3−14 克服した女
電車を乗り継いで杵柄高校に舞い戻った雲海は、校門前、屋上の時計台を見て時間を確認する。
二時半。杵柄高校の時間割に沿えば授業中なのだろうが、一年五組でまともに授業が行えているかどうかは怪しい。クラスメイトの小森が警察沙汰に巻き込まれたのは、相川の口から既に告げられているだろう。そして、小森が保護されたと言う知らせはとっくに届いていたようであった。
『Title:Non title
本文:ミキティ、柏湯の警察署で保護、だってさ。
つーかアンタ何処行ったの?』
雲海の携帯電話に送信されていたメールである。差出人は相川。授業中にも関わらず、連絡を寄越してきていた。一先ず教室に帰るのは後回しにして、校門に寄りかかりながら雲海はしばし思い悩んだ後にメールを返す。
『Title:Re:
本文:トイレで昼寝してた』
図書館や保健室等、クラスメイトの居る可能性のある場所では矛盾が指摘されかねない。その点トイレの個室は公共施設の高校における唯一のプライベートと言える。この後如何に言われようとも嘘を暴かれるよりはマシと判断した雲海の苦しい言い訳だった。
相川のメールの返信までは、ほんの一分も間が空かなかった。
『Title:Re:RE:
本文:呑気過ぎるでしょ……。
どうせサボってんなら、カオリンが保健室で寝てるから、行って来たら?』
淡々と、何事も無いような内容で語る相川のメール。疑われていないようで安心したが、無感情で無機質な文章だからこそ、後半部分を読んだ雲海は背筋に寒気が走る。
自分がテレポーテーションで送られた後、彼女の身に何か起きたんだろうか。火曜日、薫が腕の中で気絶した時の光景がフラッシュバックする。
「まさか……」
雲海は身の震えを振り切るかの如く駆け出した。
校門を抜け、学生玄関で靴を履き替えそうになり、ようやく自分が上履きのままだと気づき、そのまま廊下に飛び込む。
保健室は具合の悪い生徒をスムーズに早退させるため、玄関のすぐ脇にある。雲海は勢いを殺さないまま、開きっぱなしになっていた保健室に飛び込んだ。赤ふち眼鏡をかけた太った中年女性の養護教諭が雲海を迷惑そうに睨むが、雲海は構わずに彼女に、息を整えぬ間に肉迫する。
「香田さんは! 無事なんですかっ!?」
「はぁ……えぇと、貴方は? 何年何組の」
「そんなのはどうでもいいでしょ! それより、彼女は!? 無事なのか!?」
詰め寄られた養護教諭は、雲海とは裏腹な冷静さで眼鏡のつるを指で押し上げ、二つあるベッドのうち窓側の方を指差す。薄いカーテンが締められているのを躊躇いなく開け、膨らんだベッドの掛け布団を捲る。
雲海には嫌な予感がしていた。脳を貸したのは間違いないが、それでも薫は遠隔透視能力を酷使した。瞬間移動も含めれば、彼女の身体には結構な負担がかかっていた筈だ。もし彼女の身に何かあれば、僕はどうすれば良いんだ。そんな不安を抱きながら薫の顔色を窺った。
「…………すぅ…………ん、んん」
布団を雲海に奪われて、薫が苦しそうに額に皺を寄せた。
目を擦る。雲海は一度天井に目を向けて深呼吸をして、もう一度薫の顔を眺めた。
「ん……にゅ、む……えへへ……ふ、えへ」
顔色は至って普通。口はだらけなく開かれ、口端で乾いた涎が白く固まっている。
寝息が苦しそうかと言えば決してそのような事はなく、むしろどれだけ楽しい夢を見ているのか、だらしがなく微笑みながら快適そうに眠る薫がそこにいた。
心配損であった。むしろ、こっちは今まで死闘を繰り広げたのに、なんだその呑気そうな顔は。
……僕が無事に行くかどうかを心配して待っててくれることを期待してもバチは当たらないと思うんだけど。
布団を求めて無意識的に腕を振る薫を見てすっかり脱力した雲海は、頭を垂れながら彼女に布団を雑に投げ返してやった。そんな彼の肩を、後ろから養護教諭が叩いて振り返らせる。
「この蒸し暑い中、屋上で呑気に昼寝してたらしいのよ、その子。
呼んでも揺すってもはたいても起きないんで、此処で寝かせてるのよ。
早く起こしたいんだけど、なんだかこの寝顔を見ると、悪い事してる気がしちゃってどうにもね」
養護教諭はまるで母親のような温かい視線を薫の寝顔に向ける。
確かにこの世に心配事なんて一切無い、と言いたげなくらいに希望に満ちあふれた顔である。雲海もそれ以上は何も言わず、何も言えず……仕方ないかと肩の力を抜く。自分の事を信頼して、欠片も疑っていないと言うのならそれはそれで嬉しい事だと考え直す事にした雲海も、隣の養護教諭に見習って薫を眺める。
夢の中で何が起こっているのか、時折だらしなく笑う薫を見ていると、雲海も自然と顔の筋肉が緩んでしまう。
そのまま二分程静かな時間が流れるが、その沈黙を破ったのは他ならぬ薫であった。突然緩んでいた顔が引き締まり、仰向けに寝ていた身体をお越し、目を見開いて辺りを見回す。悪霊に取り憑かれたのかと思う程のその様相に、雲海は思わず一歩身を引いた。
「……逃げられたか」
夢の中で何を追いかけていたのだろう、何故か肩を落とす薫。一つ溜め息をついてから、自分から少し遠くで身を反らしている雲海達に気がつく。ここに雲海が居る事の意味を、薫は即座に悟り、今度は安堵の溜め息を吐いた。
「……大丈夫だったんだね」
「うん」
「そっか。ありがと、クーちゃん」
彼女にとって、彼が約束を果たすのは既に必然であった。故に、薫は簡単に雲海に謝辞を述べて微笑んだだけであった。それ以上は何も語り合う事なく、薫はベッドの上で大きく身体を伸ばし、養護教諭に向き直ってベッドから降りた。
「ここ、保健室? なんで私ここに?」
「屋上で寝てたらしいぞ。親切な誰かが此処まで運んだらしい」
二人は視線で、その親切な誰かを養護教諭に問うが、彼女は首を横に振る。
保健委員でなければ、養護教諭の彼女には生徒の顔と名前はほぼ不明である。縁なし眼鏡を掛けた長髪の男子生徒である事以外は何も知らないそうだ。
薫は少し上に首を向ける。雲海がテレポートした後の屋上には、薫以外にもう一人男がいた。まさか、ずっと本を読んでいた彼がここまで運んでくれたのだろうか。色々と黙らせる必要もあるが、なにより先にお礼を言いたい薫は、何となくその男子生徒の顔を思い浮かべてみる。
「……ん?」
薫が何かに気づいたかのように、少し顔を顰めた。彼女の喉の奥から漏れた疑問符の意味が、雲海には当然分からない。どうしたんだ、と口を開きかけたが、それを察知した薫が雲海の方に右の掌を向けて止める。左手を頭に添えて、薫はゆっくりと目を瞑る。
彼女の目には瞼の裏側が映る筈である。
だが、しかし彼女の目に映ったのは、全く別の景色だった。
「……おぉ」
感嘆の声を上げる薫。そしてゆっくりと瞼を開き、怪訝な顔の雲海の方に満面の笑顔を向けた。
「美紀ちゃんには悪いけど、この事件のお陰で克服出来そうだわ!」
「……克服って何の話だ?」
雲海の前を通り過ぎた薫は、廊下に飛び出す。そして未だに保健室内で惚けている養護教諭と雲海に右手でピースサインを向けた。
「方向音痴!」
頑なに自分の事を方向音痴ではないと主張していた薫が、自らを指してそう言った。つまりそれは、彼女が方向音痴だった過去の自分から脱却出来た事を公言するに等しかった。