2−終 俯く二人の男達
翌日、朝から緊急の全校集会が大体育館で行われた。
「今朝、プールの柵が破壊されていたのが見つかりました。
破損は甚大で、学生の仕業とは到底思えません。
本校としても悪戯の範疇を超えているとして、警察に通報しました。
校内を警官が通る事もありますが、皆さん、勉強への集中を怠らぬ様に。
また、プールの授業は予定通りに行なうので、そのつもりで」
雲海は内心冷や汗を垂らしながら、今日一日警官の影に脅えなければならない事に頭を痛めていた。柵を破壊したのは緊急事態だったからなのだが、勿論誰もそんな事情は信じてくれないだろう。河童が薫を引っ張って溺れさせかけた、何て言えば意味不明な証言扱いされてしまう。
証拠になるものは残してきていないか……雲海は記憶を辿る。精々符の燃えカスくらいだが、プールの授業は普通に行なわれるので、警察もそれほど熱心に捜査しないだろう。
だから、きっと大丈夫。
自分に言い聞かせて、雲海は冷や汗を拭う。校長の話はそれだけであり、早々に全校集会は終了した。生徒達が各々の教室に戻るまでの間、廊下にごった返す生徒の波を縫って走ってきた前島が雲海の肩を叩く。青ざめた顔の前島は、荒い息を隠そうともせずに雲海を皿の様に広げた眼で見る。
先に口を開いたのは雲海の方だった。
「……前島、君は昨日いつ帰ったんだよ」
「そりゃこっちの台詞だっつーの!」
雲海の冷静な言葉にすら一々驚く前島。周りの生徒が奇異な目を向けている事に気づき、前島は雲海の隣で声を潜める。
「……昨日のアレは一体何がどうなってたんだ?」
「さぁて。何の事だ?」
しらばっくれる雲海。顔が少し不機嫌そうだが、前島は挫けずに話を続ける。
「何の事って、柵ぶっ壊したのお前だろうが。
あの、へんてこな魔法みたいなパンチで」
「魔法じゃなくて……いや、どうでもいいや。
それより、君こそあの後どうしたんだよ。
香田さんが攫われて、僕がプールに入って、その後だ」
「そりゃお前、アレだよ……その、えっと……」
言葉に詰まる前島は、雲海から目を逸らして声に詰まる。
それはそうだ。薫が連れ去られて腰を抜かしてしまい、その後も恐怖でプールには入れず、帰宅して一人で布団の中で脅えていたのだから。彼にもそれなりにはプライドがあった。それを守る為にも、前島は話をはぐらかそうと回らぬ頭を必死で回す。
「んな事より、お前……ええっと……」
「……そんな事? ……君、香田さんが攫われた事を、そんな事って言うのか?
君は知らないだろうけど、あの後彼女、死にかけたんだからな!?」
「死に……! マ、マジかよ……」
実際溺れかけているので、間違った事は言っていない。
雲海は少し話を盛って、前島を睨む。死にかけた、と言う衝撃的な言葉を聞いて、前島はすっかり打ちひしがれてしまった。肩をすくめる前島は、雲海の目には少し小さく映った。
「……悪かった。俺、ビビってなにも出来なかったんだ。許してくれ」
「いいさ。結局、何事も無かったんだしね」
一年五組の教室への扉に手をかけて、前島は扉を開けた。前島の脇をすり抜けて、開いた扉を一番に通った雲海に、前島はもう一度問う。
「なぁ、結局昨日は、何がどうなったんだ?」
「そうだなぁ……話してもいいけどさ」
教室になだれ込む生徒達の波に飲まれながら、雲海は前島に振り返る。真剣で深刻な顔と、刺すような視線。前島は、少しだけ身を引いた。まるで、雲海との間に、見えない壁でも張られているのではないかと感じ取った。けっして超えられぬ壁を見た前島は、冷や汗を垂らして雲海の言葉を聞く。
「君、本当に聞く覚悟、あるかい?」
「………………」
黙っていた前島の返事はNOだと判断した雲海は、そのままクラスメイトの会話の輪の中に飛び込んでいった。前島がその様を呆然と見ていると、彼の脇腹を後からやってきた相川が小突く。
「ねぇ! アンタら昨日、プール行ったんでしょ? 柵壊した犯人、見たよね?」
新聞部としてはお待ちかねの大事件である。生き生きと瞳を輝かせながら、相川はペンとメモを携えて興奮気味に前島に尋ねる。
「何も、見てない」
「本当?でも、あんだけ派手に壊れてたんだから……。
あ、そうそう。朝一で見てきたんだけどね、現場。
あれはそれこそ、相当量の爆薬を使わない限りあんな風にはならないね。
なんせ、鉄製の格子が高熱で融けて引き千切られてたんだもん。
相当な音がしたと思うんだけど、爆音を聞いたりは?
あ、あとプールサイドで証拠品が見つかったのよね。
ちり紙と小さいコップ、習字用の小筆と、漫画の単行本。
あと、清涼飲料水のペットボトルなんてのも落ちてたみたいよ。
この辺、全く共通点が思いつかないんだけど、何か思いつかない?
何でも良いから、意見があったら」
「お願いだから、昨日の事は聞かないでくれ…………頼む」
「はぁ? 何言ってん……ねぇ、ちょっと」
前島は矢継ぎ早で早口に質問を繰り出す相川の追撃を無視して、自分の席に座って頭を抱えた。相川からしてみれば全く意味が分からない。不満げに鼻から息を抜いて、少し前島の頭を見つめた後、相川も早々に自分の席へと帰っていった。
*
その日の昼休み。
雲海は、隣の席に座って購買で購入したパンを頬張る薫に愚痴を零していた。
「あの河童……利休は、昨日の夜は父さんと延々昔話してたよ。
終いには僕まで巻き込まれて、実はあんまり寝てないんだ」
「そっか……」
「結局、あの河童はしばらく僕の家の庭の池に住む事になった」
「へぇ……」
「僕は反対したんだ。家には弟が……そう言えば香田さんに言ったっけ? 弟が居るって」
「んー……」
「実は、二つ下の弟がいるんだけどね。
その弟が河童に変な言葉を吹き込まれないか心配で心配で……」
「そうだねぇ……」
「弟は弟で、河童の事を結構気に入ったみたいでさ、何故か僕が異端扱いだ……」
「大変だねぇ……」
「そうさ。大変なんだよ。ところで君、話聞いてるかい?」
「失礼な。聞いてるさ」
あまりに適当な返答を疑った雲海の予想に反して、薫は真面目に切り返す。
「愚痴は黙って聞くもんでしょ」
「のれんに腕押しなのも問題だと思うけど。
……それで、君はどう思う? 家に妖怪が住み着いたんだぞ? どう考えたって危険だろ?」
「家族公認なら良いんじゃない?
と言うか、私はあの河童がプール以外に住んでくれれば別にどうでもいいし……」
ぶっちゃけた薫。
雲海は薫の薄情な態度にこの世の無情を感じざるを得なかった。ストレスで胃に穴を空けてしまいそうな雲海の肩に、薫は朗らかに微笑みながら手を乗せた。
「前向きに考えようよ、クーちゃん。
いつでも妖怪とお話が出来るんだから、経験積み放題だよ。
変態だけど、中々陽気なオジさんだったじゃん、アイツ」
「……随分と俗っぽい妖怪だけどね。僕より新しい携帯持ってたし」
薫の言う事が間違っている訳では無い。如何に俗な妖怪でも、妖怪である事に変わりはない。妖怪達と接するのに慣れるためにも、嫌わずに付き合っていくしかないのだ。
「……はぁ。仕方ないか」
項垂れて、時計を見る。
昼休みはまだ半分近くあるのに、どう言う訳か教室内の人はかなり少ない。時間割を思い出して、雲海はあぁ、と納得する。次は体育。プールの授業だ。さっさと着替えに行っている生徒が多いのだろう。
先に昼食を終えていた薫は、パンのゴミを丸めてゴミ箱に向けて投げ捨てる。見事にシュートしたのを見届けて、薫は机に顔を伏した。
「あーぁ、プールの授業やだなぁ」
「……香田さん、泳ぐの苦手っぽいしね」
雲海は苦笑いを浮かべて横目で薫の顔色を窺う。確かにそれもあるけど、と呟いた後に、薫は辺りに眼を配ってから雲海に近寄って、声を潜めた。
「昨日、エロ河童のせいで、痕が付いちゃった」
「痕?」
不思議そうに聞き返す雲海に、薫は顔に少し朱を差して続ける。
「河童に水に引きずり込まれたじゃない、私」
「あぁ」
雲海は、薫に苦笑いを浮かべながら続けた。
「しかもお尻触ったとか言ってたな、あの河童」
「うん。それで腹が立ったんだけど……それだけじゃないの」
「え?」
「……その……む、胸も触られたの」
何がお尻をちょっと、だ。あのエロ河童野郎、帰ったら折檻してやる。雲海は瞬く間に沸き上がった怒りを心の内に秘めつつ、薫の言葉に耳を傾け続けた。
「その、胸を触られた時……思いっきり握りしめられて、すんごい痛かったよ……」
「それは……大変だったね……!」
机の下で握り拳を強く固める雲海。そのまま河童の皿をかち割ってやりたい。これは別に彼女のセクハラ被害への報復ではなく、飽くまでも嘘をついた事への戒めだ。
と、無意味に自己正当化を図る雲海。薫は話を続ける。
「その時の痕が、まだちょっと残っててさ。
殆ど目立たないけど、着替えてる時に見つかるのはヤダしなぁ……」
薫は泣きそうな声で、自分の左の胸の辺りを撫でて言った。
胸に手の痕が付いている、となれば当然邪推され、何らかの噂が囁かれるのは時間の問題だ。今日は休んだ方が良いんじゃないの、と雲海が勧めると、薫は渋々だが首を縦に振った。
「でも、少し変なんだよね」
「ん?何が?」
「昨日お風呂で痕見つけてからずっと疑問だったんだけど」
薫は首を捻って、眉をハの字に曲げて唸る。
「あの河童、指四本だったよね?」
「んー……そう言えば」
あまりに人間臭い仕草を取るので気にかけた事はなかったが、言われればそうだったかもな。雲海は曖昧にであるが、その事実を思い出した。
「でも、私の胸に付いてた痕は、五本指の手形だったんだよねぇ」
「…………え?」
「どう思う、クーちゃん?」
薫の表情は少し不安げである。どうやら嘘ではなさそうだ。
つまり、その指の持ち主は、河童ではないと言う事なのか?
あの晩、河童に紛れて、別種の妖怪があの場に居て薫に狼藉を働いたのだろうか?
雲海は額に指をおいて考えるが、河童以外の妖怪を見た記憶は全くない。
「もしも……他の妖怪が居たのなら」
不審な箇所は無かっただろうか。
昨晩の事を……薫が連れ去られてからの事を正確に思い出す。
薫が消えてから、雲海は符でプールの柵を破壊し、内部へと侵入。電灯を点けても見当たらないので、雲海は水中に飛び込んだ。そして彼は水中に薫の超能力に関連していると考えられた、緑色の発光体を発見。雲海はそれに向かって泳ぎ、その緑色の発光体を思い切り握った。
「……思い切り、握った……」
……あれ、ちょっと待てよ。雲海は己の焦りに急かされる様に、再び思考を巡らす。
河童は自分自身と、引きずり込んだ誰かを透明にすることが出来た。雲海はそれを身を以て体験している。薫を探しに雲海がプールの中に飛び込んだ時、彼の目には何も見当たらなかったのは、恐らく河童がその能力を使っていたからだ。
つまり、河童と薫は透明になってプールの中に潜り込んでいたのだ。そして雲海はその中で、緑色に光る何かを確かに発見した。……あれは河童の能力で隠し切れなかった、香田さんが超能力を使う際に身体から漏れる光だろう。彼は今まさにそう結論づけたその光を、あの時は力の限り握り締めたのだ。
「……そう言えば、イヤに柔らかい弾力が返ってきたような……」
「………………?」
透明化した薫。彼女の身体から漏れた光。光を強く握った雲海。手に返ってきた妙に柔らかい感触。薫の胸に残る、河童のものではない五本指の跡。
全ての証拠が、やがて一本の線で繋がって、真実を紡ぎ出す。
雲海の全身から冷や汗が吹き出した。
「……顔色悪いよクーちゃん、どうかした?」
「いや……なんでもない」
覗き込んでくる薫から、顔ごと視線をそらせた雲海。
彼女は、本当に自分の胸を揉んだ犯人が誰だか分かっていないらしい。
状況を考えれば河童以外に犯人が居る場合、候補は一人しかいないのだが、彼女は雲海がそんな事をする筈がないと信じていたのだ。雲海にとっては非常に幸いな事であり、代償として彼は酷い罪悪感に苛まれる事になる。
「一応聞いとくけどさ……触られた瞬間は見てないの?」
「うん。私、ゴーグル無いと水の中で目、開けられないもん。何で?」
「別に深い意味はないよ。全然、全く、これっぽっちも」
薫は額に浮かぶ汗を拭う雲海を不思議そうに見つめる。雲海は未だに視線を薫には向けられず、薫は不審感を募らせる。
「……ねぇ、クーちゃん。もしかして何か知ってる?」
「僕は何も知らない! 何もしてないよ!
きっと河童の仕業さ! 指の本数とか変わるのは妖怪にはよくある事だしね!
そうだ、きっとそうに違いない! 今日、帰ったら河童に改めてお仕置きしておくよ!」
「……そう。じゃ、お願いね」
普段冷静沈着な雲海が慌てふためきながら、まるで感情の篭っていない声で喋る。奇妙な所作に色々な疑念を抱くが、薫は何も尋ねずに席を立った。見学とはいえ、授業見学者も体操着には着替えなければならない決まりである。手提げにジャージが入っている事を確認した薫は、雲海の方に振り返った。
「クーちゃんも、見学の方がいいんじゃない? 顔が土気色になってるよ?」
「…………し、心配いらない」
「そう? じゃ、私、先に行くから」
「わ、分かった」
ぎこちない笑顔で薫を見送って、彼女の背中が完全に見えなくなってから、雲海は机の上に額を付けて薫に向けて頭を下げている様な体勢を取る。
「……やっちゃった」
自分の右の掌を見つめて、雲海は深々と溜め息を吐く。
傍目から見れば確かに小さいが、触ってみれば案外ボリュームはあったような気が……。
と雲海は必死に頭を掻き回して当時の記憶を引っ張り出してみるが、すぐに頓挫した。薫の命が危ないと思い、あの時彼は無我夢中であった。だから緑色の光を掴んだ時の感触は、今となっては殆ど思い出せない。
「あーぁ……」
それを少し勿体なく感じてしまった自分の思考に喝を入れるため、雲海は右手を握って自分の頭を軽く殴りつけた。
第二話は河童でした。
文字通り河に住まう童のような小さい身なりの悪戯好きな妖怪です。水の神、龍神の使い、果てはUMAや宇宙人等とも考えられている、水辺の妖怪の代表格であり、様々なフィクションに顔を出しています。水質汚染を訴える等の、環境保護のマスコットキャラクターとして取り上げられている事もあるとか。
河に潜み、人間と相撲を取る事が好きで、相撲に負けると河童に尻子玉(何らかの臓器と考えられている)を抜かれて、殺されてしまうのだとか。
そうやって聞くと恐ろしい妖怪ですが、キュウリが好物だったり、歌を歌ったり、頭の皿が弱点だったり、腕が伸びるけど伸ばしすぎると引っこ抜けたりと、妙にコミカルな特徴を持っています。また、恩義を感じた人間には、どんな傷でも直してしまう河童の軟膏や大量の川魚をくれる場合もある、義理堅い一面もあるらしいです。
頭の皿や甲羅、嘴の有無等は諸説あるようですが、本作では皿も甲羅もある、おおよそ世間一般に広まっている河童のイメージにしました。上記のコミカルで義理堅い性格など、妙に人間臭い部分と私の妄想が合わさった結果、本作のような河童となりました。
近頃は河童が住めるような綺麗で手つかずな川も少なくなってきました。ですので、もし河童を見かけたら、怖れずに優しくしてあげましょう。思わぬ恩返しが待っているかもしれません。