3−2 貸す男
「……僕にその話をしてどうする」
翌日の月曜日。登校してすぐの事。日焼け止めの甲斐もあまり無く少し肌が焼けている薫は、隣の席でつまらなそうに話を訊く雲海に、日曜日の出来事……海水浴そのものの話ではあまりせず、主に遅刻したときの事を報告していた。
海水浴に関しては途中で小森一人がナンパに着いていってしまったので、メンバーが三人になるハプニング等もあったが、女四人の海水浴はそれなりに楽しめた、とだけ薫は語る。
叱られはしたが、相川と気まずくなったりした訳でもない。つまり、別に相川達と喧嘩した訳では無く、ただ厳重な注意を受けたと言うだけの話だった。
しかしその厳重な注意こそが問題であった。
「置いてっちゃうって言われたんだよ……?」
昨日言われたその言葉は、未だに彼女の中で燻っていた。相当なショックを受けていた。
それが、転校以来特に仲良くしてくれた相川の口から放たれた言葉と言うのも、その衝撃の大きさを増している。泣きそうな薫を宥める様に、雲海は少し声色を和やかにする。
「そうだね、確かに置いていかれるのは辛いだろう。
真見ちゃんもちょっと言い過ぎだとは思うけど、遅刻するのが悪いのは事実だ。
だから、いつも道に迷う事を見越して早めに家を出ればいいだろう」
雲海としては名案のつもりだったのだが、薫は落胆したらしく、眉をハの字に曲げる。
「……真見ちゃんと同じ事言うんだね」
「他に対処法あるの?」
「私はそれを聞いてるんだってば!」
大声を上げる薫の方に教室内の視線が向くが、薫は全く構う様子はない。
「だぁども、おめさんったらなんだて?
おらはそっつらこてえ、期待してねぇこってぇ」
「香田さん、落ち着いて。何言ってるのか分からない」
雲海は、少し適当な受け答えをしていた事を反省し、ちゃんと薫の方に向き直る。雲海に宥められた薫は、一呼吸置いてから口を開く。
「……兎に角、どうにかしたいんだよ。
私だって人に迷惑かけてるのは分かってる。
別に好きで迷子になってる訳でもないし……」
「そうは言ってもねぇ。そもそも、何で君はそんなに方向音痴なんだ?」
「方向音痴って言うか……そうじゃないんだよね、多分。
何回か通った道なら迷わないもん。現に学校には遅れてこないでしょ?
それにね、山田村に住んでた頃は迷子になった事なんてないし」
「それは単なる慣れだ。君が方向音痴なのに違いはない」
雲海は頑なに香田薫は方向音痴だと主張する。薫だってそんな事は百も承知。認めてしまうのが癪だという、我が儘な理由で否定しているだけなのだ。
それを見透かしている雲海は、薫に容赦ない追求を続ける。
「多分、君が山田村出身じゃなければ、山田村でも道に迷うだろうよ」
「いや、それはないね」
ここまでくると薫にも意地があるのか、中々どうして食い下がる。
「山田村ってさ。すんごい開けてるのよ。建物とか殆ど無いから」
雲海は想像する。広がる田園風景と、閑散とした森と山。さらさら流れる川。オニヤンマが目の前を通過した。何故か避暑地として理想的な光景が思い浮かぶ。教室がクーラー効いてなくて暑いせいだ、と雲海は結論づけた。
「……それで?」
「妖山市って、結構背の高い建物多いじゃん」
「最近は増えてきたね。高層マンションとかデパートとか。駅の周りも改築が激しいな」
「そうでしょ? でさ、私の弱点は曲がり角な訳よ」
薫のあまりに説明の足りない言葉に、雲海は少し首を捻る。
「曲がり角に弱いって意味が分からないんだけど?」
「そのままの意味。道を曲がって曲がって……って繰り返すと、段々自分の居場所を見失っちゃうんだ。
初めて通る道で三回以上曲がる必要がある場合は大抵迷うね」
「胸を張って言う事じゃないぞ、それ」
要するに彼女曰く、自分の弱点は、コンクリートジャングルであるのだ。田舎では遮るものが少ないため、広くて遠くを見渡すことが出来る。その視界しか体験していない彼女は、狭い場所では方向感覚を失ってしまう。
故にジャングルと言う程コンクリート詰めされていない妖山市程度の町でも迷ってしまうのである。と言うのが香田薫の確信であった。
「……つまり君は方向音痴なんじゃなくて、都会に慣れてないだけだと言いたい訳だ」
「その微笑ましいものを見るような笑顔を止めてくれないかな、クーちゃん」
「いや、もういいよ。そう言う事にしといてあげる」
「ニヤニヤ笑わない! 私は真剣に悩んでるんだからね。もう次はないんだよ?
だから、一刻も早く迷子にならないための手段を考えなきゃいけないのよぅ」
薫は泣きそうな顔をしている。対する雲海は、先程以上にとぼけた顔で意見を述べた。
「香田さんのレベルまで行くと相当な荒療治が必要だろうね」
「例えば?」
「見知らぬ土地に取り残してみるとか。一人で」
「……それは誰だって自力じゃ帰れないと思うんだけど」
不安そうな薫を見て、雲海はからかいの笑みを浮かべた。無論、雲海も本気でそんな事を言っている訳では無い。簡単な話じゃないか、とむしろ高を括っていた。
「視界が確保出来ないなら、障害物は透かしてみればいいじゃないか。
何の為の透視能力なんだよ」
かつて雲海は薫に、財布の中の金額を寸分違わず言い当てられた事がある。
それ程までに鮮明に透視出来るなら障害物なんてあって無き物だ、と雲海は考えていたのだが、薫は首を横に振って否定する。
「出来るならやってるもん。
透視出来る範囲には限界があるの。精々3m先までだわ。目も疲れるし」
「そうなんだ……じゃぁ、目を鍛えればもしかして」
「あのさ、クーちゃん」
雲海のチンプンカンプンな解答に痺れを切らしたらしい薫が、雲海を制した。顔は笑顔、額に青筋と言う器用な事をやってのける薫が、静かな怒りの声を上げる。
「……もっと現実的な解答をしてくれると嬉しいんだけど」
「現実的で、しかも即座に方向音痴を矯正する手段なんてあるわけないだろう」
雲海のとてつもなく現実的な答えに、薫は口をアヒルの様に尖らせる。彼女とてそんな事は頭では分かっているが、それを納得する訳にはいかない。このままでは相川から嫌われ、見捨てられてしまう。
転校初日以降、色々事件もあったがそこそこ順調に過ごしてきた薫としては、第一の友人となってくれた頼れる姉御的存在の相川を失うのは是が非でも避けたかった。更に、クラスの中心的存在の相川と疎遠になれば、必然的に他のクラスメイトとも接する機会が減る。
彼女と仲違いする事は、友人を一人失う事に加えてぼっち化の加速さえ約束してしまうのだ。
都会くんだりまで来てそんな学生生活を送るのは死んでも嫌な薫は尚、諦めない。
「クーちゃん、陰陽師なんでしょ?
いっつも怪しい道具持ち歩いてたじゃんか。
あの中に、道案内してくれる道具とか持ってないの?」
「…………のび太に道具を貸すドラえもんの心境がよく分かったよ」
呆れ声を上げる雲海だったが、顎に手を当てて、少し上を見つめて唸る。何かを思い出しているらしい彼の様子を見つめていると、雲海は薫の方に視線を返した。
「……方角や道に関する呪具も、一応あるにはある。
普段は必要ないから家のどこかに仕舞ってあると思うけどね。
道案内とは少し違うけど、似たような事が出来るだろう」
「本当!?」
希望の言葉に顔を輝かせる薫に対し、困ったような顔をする雲海。
「ただ、上手く扱うにはそれなりの訓練が必要だ」
「それなりって、どれくらい?」
「……僕は五分で使える様になったけど」
雲海の呟くような返答を受けて、薫は雲海の肩を掴む。貸してくれ、と視線で訴えかけてきているのがありありと伝わっていた。
「言われなくても貸して上げるよ。じゃなきゃ話さないからね。
明日、学校に持ってくる」
「やった! ありがとう!」
薫は目を燦然と輝かせて、まるで満開の向日葵のような笑顔を浮かべつつ、雲海の手を両手で握りしめる。元々低くなかった薫の中の彼への株価は今や鰻上りであった。彼女の雲海への評価が、『オヤジ臭い隣の男子』から『頼れる兄貴』へと華麗に変貌を遂げた瞬間である。
「ど、どういたしまして」
あまりの薫の喜びように、雲海も思わず顔を綻ばせるが、それは長続きしなかった。薫の大声に気づいたクラスメイトが何事かと彼ら二人を遠目で眺めていたのだ。
それに気づいた雲海は、薫の両手をゆっくりと剥がして、少し羞恥で赤い顔を薫から背け、一つ咳払いをする。
「ま、まぁ、取りあえず使ってみない事には何とも言えない。
君が使えるかどうか、あとは思い通りに動いてくれるかどうか……。
そのあたりは明日、持ってきてから考えるとしようか」
雲海は、彼にしては珍しく得意げなしたり顔で薫に自信満々でそう言ってのけた。薫は更なる追求をしたくなったが、始業のチャイムが割り込んでくる。渋々諦めて、一時限目の英語の教科書を鞄から引っ張り出した。