3−12 彼方からの救世主
「チッ……オイルが切れてやがる……」
谷屋のライターのオイルが切れていたお陰で、小森達は少しだけ覚醒剤吸引を先延ばしに出来た。勿論、ほんの一、二分程度の時間稼ぎをした所で、何も変わりはしないのだが。
小森は啜り泣きながら、己の運命を呪っていた。
学校まで送ってくれると言った筈なのに、何故か彼の部屋にまで連れてこられ、終いには覚醒剤だ。生まれて15年余り。悪戯程度なら一通りやったが、犯罪に手を染めるような真似だけはしたくなかった。
しかも覚醒剤である。如何な快楽が手に入ろうとも、その先には依存症と言う地獄が待っている。そんな危険な物を使用する覚悟なんて、今朝まで普通に生きてきた人間には絶対に無理だ。助けを求める電話をかける隙はなく、隠れて相川にメールを打つのが精一杯の抵抗だった。
メールを見てかけてきたのだろう相川からの電話も、碌に現状を伝える間もなく谷屋に携帯電話を取り上げられ、破壊されてしまった。
逃げ出そうにも、女の足では限界がある。その後捕まったら何をされるか分からない。縛り上げられて無理矢理薬を吸わされるか、下手すれば殺される可能性すらある。
あぁ、まさか康祐君がこんな危険な人だったなんて。
ナンパされて以来、まだ一週間も経ってないが、谷屋は小森にプレゼントを贈った事もある。ブランド物のバッグや、ネックレス等……それに中古車とは言え車まで持っている。
工事のバイトの彼が何故これほど金の羽振りが良いのだろう。そんな当然の疑問を抱こうともしなかった過去の自分が憎らしかった。確かに彼は工事のバイトもしているが、実際は麻薬のバイヤーで生計を立てていたのだ。そして興味本位でちょろまかした売り物の一部が、今机の上に山になった問題の品なのである。
矢追と田口はバイト先の後輩らしく、谷屋がそんな商売をしている事は知らなかったようであった。二人とも未だに恐怖に身を竦めている。しかし、谷屋に逆らう様子は一切無い。二人は覚醒剤に少しでも興味を持ってしまっているのか、視線は机の上の粉に釘付けになっている。
最早希望は潰えた。しかし、せめて最期の最期まで抵抗を貫こう。小森は決意して背筋を伸ばす。
「よし……」
オイルを充填した谷屋がライターに火を灯す。赤々とした細い炎がライターから立ち上る。
この覚醒剤は加熱吸引式であった。谷屋は粉を零さないようにアルミホイルを慎重に持ち上げ、下から炙る。初めて吸うため、程度の加減が分からない谷屋は、十秒程そうして、覚醒剤を机に置く。懐からストローを取り出し、谷屋は暴れる心臓を押さえ込む為に自分の胸板を二、三度叩く。
「最初は俺から行くぞ……」
鼻にストローを突っ込んで、片方を粉の方に少しずつ近づけていく。
残り五センチ。田口が息を呑む。四センチ。矢追の瞬きの回数が増えた。三センチ。小森は鼻を摘みながら、黙ってその様子を見ている。
そして……二センチ。
突然部屋の灯りが薄暗くなったかと思うと、谷屋はいきなり前触れも無く後頭部に強烈な打撃を受けた。
「うお!」
頭を打ち付けられ、ストローが谷屋の鼻の奥深くに突き刺さる。そして頭の上にある何物かを撥ね除けて、顔を上げる。彼は矢追か田口が後頭部を叩いた物と思ったが、どうやら違うらしかった。
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
「……………………」
五人分の沈黙が六畳間を支配する。四人分、ではなく、五人分であった。
「……は? ………………は?」
テーブルの上に、男が居た。勿論矢追でもないし田口でもないし、谷屋も違う。小森の筈も無い。
丸坊主の頭、半袖のYシャツ。黒い制服ズボン。そんな男がビールの空き缶や灰皿を押しのけて、テーブルに尻餅をついていた。何処からも入った形跡はない。ただ、始めからそこに居たかのように、部屋のど真ん中に現れたのだ。
前兆なんて全く無かった。気がついたら居たのだ。
徐々に現れるなんてまどろっこしい事もなく、瞬き一回分の間には部屋の中の人数は一人増えていた。そして、谷屋の頭に打ち付けられたのはこの男の踵であった。中空に現れた男……空峰雲海の足が、期せずして谷屋の頭の上に落下したのだ。
「……これが、幻覚作用ってやつか?」
谷屋の一言に、矢追も田口も一瞬だけ納得しかけてしまった。次いで発せられたのは小森の声であった。流石に知り合いの顔となれば、幻覚と考える事も出来ない。
「え……? もしかして、空峰君……?」
何度も目を擦る小森。しかし幻覚ではないその坊主頭の学生は視界から消えず、小森に視線を返していた。一同が一体何が起こっているのかまるで把握出来ていない今、混乱の渦中にある雲海だけが現状を理解していた。
瞬間移動は成功。ここは谷屋達が居た部屋で間違いは無い。そして小森は無事。
それだけが確認出来れば、こんな所に長居は無用だった。腰巾着から符を一枚取り出し、勾玉を握り込む。机の上に乗せた符に向けて、雲海は叫びながら拳を叩き付ける。
「閃け!」
瞬間、眩い白い発光が符から溢れ出す。雲海を除いたその場の全員が、直接見たら目がつぶれてしまいそうな圧倒的光量に、思わず腕で目を隠す。
閃光は中々収まらず十秒程も続き、その間、谷屋達は一切身動きが取れなかった。光の洪水が収まった後も目はしばらく快復せず、辺りの現状を把握するのに更に十秒ほど要した。
「……なんなんだ、一体」
当然の疑問だったが、隣を見た谷屋の頭から、その疑問はすぐに消滅する。
先程まで確かに自分の隣に居た女……小森が姿を消していた。先程の男も、だ。入り口の方、マンションの扉が半開きになっているのが居間から確認出来た。
逃げられた。未だに何が起こっているのかは殆ど分からなかったが、それだけは把握できていた。谷屋は慌てて立ち上がる。
「やべぇ! おい、田口、矢追! しっかりしろ!」
田口は谷屋の声に反応を示し、辺りを見回して状況を把握したが、矢追はそうはいかなかった。
「目がぁ……目がああぁぁ……痛ぇよぉ……!」
光を防ぎ切れずに、まともに閃光を喰らってしまった矢追が打ち上げられた魚のように床の上で身を捩っている。両手で目を押さえて泣き叫ぶ後輩のあられもない姿に苛立った谷屋は、矢追の腹を思い切り踏みつけた。
「ぐへぁ」
死にかけのガマガエルのような声を上げて、矢追は腹を押さえてそのまま意識を失う。
「……畜生が。やられたぜ、あのクソアマ……」
「美紀ちゃんってよりは、さっきの坊主頭が……」
閃光を部屋の中に蒔き散らした先程の学生服の男は、一体なんだったのだろうか。薬で見えた幻覚と言う説は否定されているが、入ってくる時間なんてなかった。まるで瞬間移動してきたみたいだな、と田口は非現実的な事を思いつく自分の頭が少し可笑しかった。
「……笑ってんじゃねぇ。早く追うぞ」
矢追の顔面を踏みにじっていた谷屋が、殺気立った視線を田口に向ける。いずれにしろ小森があの坊主頭と一緒に逃げ出したのは間違いないらしい。田口は立ち上がり、谷屋と共に部屋の外に向けて駆け出した。