4−1 真夏の生徒会室
七月二十六日。
期末テストを終えた杵柄高校は既に夏期休暇に突入している。
どうも今年の夏は例年にない酷暑になりそうだ、と何処の局のニュースキャスターも、誰が悪い訳でもないのに申し訳なさそうに頭を下げる。30℃を超える真夏日が早くも妖山市にも訪れており、そんな陽気の日に好き好んで出歩く者は多くない。
ましてや折角の夏休み。蝉時雨を潜り、突き刺すような陽光と紫外線を撥ね除け、アスファルトの照り返しで灼熱地獄と化した屋外を彷徨う学生は皆無である。
緩めの部活が多い文化系の部活は、突然訪れた異様な猛暑を忌避して、全ての部が校内での部活動を自粛していた。杵柄高校を訪れていたのは、この陽気の中でも全身を汗で濡らしながら己の技術を磨く為に部活動に励む運動部くらいなものであった。
まかり間違っても自主的に登校してくるなんて酔狂な者は居ない筈である……が。
「……流石に暑いな」
額の汗をポケットから取り出したハンカチで拭いた神部 祥子は生徒会室に篭っていた熱気を吸い込んで独り言を漏らす。
無人の生徒会室に入室して、その足で備え付けられているエアコンのスイッチを入れる。心地よい冷風が上から吹き付けてくるのを、神部は全身で浴びて早足で登校して少し火照った体を冷ます。
少し涼んで一心地ついた神部は外を眺めた。生徒会室は三階の角部屋であり、外を見ればサッカー部と野球部が這々の体で、グラウンドを二分しながらも、それぞれの競技球を追いかけているのが見えた。
「情けない……」
自分は黙って見ているだけなのにも関わらず、神部は厳しい感想を抱く。
野球部は結局地区予選で敗退。サッカー部は県大会までは行ったが、ベスト8止まり。どちらもインターハイに出場する夢は叶わず、今は二年生による新体制で部活動を行なっている。
練習がだらけているように見えるのは暑いからではなく、最上級生が抜けた事で全員が上の空なのが原因だ。
あるいは厳しい先輩が居なくなったからサボろう、と言う邪な考えを抱く者も少なくないだろう。もう三年引退から一月も経つと言うのにその体たらくでは、来年も恐らくは同じ結果、もしくはそれ以下で終わる。
神部は自分のその推測に、多少の自信すら抱いていた。
「さて……」
窓から目を離し、生徒会室の棚の中に乱雑に押し込まれているファイルの山に目をやる。
棚の中から一冊ファイルを取り出そうとすると、芋づるでも生えているのかと思ってしまう程、大量のファイルが追従して神部の足元に落下した。
誰彼構わず過去の資料を引っ張り出して、戻すときは適当なのだからこうなるのは当然だった。暑さで思考が低下しているのか、と神部は自分の頭を少し強めに手で打って、ファイルの山を拾い上げ、生徒会室の大型のテーブルの上に重ねて置く。
ファイルは2004年の春以降の物を全て捨てずに取っておいている。春夏秋冬毎にファイルを変え、一年で四冊分。神部は二十超のファイルを時系列順に並べて、もう一度棚の中に入れる。
どうせ夏休みが終わる頃には他の役員達の手によって散らかってしまうだろうが、やらないで苛つくよりはマシだった。きれいに並び替えられたファイルの中から、神部は再び一冊のファイルを取り出す。
他の季節に比べて厚めの秋のファイルである。十月には体育祭、十一月には文化祭が予定されているため、秋の生徒会は忙しい。しかもその校内に於ける二大イベントは、あまり間を開かずに催される予定なのだ。
出来るだけ早めに準備を整えねばならないと神部は意気込んでいたのだが、先輩役員曰く、例年ではいつも九月に突入してから準備を始めるらしい。
それで本当に間に合うのか、と先輩の弁に懐疑的な神部は、生徒会室の席について昨年度の秋のファイルを捲り始める。早めに資料に目を通しておき、要領を掴んでおく事で、会議の際にあれやこれやと無駄な意見な交換を減らす為だ。
スムーズに行事の準備を行なう為に、神部は今日こうしてわざわざ暑い中を自主的に登校してきたのである。
いざ作業に取りかかろうと、椅子に腰掛け、ファイルの一ページ目を捲り上げた丁度その時であった。
生徒会室の扉が、喧しい音を立てながら少々乱暴に開く。
「……来ていたか」
神部の背中に、低い男の声が突き刺さる。
ファイルに目を通す作業を中断し、神部は後ろを振り返った。
長身で細身、目つきは狐のように鋭く、鼻は日本人とは思えぬ程に高い、オールバックの男がいた。まるで刃物に顔が現れたような鋭い顔つきを、棒で作ったような細い四肢に乗っけて、男は生徒会室に悠然と歩み入る。その声の主とすれ違い様に、神部は頭を下げて挨拶を返す。
「……こんにちわ、会長」
神部が頭を上げる間に、男は神部同様に棚から一昨年の秋のファイルを取り出して、既に神部の向かいに腰掛けていた。ファイルを捲りながら、その男は恨みでもあるのかと言う程鋭い視線で内容に目を通す。
すぐさま視線に気づいた会長と呼ばれた男が神部に目をやると、神部は慌てて自分の取ったファイルに視線を落とす。
「……一つ聞きたいんだが」
呼ばれた神部はファイルから顔を上げる。会長が、呆れたような視線を向けてきていた。
「何故お前はここに居る?
休み中、校内での生徒会活動が始まるのは八月に入ってからの筈だが」
「去年の体育祭の様子を掴んでおきたいと思いまして。
会長こそ、今日はどうしてここへ?」
「そうだな……」
会長はファイルを閉じて机の上に投げ出し、椅子から立ち上がった。そして神部の方へ歩み寄り、その様子を見て惚けていた神部に顔を近づけて目を細める。
「お前に会いにきた……と言ったらどうだろうか」
ベース音のように低く、チョコレートのように渋く、甘い声だった。
神部は背を大きくのけ反らせながら少し赤らんだ顔を離し、しかし視線だけは会長に負けない程鋭く引き絞る。
「ご冗談はお止めください、会長」
声が裏返らなかった事は幸いだった、と神部は心の奥で胸を撫で下ろす。冷たくあしらったつもりだったのだが、会長は引き下がる気配はなかった。神部が動揺している事を見抜いているのか、むしろ楽しげに声を弾ませる。
「冗談? これは心外だ。私が嘘をついた事等、今まであったか?」
考えなくても神部には分かっていた。
男……生徒会長の藤原 敏哉が嘘をついた事は一度たりともない。
同じ神部と同じ二鳥中学出身の彼は、中学時代にも生徒会長を勤めていた。当時から彼は鋭い眼光と威圧的な態度、そして優れた政治手腕を持っていた。神部は未だに覚えている。中学時代に彼が立候補者演説にて語った公約を。
『私が当選したあかつきには、学校給食は毎食選択式、文化祭は年に二度、マラソン大会の廃止を実現してみせます』
荒唐無稽と言う言葉がそっくりそのまま当てはまりそうな文言であった。公立学校である二鳥中で、そんな大幅な行事変更が出来る筈がない。誰もがそう思っていた。
しかし結論を述べてしまえば、彼は公約をやってのけたのだ。
教師陣への根回しは万全で隙がなく、教育委員会には正面からぶつかっていき、必死で頭を下げ、心の底から訴えて。生徒会役員を己の手足のように操り、頭の固い大人達を相手取りながらも、彼は己の公約を見事に果たしたのだ。
そう、彼は嘘をつかない。
当時二鳥中学の一生徒会役員であった神部は、一番近くで藤原の快進撃を目の当たりにしていたので、当然その事を誰よりも良く分かっていた。
「今までは、飽くまでも今までです」
神部は心を落ち着けて、すぐ目の前の細い双眸を改めて見返す。ここで負けてしまう訳には行かない、と言う無意味な対抗心を抱きながら。
「今の貴方の言葉が、貴方の人生での最初の嘘かもしれません」
「なるほど……面白い見解だな」
神部の言葉に納得いったのか、単に飽きたのか、藤原はようやく神部から視線を外し、自分の席に腰掛けた。
「ならばお前は、私の記念すべき最初の嘘八百を聞き届けた貴重な女となる訳だ。
お前のような華麗な美女に第一号の虚言を聞いてもらえて、私も気分が良いよ」
「ありがとうございます」
神部は身を反らしていたせいでズレた眼鏡を指で直しながら、興味なさそうにそう返した。心臓が高鳴っているのを必死で隠してはいるが、恐らく藤原はそれすらも見抜いているだろう。
しかし藤原は神部にはそれに付いては何も言わずに、話題をすり替えた。
「それよりも、だ。なぁ、神部。お前だけだ」
「……何がですか?」
聞き返す神部に、藤原は何故か落胆したように溜め息をついた。
この言葉だけで分かれ、と言うのが無茶だが、藤原はそれくらいの察しの良さを神部に求めていた。求められた神部も答えようとは思ったのだが、生憎察するだけの情報が少な過ぎる。頭をひねる神部に、藤原は言葉を続ける。
「杵柄高校生徒会は、毎年の恒例行事として、憂山の麓のキャンプ場で二泊三日の合宿が予定されている。
最も、合宿と呼ぶ程固いものでもない。親睦を深める小旅行だ」
「知っています」
「だろうな。なんせ、B5の出欠の紙にA4のレポート用紙を添付してまで詳細な欠席理由を書いて提出したのは」
「私だけ、でしたか」
ようやく心得た神部は、自分が提出したキャンプ出欠の紙に書いた理由まで、詳細に思い出していた。合宿開始から三日間は、不運にも茶道と華道と書道とピアノと英会話等の習い事の予定が詰まっている。それら全ての詳細……時間割と授業内容の全てを事細かに書き記した上で、これらの予定を蹴る事が出来ないと述べる事で締めくくったと彼女は記憶していた。
まさしくその通りだ、目を通すのが一苦労だった、と藤原はごちる。
「お前以外の役員、そして顧問含めた十三人全てが参加する。
不参加を表明したのはお前だけだ。……別に責めるつもりはない」
話題に出した時点で責めているとしか考えられない訳だが。神部はその言葉を口にせず、まだまだ続きそうな藤原の演説に耳を傾ける。
「しかし……神部よ。一つだけ出欠表の中で気になる部分があった」
「……どの部分でしょうか?」
返す神部には思い当たる節がなかった。完全無欠なまでに詰まった予定に、疑問の余地はない。しかし、疑問の余地がないのは神部の価値観に沿った考え方である。
藤原は神部の出欠表をポケットから取り出して、机の上に広げてみせる。
円グラフが三つ横に並んでいる。一周で24時間の時間割表であった。
合宿の三日間に於ける、神部に課せられた習い事の時間割が色別に分けられて示されている。そのうちの二つ目のグラフの左半分を指差しながら、藤原は静かに呟く。
「二十九日の午後1時から午後5時までの間。
習い事に紛れて、読書、とあるが……」
「ありますね」
「読書とは、習い事か?」
「いいえ、自分の唯一の趣味です」
神部は胸を張って堂々と返した。
藤原は神部の扱いに戸惑うように、額を右手の人差し指の腹で円を描くように撫でながら、ゆっくりと口を開く。
「……憂山は近場だ。電車で三十分あれば来られる。
往復で約一時間。読書の時間を割けば、三時間は我々の合宿に参加する事が出来る」
「その短時間だけでも、参加しろと仰るのですか?」
面倒だ、と言いたげに額に皺を寄せた神部。
どうやら合宿そのものに乗り気でないらしい神部に、藤原は自分では出来る限り優しい声色を作ろうとする。結果的に先程よりも声が低くなり、威圧感を増すばかりであったが。
「私はな、我が生徒会に必要なのは、結束だと考えている。
報告、連絡、相談……俗に言う”ほうれんそう”だが、この三つが出来れば、例え生徒会が凡夫の集まりだとしても機能するだろう。
逆にこれが出来なければ、如何に個々の能力が高くとも、単なる烏合の衆と化す」
「はぁ……」
「キャンプは、一見生徒会活動としては無意味にも思えるだろう。
しかし三日間寝食を共にし、語らう事は互いが互いの事を良く知る為には最善の策だ。
互いが親密になる事は生徒会内に於ける連係を強化する事に繋がるのだ。
つまり、私が言いたい事はな」
「短時間でも良いから、他の役員との結束を強めるため、私も合宿に参加すべきである、と」
藤原が言いたい事を先取りした神部は、自分の手元のファイルを閉じる。会話の片手間ではあったが、昨年度の体育祭のファイルを読み終えた神部は、席を立って資料棚の戸を開け、ファイルを元の位置に返す。そのまま三年前のファイルを取り出し、再び席に着いて読み始める神部に、藤原は諦めずに口を開く。
「神部……お前は中学の頃から、非常に優秀だ。
こと会計においては、私のグゥの音も出ない程の速さで結果を纏めてくる。
先輩に囲まれようとも臆する事なく、会議では全員が舌を巻く鶴の一声を提案してくれる。
次期生徒会会長の座は今の二年ではなく、お前にこそ譲るべきだと私は本気で考えている。
しかし、足りない」
足りない、で言葉を切った藤原は、またしても神部に何かを問うような視線を向けた。神部は今度はまともに考える気は全く無いようで、ただひたすらに真っ直ぐと藤原を見つめていた。
十秒程して、額を指で撫でていた藤原は再び口火を切った。
「お前には、コミュニケーション能力が足りない」
迷いなく言い切った藤原は、しかめっ面を作ったの神部に諭す。
「お前の事は中学の頃から良く知っているつもりだ。
当時から他者を寄せ付けないその傲慢な気高さ。
生まれ持った才気に胡座を掻かずに努力を欠かさぬ確固たる意志。
……お前は実に、素晴らしい人間だ。
ただ、たった一つ足りないのが……他人を頼るという事だ」
藤原は神部を指差し、尚も言葉を続ける。
「如何にお前が優れた人間だとしても、所詮は一個人。
結束した集団の前には、お前一人の力等取るに足らないものだ。
中学の頃、お前も生徒会長を勤めたらしいが、所詮中学の生徒会なんて、形だけのもの。
教師の言われるがままに従っていればチンパンジーにでも勤まる役職だ。
しかし、高校は違う。まして杵柄は私立だ。中学とは自由度の桁が違う。
生徒会に与えられる権限も大きいが、同時に、責任がつきまとう。
教師が介入する機会も減り、故に我々は我々なりの行動理念と行動力を身につける必要がある。
そして、生徒会の行動力とは即ち、生徒会役員同士の結束力だ。
会内での人間関係が良好であれば、それだけ素早く、的確な連係をもって行動出来る。
それを統べる生徒会長とはつまり、人との繋がりを重視出来ない人間は勤まらない仕事なのだよ。
だから、今のままお前を生徒会長の後釜に座らせる気には、どうしてもなれんな」
藤原の一方的な言葉に、神部は席を立って、眼鏡を押し上げ、彼を睨みつける。別に神部は生徒会長の座が欲しい訳ではないが、半ば人格否定に近い彼の言葉に、冷静な彼女でも腹を立てていた。
これ以上突つくのは無闇に怒りを募らせるだけだと判断した藤原は、席を立ってそのまま神部に背を向け、生徒会室の出口に向けて歩き出す。
互いに背を向けたままであったが、藤原の声は神部の耳に良く響いていた。
「私が言いたいのは、神部。
一人で読書に耽るくらいなら、我々とキャンプにいそしんで、同僚と仲を深めてみるのも一興だ、という事だ。
無理に来い、とは言わん。だが、都合が付き、尚かつお前にその意志があれば……」
生徒会室の扉が閉まる音が聞こえ、そして上履きが廊下の床を叩く音が、段々と遠ざかっていく。神部は椅子に座り込み、取り上げられて机の上に投げ出されていたファイルを手にとって、再び広げた。
まるで、始めから藤原が此処に来なかった、と自分に言い聞かせるかのような冷静さで、彼女はページを捲っていく。目先だけで文を読み、頭の中に内容が入ってこない事の無意味さに、自分でも気づいていながら。
*
夕暮れの帰り道、神部は未だに藤原に言われた言葉が胸につかえていた。
「お前には、コミュニケーション能力が足りない」
言われなくても分かっている、と神部は思い出して唇を噛み締める。神部祥子と言う人間は、昔から人付き合いが苦手だった。
その細く切れ長な鋭い目つきのせいで、相対する人は大抵、神部が睨んでいるのだと勘違いし、付き合いを避けたがる。
それだけならまだしも、彼女の性格の問題もあった。
彼女にとって会話とは、楽しむものではなく、情報伝達の手段でしかない。彼女がそんな思考回路を形成してしまったのは、彼女の両親が二人とも薬品会社の研究員であるためだろうか。幼い自分から数式と化学式に囲まれて育った彼女が、全てを理論で片付けようと育つのは必然的であったのかもしれない。
理性的と言えば聞こえは良いものの、感情を排したコミュニケーションしか知らない神部と友達付き合いが出来る人間は皆無であった。
大抵は十五分程話をすれば、相手は神部の話を最後まで訊かず、苦笑いしながら中座し、以降関わってこようとしない。会話で専らそんな状態なので、誰かと共に出掛けた際の凄惨さと言ったら、目も当てられない。
例えば中学の頃、何とか彼女と会話が繋がる事の出来た複数人で出掛けた時である。行き先を聞いていなかった神部が集合場所に辿り着いた時、一体何処に行くのか、と尋ねると。
「あぁ、これからウィンドウショッピングでもどうかなって思って」
「ウィンドウショッピングとは? 窓を買うのか?」
「いや、違うよ。ただ友達と一緒に、ダラダラ色んなお店を見て回るのよ。
あんまりお金無いから買えないけど、見るだけならタダじゃん?」
「何も買わないのに、見て回る必要なぞあるのか?
それとも、行った先の店内には何かしら学術的な価値でもあるのだろうか?」
「……そ、そう言うのはちょっと分かんないけどさ。
ただほら、皆で見て、あぁあの服可愛いなあとか、バッグ欲しいなあとか話すのって楽しくない?」
「特に、楽しいとは思わないが。
欲しいと思えば、如何にして貯金し、いつ頃購入出来るかどうか目処を立てる方が先決ではないか?
品を見て回るだけであれば、店のカタログを取り寄せた方が時間の短縮に繋がると思うのだが」
「いや、だから、品物そのものはどうでも良くってね……」
「どうでも良いものを見て回るのか? それこそ、時間の無駄ではないか?
出掛けるならばやはりそれなりに目的を持っているべきだろう」
「…………えぇっと、うん。じゃぁ、もういいや。
神部さん、忙しかったんなら、帰っても良いよ?」
神部は青春の苦い一ページを思い出し、少し胸が苦しくなった。
当時は何の疑問も抱きはしなかったが、流石に今は如何に自分が馬鹿であるかを反省する事が出来た。あれは時間を共有する事が重要であり、出掛ける事そのものが目的なのだと、当時は気づけなかった。それ以来彼女達とは会話を交わしていない。中学時代はそれ以降友達も出来ず、神部はずっと一人であった。
友達が一人も居ないのは流石に寂しいし、歓迎すべき事態ではない、と危惧し始めた神部が拠り所として求めたのは、今の趣味となった読書である。
物語とは、人間と人間の繋がりを描いたものが通常であり、それらから人との普通の付き合い方を学び取ろうとしたのだ。物語の人間達は、しばしば理論を超えた行動を取る事がある。
どうしてそこで好きだと言わないのか、どうして好きなのに別れると言いだすのか。嫌いな人間と旅路を共にして何のメリットがあるのか、愛する人を思い浮かべただけで力が湧いてくるなんて、人体の構造に反しているのではないか。
登場人物達の会話の節々で、そんな身も蓋もないような疑問を挟み込む彼女であったが、読んでみると止まらないのも事実であった。人間同士の付き合い方というものを徐々に覚えようと必死に本を読み漁った結果、多少なりとも彼女の性格は改善されかけていた。
会話の最中に逃げられる事も減り、先日は出来たばかりの友人と海水浴に出掛け、それなりに楽しめたと感じていた。
だが、まだ人との付き合いに慣れたとは到底言えない。
自分から離れていった人々の背中を見て、彼女が心を痛めなかった訳がない。自分の目つきに引く人々を見て、会話の最中に顔を顰める人々を見て、彼女はいつも心の中で涙を流していた。
それらのトラウマのせいか、神部はどうしても人付き合いに苦手意識を抱いてしまっていた。
向こうから誰かが来てくれたのなら、それに応答する事は出来る。それは、相手が自分に興味を持っているのが前提だから。
しかし、自分から行くとなればそうはいかない。自分から誰かに接しにいくやり方が、全く分からないのだ。
本をどれだけ読み進めても、どれだけ積極的な人物が主人公の本を読んでも、自分が同じ事を出来る気がしなかった。
だから、生徒会のキャンプも欠席したのだ。
習い事の予定なぞ、幾らでも調整が利く。それでも欠席を希望したのは、連係が重要な生徒会内で誰かから嫌われるのは問題だからだ、と神部は自分に言い聞かせる。嫌われて連係が悪化するくらいなら、職務上の関わり合いだけにした方がよっぽど良い付き合いと言える筈、と考えたのだ。
その考えは、藤原にあれほど参加を進められた今でも変わる事はなかった。
「……これで良いんだ」
口に出すと、自然と心もそれに釣られて安心感を覚える。
同時に沸き上がってくるのは、神部に余計なお世話を焼いた藤原会長への疑問符である。そもそも、彼が生徒会室に現れたから、神部は今思い悩む羽目になったのである。いわば諸悪の根源である藤原は、本当は何の為に生徒会室を訪れたのか。
まさか本当に自分に会いにきたのでは……と一瞬だけ考える神部であったが、すぐにそんな甘い考えを追い払う。
今日、神部は殆ど思いつきで登校したのであり、その旨は家の人間にしか伝えていなかった。
だから、藤原が自分目的に現れた筈がないのだ。彼との遭遇は完全に偶然の範疇であったのだから。私と同じように、体育祭の準備に早めに取りかかろうとしたのだろう。そうに決まっている。いや、でも登校中の私を偶然見かけて、それで私の後を追ってきたのだったら、どうだろうか。って、私は一体何を期待しているんだ馬鹿者。
自分の中にもう一人自分がいるかのようなセルフツッコミを入れる神部は、少しだけ頬が熱くなっていた。それを認めたくない神部は、少し早足で日の沈みかけた妖山市の町中を、自宅を目指して歩き出した。