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怪奇!知らない世界の人々  作者: ずび
第三話 遠隔透視
39/123

3−13 海岸沿いの逃亡劇

 小森は混乱していた。

 状況なんて把握出来なかった。

 今自分の手を引いてマンションの廊下及び階段を駆け昇っているのは誰だ。そしてこの男は一体どうして此処に居るのか。何時、どうやって現れたのか。どうして此処が分かったのか。一体何をしているか。

 靴を履く間もなかったせいで足の裏が痛い。先程までの恐怖と今の混乱のせいで、足が震え、もつれる。蹴躓いて倒れそうになる小森。それに気付き彼女を支えた雲海は、慌てて足を止め、小森を背におぶった。軽々と持ち上げられた小森は、雲海の意外な力に驚きつつも、落ちないように雲海の首に縋る。そしてまた、雲海は階段を駆け昇り始める。

 顔見知り程度だったこの男のお陰で、一応当面の危機が回避出来ている事には感謝しないでもない。しかし、小森はまるで夢でも見ているような気分だった。あまりにも理解が追いつかないためか、自分が実は今薬を吸ってしまっていて、これはそのせいで見ている夢か幻覚なのではないかと本気で危惧していた。それらの不安を拭い去る為にも、彼が本当に空峰雲海で、一体なんのために、どうやってここに来たのかを知らねば気が済まなかった。

 しかし事情を説明してくれる気配が微塵も無い雲海に、小森が少しばかり腹を立てたのは無理もない。


「ちょっと! 何、何? 何なのよぉ!

 って言うか、逃げるなら何で上に逃げてんの!

 屋上で行き止まりになっちゃうじゃ」

「あぁもう、五月蝿いな! 今そんな話してる暇はないんだよ!」


 小森の悲鳴に近いその声に、雲海は振り向かずに答えた。

 雲海の言う通りであった。

 遠い背後から、二人分の足跡が早いリズムで刻まれている。鬼の形相をした谷屋達が、小森と雲海を追いかけていた。部屋に満ちあふれた閃光で目を潰せたのは僅か一人であったらしい。雲海は早くも己の計算違いに少なからず焦りを覚えていた。もう少し時間を稼ぐつもりだった雲海は、もう遠くの方に二人の人影が見えたのを確認して顔を顰める。

 こちらは女の子をおんぶした男一人。向こうは男二人。このままでは追いつかれ、捕まるのは時間の問題かもしれない。


「ま、また捕まっちゃう……!」


 雲海の背中で、小森が身を縮こまらせていた。

 今度捕まれば、殺される。

 本当に谷屋が殺人を犯すかどうかはこの際問題ではなく、小森はそう確信して疑っていない。先程谷屋にぶたれて赤くなった頬に涙が伝い、歯が再び震え出す。激しく脈打つ心音が喧しくて仕方ない。恐怖でどうにかなりそうだった。恐らく誰かが……この場合は雲海が、側にいなければ、大声で泣き叫んでいたかもしれない。理性を蜘蛛の糸のような細い線でギリギリ繋ぎ止めているのは、雲海の顔色がそれ程険しくなかったからである。

 何か企んでいる顔と言うのは分かりやすいもので、嘘の下手な雲海はそれが特に表に出やすい。あまり彼の表情を知らない小森が、肩越しに見えた彼の横顔でそれを判別出来た程に。


「さてと……一旦下ろすよ」


 不意に、小森の顔に風が吹き付けてきた。潮の香り芳しい海風の匂いと目に飛び込んでくる夏の陽光によって、小森は自分がどうやら屋上にたどり着いたらしい事を知る。雲海は柵のすぐ側まで駆け寄ってから小森を背から下ろして、雲海は腰につけた巾着袋の口を広げた。中から一枚、符を取り出し、それをマンションの屋上から投げ捨てる。


「よし……」


 屋上の柵に片足をかけて下を覗き込む雲海は、落下していく符を眺めて一つ頷いた。そしてその体勢のまま小森を振り返る。そして、彼女に手を差し伸べた。


「行こう」


 逝こうの間違いではないか。

 小森はそんな事を思う。ここは二十階建てのマンションの最上階である。外に足を向ければ、地面に激突して死ぬ。至極当たり前だった。捕まりたくないが、死ぬのはもっとゴメンだった。だから小森は雲海の手を取るのを躊躇う。

 彼が自分と心中するつもりでそんな事を言っているとは、流石に考えにくい。そんな事は分かっているが、しかし常識で考えれば、まだ心中説の方が現実味があるのではないか。雲海が谷屋の部屋に突然音も無く現れた時点で、彼に常識を求めるのは間違いなのだが、しかしそれでも小森は足が竦む。


「何してるんだよ、早く!」

「いたぞ!」


 雲海が叫ぶ。谷屋の声も同時に聞こえた。屋上に姿を現した谷屋達との距離は、もう幾ばくもない。谷屋達に捕まれば、何をされるか分からない。雲海も捕まってしまえば同じだ。

 私も……そして、彼も命を奪われるかもしれない。顔見知り程度とはいえ、自分のせいで誰かが死ぬ。それは死んでも嫌だった。


「…………」


 小森は無言で雲海の手を掴む。脅え切った顔をしている小森に、雲海は笑顔を向けてやった。


「大丈夫さ。僕は、君を助けに来たんだから」


 雲海のその台詞に目を剥いて呆気にとられる小森。油断した小森の腕を引っ張り、雲海は両手で小森の身体を抱きとめる。そして、そのまま背中を下にして屋上から身を投げた。


「ひっ……!」


 小森は一瞬だけ下の光景を見て、息を呑む。

 遥か下界の方に広がる、ミニチュアサイズの車と樹木。ベンチ。遠くの道路と、人の居ない海水浴場。そして少しずつ近付いてくるそれら。

 飛び降り自殺する人って、最後にこんな景色を見るのかな、と少しだけ呑気な事を考えてしまった。

 まるで鳥か何かになって浮遊しているかのような心地だった。死を覚悟して目を強く瞑る。でも、空峰君が……何とかしてくれる筈だ。そんな彼女の期待に答えるように、雲海は右手を、先にゆっくりと落下し始めていた薄い紙の符に向けて突き出す。


「羽ばたけ!」


 右手から青い稲妻が符に向けて迸った。

 雷を浴びたその符は、突如縦横に大きく伸びる。掌程度の大きさだった呪符は、瞬く間に敷き布団体後の大きさに広がった。そして、まるで意志を持っているかのように、自由落下を続けていた雲海と小森の身体の下に滑り込む。雲海は小森を抱えたまま、地面に到達する事無く、背中から宙に浮いた巨大な呪符に落下した。符はトランポリンのような弾力で落下の衝撃を打ち消し、雲海の背中へのダメージを軽減する。


「…………!」


 軽減し切れなかった衝撃に、雲海は一瞬だけ息を詰まらせたが、外傷は一切無かった。

 ふと見上げる。およそ三階分程落下したらしい。屋上の柵から身を乗り出している谷屋と田口がこちらを、呆然と見つめていた。呪符はまさしくアラビアンナイトの空飛ぶ絨毯のように宙に浮かび、風を切ってマンションから遠ざかり始める。遠ざかっていく二人の男の惚けた顔を見て、雲海は吹き出しそうになったのを堪える。そして自分の身体にのしかかっている小森の肩を叩き、身体の上から退かせる。

 符の端の方に転がった小森は、恐る恐る目を開ける。そして眼前に広がるのが黄泉の国の光景でない事に安堵し、足元にある謎の文様が描かれた紙の絨毯と遥か彼方の下界の光景に愕然とする。


「な、な、な、な……」


 飛んでいる。比喩でもなんでもない。今、私は謎の物体に乗って空を飛んでいる。

 もう飽和し切った疑問の波に押しつぶされかけていた小森。既に疑問は声となる前に口の中で逆流してきて、段々と気分が悪くなってきた。茫洋とした瞳が雲海に向けられる。口は音もなく開閉して、言いたい事も言えずにいる。先んじて口を開いたのは雲海だった。


「僕、実はちょっと常識はずれな技を持ってるんだ。

 詳しくは時間のある時に教えようと思うけど……どう? 知りたい?」

「……もう、なんでもいいや」

「そうかい。そりゃ残念だ」


 さして残念そうでもない声色で、雲海はうそぶいた。草臥れた様子の小森は、俯いたままそれきり何も口を開かないので、雲海達は黙って空を駆けていく。やがて、海岸沿いの道路が遥か下方に見えた頃、雲海は口を開く。


「さて、そろそろ時間切れだ。降りようか」


 雲海が紙符の端を人差し指で突つくと、二人を乗せた符は徐々に高度を落としていく。平日であるためか、柏湯の海岸沿いは人通りが少なく、不用心に降りても人に見られる心配は殆どなかった。ものの数分で海沿いの市道のど真ん中に降り立つ紙符。道路のアスファルトの白線に到達した途端に紙符は四散して、青く輝く光の粒子を地面にばらまき、消滅した。空に立ち上っていくその光の残滓に呆気にとられていると、雲海が座り込んでいた小森に手を差し伸べる。


「ここまで来ればもう大丈夫だろう」


 額に浮かぶ汗を拭った雲海は、一つ盛大に溜め息を吐いた。一仕事終えた、と言った風情の雲海の手を取って立ち上がる小森は、当たりを見回す。道路の西側には、先週の日曜に彼女が谷屋と出会った柏湯海水浴場がある。東側にはクロマツの防風林が鬱蒼と茂っているばかり。

 ようやく見た事のある光景を目に出来て、小森は少しだけ心を落ち着ける事が出来た。疑問はまるで尽きていない。何しろ、小森は未だに何も理解出来ていないのだから。言葉にして出そうとしても、何分量が多過ぎる。全てを一度に吐き出しそうになり、小森は再度気分が悪くなって来た。青い顔で俯いている小森を見て、雲海は眉尻を下げる。


「……もしかして、酔った?」


 そうかもしれない、と小森は無言で頷く。参ったな、と呟く雲海が、苦笑いしながら頭を掻いていると、道路の遥か彼方の向こうから、赤い物体が視界に飛び込んでくる。


「……ん?」

「あれは……カローラ?」


 深紅のカローラが長い長い直線の向こうから陽炎混じりに姿を現す。エンジン音が穏やかでないそのカローラは、小森には見覚えのあるものであった。


「康祐君の車だ……」

「……しつこい奴だな」


 谷屋は未だに諦めていなかった。愛車の中古のカローラに鞭打って、雲海達を追いかけていたのだ。雲海は面倒臭そうにその遠方の彼方の車を眺めやる。シチュエーションの割には、表情には未だに余裕が残っていた。

 符は残り一枚。相手は人類の叡智が詰まった最新鋭の機械にして、使い方を間違えると凶器にすら変わる乗り物、自動車。車で追いかけられても、逃げ切るには装備が足りない。クロマツの林を抜けようにも、靴の無い小森と言うハンディキャップがある。

 ならば仕方ない。雲海は最後の符を取り出した。そして車の方を親の仇でも見るような目で見つめる。

 まさか、車と立ち向かうつもりなのだろうか。小森の頭にそんな危惧が浮かぶ。


「……そ、空峰君? 早く逃げようよ」

「乗っているのは二人。

 一纏まりになってくれたのは逆に都合がいいかもしれないぞ。

 ここで叩きのめした方が、後顧の憂いもなくなるってもんさ」


 雲海はそう言って、車の方に歩み出す。小森はそれを止めようと手を伸ばすが、雲海は背中に目でもついているかのようにそれを避ける。

 カローラは止まらない。むしろスピードを上げて、二人の方に迫っている。アクセルを全開にしているのか、間違いなく雲海をひき殺すつもりで走って来ている。数百メートルの車の速度は、時速にして百四十キロ毎時程度。雲海は身体を横に構え右手の一差し指と中指で符を挟み込み、車の方に突き出す。


「……小森さん、僕の後ろに居る必要はないよ。

 怖いなら、さっさと逃げるべきだ。林の中は安全だろうしね」


 後ろを振り返らずに雲海が言った。小森は立ち上がらず……否、腰が抜けて立てないまま、彼の背中を見つめる。今まで名前と顔以外何も知らなかった見た目も普通なこの男は、案外と妙な男であった。人が車に立ち向かっても、為す術無く死ぬだけの筈なのに、何故か一抹の期待を抱いてしまう。部屋に現れて四面楚歌の状況下で逃げ切り、二十階建てのマンションから飛び降りても平気で、そして今この瞬間だ。

 空峰君は死なない、と言う根拠の無い確信を抱く小森は、その場で雲海を睨みつけた。


「……此処まで来たら、もうとことん信じてやるわよ。

 でももし私が死んだら化けて出てやる」


 助けたのにも関わらず何故か厳しい口調で雲海に命令する小森。彼女の地の性格はきっとこんな感じなのだろう。ようやく落ち着いてくれたようだ、と雲海は安心した。


「それは困ったな。顔見知りの退治なんて気が進まないし」

「……何の事かはもう訊かないから、頼むわよ」


 車はもう五十メートル程前に迫って来ている。今から全力でブレーキを踏んでも、止まる事はない。タイヤとアスファルトが擦れる音が聞こえた。

 二十メートル。雲海に到達するまで間も無い。雲海は、一瞬だけ運転席の谷屋と目が合った。怒りに狂って血走った目、剥き出しの歯。逆立つ髪。妖怪よりよっぽど妖怪らしい男だ。雲海は頭の片隅でそう考え、軽く息を吸い込んだ。


「反らせ!」


 雲海の短く、そして鋭い叫び。右手の符に呪力が宿り、青く輝く。そして車のフロントが、符に触れる。本来なら単なる紙で出来たその符は、後ろの雲海や小森もろとも跳ね飛ばされるだろう。

 しかし。


「……え?」


 突進するカローラの助手席に座っていた田口が小さく呟いた。青い光に車が触れた瞬間、三半規管が急激に揺さぶられ、少し視線が定まらなくなっていた。

 何が起きているのか分からなかった。走っていた道路は何故か自分の左側にあり、身体は地面に対して何故か横倒しの姿勢に変わっている。隣の谷屋は同じく驚愕した顔をしていたが、横倒しになっているらしい車体を立て直す為に、全力でハンドルを切っていた……が。


「きゃっ!」


 小森が小さく悲鳴を上げて、自分のすぐ脇を時速百キロ超で通り過ぎていく横倒しの車から身を引いた。

 車が横転し、やがて駒のように回転を始める。アスファルトと擦れて生じた火花を辺りに蒔き散らしガラスを引っ掻くような耳障りな音を立てながら、深紅のカローラは最終的に上下が逆様にひっくり返った後、雲海達の五十メートル程後方でようやく停止した。

 雲海達に向かって突進して来た筈のカローラは、呪符に触れた途端九十度横に回転し、二人のすぐ脇を通り過ぎていったのだ。雲海が指で挟んでいた符は既に消滅しており、雲海は振り返って、遠くの方で死んだカエルのようにひっくり返っているカローラを眺めやった。

 車からは誰も出てこない。車外に投げ出された人はいないため、二人とも車の中にいる。単なる横転程度であれば、恐らく死ぬ事はないだろう。雲海は溜め息をついて、ようやく小森を向き直った。


「……何ともなかった?」

「………………」


 小森は黙っている。車が潰された。ドアも開かない。谷屋はもう、追って来ないのだ。その事が少し信じられなかったが、それが紛れも無い現実なのだ。

 どうやら助かったらしい。覚醒剤は勿論、命のやり取りさえも、すでに過去の物となったらしい。小森は不安とともに、身体の力も抜けていった。座り込んだままの小森は、疲れた顔で雲海を見上げる。


「……助かったんだ……」


 小森は目に涙を浮かべている。

 目線の先に居るのは、今日まで単なるクラスメイトにして、今は自分にとってのスーパーヒーローである雲海。

 潤んだその視線は少し熱っぽく、まるで雲海を貫くように真っ直ぐと向けられていた。小森の放つ空気が何故だか気恥ずかしく、件のヒーローは頭を掻いて少し照れているように、笑って視線を逸らす。


「はは……兎に角、君が無事で良かったよ」

「うん……」


 小森は吊り橋効果と言う言葉は知っていた。

 生理的に興奮している状態を恋愛をしていると誤認識してしまう現象の事だ。

 未だに心臓が高鳴っているのは、命の危険に晒された事に緊張した結果のものであり、恋煩いとは関係ない。関係はないが、しかし。

 自分を悪漢の手中から助け出して、命を救ってくれた彼に全く魅力を感じないと言えば、それは紛れもなく嘘になってしまう。確かに自分は惚れっぽい性格だし、それも事実として認識していたが、これはその性格は関係ないだろう。最後の「反らせ!」と叫んだ雲海の男らしい後ろ姿を思い出して、小森はもう一度心臓を高鳴らせた。つい今しがた彼氏(とんでもない危険な男だったが、彼氏だった事には違いない)をぶちのめした男に惚れるとは、我ながら変わり身が早過ぎる。

 だから今までは長続きしなかったのだろうと反省する。そう、今までは、だ。今回は絶対に、未来永劫まで続いてみせる。小森は瞳に強い意志の炎を宿して立ち上がり、改めて雲海に向き直り、一先ず礼を言わねばと口を開きかけたが、それに先んじて雲海が口を開く。


「お陰で僕も約束が果たせそうだ」


 言葉を封殺された小森は、雲海の弁の意味を問う。


「……約束って?」

「二人とも無事で帰るって……約束したんだ」


 雲海は遠い目で空を見る。一体彼が何を……誰を見ているのか、小森には分からない。しかし、百戦錬磨の恋愛少女である彼女には、彼が見ている相手が女である事は容易く見抜けた。小森は視線を雲海から反らし、小さく呟いた。


「へぇ……約束、ね。

 じゃあ、空峰君が私を助けた理由は、約束を守るためだった訳か。

 私を助けたかったんじゃなくって、私じゃない誰かのために、私を助けたんだね」


 刺のある言い方になってしまった事を、小森は少し後悔した。それを知る由もない雲海は、彼女の憮然とした態度に慌てて取り繕おうとする。


「いや、それは……こ、言葉の綾だよ。

 勿論僕だって君の事が心配で、だからこそ」

「碌に話した事も無かったのに?」

「…………」


 雲海は押し黙る。

 今日この瞬間まで二人は殆ど赤の他人のような関係であった。彼が命を賭してまで他人を助けられる人間なのかとも考えたが、彼には他の理由を述べた。述べてしまった。ならば、どれだけ彼が自己犠牲精神の強い人間であろうとも、何かしらの下心を以て小森を助けた、と言う事になってしまうのだ。

 多分恐らくは薫あたりと、何かしらの約束を結んでいるに違いはない。小森は勘だけでそれを見抜く。

 魔王の毒牙にかかりかけた姫君を助け出した勇者には、妻が居た。そんな童話があってたまるか、と小森はむかっ腹を立てたが……。


「……止めた」


 考えるのが段々と嫌になってきた小森は、溜め息を吐いた。なんだか妙な喪失感を覚え、それもこれもこの坊主頭のせいだと、今度は彼を睨みつける。


「ったく、コレだから童貞野郎は……」

「どう言う理屈か知らないけど、何で僕はこのタイミングで扱き下ろされにゃならんのだ」


 微笑んでいた雲海も流石に顔が引き攣っていた。仏頂面をした小森は、更に言葉を続ける。


「こう言うときは他の女の子の話題を出さないのがセオリーってもんでしょ」

「知らないよ、そんな理論。と言うか、なんで女の子だって勝手に見当をつけてるんだ。

 別にいいだろ? 君は何を気にしてるんだよ」


 段々と雲海も遠慮がなくなって、態度が悪くなってくる。小森もそれに触発されて、ますます腹が立ってくる。


「何って……あのねぇ。本気?

 つーかあんだけ私の身体のあちこちベタベタ触ってたくせに、私への下心とか全く無かった訳?」

「無いよ。そんな状況じゃなかっただろ。

 それとも、君は僕が下心丸出しで助けたと思ってたのか? 心外だ」

「下心はあったでしょ? カオリンとの約束守るためだって言ってたじゃん」

「だからそれは……待て、何で香田さんとの約束だって分かったんだ?」

「あんだけ鼻の下伸ばして『二人とも無事に帰るって……約束したんだ』なんて言ってりゃ分かるっての!」

「そんな間抜けな顔をした覚えはないっ! 質問の答えにもなってないぞ!」


 肩で息をして睨み合う両者。

 どうして二人とも喧嘩しているのか。それは二人にも全く分からない。食ってかかる小森がそもそもの発端であったのだが、何故食ってかかったのか小森も分からない。

 ……別にそれでも良いじゃないか。彼のお陰で助かったんだから、むしろ礼を言うのが普通だろう。今ここでカオリンに嫉妬したって、私と彼は元々仲良くないんだから、仕方がないじゃないか。

 小森は己の境遇と恩知らずな行為に歯軋りして悔しがり、雲海に背を向ける。


「と、取りあえず礼は言っておくわ! ……ありがと」

「ふん。別に要らないね。

 君曰く、僕は君のためじゃなく、香田さんのために君を助けたらしいし」


 雲海の口からその台詞が漏れた時、小森は尚更腹が立ち、胸の奥がチクリと痛む。雲海の横っ面を張り飛ばしてやろうかとも思ったが、恩知らずも良いところとなってしまうため、流石にそれは躊躇した。代わりに唸り声を上げて雲海の方を睨むのが精一杯であった。

 助けた側と助けられた側と言う意識は一応両者ともあって、だからこそ雲海も堂々としたものであった。小森が何とか彼を見返すような案を思いつこうと頭を捻るが、時間切れだった。

 カァンカァン、と言う鉦吾(しょうご)でも叩くような甲高い音が道路の向こうから聞こえて来たのだ。


「この音は……」

「消防車?」


 二人揃ってカローラを見る。

 カローラは激しい音を立てながら横倒しになっていた。恐らく近所の住人が音を聞きつけて、通報したのだろう。地平線の向こうからは、真っ赤な消防車と真っ白な救急車に交じって、パトカーも現れる。カローラの中に居る彼らの処遇と怪我の処置は、彼らに任せれば良いだろう。小森にも事情聴取やらなにやらが待っている筈だ。

 しかし、雲海にはどのような判断が為されるか。

 つい昼まで杵柄高校で目撃されていた男子学生が、どうして柏湯市に現れたのか。ここに至るまでの詳しい状況も聴取される可能性が高いが、陰陽道や超能力を使った等と言っても信じてはくれまい。厄介な事に巻き込まれる前に、さっさと姿を眩ますのが得策であった。


「じゃ、小森さん! 後はよろしくね」

「はぁ!? 後はって……どうすりゃいいのよ!」


 背を向けてクロマツ林に向けて駆け出す雲海の背に、小森は落ち着かない様子で声をかける。


「僕が居た事は内緒にしておいてくれ。事情の説明が面倒臭い。

 君は奴らが麻薬で幻覚を見ている隙に逃げ出した……って事で。んじゃ、また学校で!」

「ちょ、待て! コラー!」


 小森の制止の言葉は密度の高いクロマツ林の闇に吸い込まれていく。林の中に消えていった雲海の耳に届いたかどうか、最早彼を見失ってしまった小森には分からなかった。彼の背に伸ばした手は空を切り、酷く虚しい気分を味わった小森は、慌ただしく車から降りてくる消防隊員と警察官を茫洋と眺めていた。

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