3−9 捨て身の遠隔透視
屋上は既に薫と雲海、二人の秘密の会合の会場として定着しつつあった。相変わらず、男子学生が一人、本を読んでいる。だが、他には誰も居ない。屋上の柵に背を預け、雲海は未だに厳しい表情で薫の言葉を待つ。薫は雲海の隣で同じ様に柵に寄りかかり、単刀直入に切り出した。
「八卦図……今、持ってる?」
八卦図は数日前、薫が使おうとしたが失敗した、いわくつきの道具。雲海は記憶を辿る。
八卦図を描いた白いハンカチは、確か鞄の奥底に突っ込んで、それきりだった筈だ。
薫に言われた通りに持ってきた鞄からそのハンカチを取り出し、薫に広げて見せる。
「……これで分かるのは方角だけだ。
小森さんの居る方角を占う事は出来ても、正確な居場所が分かる訳じゃないぞ。
こっちの、小型の渾天儀なら小森さんの居場所も占えるかもしれない。
だけど、あんまり使い方が分からないんだ」
「必要無い、そんなの。
私は、八卦図さえ持ってきてもらえれば良かった」
薫は断じた。当然雲海は眉を顰める。八卦図は方角を示すのみ。虱潰しよりマシだが、これで彼女の居場所を特定するのは不可能だった。
一つの例外を除けば、だが。
薫は淡々と続ける。
「私が八卦図を使えばいい」
薫は真顔だった。雲海はだからこそ、薫に疑うかのような視線を投げ掛ける。
「何言ってんだよ……上手く使えなかっただろ、君」
「でも、私なら……美紀ちゃんの居場所を正確に見て取れる。
ファミリーレストランの店内をイメージしたとき、私には見えた。
今現在の店内の様子が、リアルタイムで。
同じ要領で、美紀ちゃんの顔を思い浮かべれば、美紀ちゃんを取り巻く状況が手にとるように分かる筈。
そう教えてくれたのはクーちゃんだよ。
だから私が八卦図を使えば、今の美紀ちゃんの状況、何よりも、彼女の居場所が分かる」
八卦図を使った時に頭の中に流れ込んできた猛烈な情報の波。しかし、小森への確認を取った事で、その情報が真実であるとハッキリ分かった。雲海はその力を遠隔透視能力、などと名付けたが、薫は使いこなせていない。
「……火曜日の事、まさか忘れた訳じゃないだろうな」
一人息巻く薫を、雲海は強く睨みつけていた。怒りが篭っている彼の視線は薫にとっては恐ろしい物だったが、薫も負けじと雲海と向かい合う。
「勿論、覚えてるよ。気を失ったことも、はっきりと」
「そうだ。君は気絶したんだ。
八卦とテレパシーの組み合わせで生まれた遠隔透視能力のせいで。
君は上手く使えもしない超能力を頼りにするつもりなのか?」
雲海は薫を指差して叱り飛ばす。しかし、薫は全く動じる気配すら見せない。むしろ上等と言わんばかりに反駁する。
「……でも、やらなきゃダメ。
私が美紀ちゃんを助ける手段は、それしか思いつかないもん」
「ダメだと言ったらダメだ」
雲海の頭ごなしな否定に、薫は眉間に深い皺を刻む。彼女が雲海に向ける、初めての明確な怒りだった。
「なんでよ……? クーちゃんは美紀ちゃんが心配じゃないの!?
美紀ちゃん、もしかしたら、本当に死ぬような目に遭ってるかも知れないんだよ!?」
「………………」
「なのに……なのに!」
涙目で挑みかかるように顔を近づける薫。それ以上は上手く言葉にできないのか、ただ低い唸り声を上げるだけだ。
その必死な薫を見ても、雲海は頑なな態度を崩そうとはしない。
「……それでも、許す訳には行かない。分かってくれ、香田さん」
「分かんないよ! 分かる訳ないじゃない!」
駄々をこねるように首を振る薫。言う事を聞こうとしない薫に、ついに雲海も冷静な仮面を脱ぎ捨てた。
「分かれよ! 僕だってなぁ……小森さんの事は心配だよ。
下手すれば最悪の事態だって有り得る……けど。
……香田さんは、見てないから知らないんだよ」
「見てないって、何をよ」
雲海は顔を俯けて、怒りに歯を軋る。頭の中に浮かぶのは、火曜日の昼休み。
苦痛に顔を歪める薫、死んだように脱力する薫、辛そうに横たわる衰弱した薫。
「あの時……八卦図を使って、香田さんが気を失った時だよ。
僕は……本当に君が死んだのかと思った。
君は酷く弱ってて……目を見開いて、腕の中でピクリとも動かなくて……」
当時を思い出す、彼女を抱きとめた雲海の腕が震える。怒りと怖れ、その二つによって背筋を凍らせたあの一瞬が雲海の脳裏から消え去る事は、恐らくは永久にない。
「遠隔透視能力が一体どんな力なのか僕にも君にも詳しく分からない。
……だからこそ、君への負担も未知数だ。
使い続けると死んでしまうような危険な力かもしれない。
死なないにしても……君が無事で済むなんて保証は、どこにもない。
……頼むから、自分を大事にしてくれよ」
雲海の声も震えていた。最後には薫に懇願するように頭を下げた。雲海も必死であった。
二度とあんな光景は見たくない、と怖れていた。
しかし、そんな言葉で納得がいく程、薫の心は落ち着いていない。薫は突如、目を見開く。目が緑に煌めいたのを見て、雲海は一瞬身構える。
「………………」
薫は黙って右手を雲海に向けて突き出した。
「おい、馬鹿!」
雲海は叫んだ。見えざる力によって、まるで意志を持つかのように八卦図が彼の手からすり抜けていく。一枚の白地に黒柄の薄い布が、宙を舞って、薫の右手に収まった。
雲海は慌ててそれを取り返そうとするが、その身体が急に強張る。薫の爛々と輝く目と、彼女の左手が雲海に向いていた。
薫お得意の念動力が、雲海の身体を無理矢理押しとどめていた。雲海は、悔しそうに唇を噛み、薫を威嚇するように強く睨みつけた。
「……馬鹿な事は止めろよ、香田さん」
「馬鹿? 何が馬鹿なの?」
軽く空を見やって地磁気の様子を窺った薫は、すぐに八卦図を方角通りの向きに置く。その南側に座り込み、雲海と正面から向かい合った。
「僕の話は聞いてなかったのか?
……もしかすると、本当に……死ぬかもしれないんだぞ」
「それは美紀ちゃんも同じよ」
雲海は薫の身体が震えているのを確かに見た。
彼女だって同じように、恐ろしかった。自分に襲ってくる大量の情報の潮流が。頭の中に渦巻いた、数多の意識に自分の脳内が蹂躙されていく事の恐怖は、他でもない薫自身が一番よく分かっていた。
しかし、薫は一度強めに頭を殴って、恐怖を追い払う。小森の顔を思い浮かべて、強引に身体を奮い立たせた。
「私だって怖いよ。でも、私には、美紀ちゃんを助ける手段がある。
なのに何も行動しないってのは、見捨てるのと同じ事。
でも私の超能力で、もしも誰かが救えるんなら……」
薫はしゃがみ込んで、ゆっくりと目を瞑る。故郷の山田村、山田村の高校の校舎、瓦礫の中で怪我の痛みで呻きを上げる誰かの影。一瞬だけ瞼の裏にちらつくその影を、すぐに頭を振って追い出した。
「……それこそが私の存在意義ってもんでしょ?」
薫は、前屈み気味に八卦図の中心に、右手をついた。次第に遠のいていく雲海の声。周りの景色。そして薫はゆっくりと、イメージを始める。
己の身を顧みずに小森美紀の居場所を知る為に。