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怪奇!知らない世界の人々  作者: ずび
第四話 ドッペルゲンガー
50/123

4−8 沸血する陰陽師

「……は」


 カーテンの隙間から覗く、少しだけ西に傾いた陽光が瞼を照らし、神部祥子の意識を覚醒させる。

 いつの間にか眠っていたらしい。自分が寝ていた事にようやく気がついた神部は全力で縮こまっていた己の身体を解きながら、ぼんやりとした意識で徐々に状況を把握し始める。

 そして間もなく、どうして今こんな所に引き蘢っているのか、自分は一体何に恐怖していたのかを思い出す。


「…………ふぅ」


 泣きつかれてそのまま眠りについた事は、限りなく不正解に近い正解であった、と神部は思う。

 自己解決できる範疇は既に超えてしまっているため、不貞寝は単なる現実逃避にしかならないのだが、心の平穏は僅かばかり取り戻す事が出来た。

 溜め息を吐きつつ身体を見下ろしてみると、丈が短く生地の薄い夏用のパジャマが寝汗で酷く濡れている。

 起こした身体を一瞬震えさせた神部は、着ているだけで不快指数を増していく衣服を取り替えようと、ベッドから身体を起こす。


「おはようございますぅ」


 部屋の一角から声が聞こえた。どことなく聞き覚えのある声が、汗にまみれた神部の身体を容赦なく冷やす。

 横になっていたためにズレた眼鏡を指で押し上げ、神部は恐る恐る首の骨が軋む音がするのではないかと思う程ぎこちなく、声の主に顔を向けた。その姿を見て、神部は息を吸う事すら忘れかけた。

 目の前の光景を現実と信じたくない。体全体が強張り、震え、意識が遠のきかける。

 声の主は、本棚に寄りかかって腕組みをしながら神部を舐めるような粘着質な視線を浴びせている。

まるで彼女の脅えた姿を堪能するように目を見つめ、口角を上げる。眼鏡のつるを押し上げて、その声の主はゆっくりと神部に歩み寄っていく。肩にかかるセミロングの黒髪の毛先がミミズのように蠢く彼女は、冷静に見れば人間には到底見えないのだが、神部は彼女を見る事すら出来ない。

 直視してしまえば、終わる。


「ひっ……」

「あらあら、そんなに怖がらなくてもよろしくてよ?」

「な、なんだ、貴様は! どこから、いや、どうやって……」

「そんなの分かり切った事じゃない。だって私は……貴方なんだからさぁ」


 自分と全く同じ姿をした何者かが、神部を嘲笑うように見下ろしている。

 私じゃない。私は私だ。こいつは私じゃないんだ。でも、どう見ても……私だ。

 神部は気が遠のきそうであった。自分以外の自分がいるかもしれない、と言う懸念は、こうして今自分の前に立ちはだかっている。

 今まで私の代わりにキャンプに出掛け、そしてプールに出掛けたのは……この「私」なんだ。何故私が……二人いるのだろう。神部は頭の片隅で叫ぶ、一抹の記憶に意識を傾けた。一度に二人の人間が目撃される例、と言う俗説があったのではないか。そう、バイロケーション、或いは……。


「ドッペルゲンガー……」


 自分の姿を第三者が別の場所で見る、もしくは自分が違う自分を見る現象。

 そして、ドッペルゲンガーを見た者には……不幸な事が訪れる。

 ある説によれば、見た者は死ぬ。ある説によれば、自分と言う存在がドッペルゲンガーに乗っ取られる。いずれにしろ、神部の未来に希望が見える事はない。


「や、めて……」


 平時の神部がこのような不確定かつ非論理的な俗説に踊らされる事は有り得ない。平時の神部、ならば。


「来ないで……」


 見た。見てしまった。ドッペルゲンガーを見てしまった。私は死ぬのか。乗っ取られるのか。私と言う、神部祥子と言う唯一無二の存在が……消えるのか。


「来ないでよぉ……」


 ドッペルゲンガー、エイ・エスは微笑む。

 神部の恐怖に歪んだ顔を見て、脅えた羊のような弱々しい泣き声を聞いて、喜色を浮かべてますます笑う。足を止めないエイ・エス。やがて神部の肩に手を置いて、何故か優しく労るように撫で回す。


「きひっ……きひひ、ひひ」


 大きく裂けた口端から涎が滴り落ちるのを、蛇のように長い舌で舐めとったエイ・エスは、気が触れたかのような笑い声を喉の奥から漏らす。神部の全身に鳥肌が立つ。まるで怪物のように歪んでいく自分を見て、吐き気を覚える。


「あぁ、美味そうだ。きっと美味いに違ぇねぇ。

 なあぁ、そう思うだろぉ? ……「私」よぉ」


 無言で狂ったように首を横に降り続ける神部。エイ・エスは長く伸びた舌を彼女の首に絡ませながら、そのまま器用に言葉を続ける。

 神部を見つめるエイ・エスの目からは血の様な赤い液体が溢れ出し、床を汚す。


「でもなぁ、怖いだけじゃ足りねぇんだよなぁ。オイラの腹膨らましても、舌が満足しねぇ。

 だからよぉ、もうちょっと味付けしてもいいよなぁ?」


 何の事を話しているのか分からない。

 神部は何も聞きたくなかった。身体を丸め、耳を塞いで目を閉じて、何もかも見ない振りをして、現実から逃げようとするが、エイ・エスがそれを許さない。神部の両腕を掴んだエイ・エスは、彼女の首の辺りを粘液に包まれた舌で舐めながら、彼女に更なる追い討ちをかけていく。

 粘っこい喋り方を止め、普段の神部の口調をそのまま再現したような、メリハリのあるサッパリとした口調で。


「私はな、「私」よ……お前の影だ」

「か、げ……?」

「自分ですら自覚のない自己の投影。自分の願望を投影した、もう一人の自分。

 つまり、私はお前自身が望んだ姿なのだ」


 エイ・エスは何故か呆れたような声で神部に問いかけるような視線をぶつける。神部は震える声を上げながらも、必死で抵抗を試みる。


「お前みたいな、化け物が……!」

「化け物? ……これは心外だ。

 君は、今の自分の姿を見た方が良いだろう」

「……何を言って……る……」


 少し首を下げて、自分の身体を見下ろす。

 様子がおかしい事に今の今まで気がつけなかったのは、部屋が暗いせいか、気が回らなかっただけか。元々外で遊ぶ事の少ない彼女は、もっと色白であった。

 しかし今は、黒い油性絵の具でも塗りたくったかのように、体全体が真っ黒に成り果てている。木炭の人形のような自分の姿に、神部は気を失いかけた。

 しかし、エイ・エスの次の言葉がそれすらも許さない。


「今の自分の立場が分かってないらしいが……影が入れ替わりを始めたのだ」

「入れ替わり……?」

「お前と私が入れ替わるのさ」


 思考する間もなく、エイ・エスの言葉の意味を噛み砕く事すらできない。

 エイ・エスは更に続ける。神部と同じ手を振りかざし、神部のと同じ口で、声で、他ならぬ神部に語り続ける。


「「私」は常々、自分の不甲斐なさにウンザリしてただろう?

 「人付き合いは苦手」「友達が出来ない」「誰かと仲良くしたい」

 ……が、「私」は何も行動が出来ないでいた。

 「接し方が分からない」「人が私をどう思うか想像しただけで怖い」「嫌われたら立ち直れない」

 まるで腐ったナメクジの死体のようにいつまで経っても取り払えない、性根にこべりついた心の汚れが……私を生み出した」

「…………な、何を」

「私はお前の願望を叶えた存在だ。

 人と優しく接し、時に笑いを誘い、そしてどこか珍妙な女。それが、私だ。

 他人からの目? 存分に惹けば良い。それは自分に興味を持ってくれたんだ。

 嫌われたくない? 好きの反対は無関心、だ。話さないよりゃ余程マシだろう。

 接し方? 「私」のキャラの濃さで立ち回れば、何も恐れる事などない。

 そうやって前向きに捉える事の出来る神部祥子。

 お前が踏み出せなかった、他者と言う領域に一歩踏み出した存在。

 ……それが、私なのだよ」


 エイ・エスの言葉は全て神部の心に重くのしかかった。図星であるが故に、全てが理解出来てしまった。

 目の前のドッペルゲンガーは、他者に心を開き、社交性を手に入れた神部祥子の"有り得たかもしれない"姿なのだ。

 自分のように根暗で、偏屈で、愛想も愛嬌もユーモアもない、下らない人間から卒業出来た自分の姿なのだ。

 生徒会役員が行ったキャンプで撮影したと言う、神部が映った写真が脳裏を掠めた。

 あの時の自分は、温かな表情をしていた。周りの先輩達も本当に……本当に楽しそうだった。この目の前の、ドッペルゲンガーが行ったからだ。氷像のような仏頂面しか作れない私が行っても、あの写真が実現する事はなかっただろう。

 そして、今日聞かされた、昨日のプールの件。

 本来の私なら、小森と出掛けるなぞ、単なる頭痛の種を増やす事になるだけだと、誘いを蹴っていただろう。しかし、このドッペルゲンガーは誘いを受けたのだ。小森の服を着て帰った、なんて常識はずれな事をしながら、しかし今朝聞いた小森の声は全く不機嫌そうな色を含んでいなかった。自分なら間違いなく彼女を怒らせてしまうだろうに。

 ……ここまで頭を巡らせて、神部は気がつく。気がついてしまう。この妖怪が望む答えに辿り着き、そして口に出してしまう。


「私は……要らない存在なのか……?」


 蛇が脱皮をするように、さなぎから蝶が羽化するように、卵から小鳥が孵るように。

 生き物は、それまでの自分の形態を捨て、新しい自分へと生まれ変わる。

 今の私は、いわば蛇の皮、空のさなぎ、卵の殻のような存在なのではないか。私と言う器を破って生まれ出た、この目の前のドッペルゲンガー……私の影こそが、本当の私として存在すべきなのではないか。

 神部は絶望と共に、その問いを目の前の自分に問う。


「あぁ、よく分かってるじゃないか。さすが、「私」だ」


 解答は肯定。

 つまり、私はこの世に必要のない存在と成り果てた。

 いや、神部祥子と言う存在は否定されていない。ただ、中身が入れ替わるだけだ。神部祥子は、より進化した神部祥子にすげ変わるだけなのだ。否定されたのは古い私であって、新しい私はこの世で私として、より充実した人生を歩んでいくのだ。


「先輩にもお友達にも、この私は結構好評だったぞ。

 人付き合いが良くなって、なんだか一緒に居て楽しいな、何て言われてさ。

 幸せだろ、「私」よ。神部祥子と言う人間が、そんな風に評価されるなんて。

 新たな私は理想の私。お前は理想を叶えたんだ。この機会を与えてくれた神様に感謝だな」


 神部祥子は屈服した。完全に、心が折れた。

 もう、私は必要無い。死んでしまうべき存在となってしまった。涙も声も出ない。ただ、冷静で冷酷な事実が目の前にぶら下がっているのを、見つめる事しか出来なかった。




  *




 死んだように動きを止める神部を見て、事の元凶であるドッペルゲンガー、エイ・エスは、笑っていた。エイ・エスは少々下品ながら、実に楽しそうな笑い声を添えて、神部祥子を遂に陥落させてしまったのだ。一しきりそうやって笑い終えたエイ・エスは、急に真顔を作り、神部を正面から見据えた。


「……さて。いい加減、神部祥子が二人、なんて馬鹿げた事態は終わらせよう」

「……………………」

「そんなに不安そうな顔をするな、「私」。私が神部祥子として生きれば、全て上手くいく。

 誰も悲しませず、誰も怒らせず、誰も憎まず憎まれず……皆に愛を振りまいて生きていくよ」


 エイ・エスはいつの間にか神部の首筋を舐めるのもやめ、彼女の頭に手を乗せていた。一度優しく髪を撫で付けたあと、エイ・エスはゆっくりと腕を上げる。その手の動きに追従して、神部の身体から、ニワトリの卵程の大きさの白い球形の光が抜き出された。

 球体は僅かにエイ・エスの手の中で身じろぎをするが、手から抜け出す事は出来ない。エイ・エスは、首を項垂れて目を見開いて茫洋としている神部を見下ろして、彼女の体を蹴ってベッドに寝転がす。

 下衆な笑い声を上げ、神部祥子としての取り繕いを取り払ったエイ・エスは、溢れ出る涎を拭う事もせずに、その白球を食い入るように見つめる。


「美しい魂だねぇ……実に、美しいよぉ。喰うのが勿体ねぇ……がここまで我慢したのはこの瞬間の為だぁ」


 いただきますぅ。

 エイ・エスは恍惚とした表情を浮かべつつ、手の中に収まっている神部祥子の霊魂を丸飲みにしようと大きく口を開けたその寸前。


「……ったくよぉ」


 エイ・エスの口から悪態が漏れた。

 彼の動きが止まる。喜色満面だったエイ・エスの顔が見る見る内に不機嫌に歪んでいく。

 苛立ちを通り越した、憎悪の表情。そしてその、血溜まりのような粘り気のある赤い瞳に映っているのは。


「ふっざけんじゃねぇぞぉ……! なんでてめぇ……!」


 肩で息をする丸坊主の男。食事を遮った、ボロ切れを身に纏ったお邪魔虫。先程踏み砕いた筈の血塗れの右手に、何枚もの布製の霊符を手にした、妖怪達の、最も恐るべき宿敵。


「黙れ……妖怪!」


 空峰雲海が、苦痛に顔を歪ませながらも、真っ直ぐにエイ・エスを睨みつけていた。


「何故だぁ……どうやって出てきたぁ……」


 エイ・エスにとって、雲海が現れたのは完全に想定外だった。

 顕界と幽界の狭間に突き落としてやった筈の、丸腰の弱小陰陽師がここに居る道理がない。

 分からない。だから慌てる。焦る。反応が遅れる。飛んで来た紙切れが何なのか、一瞬忘れかけてしまう。


「爆ぜよ!」

「どわぁ!」


 咄嗟の身のこなしで、爆発する霊符を避けたエイ・エスは、次いで飛んで来た霊符が続けざまに青く発光するのを見て、血の気が引いた。

 符が青く弾け飛ぶ。辺りに爆音と、鉄をも溶かす高熱を蒔き散らし、エイ・エスを焼き尽くさんばかりに、そして神部さえ巻き込む事を厭わぬと言わんばかりに。既に三つの巨大な青い火柱が神部の部屋を見るも無惨に破壊してしまった。立ち上る黒煙と揺らめく爆炎で視界を奪われながらも、エイ・エスは自分の手の中にある神部の魂の無事を見て、思わず安堵の溜め息を吐く。

 そしてベッドの上で、死んだように倒れ伏している神部に外傷がないことを確認し、癪であったが雲海に声をかける。


「おい、テメェ!」

「………………そこか?」


 絶対零度の声が、エイ・エスの背筋を凍り付かせる。

 馬鹿げている、とエイ・エスは自嘲する。

 先程まであんなに腑抜けていた坊主相手に少しでも焦ってしまうなんて、妖怪の恥さらしだ。

 自分を取り戻す事に必死だったエイ・エスの隙をついて、煙の向こうから飛んで来た霊符が、エイ・エスの腹に張り付く。


「やべぇっ……!」

「穿て!」


 右手の中に収まっている神部の魂だけは死守すべく、エイ・エスは右手を背中に回す。

 自分の腹に突如、音もなく、それでいて猛烈な衝撃と痛みが襲いかかってきたのを感じたエイ・エスは、自分の腹にホールケーキ程もある大きな穴が空いているのをみて、顔を青ざめさせる。

 妖怪は腹部が消し飛んだくらいで死ぬ事はない。しかし、エイ・エスはますます焦燥に駆られていく。

 何故、このような芸当ができるんだ。彼を突き落とした時、雲海は呪具の類いを一切持っていなかったのだ。なのに今、彼の手にあるものは……と思い当たってから、エイ・エスは自分の腹に穴を空けた符の残骸を手にとった。

 赤黒い文様が、白い厚めの紙に描かれている。

 そしてエイ・エスは、その符の正体に気がつく。厚めの紙は千切った紙袋。そして雲海は、右手の出血を利用して、自分の血で符の文様を刻んでいるのだ。


「無茶苦茶だぜ……おい」


 即席の符でこの破壊力。エイ・エスは動揺を隠し切れなかった。

 エイ・エスはこの事態を想定していなかった。そもそも、あの空間に封じるために、エイ・エスは相当量の力を使ったのだ。それを即席の呪具でこうも易々と切り抜けられるとは、幾ら何でも反則だ。エイ・エスは歯軋りしながら悔しがりつつも、次の手を考える。

 エイ・エスは今の状況を考え直し、心を落ち着けるため、右手の人差し指で自分の額を突つき、打開策を考える。

 そして、何とか捻り出す。顔周りを中心に、再び変身する。長らく使っていた神部祥子の顔に、戻る。今のエイ・エスは、神部祥子そのものの姿。か弱い……とは少々言い難いが、それでも雲海と同年代の女子、しかも友人の姿をしている。手の中には神部本人の霊魂。冷静になれば、向こうも本気でこちらを殺しにかかれる筈がない。きっと、調整している筈だ。

 既に相手に依存した戦術を取っている事に、エイ・エスは自分ではまだ気がつかない。


「おいぃ! こっちには、人質がいるんだぞぉ!」

「…………」

「今すぐに攻撃を止めなければ、神部祥子の魂を握りつぶすぅ!

 それでも良いのかテメェ、コラァ!」


 雲海は無言で妖怪に歩み寄る。足元の千切れとんだ本のページを踏みつけながら、悠然とやってくる。

 腹にバスケットボール大の空洞を開けてはいるものの、既に完全に神部の姿を取り繕ったエイ・エスを、雲海は無感情に睨みつけていた。人質、と言う言葉に反応したらしい雲海の攻撃の手が止む。しかし、エイ・エスに近付いてくる足は止まらない。

 エイ・エスにとってこれは好機であった。彼は雲海とは違い、遠くの相手を攻撃する手段を持っていない。しかし反面、その体力は人間を遥かに凌駕しており、雲海の急所を殴りつければ、所詮人間である彼を殺すのは実に容易いのだ。

 お前の腹にも穴を開けてやる。握り拳大の穴を。一つや二つじゃない、蜂の巣にしてやる。

 エイ・エスは勝利を確信する。


「きひひ……きひ、ひひ……」


 エイ・エスはゆっくりと立ち上がり、喉の奥から笑い声を漏らしながら、空いている左手を握り締める。

 骨が軋む程に強く固く握ったその拳を腰に構え、警戒する様子なく歩いてくる雲海の様子を窺う。雲海があと三歩歩んでくれば、手が届く。エイ・エスは己の感じていた焦りが払拭出来た事に安堵していた。

 陰陽師と言えど、所詮は人間。頭に血が上ってがむしゃらに攻撃、しかし人質の存在を知り、手も足も出ない。未熟故の暴走。脆弱故の無念。所詮は若輩者。現代のキレやすい若者陰陽師。そして今彼は、人質解放の説得を求めようとしているに違いない。

 エイ・エスは意地汚く笑う。

 誰が? 誰が? 誰がそんなものに応じてやるものか。情にほだされるのは人間のする事。倫理という、飯の種にすらならない卑屈で下等な思想を尊重する弱者のする事だ。

 エイ・エスは躊躇無い。雲海を殺し、神部の魂を喰らう事に、なんら抵抗はない。メシが二つに増えただけだ。鬱陶しい蝿を殺した時に蝿に対して、或いは極上のステーキを目の前にした時牛に対して、罪悪感が湧かないのと同じように。

 後一歩。後一歩で、手が届く。エイ・エスは高揚した。

 人間をくびり殺すなんていつ以来かと、昔を懐かしむ余裕すらあった。


「おい……」


 しかし、射程に入る直前に雲海が足を止め、口を開いた事で、エイ・エスのその余裕は。


「お前……僕が説得に来た、と勘違いしているだろう」


 儚く砕け散る事になる。


「自分は知り合いの姿だから僕が躊躇する、と思ったか?」


 雲海がエイ・エスを睨む。


「自分は妖怪だから、人間如きにどうこうされる事はない、と思ったか?」


 大きく見開かれ赤く血走った雲海の瞳に、目を見開いた神部祥子の姿をした妖怪が映った。


「人質がいるから手出しされない、と思ったのか?」


 エイ・エスは焦りがぶり返してきたのを感じた。

 何かがおかしい。目の前の人間は、自分に敵意を向けている。人間が放つ敵意は、妖怪にとっての力の源。人間が自分を憎めば憎む程、自分の力は強くなる筈だ。なのに、何故。どうして拳から力が抜ける。どうして体が震え始める。どうして、なんで、分からない。こんな矮小な人間に負ける筈がない。所詮人間は人間。人間。人間なんだ。負ける筈がない。勝つのは妖怪だ。このエイ・エスだ。僕で私で我で俺でオイラでアタイなんだ。

 でも怖い。怖い。怖い怖い怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。


「人間は脆弱? 人間は、妖怪にとってのメシ? 現代の陰陽師は腑抜け?

 別にいいさ、そう思ってもらっても構いはしない。

 ……そう思いながら、一切反省しないまま、この世から消え去る。

 お前のような下衆にはお似合いの最後だよな……」

「ひ、ひ、ひぃ……ひ」


 雲海は地獄の底から響いてくるような低い声で口上を述べ、血が滴る右手の指で挟み込んだ霊符をエイ・エスの眼前に突き出す。

 余りの恐怖、プレッシャーに腰の抜けたエイ・エスは、歯の根の噛み合ぬ口を震わせながら、必死に右手で額を掻きむしる。

 どうやって切り抜ける。負ける。いやだ。死にたくない。消えたくない。人質。コイツをどうする。所詮人間に。私は神部。俺は、神部。儂は神部。突き落とした。雲海。陰陽師。山気光明。メイド。情にほだされる。爆炎。美味そう。魂。怖い。血走る目。怖い。腹に穴が。怖い。怖い。ダメだ。こわい。こわい。にんげんがこわいなんてしらなかった。こんなにおそろしいにんげんがいるなんてだれもおしえてくれなかった。えい・えすはわるくない。いやだ、いやだ、いやだ。だれか、えい・えすを、たすけて。


「滅せよ」


 地獄の閻魔さえ呆然とする程に無感情な判決が下される。

 恐怖に身を竦ませる矮小な妖怪の目に、人間だった筈の、妖怪とも人間ともつかないおぞましい何かの姿が映っていた。そのおぞましい何かは、どこか楽しげに……口元を三日月形に歪めていた。

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