2−8 話しあう人と妖
「電話を勝手に切るな、雲海。心配するだろう。それで、首尾は?」
「やはり、妖怪でした。河童です」
「ふむ……やはり。であれば或いは……」
何かブツブツと独り言を呟く岩武。流石に不審になり、雲海は岩武に問う。
「あの、父さん? どうかしましたか?」
「よもやとは思うが、その河童の名は……利休、と言う名ではないか?」
「利休?」
思わず聞き返した雲海。しかしその言葉に訝しげに返事をしたのは河童だった。
「何でお前、俺様の名前知ってやがんだ?」
「おぉ! その声はやはり!」
電話の向こうからでも耳ざとく河童の声を聞いた岩武は、興奮したような声を上げる。岩武の、余りの声の大きさに、雲海は携帯電話から耳を離した。
河童と薫にも、岩武の声が耳に入ってきた。薫は首を傾げるが、河童は驚きに目を見開く。
「今の声、まさか……おい、あんちゃん。ソイツを寄越してくれ」
「は? あ、あぁ。父さん、ちょっと河童に代わります」
雲海が携帯電話を河童に返す。河童は一度深呼吸した後、恐る恐る携帯電話を耳に当てる。状況が全然分からなかった雲海と薫は、その様子を固唾を飲んで見守る。
「……もし、もし?」
「もしもし……お前は、利休か? 虻茶川の、利休だろう?」
「そう言うお前は……岩武! 空峰岩武だろう!?」
河童にまで岩武の興奮が伝播したらしい。何が楽しいのか、河童は立ち上がって視線をあさってに向けて受話器の言葉に耳を傾ける。
「何年ぶりだよ、おい! いやぁ、まさかまた会うなんて!」
「儂もだよ、久しいな。三十年ぶりだ、利休よ! 元気でやっていたか?」
「ま、こっちゃボチボチってもんよ。プールに来たのはお前の倅か?
ったく、女のおの字も知らねぇクソ真面目なガキだったお前が!
こんなガキこさえるたぁ、時が経つのは早いねぇ!」
「その下品な言葉……お前は相変わらずだな、利休」
電話越しに繰り広げられている言葉の応酬が、薫と雲海の二人の耳にまで届いていた。互いに顔を見合わせるが、勿論それで現状が把握出来る筈も無い。二人をおいて、昔なじみの親友の様に話に華を咲かせる河童と岩武。
雲海は逡巡したが、その間に割り込む決断をした。
「待ってくれ河童。お前……僕の父さんと知り合い、なのか?」
「…………あぁ? まぁ、昔ちょっとな。
それより今、良いところなんだよ。ちょっと待っててくれ」
河童は碌に聞く耳を持たない。恐らく、これが岩武でもこうなるだろう。それほどまでに河童は楽しげに岩武と会話を繰り広げていた。懐かしすぎて目に涙さえ浮かべている河童を見て、雲海は諦めて一歩足を引く。
「……収拾つかないぞ、これ。どうしよう……」
「へくしゅ」
雲海の隣で、薫が自分の上腕を擦りながら小さくクシャミをする。ずず、と鼻を啜って、薫はもう一度クシャミをしてから、辺りを見回す。
「ちょっと、寒くない?」
「そうだね……水浸しのまんまだし、風も少し吹いてきた」
早々に帰って風呂でも入って暖まらなければ、夏とは言え風邪を引く。だが河童の住処を決めない限り、現状を解決した事にはならないため帰る訳にもいかない。せめて薫だけでも暖めてやりたいが、と雲海は考えるが、薄いTシャツにジーンズ姿の彼が、彼女にかけてやる衣服があったりする訳もない。
解決策を捻り出そうとする雲海を尻目に、薫は一人で何かしらの案を思いついたらしい。表情を明るくして、両手を擦り合わせはじめた。
「そうだ、こんな時の為の……」
「……?」
「発火能力!」
「おわっ!」
擦り合わせていた両手を離すと、薫の掌の間に橙色の炎が迸り、二人を明るく照らした。バーナーを点火したときのような、ボウ、と言う音に驚いて、雲海は少し身を縮めた。
雲海の驚き様を指差してけらけら笑う薫は、バチバチと激しい唸りを上げる炎を球状に丸めていく。
「ふふふ、おわっ、だって。クーちゃんビビり過ぎだよぉ」
「いや、だっていきなりそんな火を……って、香田さん?」
「あち、あ、ほっ、あっ、あっち!」
自分で作り出した割には上手く制御出来ないのか、薫は手の中で火球を持て余していた。左に持って、右手に投げつけて、左手にまた乗せて。出来損ないのジャグリングを披露する。何度も繰り返しているうちに耐え切れなくなった薫は火球をプールの方に放り捨てた。
ボシュッ! と言う情けない音を立てて、火球は消滅し、再び暗がりが辺りを支配する。一部始終を雲海に見られていた事を恥ずかしく思ったのか、彼女は苦笑いを浮かべながら雲海に振り返った。
「あんまり使い慣れてないんだ。この力は」
「……無理に使わなきゃいいのに」
「今のはちょっと失敗。まずは炎を作って……」
先程同様に掌から火球を生み出した薫。そして、その手から、緑色の光が同時に溢れ出す。
「サイコキネシスで浮かせれば、この通り!」
掌を離れた火球は、空中で緑色の火球と化して、薫の目の前で浮遊する。得意げな薫は調子づいて、その緑色の火球を分裂させて、自分の周りに漂わせる。手首から先の力を抜いて手をたらりと垂れさせ、軽くした先を出してウィンクしてみせた。
「うらめしやー……に見える?」
「中々本格的だよ。髪もびしょびしょで、顔が隠れてるしね」
まるで人魂みたいだな、と雲海は苦笑した。薫の周りを回っていた小型の火球が二つ、雲海の前に飛んできて、停止する。
「クーちゃんにもお裾分け。結構火力あるから、触らない様にね」
「ありがとう。……へぇ、こりゃいいや」
二人とも火球に手をかざす。眼を細めて、顔を緩めて、超自然的暖房の温度を享受する。未だに会話を続けている河童の方に眼をやった薫は、楽しげな様子の河童に渋い顔をした。
「まだ話してるね、河童。クーちゃんのお父さんとそんなに仲良いのかな?」
「さぁね。ただ、父さんの初仕事は河童退治だった……って聞いた事はあるよ」
その頃の岩武はまだ20にも満たない若輩者であった。岩武はその年で、一人で河童を調伏したのだという。そして恐らくその河童と言うのが、あの利休と言う河童なのだろう。数年来の親しい友達みたいに接している所を見ると、どうやら岩武は力づくで河童を追い払ったりした訳ではないようだ。やっぱり僕は父さんには敵わないのかなぁ。
雲海が感心していると、河童が声を荒げた。懐かしい思い出話が、いつの間にか口喧嘩に代わっていた。
「あぁ!? 岩武てめぇ、このクソ坊主! 俺様はまだ覚えてんだぜ!
てめぇが俺様の皿、思いっきりぶん殴ろうとした事をよぉ!」
……僕の感動を返せ。雲海は首をガクリと項垂れた。
「……クーちゃん、そう言えばさ。お父さんに電話して、どうする気だったの?」
薫が着ていたカーディガンを脱いで、炎の前に広げ、乾かしはじめる。下に来ていたTシャツが水で彼女の身体にピッタリと張り付いて、上半身のラインと下着がくっきりと露になっていた。
雲海はそれを一瞬だけ見た後、慌てて視線を逸らしながら薫の質問に答える。
「うちの寺は妖怪を懲らしめて、町から追い払うのが仕事だけどね。
あの河童みたいに、住む所がなくて仕方なく町に……って言う妖怪も結構居るんだ。
そんな妖怪達の住処を探してやる仕事も、僕らが請け負う事がある。
父さんなら、あの河童も馴染める良い川を知っているかな、と思って」
「へえぇ」
会話半分に耳を傾けていた薫は、しかし納得したような声を出す。一先ずプールから河童さえ居なくなれば何も問題無い薫は、河童と岩武の会話が終わるのをひたすらに待つ。
「……あぁ、やべ。電池切れそうだ」
河童が少し悲しげに声を上げる。
「よし。んじゃ続きはお前ん家で。あい、あいよ。また後でな」
完全に友達感覚な会話の終わり方で、河童は電話を切る。
最後の河童の言葉をしっかりと聞いていた雲海は、顔を強張らせ青い顔をする。対して河童は、雲海にいい笑顔を向けて、頭の皿を掻く。
「ってなわけで、お前の家に邪魔する事んなった。
案内頼むぜ、あんちゃん。いや、雲海って言うんだな、お前」
河童は短くそう言うと、意気揚々とプールの柵に空いた穴から外に出ようとする。雲海は慌てて河童に駆け寄り、その肩を掴む。
「待て待て、おい。え……お前、家に来るのか?」
「お前、じゃねぇだろ雲海。目上の人にはさん付けしろ。利休さん、って呼びな」
何故か呆れ顔で返す河童。雲海は額に青筋を浮かべて、河童の肩を強く握る。
「なんでうちにお前のような妖怪を入れなければならないんだ!」
「あれ、そう言う事言っちゃう訳? 君の父さんは許可くれたんだけどなぁ。
雲海よぉ、親父さんみてえに、妖怪にももっと寛大にならないと。
口裂け女の一件、聞いたぜ? そんなに妖怪が嫌いかい?
そんなんでその仕事、やっていけんのかねぇ?」
「……ぐ、うぅ」
河童のふざけた口調に、雲海は言葉を詰まらせる。反論の余地は無かった。確かに、彼は妖怪との対話の精神を養う為にそもそも今日ここに来たのだ。
「納得いったかい、雲海」
「……香田さん、何か言ってやってくれ!」
「え!? 私!? ……別にいいと思うけど」
雲海は困った末に薫に話を振るが、乾いたカーディガンを羽織りながらとぼける薫は全く役に立たない。負け惜しみにも程がある雲海の有様に、河童も薫もクスクス笑いを浮かべる。
進退窮まった雲海。
なんせ許可を出したのは、彼の尊敬する父親で、一家の方針を決める船頭なのだ。若輩の彼が自分勝手に我を通す事は出来ない事を、雲海は重々承知していた。
そして彼は、諦めをもって河童の肩から手を離す。
「……分かったよ。連れてってやる。
ただ、姿は隠せ。人に見られたら面倒な事になるぞ」
「あたぼうよ」
河童は、人間で言う親指に当たる部分を立てて、口角を上げて歯を見せる。こんな奴が僕の家に……と考えるだけで、雲海は軽く目眩を覚えた。
しかも河童と来たら、その雲海の表情を見て、尚更微笑みを強くするばかりだった。本当にこの河童、前島みたいだな。
雲海はそんな事を思いながら、柵に空いた穴からグラウンドに降り立つ。
「おぉい、前島ぁ! ……って、あれ?」
プールサイドの柵から地面に降り立った時、前島は姿を消していた。
他の妖怪が出たのだろうか、と全く考えなかった訳ではないのだが、今の雲海はこれ以上の妖怪との接触は無理であった。同じく降りてきた薫は、雲海の脇をすり抜けて、とてとてと早足で校門の方角へ駆けていく。彼女も早く帰りたいらしい。プールにある時計を気にしている様子から考えて、電車の時間が近いのだろう。
「……おい、雲海。どうかしたか?」
河童が濡れた手で雲海の背を叩く。遠くで振り返った薫は、未だに河童の事を警戒しているようで、雲海の背中にある緑を睨んでいた。
もう、疲れた。
雲海は口の中で呟いて、幽鬼の如く足取りで自宅へと向かった。