3−11 魔窟への突入
新しいビール缶の封を切った田口が、机の上の白い粉を見つめている。額に浮かんだ冷や汗を拭いて、俯いて震える小森と、その隣でオイルライターを開け閉めしている谷屋を見やった。
そして、机の上の、白色の粉末に視線を移す。
部屋の空気を完全に一変させる力を持ったその粉は、谷屋が持ってきたものだ。小森が途中で暴れて帰ろうとしたのも、田口が嫌いなビールを飲んでまで酔おうとしているのも、全てこの粉に原因がある。谷屋は一言「買った」と言っただけで、入手経路については何も言わなかった。
元々谷屋は社会の吹きだまりに片足を突っ込んだような男ではあったが、まさかここまでとは田口も予想だにしていなかった。
「……さてと、そろそろはじめっか」
やや緊張した面持ちの谷屋が厳かに呟く。ライターを閉じる音が嫌に大きく聞こえた。田口の隣に座る矢追が唾を飲んだ。小森の肩が大きく跳ねた。
「何度も言うが、知った以上はもう逃げられねぇからな」
「………………」
「おい、田口。分かってんのか?」
「は、はい」
たどたどしい田口の答えを聞いて、谷屋は隣に目をやる。小森は歯の根が噛み合ず、閉じた口からは震える歯が触れ合うカチカチ、カチカチと言う小さな音が聞こえる。
「なぁんだ、美紀ちゃん。まだビビってんの?」
谷屋の言葉に、小森は黙って首を横に振る。恐らく何を問うても同じ反応を返すだろう。何も聞いてはいないのだから。小森は、ただひたすら現状から逃げたくて、逃げられないと言う現実からすらも逃げたくて、駄々をこねていた。
沸点の低い谷屋は、下を向いている小森の顎を掴んで強引に自分の方に向けた。
「何とか言えや、おい」
「………………」
「……クソが」
谷屋は舌打ちして、掴んでいた手を離して横なぎに振るい、小森の顔に打ち付けた。
小森の身体は、まるで背骨でも失ったかのように一切の抵抗なく、カーペットに倒れ伏す。小森に構うのが面倒になったらしい谷屋は、脅えている様子の田口と矢追に向き直る。飢えた猛禽類のような鋭い目つきに、二人は竦み上がった。
「…………なんか言いたそうだな、お前ら」
「谷屋さん、その……本当にやるんすか?」
「今ならまだ間に合いますよ。やっぱ、止めときましょうよ」
「今更何言ってやがんだお前ら!」
やんわりとした二人の反論は、完全に潰される。しかし、矢追は冷や汗を垂らしながらも口を閉ざさなかった。
「で、でもっすよ? 俺らはまだしも、美紀ちゃんまで巻き込んじゃヤバいって。
高校生っつー事は、親とかめっちゃ五月蝿いっすよ。もしバレて、警察にチクられたら」
「あぁ? 関係ねえよ。俺の女は俺のもんだ」
最早谷屋も到底冷静とは言えなかった。目の前の白い粉……覚醒剤の吸引と言う究極の反社会的行為を前に、心臓が収まらない。
一人で吸う勇気がなくて三人を巻き込んだのがバレたくない。谷屋はそんな怯えを隠す為に普段以上に攻撃的になっていた。
「シャブは持ってるだけで捕まんだ……ここで止める訳にゃいかねぇ。
腹くくれ、テメェら」
「……そんな」
「………………」
また一本、新たな缶ビールを開けて、田口は無言のまま一気に中身を飲み干した。
*
半ば薄れいく薫の意識を繋ぎ止めたのは、終始沈黙を守っていた雲海の意識だった。消えかけた薫の意識を察知した雲海が、薫の肩を揺さぶったのだ。
酷い頭の痛みにふらつきながらも、薫は倒れかけた上体を必死で立たせる。意識はあり、身体にも疲労が溜まってはいるが、動けない程ではなかった。やはり雲海の脳を借りた事は無駄ではなかったらしい。薫はその意味も込めて礼を告げる。
「……あ、ありがと」
「…………」
目を開けると、未だに瞑想している雲海の顔がすぐ目の前にあった。額同士を付けているのだから当たり前なのだが、鼻やら口やらまでくっつきそうな距離であった。
薫は少し慌てて、しかし雲海にそれを悟られないように、ゆっくりと額を離す。額に感じていた熱が消えた事を不思議に思った雲海がゆっくりと目を開け、状況を確認した。
「今ので分かったのは奴らが覚醒剤を服用しようとしてる事。
そして肝心の場所だけど……」
瞑想の後だからか、彼は小森が危機的状況に陥っているのを把握した今でも妙に冷静だった。先程の谷屋の部屋での光景は二人ともの脳にしっかりと刻み込まれており、薫は腕組みをしながら、その場所を思い返す。
「柏湯市の海沿いの高層マンション。最上階……二十階の角部屋……だけど」
顔を俯ける薫。彼女の言いたい事は、雲海はすぐに察した。
「もう時間がないぞ。
谷屋は今にも薬を火にかけようとしていた。数分すれば小森さんも……。
今から警察に通報して、間に合うのか?」
淡々と告げる雲海。それがかえって薫の焦燥を煽る。
常識の範囲で考えれば、小森をドラッグの魔手から救い出すのは困難極まる。しかしこの場に居るのは常識から外れている超能力者と陰陽師。常識に囚われてはいけない。
何かないだろうか。と焦る薫に一つの案が浮かぶ。
「……瞬間移動」
「ん?」
「瞬間移動してあそこに行けばあんな奴ら私の超能力でぶっ飛ばせるわ! ……でも」
興奮した様子の薫だったが、すぐに再び頭を抱えた。
「ダメだ……私、自分の瞬間移動は出来ないんだ」
薫の瞬間移動能力は、自分以外の何かしらを瞬く間に移動させる力であった。あの部屋に直接乗り込んで、小森を連れて帰ってくると言う事は出来そうにない。何かしらの物品を送る事しか出来ない自分の能力の半端さに、薫は拳を屋上の床に叩き付けた。
「くぅっ……このままどうしようも出来ないって言うの?」
悔しそうに歯軋りする薫。
雲海はそんな彼女には構わず、自分の鞄から巾着袋を取り出した。中身を確認する雲海。符が三枚、勾玉一つと言う、彼のいつもの装備である。妖怪を相手取る為の武装を確認して一体どうしたんだろう。
薫は、巾着を腰のベルトに括り付けた雲海の真剣な顔を見つめた。
「自分が行けないなら、僕を行かせてくれ」
「行かせるって……?」
「自分以外の物なら何でも良いんだろ?
人間だって、言ってしまえば肉の塊みたいなもんだ。出来ない道理は無い」
「……出来ない事はないけど……でも」
雲海は頷きを返す。確かに誰かが行って阻止するのは悪い案ではない。時間がない現状を鑑みれば、最良の選択だ。
しかし。
「相手は三人だよ? 大丈夫? 結構強そうだし」
「突然部屋の真ん中に見知らぬ人間が現れるなんて、誰も予測できない。
隙はあるし……さっさと逃げれば問題無いさ」
そう言って雲海は軽く屈伸をし、手足の筋肉をほぐす。薫は未だに不服そうな顔をしているが、他に案も思い浮かびそうにない。
「時間がない。今すぐにでも、頼む。香田さんこそ、ちょっと遠いけど大丈夫か?」
「……こんなに遠くに送るのは初めてだけど、それでもいいの?」
「うん。僕は君を信じてるよ」
雲海は一点の濁り無い瞳で、真っ直ぐに薫を見つめ返す。覚悟を決めた雲海に同調し、薫も決心した。
「……でも、必ず二人で無事に帰ってきてよね」
薫が両手で雲海の手を握りしめ、不安そうに目を潤ませる。小森の無事、そして雲海の無事。雲海の言葉を信じない訳では無かったが、不安を完全に払拭するには足りない。
「……分かった。約束しよう」
雲海は薫の手を握り返す。身体はそれほど大柄ではないが、彼の手には力強さがあった。根拠がなくても、何となく安心をもたらしてくれる。頷きを返してくれた雲海に、薫は少し顔を綻ばせた。
「じゃ……」
薫が小さく呟いたのと同時に、彼女の瞳に緑色の輝きが宿る。そして、不気味な緑色の光の渦が段々と雲海の身体を包み込み始める。
雲海は身体が少し軽くなったのを感じた。視界が真緑色に染まり始めた。手足の感覚が少し薄れた。
「……行け!」
薫が叫ぶ。屋上に風が巻き起こった。
床に溜まった砂が巻き上げられ雲海が立っていた場所に渦巻きを作った。薫は目の前から消え失せた雲海の手の触覚が残った自分の手を見る。
「必ず……無事でね」
薫は八卦図を拾い上げ制服のポケットに仕舞い、辺りを見回す。
二人が屋上を訪れる前からそこにいた、学年も名も知らぬ男子学生が一人、未だに屋上の隅っこで座り込んでいた。相変わらず読書を続けている男子生徒は、この異様な光景……雲海が緑の光の中に消えていった光景を見たのだろうか。こちらの事等全く気にかけている様子の無いその男子を、流石に不審に思う薫だったが、今はどうでも良かった。
薫は、まるで糸が切れた操り人形のように、力無くその場に崩れ落ちた。
遠隔透視と超長距離の瞬間移動。二つの超能力を酷使したせいで、彼女の身体には大きな負担がのしかかっていた。空は晴天。気温は上々。蝉は五月蝿いし、日差しは暑いし、風も生温い。しかし、この不快な環境から抜け出す為の体力すらない薫は、徐々に自分の意識を手放していく。
不謹慎だけど、ゴメンね。私がやれる事は、全部やったから……後は任せたよ。
薫はそんな事を最後に思いつつ、静かに目を瞑った。