4−7 突き落とすメイド
雲海は異変に気がつく。
神部の家の廊下を歩き始めて十分程経った頃だ。そもそも、十分も歩く事が甚だ疑問だった。外から見た分には、確かにこの家は見上げる程大きく、幅も広かった。だが、家を家と認識出来る程度の広さだった事に違いない。端から端まで歩いても、恐らく五分とかからない筈のこの家の中の、何処を十分も歩いているのだろうか。
少し前を歩くツインテールの少女もそれは同じだったらしく、雲海に振り返って、声を潜ませる。
「……神部さんの部屋って何処なの?」
「僕が知る訳ないだろ」
「段々方向感覚が怪しくなってきたわ……」
小森が首を軽く左右に振った後、前を歩くメイドの背中を凝視した。後ろに束ねた髪が少しだけ揺れる彼女の背中からは、何か得体の知れない気配が溢れている。雲海は未だにそれが気がかりであったが、どうにも突っ込んで尋ねる気になれない。
このメイドは何かしら、怪しい。雲海が抱く確信はそれだけだった。
「……皆様、大変長らくお待たせ致しました」
メイドが立ち止まり、振り返る。声色は随分と落ち着き払っていて、先程のような敵意は感じられない。
「やはり、お嬢様のお部屋に直接ご案内するのは躊躇われましたので……応接間にてお待ち頂きたく存じます」
そう言ってメイドは頭を下げながら、雲海達から見て右手側の木戸を手で指し示す。
「やっとついたの? なんか歩いてばっかでちょっと疲れちゃったよ」
小森はそう言ってドアノブに手をかけ、捻り、開ける。そのまま部屋に入り込もうとして、小森は目を見開きながら、後ろに飛び退った。
「な、な……」
扉の向こうには応接間にあるだろうソファや椅子もなく、戸棚も本棚もなく、窓もなく。それどころか、灯り……それ以前に、壁も床も天井も、何も無かった。ただただ部屋の向こうには暗澹たる空間が無限に広がるばかり。まるで宇宙空間のような、光さえないまっさらな空間だった。
「ちょっと、これ一体」
小森が慌ててメイドの方を振り返るが、メイドはいつの間にか既に小森の背後に回り込んでいた。メイドは両手を突き出して、躊躇いなく小森の背中を押す。小森の身体は抵抗なく、扉の向こう側に押し出された。
「ひっ……!」
「小森さん!」
雲海は走った。
足場を失って落下しかけた小森の体を何とか腕に抱きとめて、扉を支えに身体を廊下に食い止める。しかし、メイドがそれを許さない。メイドには容赦が一切無かった。扉を握っている雲海の手をヒールの底で蹴り飛ばした。雲海は必死にそれに耐えるが、やがて手が離れてしまう。二人の身体が扉の向こうの闇の空間に放り込まれようとしていた。
雲海はしかし、諦めずに自分を蹴り飛ばしていたメイドの足首を掴み取る。このままではメイドごと引きずり込まれてしまいかねないのだが、メイドはまるで微動だにしない。人二人分の体重が片足にかかっているにも関わらず、メイドは悠然と、ただただ自分の足に縋り付いて、落下を免れようとしている雲海と小森を見下ろしていた。瞳にはどこかしら楽しげで、嗜虐的な色が宿り、口元には不敵な微笑みが浮かんでいる。
「どういうつもりだ……!」
「はて、質問の意味が分かりかねますが。私はただ、そこでお待ち下さいと。
……あぁ、永遠に、と言う言葉が抜けておりました。これはとんだ失礼を」
「お、落ち……落ちるぅ! 助けてぇ!」
小森が片腕の中で暴れているのを必死で抱え込みながら、雲海は無表情のメイドを見上げた。
「お前、何者だ……!」
とぼけた表情のメイドが、歯を剥いて笑った。目は赤く光り輝き、耳は人間の物とは思えない程、鋭く上に向かって尖っている。口元から覗く歯は鋭く、閉じた口から尚長い犬歯が覗いていた。彼女は既に、およそ人間の出来る表情をしていなかった。まさしく、獣のような顔であった。それこそがその女の……否、その妖怪の本当の姿である。
「……知りたいってんなら教えてやるよぉ。僕は妖怪だぁ。
昔の仲間からはエイ・エスって呼ばれていたっけなぁ。
初めまして、空峰家の長男坊さぁん」
「何故妖怪がこんな所に……っ、そもそも、なんで僕の事を」
「山気光明の血筋の人間は『臭い』で分かるんだぁ。
妖怪ってなぁ、みんながみんな、揃いも揃って、山気大師への畏れっつぅのがよぉ」
エイ・エスは邪悪でおぞましい表情を存分に雲海に振りまきながら、自分の胸の辺りを拳で軽く叩く。口の周りを舌舐めずりしながら、エイ・エスは蟻を見るような冷酷な視線を雲海に突きつける。
「ココに深々と刻まれちまってんだよなぁ。っとによぉ、厄介な性分だよなぁ。
テメェを見たときにゃぁ内心冷や汗がダラダラだったぜぇ。まぁ、最も……」
「っ!」
エイ・エスは自分の足に縋っている雲海の右手を、もう片方の足で思い切り踏みつけた。雲海は苦悶の表情を浮かべるが、その手を離す事はない。
「呪具も何ももってねぇ陰陽師なんざ、わたくし達にとっちゃぁ単なるおまんまだけどなぁ?
飛んで火にいる夏の虫……確かに今は夏だけどよぉ、まさか狙ってたのかなぁん?
いけねぇなぁ……実に、いけねぇよ、銀蝿坊主。
様子がおかしいからお見舞いだぁ? いけねぇなぁ……平和ボケって奴ぁよぉ」
「……じゃぁ、神部さんの様子がおかしいっていうのも……」
「あぁ……あの小娘なぁ……。
お前には悪いが、アイツはこのまま部屋の片隅でガタガタ震えながら俺の影に脅えて死ぬんだよぉ。
ああいう気が強い奴ってのは、案外簡単に陥落するもんでよぉ。
しかもそう言う奴の恐怖に脅えた魂ってのは、これが溜まらない位美味なんだよなぁ。
私が廃人になるまで吸い尽くしてやんだから、邪魔なんて野暮ったい事ぁ止めなぁ」
エイ・エスは言いながら、雲海の足を何度も踏みつける。
骨の軋む音がする。尖ったヒールで、妖怪の怪力で、エイ・エスは必死な雲海を見て楽しむように、彼の指先を抉るように踏みつぶしていく。何度踏みつけても、血塗れになっても、雲海の右手は離れようとしない。痛みに耐える雲海は、今にも叫び出してしまいそうなのを必死で抑えていた。
屈服してはいけない。恐怖してはいけない。敵意を向けてこの危険な妖怪を調子づかせるのも、いけない。
己の精神力を総動員して、雲海は心の中で必死に抵抗を続けていた。そんな事は全くおかまい無しのエイ・エスは、苦悶の表情を浮かべる事すらない雲海の指を踏みつけるのが、段々とつまらなくなったようだった。身を屈め、肉が抉れて腱が覗いていても尚しがみつく雲海の手に、ゆっくりと腕を伸ばす。
「弱っちぃ人間の割に根性あるねぇ、お前。伊達に陰陽師やってませぇん、ってかぁ?
我が輩は気に入ったぜぇ。あの女の次はお前を喰ってやらぁ」
「誰がお前なんかに……!」
「ったく、めんどうくせぇなぁ。聞こえなかったかぁ? お前は神部祥子の次のメシだよぉ。
だから今はアタイ特製のこの応接間で、ちょっと待ってろっつぅのぉ」
エイ・エスは未だ諦めていない雲海のその根性に嘆息しながら、しゃがみ込んで雲海の手の指を一本一本、ゆっくりと剥がして行く。
「さぁて、何本目まで耐えてくれっかなぁ?」
「…………」
「んだぁ、その目はよぉ。ほれほれ、落ちるぞぉ? 落ちちまうぞぉ? 死ぬかも知れねぇぞぉー」
「…………」
雲海はエイ・エスの顔から目を逸らさない。目には確固たる意志が宿っている。恐怖に脅える心も、エイ・エスを憎む心も、敵意すらも感じられない。なぜか憐れむような、親が子を見つめるような、どこか慈しむかのような念が伝わってくる。
陰陽師が妖怪に対して向けるべき正しき感情だった。模範的とすら言える程、雲海の心のコントロールは完璧と言えた。
気に入らない。腑抜けのくせに、優等生ときては、これ以上相手にするのも面倒臭い。エイ・エスは、一層に腹が立った。
「澄ましやがって……まぁいいわぁ。テメェら二人で末永く……不幸せになぁ」
足首を掴んでいた雲海の手を剥がしたエイ・エスは、そのまま雲海の身体を腕で釣り上げ、扉の向こうの部屋の中に投げ込んだ。見る見る内に雲海と小森の二人が、闇の底に落ちていく。遂に見えなくなった二人を見て、エイ・エスは、やれやれと溜め息を吐いた。
「怪しむ奴が出てきた以上、バレちまうのは時間の問題だなぁ。
……ちょいと早いけど、大詰めと行きますかねぇ」
そう言ってエイ・エスは扉を閉じ、その場で一度クルリと前宙する。メイド姿は煙に包まれ、再び廊下に着地したとき、エイ・エスはメイドから、神部祥子とそっくりの姿に変身していた。一度だけ二人を封印している扉に振り返るが、すぐに興味を失ったように、エイ・エスは早足で廊下を歩き始めた。
*
「きゃああぁぁぁ! 落ちてる! 落ちてるよぉ!」
光の全く届かない謎の暗黒空間内で、小森の甲高い悲鳴が雲海の鼓膜を破らんばかりに響き渡っていた。周りに何も見えないが、自分が宙に浮いている感覚はあり、顔の下から空気がぶつかってきているのも分かる。
恐らくは、小森の言う通り、二人はひたすらに落下していた。小脇に抱える小森が手足をもがかせて空を切る中で、雲海は至って冷静に自由落下に身を任せて頭をひねっていた。
考えるべきは二つ。
何故、ここに妖怪がいるのか。そして……あの妖怪エイ・エスをどうやって懲らしめるか。
まず一つ目。エイ・エスがここに……神部の住まう家に居る理由である。恐らくエイ・エスは、先の市町村合併による縄張りの変化によって住処を追われた妖怪の一匹である事は間違いない。そして神部にターゲットを絞って、彼女が自分を畏怖する心を喰らって力を付けているのだろう。細かい経緯は……懲らしめた後に吐かせれば良い。
二つ目。どうやって奴の元に辿り着き、そして打ちのめしてやるか。ここ……あの妖怪が言う所による『応接間』から逃げ出さなければならないのだが……。
「……はぁ、はぁ……はぁ…………はぁ……!」
小森は叫び疲れたのか、今は呼吸を整えるのに終始している。ようやく静まり返った雲海が左の小脇に抱えた小動物的存在は、一体自分が何に支えられているかも碌に分かっていないらしく、雲海の腕をまさぐり始めた。くすぐったい感触を覚えた雲海は、少し呆れながら首を下に向けた。
「おい、小森さん。何やってんだよ」
「……………………これ、もしかして雲海君の腕?」
「そうだけど、どうした?」
「どうしたって……何処触ってんのよアンタは。
狙ってやってんじゃないかって位ピンポイントに触ってるし……」
小森が少し恥ずかしげに呟いた。何処を触ってるかどうかなんて暗くて分からない雲海は、コレには答えない方が良いと感じていた。恐らくは今握っている自分の手が、割と小森に取っては洒落にならない部分にあるのだろうと言う自覚は、彼女の身体を抱えた時に僅かばかりあったからだ。
「や、やめてよ! ひゃ、ぁ、に、にぎにぎすん、きゃん!」
「…………申し訳ない」
無意識的に手が動いていたらしく、雲海は素直に反省の言葉を吐いた。小森の声は聞かなかった事にした後、雲海はもう一度自分が考えるべき事を思い出す。別の意味でも少し息の上がった小森は、恐る恐ると言った風に口を開く。
「……ねぇ、雲海君」
「ん?」
「これ今、私達って何処にいるの?」
何処にいるのか分からないのは雲海も一緒であったが、震える声を出す小森を安心させるため、雲海は頭の片隅に埋まっている妖怪に関する知識を引っ張り出して説明を捻り出す。
「あの変身メイド野郎が扉の向こう側にこんな風に、即席で空間を作り出したか。
それか、実は僕らは催眠術でもかけられていて、幻覚を見ているのかもしれないな」
「幻覚って……なんにも見えないけど」
「幻覚ってのは、幻の感覚だ。視覚に限った話じゃない。
聴覚、触覚を弄れば、実体があるように振る舞う幻覚というものも作れる」
ここまで話をして、雲海は頭の中に一つの仮説が思い浮かぶ。落下している、と言う感覚を覚えさせる術か何かを使われているのかもしれない。
「小森さん、今携帯電話持ってる?」
「あるけど……」
「ちょっとカメラのライトで周りを照らしてみてくれ」
「あいよ」
腕の中で小森が蠢くのを感じ取った雲海がしばらくそのまま待っていると、不意に目に光が飛び込んでくる。
「僕を照らしてどうするんだ。周りだよ、周り」
どうも自分の顔が照らされているらしい事を知った雲海は、目を細めて小森に指示を繰り出す。言われた小森が周りにライトを向ける。無地の赤い壁が前方三メートル程にあるのが確認できる。ついで足元にライトを向ける。足元にはやはり、何もない。ひたすらに闇が広がるばかり。落下し続けている事は事実であるらしい。
「……幻覚じゃない?」
「そうだねぇ。視界さえ取り戻せば幻覚も解けると思ったけど。
僕らは本当に延々と落下を続けているらしい。ははははっ」
「笑い事じゃないっつの!」
携帯電話を仕舞い込んだ小森が泣きそうになりながら雲海の脇腹に肘を打ち付ける。
「どうすんのよ! なんか段々落ちる速度も速くなってきた気がするし」
「大丈夫さ。床が無いんだし。地面に落ちて死ぬ事はない」
「……よくそう言い切れるね」
呆れ果てた、と言いたげな小森だったが、雲海は確信を持っていた。あのメイド妖怪は人間の心を喰らう妖怪らしい。だから身体的に殺しにかかってくる事は無いだろう。最も、心を食われてしまえば廃人同然となるのだから、そう悠長にしてもいられないのだが。
「幻覚じゃないなら、もう一つしか可能性はないな。
僕らはあのメイドの術で、異界に放り込まれたんだ」
「異界って……」
「僕らが住む世界とは別の世界さ。
しっかし……ここは本当に何にもないねぇ。
何も存在しない完全なる無の世界……いや、一応空気はあるのか。……って、どうでもいいか。
並の妖怪じゃこんな芸当は出来ないから、あの妖怪、ケチ臭い真似する割には、案外力のある妖怪らしい。
でも……」
雲海は不敵な笑い声を喉の奥から漏らした。小森は少し引き気味だったが、黙って彼の次の言葉を待つ。
「大丈夫だ。幻覚よりも対処は簡単かもしれないぜ。
小森さん、神部さんの服入れてきた紙袋、ちょっとこっちに貸してくれ」
そう言いながら微笑む雲海の顔は、小森には見えなかったが、想像は容易だった。ニヤリと、どこか不敵だが、妙に頼りがいがあり、信じてみたくなる笑顔。小森は自分の想像で心臓が跳ねるのを感じた。
そして雲海は、自分の左手に伝わる彼女の鼓動を感じ取って、嘆息する。僕はなんてトコを掴んでやがるんだか、と。
「どうにかなる算段は、ついてるのね?」
「……あの妖怪の最大の盲点は、僕を見くびった事、だな」
「え?」
「丸腰とは言え、この程度で陰陽師を封印出来たと勘違いしているらしい。
今だって戦い続けている僕や父さんが平和ボケだなんて、誤った認識は正してやらなきゃな……」
雲海は、静かにかつ、唸るような低い声で、小森に聞こえるか聞こえないかギリギリの声量で呟く。小森があまり聞いた事のない、少し恐怖を覚える声色でさえあった。
「……もしかして、雲海君怒ってる?」
「いや、怒ってる訳じゃない。
妖怪に怒りの感情を向けても、妖怪を増強させるだけだからね。
だから僕はただ、あの妖怪に……」
恐らく彼女に聞かせる為の言葉ではなく、自分に向けられた言葉を、雲海は吐き捨てる。次いで聞こえてくるのは、紙を切り裂く音。手渡されたばかりの紙袋を怪我した右手と口で細かく千切っている音であった。
「……ふむ、即席で、勾玉すらないけど、これくらいで十分だろう。
人の血で刻む呪符の力ってのはどの程度なのか……気になっていたんだよね。
父さんは許可してくれないから、実は今、少し楽しみだったりする」
「…………何の事?」
「ワタクシゴトさ。……さぁて出来たっと。
行くぜ、小森さん。しっかり捕まってくれよ!」
「う、うん!」
「……符よ、この世界を掻き消してしまえ!」
何かが光った。青白いその光は、雲海の手の中を中心に瞬く間に小森と雲海を飲み込み、暗黒に包まれた空間に幾重にも裂け目を生み出していく。無秩序に飛び交う光のナイフが、周りの暗黒を、まるで障子紙を切り裂くかのように容易く解体していく。そして闇が切り裂かれる度に聞こえてくる、まるでガラスを引っ掻くような不快な音。世界がひび割れ、砕けていく。無が、有に変わっていく。視界が基点を失い、薄気味悪く歪み始める。見ているだけで気分が悪くなるような光景の中、小森が目を強く瞑ってそれらに耐えていた。その耳に、雲海の小さな呟き声が聞こえる。
「現代の陰陽師の恐ろしさ……思い知らせてやらぁ」
彼にしては珍しい、少し強気な口調は、小森には妙にクリアに聞こえた。