った。薫は、それを信用せざるを得なかった。
彼女は妖山で過ごしたこの一月で、既に二匹の妖怪と遭遇してしまっている。妖怪は実際に存在する。陰陽師もまた、存在する。超能力者が存在するんだから、それくらいはどうってことないかもしれない。現実は意外とすんなり薫の中に入ってきていた。過酷な現実も一緒に、だが。
「………………」
薫は、ポケットの中に納めていた三枚の紙切れを取り出して、眺めやる。
一つは切れかけたパトランプのように温かみを感じさせない弱々しい赤い光を放つ紙人形。招かれざる客の到来を告げるベルで、薫に取っては忌み嫌うべき土産。
一つはブラックライトのように淡く青い光を放つ折り鶴。薫の守り神にして、帰省中の彼女にとっては、頼れる相棒の代理である。
一つは、十一桁の数字とどこかの住所が書かれた、単なるメモの切れ端。いざと言う時はかけてくれ、と言われたが、そもそもそのような事態が起きて欲しくないと祈る。
それら三つの紙を眺めて、薫は数日前の記憶を回想し始めた。
*
一学期の終業式を終えた薫は、雲海に屋上に呼び出されていた。
これだけ聞くと淡い青春恋模様を思い浮かべてしまいそうだが、薫はそんな甘いシチュエーションが自分に到来していない事はとっくに知っていた。屋上と言う場所は雲海と薫の溜まり場もしくは会議場であり、妖怪やら超能力やらと言ったオカルト絡みの話をする時、決まって二人はこの場所を選んだ。
基本的に屋上には人が居ない。居ても、誰も彼らの事を気にかけない。内緒話には適切な場所と言える。
「来たよぅクーちゃん。この後真見ちゃんに夏休み突入の打ち上げに呼ばれちったんで、早めにね」
「あぁ、すぐ終わらせるよ。取りあえず、これを受け取ってくれ」
午前中に放課されたのに雲海に呼ばれ少々不機嫌な薫の手に、雲海は無言で紙人形を手渡す。
「……これ、なんだっけ?」
手渡された赤く光る紙人形には見覚えがあったのだが、思い出せない。薫は目を丸くしながら雲海に問うた。
「真面目な話だ。ちゃんと聞いて、覚えておいてくれよ」
雲海は質問には答えず、硬い表情でそう言った。
薫も釣られて表情を引き締める。頭の中では、未だにこの後遊ぶ予定になっている相川達の事を考えていたが。
「その紙人形は口裂け女の気配に反応して光を放つ……センサーみたいなものだ」
「口裂け女……あぁ、そっか。あの妖怪、倒し切れなかったんだっけ」
薫は雲海の言葉を思い出して、紙人形を鞄の中に仕舞い込む。
「香田さん、すぐに実家に帰るって言ってたろ?」
「うん。今日は打ち上げ、明日はお土産とかの準備して……明後日の朝方には出発する」
「つまり、僕と離ればなれになる訳だ」
「……そうだけど、そう言う風に言われると照れちゃうねぇ」
頬を掻く薫は少し舌を出して頭を掻いておどけてみせるが、雲海は硬い表情を崩さない。むしろ、少し批難するような目を向けられて、薫は緊張する。
「茶化してる場合じゃないぞ。
君が実家に帰っている間、口裂け女が僕らの元に現れないとも限らない」
「え……」
慌てて鞄に仕舞った人形を取り出す。しかし、人形が放つ光は相変わらず弱い。一月前となんらかわりない。
「まさかもう口裂け女が?」
「もしも、の話だよ。もしかしたら現れるかもね、って言う仮定の話。
今のこの世は妖怪にとっては住みにくい世界だ。傷を癒すのにも時間がかかる。
たかが一ヶ月で復活出来るとは思えないけど……何事も用心は大切だからね」
雲海は言葉を続ける。
「僕の方に復讐にくるんだったら、構いはしないんだけどね。
奴は強いだろうけど、僕は一応専門家だし、いざって時には父さんも居る。
だが、奴の獲物は基本的に若い女性だ。君の方が狙われる可能性が高い」
「や、止めてよ……おっかながらさんでくれや」
自分の肩を抱く薫は、本気で脅えている。雲海は少し慌てながら笑顔を作って、彼女を宥める。
「大丈夫。対策は考えてある」
「……本当に?」
「あぁ、心配無用さ。側についててやれないのは悔しいけど……」
「……着いてくる訳にもいかないしねぇ」
薫は想像する。自分が雲海と一緒に山田村に帰った時の事態を。
村の古臭い頭の人間達は、すぐに邪推するだろう。ただでさえ田舎は結婚が早いのだ。やれ彼氏だ恋人だ結婚だ、等と囃し立てるに決まっている。それは少し面倒臭いし、ちょっと嫌だ。薫の思考をよそに、雲海は首を振る。
「着いてくるのが、とかそれ以前の問題があるんだ」
「……そうなの?」
「陰陽師にも色々あってね。全国各地に散らばる陰陽師も、今や国に管理される立場にある。
妖怪退治専門の公務員みたいなもんさ。世間から隠蔽されている、裏の仕事だけどね。
時間外勤務ありで、給料は歩合制。命の危険も伴うって言う、結構ブラックなお仕事だ。
そしてお金が絡む以上、どうしたって基準になるルールは必要だろう?
特に管轄外の妖怪を退治するのは、他の陰陽師とのトラブルの元だ。
人の獲物を横取りするんじゃねぇ……そう言う事さ」
雲海は悔しそうに俯きながら陰陽師の内部事情を語る。
「空峰家の担当は妖山市全域のみ。君の故郷は管轄の外さ。
君が実家に帰った時に口裂け女に遭遇した場合は、山田村を管轄に置いた陰陽師が対応する事になる。
前もってその陰陽師に連絡を入れておいたから、向こうに帰ったらその人を訪ねてみてくれ。
場所も教えておく」
「……まさか対策って、それ?」
「あぁ、そうだ」
「そうだって……」
薫は口を尖らせる。他の陰陽師、と言われても全くピンと来ない。まだ見た事もない人に自分の運命を託す羽目になるかもしれないのだ。幾ら信用している雲海の推薦とは言えども、流石に不安である。
「大丈夫さ。そもそも、口裂け女が現れる可能性は低い。
それに加えて、山田村の辺りを警邏している陰陽師は相当な手練だ」
「……でも、やっぱり」
薫の瞳が不安に揺れる。雲海も手を尽くしたいと頭を捻った後、鞄の中から巾着袋を取り出した。そしてその中から符を一枚取り出し、指で挟み込む。
「……符よ、香田薫を守れ」
雲海が小さく呟くと、紙の符は薄青い光を放ちながら、薫の手の中に飛び込んでいく。
掌くらいの大きさだったそれは、見る見る内に勝手に畳まれていき、最終的に折り鶴の形となって薫の手の中に収まった。青く光る銀紙で折られたような見た目のその鶴は、薫の手の上で小さな頭をもたげる。釣られて薫もお辞儀を返した。
「……これは」
「言霊を込めたお守りだ。
君の身に危険が迫った時に、気休め程度には助けになるだろう。
申し訳ないけど、僕が出来る事はこれくらいだよ」
「うん……ありがとう。大事にするよ」
「大事にされても困るな。君を守る為の物なんだし……」
薫の微笑みに照れる雲海は、目を逸らしながら頬を掻く。
「まぁ、もし対応し切れないような事があれば、連絡をくれ。携帯の番号を教えておく」
「……そう言えば、貰ってなかったっけ」
「君、携帯電話持ってないからね。教える機会がなかった。
ついでに、その陰陽師の住所も書いておくよ。
山田村のお住まいだって聞いているから、案外君の近所だったりしてね」
メモ帳とボールペンをポケットから取り出して番号と住所を書き、雲海は薫に手渡す。紙人形、お守り、電話番号の紙切れ。それら全てを纏めて鞄に押し込む薫を見て、雲海は眉を顰める。
「……もう少し丁寧に扱えよ」
「あ、あははは……」
流石にぞんざいだったか、と薫は反省しつつ笑って誤魔化した。
*
回想を終えた薫は、手の上に乗るその紙の数々を、大事そうにポケットに仕舞い込む。
人形と折り鶴は、本来単なる超能力者であって陰陽師ではない薫の手の中にあるべき物ではない。陰陽師が託した、陰陽師が使う道具の数々を見て、薫は思う。
転校してからこっち、私は本当に……本当に奇妙な目に遭ったんだな、と。