3−5 登校する女
木曜日の朝。
小森美紀は、あくび混じりに朝日眩しい住宅街をのんびり歩いていた。毎日の登校の時間が暇なものである事は小中高、いずれの場合も変わりないらしい。さえずる雀も鳴く蝉も喧しいと疎みつつも、小森は杵柄高校に足を進める。
木曜日とは一週間の中でも最上にうっとおしい日にちである、と小森は思う。
例えば、週始めの月曜日に、土日で蓄えた体力のお陰で元気に登校したとする。日を追うごとにその勢いはなくなっていき、金曜日辺りは完全にヘトヘトになっているだろう。だが、週終わりの金曜日には、あぁ明日から休みだー、と言う土日二日間の休息が約束されている。彼氏や友達とのデート、一人で出掛けるのも、家でダラダラするのも思うがまま。そんな安息を求める為に、力を振り絞る金曜日はそれなりに充実して過ごせるのだ。木曜日の一番辛い所は、登校日四日目にして休息は未だ二日後の彼方、つまり目の前に安息が存在しない所にある。
この辺りで学校が面倒臭いと思う事もあるが、小森は未だに学校をサボった事はない。素行はあまり良くない彼女だが、友達が沢山居る学校そのものは好きだった。
それに、最近新しい友達が増えた。
香田薫。名前にかおり、と言う字が二つもある、小柄で可愛らしい転校生である。人懐っこく、庇護欲をそそり、どこか普通の人と違った独特の雰囲気を放つ彼女に、元々好奇心の強い小森が興味を持つのは然程時間はかからなかった。小森は自分に妹でも出来たような気がして、最近は特に登校するのが楽しみになっていたのだ。そう、木曜日と言えども。
「……あ、やべ」
考え事をしながらのんびりと歩いていたせいか、それとも今朝、家を出るのが遅かったからか、随分と時間がかかってしまっていた。通りすがった公園の時計に目をやる。いつもだったら八時頃に通過すべき道なのだが、時計はその十五分程先を指している。
早足で登校しても果たして間に合うだろうか。
少しだけ焦る美紀が駆け出そうとした丁度そのタイミング。朝の住宅街で鳴らすには些か喧しい車のクラクションが耳に飛び込んできた。
「やっほうぃ、美紀ちゃん」
クラクションの鳴った方を振り返ると、あごひげを生やしたオールバックの男が赤のカローラの窓から顔を覗かせていた。
彼は谷屋 康祐と言う。先週の日曜日、薫達と出掛けた際に声をかけてきた……要するにナンパしてきた男だ。実際声をかけられたのは相川だったのだが、彼氏持ちと知られたせいか、男は小森の方に標的を向けたのだ。
小森はバーター扱いされていたのが癪ではあったが、中々どうして谷屋は顔がいい。
ボクサー志望で工事現場のバイトをしていると言う彼は、相応に全身が逞しい筋肉に包まれており、男らしい男と言えた。度々惚れっぽい性格だとよく周りに言われてきた小森だが、谷屋の野性味溢れるその容姿には、かつて無い胸の鼓動の高まりを感じていたのだった。ナンパが始まりであるが、きっと彼こそが理想の相手だと信じ、現在小森と谷屋は交際を始めたてと言う関係にある。
谷屋はかけていたサングラスを額の上に押し上げて、小森に微笑みを向けてやる。
「そんな慌てて何処行くんだ?」
「何処って、学校だってば。見りゃ分かんでしょ」
「あぁ、学校ね。美紀ちゃん偉いなぁ。オレ、あんなん半年で止めちまったっつーのに」
軽い声で笑う谷屋。小森はもう一度時計を見る。二分過ぎた。もう時間がない。
「ゴメン、康祐君。遅刻しそうなんだ。また後で」
小森は早口で捲し立て、谷屋に背を向ける。
「まぁまぁ、ちょい待ち美紀ちゃん」
もう一度クラクションを鳴らす谷屋。道ばたを通りすがる老婆が迷惑そうな顔を向けるが、谷屋が睨みつけて黙らせる。
「どうせ遅れんならよ、学校なんかサボって、こっち来て遊ばね?
メンツしょぼくて暇なんだよ」
谷屋はそう言って後部座席の窓を開ける。谷屋と同い年くらいの男が二人、金髪を肩の辺りまで伸ばした男と、茶髪のコーンロウを編んだ男が居た。二人とも底抜けに明るい微笑みを小森の方に向ける。そしてすぐに顔を引っ込め、谷屋に向けて口を尖らせた。
「ちょっと、先輩。しょぼいって酷いっしょ」
「誘ったの自分の癖によぉ」
「へ、てめぇらいっつも暇してっから誘ってやったらこれかよ」
三人は仲良さげにケラケラと、朝も早くから随分と陽気に笑っている。
その楽しげな様子を見て、小森は少し心が揺らぐ。
いっそ学校サボっちゃうのもアリか? 丁度学校に対する不満がそろそろ浮かび始めてきた木曜日でこの誘いは魅力的であった。
しかし後ろの二人とは顔を合わせた事はない。谷屋の知り合いならばさして臆する必要も無いが、如何せん見た目が妙に厳つく、少々近寄るには勇気が要りそうだ。それに、サボるとなると後々のフォローが面倒になる。友達も心配するだろう。と言う訳で。
「ごめん、やっぱ遠慮するよ。高校くらいはちゃんと卒業したいし」
「………………」
無言で口を尖らせる谷屋だったが、すぐに白い歯を小森に見せつけて微笑む。
「んじゃ、学校まで送ってってやるよ」
「え? でも」
「そんぐれー良いだろ? ほれ、乗りな」
助手席の扉が開く。谷屋含めた三人が、微笑みながら手招きしている。
どうにも、嫌な予感がしていた。谷屋の微笑みの裏に何かを感じてしまった。しかし、所詮予感は予感止まり。そんな理由で断れば、谷屋と小森の関係もすぐに終わるだろう。折角見つけた理想的な相手だ。遅刻するのも嫌だし、ここは好意に甘えよう。
「分かった。ありがと、康祐君」
「良いって事よ」
車内は猛烈にタバコ臭かったが、小森は顔色一つ変えずに助手席に腰掛ける。タバコを吸う恋人は彼に始まった事では無い。ドアを閉める。ガチャリ、と言うドアロックの音が妙に大きく聞こえた。
「さぁて、行きますか」
谷屋はそう言うと、小森がシートベルトをかけるのも確認せずに早々に車を出した。谷屋の顔に浮かぶ微笑みの意味を、この時小森が知る由もない。