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怪奇!知らない世界の人々  作者: ずび
第四話 ドッペルゲンガー
46/123

4−4 はしゃぐ女

 同日八月二日、正午半過ぎ。

雲海は私営のプール施設の、クーラーの効いたエントランスのベンチで、集合時間よりも二十分も早く来てしまった事を一人悔やんでいた。手にした手提げ鞄に入っているのは少し丈の長めな水泳パンツとタオル。

 雲海は小森に取り付けられた約束を果たす為に、憂山からバスで三十分程の私営プールまでやってきたのだ。

 目の前を通り過ぎて行く家族連れや学生の一団を眺めながら、雲海は一人、小森と神部を待つ。


「信じられる!? 神部さん、来るってさ!」


 昨日小森が興奮気味に電話口で語った台詞を思い出し、雲海は当時の安堵を思い出す。

 人付き合いが悪そうな彼女ではあるが、案外そうでもないらしい。雲海は心の中で誤解していた事を神部に頭を下げる。ついでに早めに来てくれれば恩の字を更に重ねられるのだが、流石に二十分も早く来る筈が無い。

 そもそも何故彼がそんなに早い時間に来たのかと言えば、単なるバスの都合である。彼の住まう憂山を通り過ぎるバスは本数が少ない。一時間あたり二本しか来ないバスを一本逃せば、遅刻は目に見えているのだ。

 料金を払って入場する人々を眺めるのにも観葉植物を観賞するのにも飽き飽きしてきた頃に、ようやく事態を打開する者が現れる。


「……早いな、空峰」


 雲海の背後……エントランスの入り口の方から、少し低めの女の声が静かに空気を揺らす。

 聞き覚えのある声の主の方を振り返った雲海は、前会った時と同じように無愛想な顔をした神部に手を挙げて無言で挨拶を返す。神部も手を挙げてそれに応じ、雲海の隣に拳五つ分程離れた位置に腰掛ける。


「しかし、小森も急だ。たまたま予定が空いていたから良いものの」

「……そうだね」


 雲海は静かにそう返し、神部の顔色を窺って見る。案外この日を楽しみにしていたのだろうか、仏頂面だった神部の顔には次第に抑え切れない笑みが浮かびはじめていた。


「それよりも、空峰。何故私を誘ったんだ? 私に惚れたか? ん?」

「ええっと……」


 妙にからかいの言葉が目立ったが、気にしている余裕はなかった。誰でも良かったとは流石に言えず、雲海は言い淀む。しかし神部は既に理由を悟っていた。


「大方、小森と二人でいるのが辛いとか、そう言う事だろう。

 小森はガンガン行くタイプだからな。好きでもない女性に言い寄られるのは嫌か?」

「嫌って程じゃないけど……」

「早めにきっぱり断るべきだぞ、空峰。変に期待を持たせるよりは、な。

 それと、薫もいつまで一人でいるか分からないぞ。だからそちらも早めに」

「ちょっと待て」


 饒舌に語る神部を遮って、雲海は少々大きめに声を荒げる。


「勝手に人の好きな人を決めつけないでくれ」

「違うのか?」

「……ち、違う」


 神部のシンプルな問いに、雲海は一瞬だけ言葉を詰まらせる。

 雲海の狼狽しながらの否定の言葉を聞いて、神部はしばらくはつまらなそうな顔をしていたが、すぐに薄い笑みを浮かべ直した。


「ならば私が薫をもらうか……」


 かすかに、しかししっかり雲海に聞こえる声量で神部はそう呟いてみせる。己の耳を疑った雲海が神部を凝視するが、神部はまるであさっての方向を向いて、彼の視線を避ける。


「そう慌てるな、空峰。単なる冗談だよ」

「君が言うと冗談に聞こえないぜ……」


 雲海は深く安堵の溜め息を吐きつつ、驚愕していた。

 見るからに堅物な上に、その実しっかり堅物という、まさしくストリクトクイーンである神部が、冗句を言い放ったのだ。

 この場に彼女の事を知る人間がいたら十中八九天変地異を疑うのだが、幸いなのか生憎なのか、雲海は彼女とさして親しくない。たまにこうやって真顔で冗談を言うような人なのだろうきっと、と勝手に決めつけた雲海は、そのまま話題の転換の方に思考を切り替える。


「小森さんもそろそろ来る頃だと思うんだけど……遅いねぇ」

「私はこのまま、君と語らうのも悪くないと思っているが」


 そう言って神部は、少し頬を赤く染めて、雲海の方に僅かににじり寄り距離を詰める。神部の百面相に、雲海は先程から何度感じたか分からない驚きと焦燥に振り回されていた。


「どうする、空峰? このまま小森を置いて、どこか違う場所で……」

「……これも、冗談だよね?」

「…………そう言う台詞はもっと心に余裕を持って言うべきだ。

 冷や汗を垂らしながら言われると、例え本気だとしても『嘘だ』と言わざるを得ん」


 結局本気なのか本気じゃないのか曖昧なはぐらかし方をした神部は、雲海に近づけていた顔を離して立ち上がる。そのままエントランスの自販機の前まで行き、そこで雲海に振り返る。


「君も何か飲むか?」

「いや、要らないよ」

「君をからかった詫びだ。何か奢らせろ」


 命令形でそう言った神部が350ml缶のコーラを二本購入し、両手で持ってベンチに舞い戻り、そのうちの一本を雲海に差し出す。

 不本意であったが、折角の好意を受け取ろうとした雲海は手を伸ばすが、神部はコーラを手渡す直前、缶を思い切り上下に五回程振った。


「さぁ、飲め」


 このまま封を切ればコーラが吹き出すのは目に見えており、雲海はコーラまみれになる。

 そして、ここで受け取って封を切ってからノリツッコミが出来る程雲海はノリの良い人間ではない。どことなく笑みに邪気が篭っている神部に、雲海は片眉を上げて訝しげな視線を向ける。


「…………嫌がらせ?」

「例えコーラまみれになったとしても、この後はプールだ」


 だからいいって訳じゃないだろ。

 雲海は結局手渡されたコーラを、もう五回程振った後に、再び神部に差し出す。


「いやー、僕実は炭酸って飲めないんだー、神部さん飲んでー」

「いーよー」


 雲海の棒読みに棒読みで返した神部は易々と缶を受け取り、プルタブに人差し指をかける。そしてその指を動かす寸前に、雲海が彼女の腕をとって止める。


「本気にするなよ!」

「本気で開ける気など無い。どうせ君なら止めると信じていた」


 神部の掌で踊らされている事に今更気が付いた雲海は、プールで泳ぐ前から少し疲れてしまったような気がしていた。

 雲海が噂程度に聞き及んでいた分には、彼女にこんな冗談は吐けないらしいのだが、今日は一体全体どうしたのだろうか。実は案外こうした冗談が好きな人なのだろうか。それはそれで、あんまり真面目なのよりは接しやすいけれど。

 良く振られているコーラを取り返した雲海は、今までに神部に抱いていたイメージとのギャップに面食らっていた。一方の神部は、右手の人差し指で額を円を描くように撫でながら、今まさに雲海が感じていた事に関して問う。


「空峰。やはり私には、冗談なぞ似合わないだろうか」


 少し申し訳なさそうな、自信のない声だった。それを感じ取った雲海は、穏やかな微笑みを返してやる。


「……いや、そうでもないよ。ちょっと驚いたけど、良いんじゃないかな」


 普段教室で彼女から放たれている近寄り難い空気はすっかりなりを潜めており、むしろ少し軽過ぎるくらいだ。しかし、重苦しくて気まずい思いをするよりはよっぽど良い。

 雲海がそう言ってやると、神部は少し照れながら俯いて頬を掻く。


「そうか……良かった」


 教室では全く見る事の無かったその神部の表情は、雲海にとってとてつもなく新鮮なものであった。どうやら彼女への認識を改めなければならないらしい、と雲海が一人で納得していると、神部の視線が、雲海の背中を超えて遠くを見ていた。

 彼女の視線を追った先にいたのは、満面の笑みで大きく手を振っているピンクのキャミソールにホットパンツ姿と言う、夏真っ盛りの薄着な小森。走ってきて暑いのだろうか、額の汗を拭ってから手で自分を仰ぎつつ、小森は二人に駆け寄る。


(わり)(わり)ぃ、ちっと待たせたかも。二人とも、早いねぇ」

「小森はいつも時間ギリギリじゃないか」

「ま、ま、そう言うない。遅刻じゃないんだしさ」


 神部に手を振って返答する小森は、神部の反対側の雲海の隣に拳半個分程の間を空けて、と言うよりも殆ど密着した状態で腰掛ける。雲海が身を離す為に動くべきか否かを考えている間に、小森の視線が雲海の手の中のコーラを捕らえる。未だに封が切られていないそのコーラが炭酸ジュースの爆弾である事を彼女は知らない。


「雲海君、それ、ちょっと私にちょうだい! のど乾いちゃってさぁ」

「……え、あ、待て!」


 雲海の台詞を聞く耳もたない小森は、躊躇い無く缶のプルタブを空けた。




  *




 雲海達が訪れたプール施設は、いわゆるウォーターパークと言う物で、プールと言うよりは水遊びが出来るレジャー施設に近かった。

 海無しの市である妖山市の中では唯一と言える避暑施設であるためか、館内は夏期休暇中の学生でごった返している。中でも目立つのは中学生、次が小学生、他の避暑法を見出し始める高校生共はそれでも少数派だった。そんな少数派である雲海、小森、神部の三人は流れるプールの一角で、はしゃぎながら通り過ぎていく人々を見送っていた。


「小森、機嫌を直してくれ」

「……………………」


 雲海は、自分を間に挟んでやり取りを続ける小森と神部の間で肩を縮こまらせていた。神部は頬を膨らませている小森に、先程から何度も言い訳をしている。


「コーラを振ったのは私だが、まさか君が空けるなんて予想出来る訳もないだろう?」

「じゃ私は缶コーラを見たら、常にコーラが吹き出す予想しとかなきゃいけないっての?」


 エントランスで吹き出したコーラを顔面で受け止めた小森は、驚きのあまりに缶を手放してひっくり返し、中身の殆どを自らの身体にぶちまけると言う惨事に見舞われいていた。更に間の悪い事にキャミソールもホットパンツもまだ買ったばかりで、精々二回くらいしか着ていないおニューである。

 コーラは染みになる。服はクリーニングしなければならないかもしれない。起きてしまった事は仕方ないと言えども、それほど簡単に割り切れと言う方が無理な注文である。


「すまん。私が少しはしゃぎ過ぎてしまったのが良くなかった」

「……別に、そこまで言わないけど」


 平謝りする神部を見ていると、流石に小森も態度を軟化せざるを得ない。


「クリーニング代は私が出す。だから、許してくれ」

「だから、そこまで言わないっての」

「そうだ、帰りは私の服を着ていけ。私は君の服を着て帰り、家で染み抜きを」

「だーかーらー! もういいって! 分かった分かった! もう許すっつってんの!」


 平身低頭な神部の相手をするのが段々煩わしくなり、小森は声を荒げる。

 目の前を泳いでいた学生一団が何事かと三人を見つめていたのを、雲海が苦笑いしながら手を振って追い返す。怒鳴られた側の神部は「許すから」と言う単語を聞き届けて安堵の溜め息を吐く。


「ありがとう、小森。しかし、やはり服は私が洗っておくよ。それでいいな?」


 額を右手の人差し指でグリグリと突つきながら、神部は小森に問う。一刻も早くその話題を終わらせたかった小森は、おざなりに答えを返す。


「あーはいはい、もう何でもいいよー」

「そうか……さて、納得いったのであれば、我々も泳ごう」


 そう言って神部はプールサイドから背中を離し、プールの流れに乗る。

 ローレグの本格的な競技用競泳水着に身を包んだ神部は、度付きのゴーグルを着用し、そのまま水流に身を任せて、小森と雲海から遠ざかっていく。

 赤色のビキニという、派手では有るがこれと言って奇を衒っている訳では無い小森の姿が霞む程に周囲の視線を集める神部を、小森はつまらなそうに眺める。


「普通、あんな水着で来るかね?」


 小森は神部が遠ざかってから、雲海に小さくこぼした。肩身の狭い思いからようやく解放された雲海は、物凄い速度でプールの彼方に消えて行く神部を眺めながら頷きを返す。


「イメージ的には合ってるけどね。

 神部さんって、妙に超然としてる感じがするし。

 水着は泳ぐ為のもの、って言いそう。

 でもまさか、スピード社の水着を着こなしてくるとは思わなかったけど」

「……この間の海水浴の時は、普通の水着だったけど」


 小森は己の頭の隅にあった数週間前の海水浴の記憶を引っ張り出す。

 彼女の記憶では、神部は当時はスカート付きのワンピースタイプの水着を身に着けていた。今のように材質に拘って早さを追求するような競泳水着を着ていた事は、断じて無い。わざわざ新調したのであれば、何故それを選び、そして何故それを今日着てきたのか。

 違和感を覚えるには十分であった。


「何か、今日の神部さんは変だわ」

「……変?」

「そもそも、あの人がジョーク言ったり、缶コーラ振ったりするのがおかしいのよ。

 さっきもね、更衣室で着替えてる時、あの人何故かパッドでジャグリングしてたのよ。楽しそうに。

 周りの人もこれには思わず苦笑い……って感じだったから、慌てて止めたけど。

 それに……違うんだよなぁ。普段と全然違うのよ、何かが」


 今まで彼女が冗談の一つでも言った事は無く、ましてコーラを振るどころか、コーラを買う事すら無かった。彼女と交遊を始めてから精々数週間程度ではあるが、小森は神部の性格に付いてはほぼ全てを把握していた。

 真面目で折り目正しい人間だが、空気が読めなくて人にも自分にも厳しい、まるで武人のような女。

 夏休みに突入してまだテンションが高いのだとしても、彼女の性根が真逆に変わるような事はまずない。


「まるで違う人が神部さんの格好してるみたい」

「へぇ、そんなに普段と違うんだ」


 どうやら今日見ている彼女の姿が希少であるらしい事を把握して、雲海は嘆息した。そして頭に浮かんでくるのは、エントランスで彼女と言葉を交わした時の事。


「空峰。やはり私には、冗談なぞ似合わないだろうか」


 不安げにそう尋ねた彼女。今の自分が、普段の自分と違うと言う自覚を明確に持っていたのだろう。普段より親しみやすくなった、と言った後の彼女の嬉しそうな顔も同時に思い出す。気難しい彼女が、人との接し方を暗中模索している様が、雲海にはありありと理解できていた。


「小森さん、ああいう神部さんって嫌い?」


 彼女の努力は無駄にしたくない。出来れば、僕以外の誰かにも受け入れてもらいたい。

 雲海はそんな願望を持って、小森に問う。問われた小森は、首を傾げ、しばらく黙った後に曖昧に首を振る。


「嫌いとか好きとかじゃなくってさ……不気味って感じ」

「それはちょっと酷くないか?」

「うぅ……でもねぇ。なんていうか……ダメだ、上手く言葉に出来ないや」


 ここまで出かかってるんだけど、と喉の辺りを指差す小森は、眉間に皺を寄せて唸る。彼女の感じている違和感の原因なんて全く見当のつかない雲海は、それに対しては何も返せない。

 神部が妙な様子だったとしても、雲海はそれを気にはしていなかった。少なくとも彼女から放たれる空気が剣呑なものでないのだから、別段何の問題もない。誰かと親しくなる、と言う事でデメリット足り得ることなんてまず無いのだから。


「まぁ、いいさ。僕らも行かないと、神部さんに置いて行かれる」

「……それもそうだね」


 小森は諦めたように溜め息をついて、そのまま当然のように自然な所作で雲海の手を取って、流れるプールの主流に身を任せ始める。いきなり手を取られた雲海は咄嗟に周りを見るが、むしろ周りで男女一組になっている人々は須くそうしている。

 別段目立っている様子も無いので、雲海はその手を払う事もせず、黙って彼女とともに神部の背中を追った。

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