1−2 道に迷う女子高生
六月も下旬となれば、雨雲も役割を終えたかのように霧散して消え失せてしまう。代わりに顔を覗かせる太陽は鬱憤を晴らすかの如く、青々とした空に輝き出す。蛙もカタツムリも、まるで初めから存在していたかどうかすら怪しくなる程影も形もなくなってしまった。そんな季節の変わり目も終わりかけて、本格的な夏の臭いが漂い始めていた頃。
一人の少女が、午前十時の町中を重い足取りで歩いていた。妖山市という奇怪な名前の町を彷徨う少女は、額に浮かんだ冷や汗を拭って草臥れた顔をする。
「……ここは、何処なのよ」
独り言の果てに溜め息をつく少女が身につけるは、半袖Yシャツに紺のプリーツスカート、黒いソックスと学生鞄。
長い髪を結ったポニーテールが彼女の歩みに合わせて力無く左右に振れた。少し丸顔で背が低い。顔のパーツも目から鼻から全体的に丸っこく、牧歌の歌詞に出てきそうな少女を絵に描いたような容貌をしていて、一見すると中学生くらいに見えてしまうのだが、彼女は立派な高校生であった。その少女は、あちらこちらから飛んでくる町の人々から向けられた奇異な視線にひたすらに耐え忍んでいた。
あの子学生かしら。じゃあなんでこんな時間に外にいるのかしら。まさかサボリかしら。そんな昼下がりの主婦の視線をかいくぐりながら、少女は鞄から取り出した近隣の地図を開く。商店街のアーケードを通り抜けてから、眉を顰めて辺りを窺う。
「あれが……市立図書館」
地図を見つめながら、南西の彼方にある白い建物を指差す。そしてそのまま南西に方向転換。
「あれが、ヨーカドー」
今度は南東を指差す。その先には背の高い、赤と青のコントラストが目を引く鳩の看板がそびえていた。
「じゃぁ、杵柄高校ってのは……こっちのはずなんだけど」
「うお!」
地図を眺めながら今度は真東に勢いよく指を突き刺す。その指差した先から驚いた男の声が耳に届いた。声に反応して少女が地図から顔を上げると、指が警察の制服を着た中年の男の鼻の穴に見事にホールインワンしていた。
「うわ! す、すみません!」
慌てて少女は人差し指を抜き、その爪の先に付いた血を見て、少し顔を顰める。警官らしき男は右の鼻の穴から血を垂らしながらも、威厳を保っているつもりなのか、一つ咳払いをしてから改めて少女と向かい合う。警官の厳粛さなど既に欠片も無いが、それでも彼は職務を全うしようと、少女に険しい視線を向けた。
「……君、一体ここで何をしているんだい? その服装は杵柄高校の生徒さんだろう」
「あの、おじさん。取りあえず鼻血止めましょう」
指先を丁寧にティッシュで拭き取ってから、少女はもう一枚ちり紙を取り出し、小さく丸めて警官に差し出す。警官は黙ってそれを受け取って鼻の穴に押し込んで、あちらこちらに跳ねるボサボサ髪を掻きながら、再び少女に問う。
「……で、今は授業時間中ではないのかな? サボリか」
「そう言う訳じゃ……あ、そうだ。丁度良かった」
少女は少し顔を赤くして、丸くて大きな双眸を少し潤ませながら警官に懇願する。
「私、道に迷ってしまって。
申し訳ないんですが、杵柄高校までの道のりを教えてくれませんか?」
「迷った? もう六月も終わりだぞ、君は通っている高校の場所も分からんのか?」
警官は驚きに目を剥いて少女を不躾に見つめた。一方の少女は頬を膨らまして反論した。
「今日が初登校なんです!」
「……転校生かい、こんな時期に?」
「色々と事情がありまして……主に高校の校舎に」
少し顔を俯けた少女の呟きを聞いて、警官は話題を元に戻した。少女は大真面目に言っているらしく、嘘をついているようには見えない。警官は素直に謝罪の意を表した。
「そうか、それはすまなかったな。
杵柄高校はこの道を真っ直ぐ行って、郵便局の角を左に50メートル。
そして先のY字路を右に進み、図書館の脇の道を抜けてその先を左に30メー」
「覚えきれませんよ、そんなに長いの。もっと簡単にお願いします」
丁寧な説明が逆に仇となり、少女はこめかみを揉みながら目を細くして口を尖らせて文句を呟く。警官は苛立ちを隠せないが、近頃の子は我慢が足りないものだと諦め、眉間に寄った皺を指でほぐした。
「私が案内しよう」
「助かります!」
少女はまさにそれを待っていたとばかりに頬を綻ばせ、腰を折って頭を下げる。礼儀が良いのか悪いのか、最近の娘は全然分からない。呆れつつも警官はパトロールも兼ねて、少女を連れて高校への道のりを歩み始めた。