4-5 身の凍る宣告
八月三日、午前九時半。
神部祥子は上下薄手のパジャマのまま、誰も居ない自宅のリビングでパンとコーヒーのみの簡単な朝食を摂っている。
彼女の家は、世間一般で言う『金持ち』に該当する程度の資産を有し、家の広さもそれなり以上のものである。三十畳を超える広いリビングと、十人は余裕を持って座れる長いテーブルについて、神部は首をやる気なくもたげた。
両親が居ないのはいつもの事。二人とも今頃は、勤める企業の研究室で化学薬品と実験器具相手ににらめっこをしている筈である。故に寂しいと思う事はない。食事は一人でする習慣は、既に身に沁みついている。
大きな家の割に家政婦もお手伝いさんも居ない静かな空間で、コーヒーを啜る音がやけに大きく響いた。
「……はぁ」
しかし神部も最近は、さすがにこうも広い空間に一人で居ると寂しい物がある、と感じるようにはなってきた。それくらいには人付き合いも増えたのだから、客観的に見れば成長と言えるかもしれないが、心情的にはいただけない。
一人っ子なのにどうしてこんなに大きなテーブルを買ったのか、と先日父に問うた所、父は「仕事仲間が家で会合を開く事も考えて」と答えたが、そのような事実は今の所ない。
そもそも神部の親は元々極端なまでに人付き合いが苦手であるのだ。父も母も専ら研究機材が友達であり、二人が出会い、結婚出来た事は本当の奇跡だと神部は未だに思っている。
「……」
今更自分の家庭の事情について考察をしていたのは、昨日起きた謎の矛盾に思考を巡らす事に疲弊していたからである。
昨日彼女は、生徒会室を訪れた後帰宅し、そのまま自室で延々と事態の異常さに唸っていた。
行った記憶の無いキャンプに写る自分の姿を目の当たりにした衝撃は、未だに彼女の心を乱している。物理的に有り得ない話だ。七月二十九日は間違いなく自室で一人、読書に勤しんでいた筈なのだ。この時間、彼女は二人存在しなければならないのだが、人間が二人存在する等と言う事はまず有り得ない。そう、物理的に。
しかし、その有り得ない事が現実に起きている。
神部は疑う余地は、己の記憶しかない事をようやく悟った。
七月二十九日、神部はずっと一人であった。仕事の忙しい両親とは朝と晩に二回顔を合わせて、簡単な会話を交わした位である。昼間は一人、風邪を引いた頭で延々と本を読んでいた。邪魔は一切入ってきていない。だが、誰にも邪魔されないと言う事は、誰かが「神部がずっと読書をしていた」事を保証してくれる事もない、と言う事である。
「もしかしたら……」
変なのは私の頭なのかもしれない。
読書をしていたと思い込んでいて、実はキャンプに行っていたのかもしれない。
一度そうやって己の記憶を疑い始めると、段々と本当にキャンプに行った気さえしてくる。先輩とキャンプファイアーで盛り上がり、昼食のカレー作りで笑い合い、夜は先輩達のガールズトークにビクつきながら輪に入ったり……といった記憶が頭の中に捏造されていく。
しかし結局ははっきりしない。本当に行った気になっていても、実際には行っていないと反駁する心は未だに死んでいない。じゃぁやっぱり行っていない事になるのだが、すると例の写真が問題になる訳で……。
と、こうした堂々巡りを昨日の正午以降二十時間半もの間延々と続けてきた神部は、すっかり憔悴しきった目で、力無く焼いていない食パンを食む。口の中ではジャムの味もマーガリンの味も、小麦の味すら感じる余裕がない。味がなくなったガムを噛むより不快な食事に、神部は食パンを半切れだけ胃に入れてから、再び思考の堂々巡りに陥っていく。
このままではまずい。それこそ、頭が本当にどうにかなってしまう。
しかし、解決手段どころか、何が起こっているのかも分かっていない彼女が一人でどうこうするには限界があった。
既にそれを頭の片隅で悟りはじめていた神部は、自室にとってかえした。
机の上に置きっぱなしの携帯電話を手にとり、画面を開くが、そこで手が止まってしまう。誰かに相談するべきか、否か。神部はしばし思い悩む。
自分一人で解決するのは無理だ。原因どころか、何が起きているかもよく分かっていないのだから。だからといって人に相談するとなると、こちらも難度が高い。神部には、友達と呼べる存在が皆無だ。唯一友人と認めている薫は今現在、山田村にある実家に帰っており、その家の電話番号を知らないため連絡は取れない。生徒会長の藤原敏哉や小森美紀なら話を聞いてくれるかもしれないが……もし「自分が二人居るかもしれない」何て言えば頭のおかしい女だと思われるに決まっている。
神部は自分が聡明な人間だと自負しており、プライドがあった。自分の頭が変になった事を周りに知られ、同情や軽蔑をされる位なら現状維持の方がマシだとすら考えていた。携帯電話片手に唸る神部の手の中で、突然携帯電話が震え出した。
「……!」
神経過敏になっていた神部は、驚いて携帯電話をベッドの上に放り投げてしまう。二転三転とバウンドした携帯電話は、しかし何事も無く着信を告げ続ける。
「馬鹿馬鹿しい……」
悪態をついて二度三度深呼吸。心を落ち着けた神部は、改めて携帯電話を拾い上げ、発信主の名前を見る。発信者は小森であった。神部は訝しむ。何故小森が連絡を寄越すのだろうか。彼女とは然程仲良くもなく、夏休みが始まって以来顔を合わせていない。
「……もしもし、神部だが」
「あ、もしもし、私!」
朝から聞くには小五月蝿いくらいに甲高い小森の声は良く響く。耳から脳に至るまでが揺さぶられる錯覚を覚えた神部は、機嫌が良いらしい小森に落ち着いた言葉を返す。
「どうした、小森美紀」
「どうしたって、昨日のアレよ。そろそろ取りに行って良い?」
「……昨日のアレ?」
昨日のアレ、と告げられた神部は、一瞬だけ心当たりを探すが、勿論そんなものはない。昨日は午前中に高校、午後から一日家のベッドで休んでいたのだ。
「……一体、何の事を言ってるんだ?」
「何の……はぁ? アンタこそ何言ってるの?」
小森は神部の精神状態なんておかまい無しに刺のある声を上げる。心の弱っていた神部は何も言い返せず、黙って小森の次の言葉を待つ。
「アンタが昨日着て帰った私の服よ」
「………………」
「ねぇ、ちょっと、聞いてんの?
それでさ、私昨日結局アンタの服借りてったじゃん。アレ返そうと思うんだけど」
「頼む、小森美紀。ちょっと待ってくれ」
神部は分からない話を進めていく小森を静止する。続きを聞くのは怖い。だが、聞かないまま妄想を巡らせるよりはきっと良い筈だ。神部は、恐る恐る、声を震わせながらもしっかりと問う。
「私は、昨日君と会ったのか?」
「……はあぁ!? アンタマジで頭、大丈夫?」
「大丈夫かどうかが不安なんだ。頼む、私は昨日何をした?」
頼み込んでくる神部の願いを無碍にする事も出来ず、小森は一度溜め息をついてから神部の問いに答えてやる。
「昨日、私と雲海君とアンタで、プールに遊びに行ったじゃない。
ウォーターパークって言うんだっけ、ああいうの」
「…………そうか」
驚愕でも戦慄でもなく、納得が最優先で神部の心に去来する。
あぁ、やっぱりな、と言う妙な安堵感。そしてぐらつく視界。神部はベッドの上に身を投げ出した。この際、疑問は全て解決してしまおう。
「昨日、私に連絡を入れたんだったか?」
「一昨日、一緒に行こうって言ったら、OKしてくれたじゃん」
「そうか、一昨日も……すまない。少し待っていてくれ」
神部は身を奮い立たせて、自室の箪笥の中を探す。
そして、件の服は確かにそこにあった。
一番上の段に、見慣れぬショッキングピンクの、神部が着るには少々派手過ぎるキャミソールが折り畳まれて収まっていた。仕舞った記憶なんてない。そもそも、神部はその服を見た事もないし、着る気だって全く起きない。
「私が着て帰ったと言うのは、ピンク色の……」
「そうそう、それ。
胸のサイズがちょっとキツいーとかムカつく言ってたじゃん」
「いや、どうだったかな……覚えていない……」
神部は力無くそう告げた。頭痛が酷い。これ以上口を開いているのも、小森と口を聞いているのも苦痛でしかなかった。
「悪いんだが、小森美紀。
服の件は、また後日にしてもらって良いだろうか?」
「良いけど……大丈夫? なんか、死にそうな声してるけど」
ただならぬ神部の様子に、さすがに小森も心配そうな声で神部に窺う。神部はその問いには答えなかった。大丈夫ではないからだ。
「すまない、少し眠る」
そう言って神部は電話を切って、フローリングの上に携帯電話を投げ出した。乾いた音を立てながら、二転三転した携帯電話はベッドの脇に転がった。自分の身は再びベッドの上に投げ出して、茫洋と天井を仰ぎ見る。
口から自然に息が漏れた。覚悟していたのに、身体の震えは止まらなかった。
なんだそれは。プールとはなんだ。何でこんな服が、私の箪笥に突っ込まれているんだ。私は昨日何をしていた。ここで寝ていた筈じゃないのか。プールで泳いだのか。そんなものは知らない。知らないのだ。全く記憶にない。逆立ちしたって思い出せる気がしない。何が起きているんだ。どうしてこうなったんだ。なんで……なんで…………。
「なんで、私が……」
怖い。怖い。怖い怖い怖い。怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。怖くて怖くて仕方ない。自分が、自分でなくなっていく。自分の他に自分が居る。自分は一体何処にいるのか、今日何をするのか……あるいはもう、何かしているのだろうか、誰かと遊び歩いているのだろうか、それすらもあやふやだった。
ふと、今自分にあるこの意識、この思考に疑問を抱く。
本当に私は私なのだろうか。私は私以外の何者でもないが、私以外の私が誰かと接している。今日もまた私以外の私は、私の与り知らないどこかで、私として生きていく。自分と言う存在が徐々に見えない何かに蝕まれ、侵され、破壊されていく。
「……か……っ」
急に胸の辺りで息が詰まった。上手く呼吸が出来ずに嘔吐《えず》く。軽く咳き込んで無理矢理肺の中の息を排出すると、釣られて声が出た。
「うっ……うぅ……」
久しく自分でも聞いていなかった、呻くような泣き声が漏れる。寒気に震える身体を丸めて、薄めの掛け布団を頭から被り、両腕で自分を掻き抱いて、今自分が自分として存在している事を確認するのに必死だった。
私はここにいる。ここにいる。いる、いるいるいるいるいる……ここに……いる?
食いしばっていた唇が裂けて、口の中に血の味が広がる。垂れてきた涙を拭っている心の余裕はどこにもない。
「誰か……」
誰か助けて。
心の中でいくら泣き叫んでみても、聞いてくれる者は誰も居ない。
何故私は、小森美紀に相談出来なかった? まだプライド云々を言うつもりか? そんな下らんもの、さっさと捨ててしまえ。
しかし、後悔は先に立たず。恐怖に抗う心は今しがた根本からへし折られた。最早、布団を捲って外の世界と接するのすら恐ろしかった。もしも誰かと接して、その上で『私以外の私』の話題が上がってしまえば、それこそ恐怖で気が狂ってしまいそうだ。八方塞がりの神部は、ただひたすらに指をくわえて成り行きを見守っていく事しか出来なかった。
*
八月三日、午前十時。
この昼前の時間まで惰眠を貪っていた雲海は、自分の耳元に置かれていた携帯電話の着信音で目を覚ました。口端で乾いた涎の後を手の甲で拭いながら、雲海はまず時計を見て溜め息を吐き、ようやく携帯電話に目を向ける。
発信主はまたしても小森。昨日の今日だというのに、まだ遊ぶのだろうか。
水着は洗濯していて使えないので、今日はもしかしたら別の用事でもあるのか、と言うか一々町まで降りるのは面倒だ。雲海は心の中で愚痴を零しつつ、喧しく鳴り響く電話にようやく耳を当てる。
「……おふぁよう」
「おはよ、雲海君。……もしかして寝てた?」
「あー、よく分かったな」
「何となく、声で」
小森には声で相手の状態を見極める超能力でも備わっているのだろうか。
雲海は一瞬だけでも思い浮かんだその馬鹿らしい疑問を頭から放り投げて、用事を尋ねる。
「で、何か用事が?」
「用っていうか、まぁ、またお誘いなんだけどさ」
「お誘いって……またどこか遊びに行くってのか?」
「遊びに、じゃないんだよね」
小森は彼女に似つかわしくない程に神妙に呟く。
雲海は違和感を覚えつつも、それを特に気にかけずに、頭に浮かぶ解答を述べる。
「じゃ、宿題か? ……そういや、そろそろ僕も始めないとな」
「そうだね、量も多いし。実のところ、私まだ何にも……」
小森の返答に、見当通りと目論んだ雲海だったが、小森は慌てて言葉を続ける。
「って、違う違う! 宿題もヤバいけど、もっとヤバいのがあんのよ!」
「……なんだい、そりゃ」
「さっき電話かけたんだけどさ、なんか死にそうな声してたのよ。
ホントに、死んだ魚みたいな目してるよ、あれは」
「見ても居ないのによく分かるねぇ」
「へへん、そんくらい私にゃ朝飯前っつーこったぃ」
雲海は皮肉のつもりで言ったのだが、小森は己の考えに絶対の自信を持っていた。誇らしげにしている小森に対して、雲海は肝心の部分を聞く。
「で、誰が死にそうだっての?」
「神部さん」
そう言われた雲海は昨日の神部の様子を思い出す。
冗談を吐いたり、コーラを振ったり、照れたように微笑んだり。むしろ普段の神部よりも遥かに調子が良さそう……と言うよりも活発で元気だった筈である。雲海はその事を話すと、小森は少し電話口で唸った後、反論を返す。
「さっき電話したのよ、昨日の私の服取りに行くよって。
そうしたら、神部さん、昨日の事何にも覚えてなかったのよ」
「……何だって?」
「私の服着て帰った事どころか、プールに言った事すら忘れてたみたい」
「………………」
雲海は俄に信じ難いその話をどう受け取るか迷った。
幾ら何でも、ほんの一日前の記憶がすっぽり消えていると言うのはあまりに奇妙だ。その話が本当ならば、神部は記憶障害を患っている可能性さえある。少しだけ背筋が寒くなった雲海は、小森の次の言葉を待つが、小森も雲海の意見を聞く為に押し黙っている。
数秒の沈黙の後、雲海は口を開く。
「今日の誘いって言うのは、もしかして神部さんの」
「そう、ちょっと様子見に行った方が良いかもしれない。
少し寝るって言ってたから、多分家に居る筈だよ」
「分かった、僕も行く。待ち合わせ場所は……」
ようやく寝床から身を起こし、立ち上がった雲海は、携帯電話を耳と形で挟みながら、早々に外出の準備に取りかかる。
兎も角、小森からではなく神部から詳しい話を聞いて、場合によっては通院を勧めなければならない。嫌な役割だと思いつつも、雲海は決して尻込みするつもりはなかった。恐らく一番辛い目に遭っているであろう神部に、少しでも手を差し伸べてやりたい、と強く願っていたから。