4−3 生じる矛盾
八月二日。
神部はまたしても杵柄高校を目指していた。
今回は自主的に学校に登校した訳では無く、単純に生徒会長の藤原に呼ばれたからである。一体何が目的で招集をかけたのかを問う間もなく電話で一方的に連絡を受け、以降かけ直しても藤原には繋がらない。無断欠席をする訳にも行かず、神部は渋々だが生徒会室の敷居を跨ぐ。
先に登校していたのは藤原のみであった。
「おはようございます、会長」
「おはよう、神部」
生徒会室の最奥で、パイプ椅子並ぶ生徒会室に唯一存在する教職員用のオフィスチェアに身体を預ける藤原が、相変わらず鋭い目つきで神部を見つめていた。既に慣れたもので、彼のその目つきに臆する事無く入室した神部は、涼しい顔をして自らの定位置である黒板の椅子前に腰掛ける。
沈黙が場を支配する。
気まずい訳でも心地よい訳でもない、ごく自然発生したその沈黙の中で、神部は天井を眺めて静かに役員の来訪を待つ藤原に声をかける。
「あの、会長」
「どうした」
「今日の招集の目的ですが……」
今聞かなければ聞きそびれてしまう、と考えた神部は、早めに自分の疑問をぶつける事にした。
藤原は神部の方に一度だけ視線を向ける。その目には何故か怪訝な色が宿っており、問うた筈の神部を動揺させる。
「……三日前に、既に伝えておいた筈だが」
「……三日前?」
言われた神部は三日前を回想する。
その日は不覚にも夏風邪を引いてしまい、習い事を休んで、両親もいない自宅にて、一人布団の中で眠っていた筈である。
しかしあまりにも暇なので、結局本に手が伸びてしまい、その日は十時間以上読書に費やした記憶がある。どう考えても体調は更に悪化しそうな生活をした割には、精神的充足のおかげか、翌日には体調は快復していた。
この間、携帯電話、家の電話、手紙や誰かからの言づて等の如何なる伝達手段も彼女の日常には割り込んできていない。
招集の理由を述べられた記憶が全くない神部は、首を傾げて藤原を見やる。神部の態度がとぼけた様子に見えたのか、藤原の眉間の皺の数が二つ増えた。
「既に招集をする旨は伝えておいただろう。
あの時は時間が決まっていなかったから、昨日は招集の時間を伝える為に連絡を入れただけだ」
「……え?い、いや。そんな……」
神部は必死に回想を続ける。
連絡は無かったか、或いはこの人なら伝書鳩くらい突拍子無い手段で連絡を入れてくるかもしれない。と考えてみるものの、すぐに頓挫する。
聡明な彼女は、三日前の自らの行動を正確に思い出していた。寝ていた時間、食事の時間、読んだ本と、それぞれの本に費やした時間の全てを。
そして、結論は。
「そのような連絡は、その……頂いていないのですが」
強気な口調の人間は、自分以上に強気な人間に対しては下手に出るしかない。
神部はまさに今まさにその状態であり、彼女は少し肩を竦めて、恐る恐る藤原の方に視線をやる。眉間の皺はまた一本増え、目尻はますます上がっていく藤原は、しかし声色は相変わらず冷たく、神部に言い放つ。
「……私の連絡不行き届きだと言いたいのか?」
「あ、あの、会長。失礼ですが、一体その連絡はどうやって……」
携帯電話のメールなら見忘れていたかもしれない。留守電なら聞き忘れたかもしれない。そんな希望は、更に眉間の皺を増やして、鋭さを増した槍のように抉る藤原の怒りの声に粉砕される。
「口頭だ。 ……反省会と体育祭の初回会議をするから集まるぞ、とこの口で言った。
例年以上に今年の体育祭は力を入れよう、と散々生徒会役員で語り合っただろう?
それに神部、お前はその会話に参加して、誰よりも熱く意見を述べていたじゃないか」
「う、そ、そん、な……」
口頭ならば、聞き忘れたなんて事は有り得ない。
しかし……と神部は頭の中に発生した矛盾に思い悩む。
そもそも、藤原とは七月二十六日……一週間前に生徒会室で会話して、以来顔を合わせていない。三日前と言えば七月三十日である。その日の事は、正確に思い出せている。藤原とは、会っていない。間違いなかった。
更に、神部が藤原と会えない、完璧なアリバイがあった。
「……そもそも、生徒会は七月二十九日から三十一日まで二泊三日でキャンプをしていた筈でしょう」
「……………………」
「キャンプに不参加である私が、どうやって会長の口から直接話を聞くんですか?」
藤原が何らかの原因で、嘘をついている。神部は半ば確信し、藤原を睨み返す。
一方の藤原は、何故か惚けたような顔をしていた。普段の凛々しさは何処へやら、口を呆然と開き、神部の方を睨むと言うよりは、不思議そうに眺めている。
そして黙って立ち上がり、藤原は神部の額に手を置いた。まるで、熱でも測っているかのようである。
「……平熱、か」
「……三日前は熱を出しましたが、今は万全の体調です」
神部の冷静な言葉を聞き、藤原は彼女に背を向けて、自分の椅子に倒れ込むように腰掛けた。そして天を仰ぎ、目を瞑って溜め息を吐く。
「なぁ、神部」
「……なんでしょうか」
「私は少し頭が痛い。お前が有り得ないほど白々しい嘘をつく理由が一切思いつかないからだ」
「嘘なんてついていません。もしも嘘があるのであれば、それは会長にこそあるはずでしょう」
「私が今まで嘘をついた事なぞあるか?」
二十六日、会った時も同じ事を言っていた藤原は、自信ありげにそう返す。あの時の彼の言葉「お前に会いにきた」……が、結局嘘なのかどうなのか、神部は理解しかねていた。もしアレが嘘でないなら、と神部は少し顔を赤くしながら、しかしそれを頭を振って振り切る。
「一週間前に、お会いしたでしょう。あ、あれは、もしや嘘ではないと……」
「……一週間前?」
藤原はますます頭が痛いのか、今度は俯いて両手でオールバックの頭を掻きむしる。
神部は藤原の奇妙な行動に、段々と生徒会室が自分が考えているような甘い空気を纏っていない事に気づく。再び綺麗に髪を撫で付けた藤原は、少し疲れたような目を神部に向けた。
「一週間前、お前と会った覚えがないのだが」
「……そんな」
生徒会室に来た理由こそ分からなかったものの、神部は間違いなく藤原と会話を交わしていた。
そして言ったのだ。お前に会いに来た、と。嘘だとか嘘じゃないとか関係なく、そう言ったのは事実なのだ。その言葉以前を否定するとは一体どう言う了見なんだ、と神部は自分のときめきが弄ばれた事に、些か腹が立ち始めていた。
「会長、いい加減にして下さい。
私は一週間前に貴方からキャンプに来いとは確かに言われましたが、私は行っていません。
ですから、体育祭の話もしてないし、口頭で招集を伝えられてもいません!」
そう言い切った神部は、肩で息をしながら、無表情の藤原に視線をぶつける。
藤原、神部ともにしばらく何も言わない。藤原は何かを思い悩むように目を軽く少し俯いている。数秒そうしていた後、藤原はゆっくりと顔を上げ、真剣な目を神部に向けた。
「……お前がそこまで言うのなら、私に言える事はない。
ここに、私以上に真実を語ってくれる物がある」
藤原は自分の鞄から何かを取り出した。掌サイズのデジタルカメラであった。電源を入れて起動し、アルバムモードにしてから神部の方に差し出す。自分の方に向けられたデジタルカメラの小さな画面を見て、神部は目を見開く。
「……こ、これ」
神部はそれ以上言葉が出なかった。
その写真は、生徒会のキャンプの時に撮影したものであった。日付は七月三十日。生徒会の役員が三人程映っている。
左は満面の笑みで両腕を広げてポーズを決める二年生、真ん中は無理矢理作ったようなぎこちない笑顔の藤原。
そして、藤原の右側にいたのは。
「な、なんで……?」
少し恥ずかしげに頬を桃色に染め、しかし口角は少しだけ上がっている、胸の前で小さくピースサインを作った、セミロングの眼鏡の女。
間違いなく、キャンプに行ってはいない筈の神部祥子……つまり、自分であった。
目を擦ってみても、デジタルカメラを再起動しても、別の写真にスライドしてみても、その写真に映っている神部は可愛らしく微笑みを振りまいている。更に悪い事に、他の写真でも神部は同じように、恥ずかしそうではあるが、しっかりポーズを決めて写真に写っていた。
「ひぃ!」
神部はデジタルカメラを放り投げ、手を震わせて後ずさり黒板にぶつかってしまう。藤原は宙を舞ったカメラを悠々と手中に収め、そのまま鞄に仕舞い込んだ。
「この通り、お前はキャンプに来た。
欠席のつもりだったが急に予定が空いた、と言って飛び入り参加したじゃないか。
……なぁ、神部。お前、一体どうしたんだ?」
「……………………」
藤原が滅多に見せない気遣いを、神部に示す。
そこまで心配してしまう程に、神部の言動は、藤原にとっては奇妙であった。当の神部は、未だに呆然として黒板に寄りかかっている。やがて恐怖が彼女を襲い、震えが全身に伝播して、足腰が立たなくなる。
あれは誰だ。私はキャンプなどには行っていない。写っているのが私の筈が無い。しかし、どうみても私だ。ソックリさんなどと言う半端な似方では済まされない。どこからどうみても神部祥子なのだ。
頭の中で、得体の知れぬ何かが這い回っているような気分を味わった神部は、口を開けたり閉じたりしながら、呼吸をするのにも必死だった。
藤原は、床に座り込んで表情を凍らせている神部を立たせ、両肩を掴んで、ゆっくりとした口調で言い聞かせる。
「何も事情は聞かない。だから、今日は帰って休め。
もし、何か悩みがあるのなら、相談にだって乗ってやる」
まるで病人を気遣うかのような藤原の優しさを目の当たりにし、神部は我に返る。そしてよろけながらも、ズレた眼鏡を掛け直す。
「大丈夫、大丈夫です……た、多分」
自信なさげな尻窄みな呟き。
記憶を幾ら辿ってみても、神部には生徒会の夏季キャンプに参加した覚えは一切無い。しかし、現に自分はキャンプに参加している。その証拠さえある。矛盾している。頭がどうにかなってしまったのだろうか、と言う危惧が自然と浮かんでくる。
「すみません。今日は、帰ります」
「そうすると良い」
顔面蒼白の神部を見て、藤原は立ち上がる。
「……家まで送って行くべきか?」
「いえ、それは勘弁してください」
優しい藤原と言うのは恐らく未来永劫目にする事の出来ない珍事なのだが、生憎神部にそれを楽しむ余裕はない。あまつさえ神部は自分の事で頭が一杯なのに、藤原と一週間前に会った記憶すら疑わねばならないのだ。
兎に角心を落ち着けたかった神部は、一人になって考えたい、と思っており、藤原の優しさを突っぱねる。自分の二の足で立ち上がり、神部は背中に突き刺さる視線を振り払うように、早足で生徒会室を後にした。